見る。

実際、人としての付き合いはあったが神獣としての彼女を見るのはこれが初めてだった。

けれどその鬣の奥にある紫色の双眸は、確かにあの少女と同じもので。

その視線と絡んだ瞬間、麒麟が智美に向かい頷いてくれたような気がした。

その動作に智美の行動は後押しされる。

麒麟の横に佇む王へと智美は向き直る。

両膝を地に付け、両方の手の平を地に付ける。

静かな湖面のような瞳を見上げ、そして次の瞬間、その姿に向かい深々と叩頭した。

智美だけの願いではなく、この疲弊してしまった国の大地と、そこに生きる全ての民の願い。

大丈夫。菫が選んだ王だ。

その想いを込めて、智美は叩頭したまま一声を張り上げた。


智美「長らくお待ちしていました。主上」

 
きっと、この国は生まれ変わる。



■  ■  ■


96: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(SSL) 2014/07/11(金) 00:17:19.59 ID:HdAV1VQi0
朝、いつもの時間に起きるのは習慣で。

今日とて起床の時間になれば自然にぱちりと瞼は開く。

見上げる先に映る天蓋は変わらぬ光景だったけれど、

それを見上げている自分の心境は昨日までとは明らかに違った。

起き上がるよりも、何かを動作するよりも先に……意識が一つの気配を探す。

すぐにあの気配を確かに探し出し、安堵するかのよう口元は緩んだ。

やはり夢ではなかった。

そう確信を持ってから、上体を起き上がらせ寝台より両足を下ろす。

と同時に、床が不自然に波打った。

ズズズと床の平面より這い出すよう姿を現したのは 六ツ目の虎のような獣。

その赤い毛並を揺らした体躯が自分の足元へと辿り着くと、頭を深く垂らした。

『台輔、お呼びで』

問われ、浅く頷く。

菫「何も変わりはなかったか?」

『はい、恙無く。ただ、ずっと気を張られているようで…眠りは浅かったよう感じました』

話を聞きなるほどな、と相槌を打った。

菫「それで、もう起きているのか。…すぐに向かう。お前は引き続き傍に侍り守れ。決して目を離すなよ」

『御意』

会話を終えた瞬間、赤い毛並を揺らす獣の体躯が再びズズズ、と堅いはずの床底へと消えて行く。

獣の毛先一本、完全に消えてしまったのを確認してから徐に寝台より腰を上げた。

これからはいつもの朝を送る動作でいい。

まずはきちんと身嗜みを整えてから…御前に馳せ参じねばと考えていた。


■  ■  ■


97: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(SSL) 2014/07/11(金) 00:21:55.35 ID:HdAV1VQi0
咲が所在無さ気に広すぎる寝台の隅に腰を降ろしてから、どれくらいの時間が経っただろうか。

商家で下働きをしていた頃の生活を体がよく覚えているから、日の出前に目は覚めてしまった。

本来ならば他の下働き達と一緒に薪割りや水汲み等、朝の仕事をしている時間帯のはずだったが

質の良い寝巻きを身に纏い、自分にしては広すぎる部屋に置かれた、

これまた立派な寝台に腰掛けている現実はなんとも居た堪れない心地にさせた。

何かしなければ、働かなければという概念はもはや染み付いてしまっていて。

だけどそんな事をする必要がないと知らされたのは……つい昨日の事だったはずだ。

朝になり、確かに夢から目覚めたはずだと思っていたが

こうして立派過ぎる部屋にいる現状では、咲は未だ夢を見ているような心地でしかなった。

下働きしていた頃は、仕事に追われ余計な事を考える暇もなかったのだが

こうして一人、立派すぎる部屋に置かれているといらぬ事を考えてしまいそうだった。

自分が王様とか、やっぱり夢なんじゃないかとか。勘違いだったんじゃないかとか。
 
咲は落ち込みそうな思考に気付き、ハッと顔 を上げると振り切るようにぶんぶん頭を左右に振る。

いけない、取り合えず体を動かそう。

そうだ。いつものように掃除でもしてれば気が紛れるかもしれない。

こんな立派な部屋なんだし、せめて自分が使わせてもらった礼も兼ねて拭き掃除や掃くぐらいはするべきだろう。

そう決めると床に降り立ち、部屋の隅に雑巾や箒がないかを探す。

だが、どこを見ても立派な調度品や細工が施された柱や壁が続いているだけで。

引き出しを開けても同じようなものだった。

99: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(SSL) 2014/07/11(金) 00:27:40.68 ID:HdAV1VQi0
…なるほど、元々咲がいた粗末な共同部屋とは次元が違う。

掃除用具なんてものを置くはずがないじゃないかと今更ながら気付き顔を赤くした。

本当に、昨日までの自分の世界と余りに違いすぎて。

今一度ため息を落とすと部屋の外へ向かおうとした。

この部屋にないのならば、外の違う部屋にでもあるのかもしれない。

咲は細かな細工が施された扉の前に立つと取っ手に手を掛け、それを押して外へ出ようとする。

だが、自分が扉を押す途中……なぜか扉が自動的に外側へと開かれる。

取っ手を持ったままだった咲の体は心構えもしていなかったから、

自然、引かれた扉と一緒に一気に前へと引っ張られてしまった。

あれ、と思った瞬間。

頭上より静かな声が振ってくる。

菫「何をしている」

取っ手を持ったままに頭上を見上げると。

開いた扉の間より、自分をじっと見下ろしている背の高い少女の姿がある。

秀麗な容姿は出会った頃と変わらず……その紫色をした瞳を認識した瞬間。

咲は先日に触れた、神獣の姿を鮮明に思い出していた。

この片腕を伸ばし、解いた鬣の感触も良く覚えている。

だから彼女へと返す言葉も忘れ、まじまじとその姿を見上げてしまった。

だって、未だに信じられない。……こんな綺麗な人の、本来の姿があの神獣だという事実が。

菫「主上」

咲「………」

菫「聞いているのか?」

咲「……あ、私の事ですか?」

自分の事を言われていると気付かなかった。

だが、ここにいるのは咲と麒麟の少女だけで。

そういえば昨日もそう呼ばれた気がしたけれど実感が沸かない。

100: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(SSL) 2014/07/11(金) 00:33:27.92 ID:HdAV1VQi0
ただ、先ほどからどうにも反応が薄い咲を不思議に思ったのだろう。

見上げる先の紫の瞳が怪訝そうに揺れる。

菫「貴方以外に誰がいる。なにより、他者など私が認めん」

迷いない、強い口調の声。

自分が言われた訳でもないのだが、慌てたように咲は手を掛けていた取っ手を離すと、

「すみません」と声を上げ後ろへと下がった。

怪訝な顔つきはそのままだったが、咲が下がった事を確認してから

彼女は中途半端に開いたままの扉を完全に引き、そして咲を追うようにして室内へと足を踏み入れる。

無意識に緊張した咲の喉がコクリ、と鳴る。

はっきり言って、必要以上に緊張してしまうのは仕方ないと思う。

だって、どう考えても眼前の少女と、自分とでは今まで生きてきた世界が違い過ぎるのだ。

この立派過ぎる部屋に彼女は溶け込んで見えるけれど、

それを眺めている咲はやはり場違いな気がしてならない。

菫「………先ほどの」

突如声を掛けられ「え?」と肩が震える。

思わず言葉の途中で言い返してしまったからだろうか。眼前の少女の眉間に皺が寄った気がした。

機嫌を損ねてしまったのかもしれないと、咲は焦るが。

彼女はそんな自分を尻目に、言葉を続けた。

菫「先ほどの問いに、まだ答えてもらっていない」

咲「問い?」

101: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(SSL) 2014/07/11(金) 00:37:27.55 ID:HdAV1VQi0
菫「こんな早朝に扉を開け、どこに行こうとしていた?まさか心変わりをしたのではあるまいな」

菫「王になる事は了承したはず。まさか、また逃げようなどと…」

咲「!?ち、違います!違う、そうじゃなくて…」

菫「では、なぜ外へ…」
 
詰め寄ってきそうな気配を感じ取り、慌てて咲は言葉を返す。

咲「あの、情けない話ですが。こんな立派過ぎる部屋に一人でいると、色々と不安な事が浮かんできてしまって」

咲「だからいつものように掃除でもして気を紛らわせようとしたんです」

咲「でも、道具が見付からなかったから外へ探しに行こうかと……」

菫「…掃除?」

咲「はい」

素直に頷く咲を一瞥し、彼女は訝しげに歪めていた表情を一応は緩めた。

刻んでいた険は薄くなったが……変わって呆れた空気が彼女の気配に滲む。

菫「……王である貴方がする事ではない」

咲「でも、この部屋を使ったのは私ですからこれぐらいは…」

菫「必要無い。他にする事は山とある」

続こうとした咲の言葉は、途中で容赦なく断ち切られる。

その強い口調に、咲は自分が責められている気がして自然と怯えるよう口を噤んでしまった。

次いで、鋭く向けられる眼光から逃げるように俯く。

実際、怖いと思った。

脳裏に浮かんだのは……商家での生活で。

102: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(SSL) 2014/07/11(金) 00:44:02.82 ID:HdAV1VQi0
暴虐不尽な主人により一方的に責められ続けた日々を思い出し身も心も竦んだ。

余計な事は言わない、目立ってはいけない。

そうやってひっそりと生活するのが一番、安全なのだと今まで信じてきた。

眼前に立つ少女より向けられる鋭い眼光はかつての主人を思い出し、途端に何か言葉を返す気力も萎えた。

咲は下を向いたまま、じっと嵐を過ぎ去るのだけを待ち続けた。

互いに無言のまま、どれくらいの時間が過ぎたのか。

気付いたのは俯いたままでも鼓膜へと届いた…深いため息の音が聞こえたからだった。

ビクリ、と体が震える。だが咲は顔を上げる事はできなかった。

だって、顔を上げて眼前に立つ少女の、更に深い落胆が浮かぶ顔を見るのだけは嫌だった。

自分から顔を伏せて逃げた癖に、期待外れだったと見られるのが、思われるのが嫌なのだと感じている。

自分でも随分虫のいい話だと思った。

でも。顔を上げて…彼女より帰れ、と容赦なく言われれば。

まだ傷は浅い内に、夢のようなこの現実から目覚める事はできるのではないかと気付く。

だから俯いたまま唇を噛み締めると、意を決して咲は顔を上げようとした。
 
だが。顔を上げて、咲の視界に見えたのは…背を向けた少女の姿で。

想像していた通りの拒絶の言葉はなかったけれど。なにか見限られたような気がして心がチクリと痛む。

思わず「あの」とその背に咲は声を掛けた。

すると彼女は出て行こうとする足を止めた。が、背を向けたままに言う。

菫「…まずは食事の用意をさせる。それが終わったら、これからの事を詳しく話すから」

いいな、と言われ反射的に了承の返事をする。

そんな咲の声を聞き届けたのだろう後ろ姿は、他には何も言わずに歩き出す。

そのまま扉の向こうへと消えて行き、重厚な扉は閉められた。

残された咲は、再び朝の