01 王、職を得る


海馬邸。
夜、家主が帰宅した。
瀬人の私室には、きちんと畳まれた外套、着ていた服、装飾品、そして千年パズル。
その持ち主、アテムは、かなりオーバーサイズなシャツ姿で静かにハーブティを飲んでいた。
「…それで、アテム。どういう経緯でこの邸に居る?」
そこで、瀬人はアテムと共に遅過ぎるティータイムをしていた。
「経緯を説明すべきなのは、お前の方だぜ。呼びつけておいて何のつもりだ。」
言葉選びは剣呑だが、瀬人が冥界に足を踏み入れていた結構初めの頃からただならぬ仲ではある。
「アテム」「瀬人」と呼び合い、夜も勿論。とにかくただならぬ仲だ。
つまり、アテムが着ているのは、(勝手に拝借した)彼シャツということになる。
「呼びつけた覚えはない。お前の存在がシステムに登録された瞬間、セキュリティが警告を上げただけだ。」
「警告?俺はただ、寝る場所を探していただけだ。」
「この街で“ただ”暮らせる人間はいない。デッキ登録なしでは住民扱いにもならん。」
アテムは"ただ"現世に落ちてきた。
亀のゲーム屋へ、遊戯の所へ。
冥界へ還ろうにも、体があった為か、還り方が分からなかった。
仕方がないので暫く武藤家で暮らすことになった。そこまでは安定路線だった。
しかし、童実野町に住むためにデッキ登録をした途端、呼び出しがかかったのだ。
迎えの車がやって来て、有無を言わせずアテムを連れて行こうとした。
誰の仕業なのかを察した遊戯は「海馬くんなら冥界へ行けるから安心だね。」と、軽くアテムを売った。
「ふふ…、相棒にはしてやられたぜ…。お前の教育の賜物だな。」
「住民の義務だ。」
「全く。文明とは複雑だな。魂の在り処より、カードの有無が重視されるとは。」
「…皮肉を言う暇があるのならルールブックでも読んでおけ。」
アテムはハーブティを一口飲み、落ち着いた笑みで返した。
「だが、ここの書庫には『千年の書』よりも分厚いマニュアルが並んでいる。あれ、読むのに一晩はかかるぜ。」
「読む気があるのなら結構だ。寝室は奥。バスルームは自動。食堂もある、持ってこさせてもいい。」
「なるほどな。マニュアルより、お前の注意書きの方が厳しい。」
「…学習能力があるのなら、明日には慣れるだろう。」

2人の“愛と理論、そして少しの皮肉の同居生活”は、こうして始まった。





アテムが海馬邸で暮らし始めて数日後、朝の食堂。
瀬人はニュースを読み、アテムはトーストを焼いていた。
海馬邸で暮らしていく上で、家事は元より、トーストを焼く必要などない。
一般的な生活をしたいと言う、アテムの高い意識の表れである。
「ん…パンが焦げた。原因は時間だ。」
「原因はお前がオーブントースターを観察対象にしたことだ。」
「意外だな、瀬人。火加減よりも観察者の心理を分析するとは。なるほど、科学者だ。」
「お前の手際を見ていればな。科学ではなく、ただの実験失敗の記録だ。」
「なら俺は、失敗から学ぶ王ということにしておこう。」
「その割に、懲りもせずもう一枚突っ込んでいるのは何だ。」
「瀬人。“挑戦”と“愚行”の違いを教えてくれるものを知っているか?」
アテムが挑発的な目を向けて続けた。
「経験だ。」
瀬人は軽く息を吐く。
だが、笑ってはいた。苦笑だが。
「…まぁいい。成功の元は片付けてやる。次は焦がすな。」
「感謝するぜ。だが、王の朝食を臣下に任せるのは気が引けるな…。」
「誰が臣下だ。俺はこの邸の所有者だ。」
「所有者か。王と似ているな。」
ふと、空気が静かになる。
だが重くはならない。軽く笑いで解ける。
「“俺は誰も支配しない”がな。」
「嘘を吐くな。それなら、支配される覚悟でもあるのか?」
「あり得ん。互いに支配し合う。それで対等だ。」
「面白い。対等な支配関係か。哲学的だな。」
「お前が哲学を語ると、コーヒーが冷める。」
そう言ってコーヒーをもう一口。アテム作のトーストよりは苦い。
「その冷めたコーヒーも、俺が淹れたのなら美味い筈だぜ?」
「…アテム…冗談を覚えたのか。」
「王は学習能力があるものなんだぜ。」
自信満々に言うが、取り出した2枚目のトーストは焦げていた。
アテムはまた焦がしたトーストを半分に割り、瀬人に差し出した。
「半分、お前の分だ。」
「要らん。学習能力はどこへ行った。」
「それは途中だ。これは“共同実験の成果”として、記録しておくことにする。」
仕方がないので、瀬人は渋い顔をしつつ、その焦げたパン2号の半分を受け取った。
「…味に理屈はないらしいな。」
「そこが、愛の理論だ。」
瀬人は一瞬言葉を止め、表情を緩めた。ほんの少し、苦笑した。
「朝から哲学も冗談も過剰だ。悪くはないがな。」
アテムも静かに笑った。

夜。アテムは、熱心にAIに話しかけていた。
「“おはよう”とは、太陽が昇った時にだけ使うのか?」
『現在時刻は22時。おはよう、アテム様。』
「なるほど。矛盾に満ちているな。気に入ったぜ。」
「気に入るな。お前はそのAIに何を学ぼうとしている。」
「人工知能という言葉の響きに惹かれたんだ。魂なき器に、知性を宿す。これは俺の時代の“精霊”に近い概念だ。」
「…AIにオカルトを絡めるな。現代のプログラムはそれより遥かに論理的だ。」
「そうか…。論理の果てに、魂は宿ると思うか?」
瀬人が眉を顰める。
まだ冥界へのアクセスが出来ず、それならばと復元させようと作り上げた、実体を持たないアテム。瀬人の記憶映像。
「宿らん。」
「よく断言出来るな。」
あれにはそこそこゲームの強いAIとしての使い道と、パワービジョンの開発成功。商品価値以外何もなかった。
「…証明済みだ。」
アテムは少し笑った。
まるで子どものような無邪気さだった。
「それなら、お前が俺を信じている理由は?」
瀬人の指が止まる。
「…お前は、“証明済み”だ。」

翌朝。
アテムはVRゴーグルを装着して空中庭園を歩いていた。
「この世界は幻影だが、風の演算は見事なものだな。」
「アテム。お前はもう還る気はないようだな。」
「あるぜ。だが、“行き来できる”んだろ。それなら、行く前に現世を学ぶのは当然だ。」
「どう見ても観光だな。」
アテムの服装はリゾート地にでもいるような、白いリネンのワンピースである。
冥界で着ていたものより丈は長い。
「違う。俺はこの世界を理解しようとしているんだ。」
「理解するために、冥界の王が現世に口座を持つ気は?」
「口座、というのは貨幣の墓場のようなものだろう?」
「ならばその墓場を持たせてやる。現世を学べる。…いっそ、社員登録をしておくか。」
アテムはゴーグルを外して振り向いた。
「社員?」
「生活と存在のための正式な登録だ。現世で暮らしていくのなら海馬コーポレーションの肩書きは盤石だ。」
「なるほど。この時代では“仕える”ことを“働く”と呼ぶのか。」
「逆だ。俺は(お前)に仕える気はない。だが、社員として雇ってやる。」
「その言い回しだと、少しだけ支配の香りがするんだが…。」
「香りではない。現実だ。」
その数時間後。
瀬人は端末を操作しながら淡々と打ち込んでいた。
「名前、“アテム”。所属、“特別顧問”。職務内容…異界対応アドバイザー辺りか。歳はまだ19だな?」
「冥界でも歳を取るならそうなる...。いや、勝手に登録を進めるなよ。俺はまだ同意していないぜ。」
アテムの自己申告によると冥界へ還った時点で16歳だったと言う。
その1年と数ヶ月後に再会しているが、それから約2年、身長は伸びておらず、顔も少年のまま。
瀬人の予想では、冥界では歳を取らないのだが、この際考えないことにした。
「同意があろうとなかろうと、現世に居るのなら法的存在である必要がある。さもなくば、お前はデータ外生命体扱いだ。」
「お前、よくこの世界の法を隅々まで把握しているな…。」
「当然だ。俺が作ったルールも多い。」
「それで、俺の居場所もお前が作るっていうのか?」
「ああ。嫌なら冥界に帰るか?」
アテムは静かに笑った。
だが、その目は少し柔らかい。
「…いや。もう少し、この世界の風を感じていたい。」
「だろうな。これで、登録完了だ。」
「王の許可なく登録するとは。相変わらず強引な男だな。」
「…隣に立つ権利だ。」
アテムは、小さく息を吐いた。
「そうか。なら、王の義務として礼を言おう。雇ってくれて感謝するぜ、海馬社長。」
「いい心掛けだ。まずは出勤時刻を覚えろ。」
「王に時刻は縛れない。」
「社員に例外はない。」
「仕方ないな、神のように働くとするか。」
瀬人が小さく吹き出した。
「厄介な社員を拾ったものだ。」
「お前が拾ったんだぜ?」
「…否定はしないが、俺は、見る目はある。」
朝の光が2人の間に差し込む。
現世と冥界の狭間で、理屈と情の混ざる穏やかな日常が、今日も始まる。



海馬コーポレーション特別研究室。
端末の光が幾何学的に交錯し、冷気のような静謐さが漂う。
その中心で、アテムは真面目な顔をしてコードを書いていた。
冥界の王にして、現世の異界対応アドバイザーであり、社長仕込みの技術力。
かなり矛盾だが、アテムの手際は人間離れしている。
「…処理速度、2.7倍か。」
「思考の構築を少し最適化した。神官たちの記録術を応用してみただけだ。」
「応用してみただけで俺の技術部が置き去りか。教えた以上に学んだようだな。」
「俺は王だぜ。王は、支配ではなく管理を学ぶものだ。」
「それを持ち出すのか。ならば俺は王の上司だ。」
「お前が上司なら、俺は神の代理人だ。」
「…言葉遊びが過ぎる。」
2人のやり取りに、周囲の社員は息を呑んで黙り込んでいた。社長にこのような口を聞いたなら、明日の朝陽を拝める保証はない。
だが、どちらも本気で言っているのだから性質が悪いのだった。

海馬コーポレーションに勤めるアテムは、真面目そのものだった。
会議では要点を的確にまとめ、膨大な資料を読み解き、言葉の端々に王の矜持が垣間見える。
その働きぶりに瀬人も文句などなく、勿論、満足していた。
ただ1つ問題があるとすれば、勤務時間外でも王の威厳が抜けないことだ。
「アテム、休憩だ。もう15分過ぎてる。」
「…瀬人、俺の仕事がまだ終わっていないんだ。」
「俺ではない。“俺の社員”だ。」
「…なるほど。それなら、"部下として"従ってやる。」
瀬人は、まるで“臣下として”ではないのか、と問いただしたいのを我慢した。





そんな日々が過ぎたある休日。
海馬邸のアテムの部屋。
デーブルにはゲームの駒が転がっていた、アテムと瀬人はゲームをしていた所だった。
そして、ソファには、様子を見に来た遊戯と、城之内、本田が寛いでいる。
久々の再会だ。
「…ねえ、もう1人のボク。冥界に帰るために海馬くんの所に来てたんじゃなかったの?」
「うん。だが、気付いたら働いていたんだ。」
「なんでそうなるんだよぉ!?」
「冥界に還る前の社会勉強のようなものか?」
城之内と本田がツッコむ。
「いや、現世では“生きる”ことそのものが“働く”らしいからな。つまり、俺は今、“現世の生”を体験しているだけだ。」
「仕事の意味を哲学にまで持って行くな。遊戯、貴様どういう教育をした。アテムは労働を魂の対価だと言い出した。」
「だがお前も言っただろ。“成果がなければ存在に価値はない”って。だから、存在の証明として働くのは合理的な筈だぜ?」
「…なんかもう、すげーこと言ってる気がするけど理解が追いつかねぇ。」
「アテムって、案外、真面目過ぎる所あったよな。」
「本田くん、真面目でなければ、魂はどこへ帰るんだ?」
「アテム、仕事の話をしているだけだ。魂を帰すな。哲学を忘れろ。」
瀬人がアテムの意識を哲学から労働へ戻した。
「労働とは、自らの存在意義を社会に投影するための行為だ。つまり、アテムは自分がこの世界に在るという証明を、仕事で表しているに過ぎない。」
「ちょっと待って海馬くん、それやっぱり哲学じゃないか。」
と遊戯がツッコむ。
「証明って、何か大袈裟だな…。」
「大袈裟ではないぜ、城之内くん。冥界においては、存在は意思の力によって測られる。現世では、働きによって測られる。それがこの世界の秩序だろ?」
「…なるほどな。つまり、俺は働かずとも存在可能な側の人間だというわけか。」
瀬人が皮肉げに笑うと、遊戯が呆れたように肩を竦めた。
「そういうとこだよ、海馬くん。そういうのがもう1人のボクと気が合う理由なんだろうね。」
遊戯が笑いながらカップを置く。
「でも、もう1人のボクがここで笑っているなら、それでもいいか。」
「否定はしない。…だが、冥界側はそう簡単に納得しない。」





アテムのポケットの中で、小さな光が瞬いた。
通信端末。
発信元は、冥界に設置されていた王専用のもの。アテムは慌てて立ち上がった。
『王…!罪を承知で端末を使っております!』
焦った声。神官の一人のようだ。
『冥界では王の力は今も満ちております。しかし、王が居りません。各地で秩序が乱れ始めており…!王は、どこにおられるのです!?』
アテムは一瞬、瀬人と視線を交わした。
このままでは、冥界が混乱する。
だが、アテムの中に浮かぶのは別の思い。
“まだ、帰りたくない。”
「…瀬人。少しの間、この通信を使って指示を出しても良いだろうか。」
「冥界のテレワークか。お前らしい発想だな。」
瀬人は腕を組み、苦笑した。
神官たちは、アテムの遠隔指示に従って動き出した。
しかし同時に、裏では瀬人のもとにも密かに通信が届いていた。
『瀬人様…!この状態は、いつまで続くのですか!?王は現世勤務中と仰せでしたが、我々…胃が持ちません!』
瀬人は溜息をつき、低く笑った。
「まあ、俺としては悪くない。アテムがここに居る限り、冥界が混乱しようが、俺に不満はないのでな。」
しかし、アテムの方は別だった。
瀬人宛に密かに届いている通信ではあるが、それをアテムに隠してはいない。
聞いていたアテムは瀬人の隣で小さく首を振った。
「冥界に戻れば、もうここには来られない気がするんだ。だから、あと少しだけ…。」
瀬人の視線が一瞬だけ柔らかくなった。
「…調べる他あるまい。冥界がどの程度、お前なしで保つのか。確かめてやる。」
アテムはほっとしたように微笑んだ。
だがその間にも、再びアテムの通信端末が点滅していた。
『王、今度は神々の神殿で異常が…!』
「王は…休憩中だ。後で連絡する。」
通信を切った音とともに、瀬人の低い笑い声が響いた。
「リモート王か。働き方改革にも程があるな、アテム。」
「俺は、現世の残業というものを理解し始めた気がするぜ…。」
「それを理解した時点で、もう日本社会の一員だな。」

数日後、瀬人はひっそりと姿を消した。
行き先は、冥界だ。
目的は、消えた王の影響を調査し、現状を把握すること。
「まさか冥界に出張するとは…。」
瀬人は吐息を漏らしながら、石畳を踏みしめた。
その耳には、「王がいない…」「秩序が…」と嘆きが聞こえていた。
神官たちはすぐさま駆け寄ってきた。
「せ、瀬人様!来てくださったのですか!」
「王は…現世にて業務中と仰っておりましたが…。」
「現世勤務という表現やめろ。余計ややこしい。」
執務殿に通されると、神官たちは口々に現状を報告した。
「冥界各地で秩序の均衡が崩れ、魂の流れが滞っております。」
「それぞれの部署、いえ、領域ごとに王の承認が下りないため、我々は決裁不能に陥っておりまして…。」
「…つまり、トップ不在で現場が止まっているわけか。」
瀬人は椅子に腰を下ろし、指先で机を軽く叩いた。報告書の束をパラパラ捲る。
「ありがちな話だな。貴様ら、"王の署名がなく書類が動かない"等と言っている暇があるのなら、プロセスを最適化しろ。」
「ぷ、プロセス…?」
「階層構造の整理だ。まず“魂の流通”と“裁定”の権限を分ける。承認は自動化し、異常が発生した時のみ王へ通知するよう設定する。」
「…それは…つまり、王の手を煩わせない仕組み…?」
「そうだ。貴様らは“神官”であって、“書類の運び屋”ではないのだろう。自分で考えるための仕組みを作れ。」
神官たちは目を丸くした。
アテムの時代には、こんな即断即決はなかったのだ。
「な、なるほど…しかし、冥界内の通信も途絶しておりまして…。」
「ふん、通信設備を旧式のオカルトで運用しているのが間違いだ。現世では光ファイバーだ。冥界は魂ファイバーでいいだろう。」
「た、魂ファイバー…?」
「冗談だ。だが、理論上は可能だ。」
瀬人は、冥界の設備を睨みつけた。
冷徹な視線と、科学的な手際が、静寂を切り裂く。
そして数時間で回路を再設計し、通信を安定化させ、アテムのいる現世との双方向リモート環境を構築した。
「これで、王の在宅勤務が可能になった。お前たちは王の承認待ちではなく、王のAPIを叩け。」
「A、API……?」
「冥界の言語に直すと、“王命インターフェイス”だ。覚えておけ。」
「いんたー…?」
「要は接続部分だ。」
神官たちは恐る恐る頷いた。
「さすがは瀬人様…!王の理解者にして改革者!」
「俺は改革者ではない。合理主義者だ。混乱の原因が感情ではなく構造なら、構造を直せばいいだけの話だ。」
そこへ通信端末が点滅した。
アテムからの映像が映る。
『瀬人、お前…冥界をどうしたんだ?騒がしいぜ?』
「秩序を再構築しているだけだ。お前が帰ろうが帰るまいが問題なく動くようにな。」
『…つまり、俺の“働き方改革”か?』
「そうだ。リモート王制、導入完了だ。」
アテムの表情に苦笑が浮かぶ。
『…俺がいなくても冥界は回るのか…。』
「そうだ。お前が居ると更に滑らかに動く。それだけのことだ。」
瀬人は薄く笑う。
「還りたい時に還れ。戻りたい時は俺が繋げてやる。」
アテムは一瞬、言葉を失った。
そして穏やかに笑った。
『…瀬人。お前は時々、神官よりも王の心を理解している。』
「当然だ。俺は、お前の直属の上司だ。」
通信の向こうで、アテムが呆れたように息を吐いた。
『上司という表現、そろそろやめないか?』
「無理だ。職務上の関係だからな。」
『…ふふ。やはり、お前が冥界に来ると世界の構造が変わる。』
瀬人は笑い、通信を切った。
「構造が変わるのはいつもそうだ。だが、お前が居ないより、お前が居る世界の方が、俺は好ましい。」
瀬人が立ち上がると、神官たちは一斉に跪いた。
「瀬人様…我々は何とお礼を…。」
「礼はいい。その代わり、二度と“王不在で仕事が止まった”などと言うな。それは、無能の言い訳だ。」
冥界の空気が震え、空に光が差し込む。その歩みと共に、秩序は再び整い始めた。

その夜。
現世のアテムの机には、“王専用VPN接続完了”の通知が光っていた。
「…冥界、ネットワーク化されたのか…?」
『当然だ。』
瀬人からのメッセージが届く。
『今や、お前の王の仕事もクラウド化している。』
アテムは小さく溜息を吐き、微笑んだ。
「…俺は、現世の文明を侮っていたのかもしれないな。」
そう言うが、そんなことをやってのけるのは1人しかいない。

更に数日後の夜。
冥界の通信網が完全に安定し、混乱が鎮まってからというもの、アテムも瀬人もすっかり“平常モード”に戻っていた。
広い海馬邸の書斎。
グラスに注がれた水面に、月の光が揺れている。
「やっと静かになったようだな。」
瀬人が言うと、アテムが顔を上げた。
「お前が冥界を職場環境改善したおかげだ。」
「最適化と言え。」
「同じことだろう?」
「改善は過去への修正、最適化は未来への調整だ。」
アテムはくすりと笑った。
「なら、俺が過去に還らなかったのは、未来への最適化か?」
「…言葉遊びが上手くなったな。」
「お前の影響だ。」
瀬人は僅かに息を吐いた。
静けさの中に、僅かな探求心が滲む。
「…1つ、訊くが。」
「何だ?」
「なぜ、お前は冥界に還らなかった?」
アテムは暫く黙っていた。
グラスの縁を指でなぞりながら、光を見つめて言う。
「理由というのは、往々にして後から見付けるものだ。」
「つまり、思いつきか?」
「いや。思いついたんじゃない、感じてしまったんだ。」
瀬人は眉を顰めた。
「感情論か。」
「王が感情を語ってはいけないのか?」
「語るのは構わん。だが、根拠が薄い。」
「うん…。なら、根拠を示そうか。」
アテムは真っ直ぐに瀬人を見た。
「お前の側にある生の速度。それが、俺には懐かしくて、愛おしかったんだ。」
瀬人の指先が止まる。
「速度?」
「冥界は時が、終わりの状態で円環する。だが現世は、常に形を変えての直線だ…終わりへ向かって、戻らない。この流れの中に身を置いてみたかったんだ。」
瀬人は沈黙した。
思考が動く音が、僅かに空気を震わせる。
「…つまり、お前は終わりを待つ世界を選んだわけか。」
「そうだ。終わりがあるからこそ、味わえる静けさがある。そう、思うんだ。」
アテムの口調は穏やかだった。
「冥界にいれば永遠だ。だが永遠は、時に息苦しい。現世の一瞬は、きっと冥界の千年より深い。」
「理屈は分かるが、危うい考えだな。」
「危うさが生きている。それが、この世界だ。」
アテムは微笑む。
「…瀬人。お前が冥界へ来た時、俺は思ったんだ。お前は、永遠を拒む勇気を持っていると。」
瀬人は苦笑を返した。
「永遠を拒む?俺は、永遠を再設計しようとしているだけだ。」
「それが、お前の"生"なんだろ?」
2人は暫く言葉を交わさず、窓の外の夜空を見上げた。
アテムがぽつりと呟く。
「…俺はもう、冥界に還らなければばならない理由を失ったのかもしれない。」
「理由がなくとも還ることは出来る。」
「だが、理由がなくて還るのは、“逃げ”だ。」
瀬人の視線が、僅かに柔らかくなった。
「ならば、もう少し滞在しても構わないのではないのか。」
「お、許可が出たか。」
「お前は社員だからな。」
アテムが堪えきれずに笑った。
「全く、お前は本当に、永遠よりも面倒な男だ。」
「光栄だな。永遠より手強い存在である方が俺に合っている。」
2人の間に、言葉より深い沈黙が落ちた。
その沈黙は、冥界と現世の境をも曖昧にしていた。





昼下がりの海馬邸。
アテムは瀬人の私室のソファに座り、真剣な表情でタブレットを操作していた。
「…猫動画というのは、何故これほど人気があるんだ。」
「知らん。時間の無駄だ。」
「無駄にしては、お前の端末にも履歴があるぜ?」
「それはAIの学習データだ。」
「へえ、“AIのせい”か。」
アテムは小さく笑い、画面を閉じた。
瀬人は椅子に座ったまま、報告書から視線を上げる。
「勤務時間中に余計なデータを増やすな。」
「勤務時間中、か。」
アテムはその言葉を、少し長めに転がした。
「瀬人。」
「何だ。」
「俺はこれでも、“社員として”だけではいたくないと思っているんだぜ。」
瀬人は指先の動きを止めた。
「今更だな。」
「今更、だと?」
「お前は初めから、“社員待遇”ではなく“例外”だ。勤務時間もない。報告義務もない。本邸を社宅として使っている。」
「例外扱いとは、便利だな。」
「便利ではなく、特別だ。」
瀬人の声は相変わらず淡々としていたが、僅かに口元が緩んでいた。
アテムは肩を竦めて呟いた。
「言葉の定義に厳しい男だな。」
「定義を曖昧にすると、関係が壊れる。」
「…なるほど。なら、俺の望みは“定義変更”だ。」
「ほう?」
「社員から…もっと別の…特別へ。」
瀬人はペンを持ったまま、完全に動きを止めた。
アテムは続ける。
「いや、まだ正式にという意味じゃないんだ。ただ、この関係を働き口で説明されるのは複雑なんだ。」
「一理ある。だが、社会的には説明が楽だ。」
「お前の社会的合理性には、たまに呆れる。」
「合理性とは感情の整理だ。」
「なら、整理が終わったら、俺を社員ではなく、もっと別の…呼べるのか?」
瀬人は静かにアテムを見た。
長い沈黙の後、口を開いた。
「呼び方はどうでもいい。問題は、呼ばれる側がそれをどう受け取るかだ。」
「つまり?」
「社員と呼ぼうが、お前と呼ぼうが、例え配偶者だろうと、俺の態度は変わらないということだ。」
アテムはゆっくりと笑みを浮かべた。
「…そういうところ、ずるい。」
「そういうところが、俺だ。」
軽口が一通り終わった後、2人の間に静かな空気が流れる。
外では、風が木々を揺らしていた。
アテムは再びタブレットを手に取る。
「ところで瀬人、恋愛相談AIというのを見つけたんだが。」
「削除しておけ。」
「仕事と恋愛の両立、という記事もあったぜ。」
「今すぐ削除しろ。」
「ふふ、つまり実践済みということか?」
瀬人は溜息をついた。
「“AIのせい”だ。…冥界の王が、ここまで煽りが上手くなるとはな。」
「またそれか。王は学ぶ生き物だぜ。」
「…もう少し静かに学べ。」
アテムは小さく笑い、言葉を返した。
「静かにするには、お前の隣が一番落ち着く。」
瀬人は顔を上げた。
その視線に、言葉のいらない何かが通う。
ほんの一瞬だけ、互いの存在が「日常の一部」以上のものになった。
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