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『ニューヨーク喰い物語 』マイケル・ジャクソンが歌った「さくらさくら」

マイケル・ジャクソンの伝記映画『マイケル』が世界で公開されたニュースを見て、ふとあの夜のことを思い出した。
マイケルが「さくら さくら」を口ずさみ、歌い終えたあと、こう言った。

"It's very mysterious."

倉岡はその言葉に驚いた。
外国人が桜を見て「Beautiful」と言うことはよくある。
だがマイケルは違った。
彼が感じたのは、「美しさ」だけではなかったのである。

ある夜、店に一本の電話が入った。
相手はソニー・ミュージックの会長、マイケル・シュルホフだった。
レストラン日本の常連客でもある。
「今夜、ゲストを連れて行きたい」
そう言う。
「セレブレティなんだ。個室を頼むよ」
ところがその日は運が悪かった。
個室どころか、
テーブル席も満席。
空いていたのは寿司カウンターの四席だけだった。
事情を説明すると、電話の向こうでシュルホフは、
「うーん……」
と唸った。
そして電話は切れた。
私は、
「まあ、しょうがないな」
と思った。
それに、その“有名人”がいったい誰なのかも知らなかった。

しかし15分後。
店の扉が開いた。
店内の空気が変わった。
赤いレザージャケット。
目深にかぶったフェルトハット。アビエーター・サングラス。

マイケル・ジャクソンだった!!

私は固まった。
シュルホフに言った。
「本当に個室はないんですよ……」
すると彼は笑った。
「大丈夫だよ」
そして続けた。
「マイケルは寿司を食べたいといっている」

息遣いが伝わるほど間近の彼は、驚くほど静かだった。
小さく手を上げて、「Hello」と微笑む。
その声は意外なほど柔らかかった。

ダイニングルームを突っ切り寿司カウンターまでの距離が、妙に長く感じられた。
世界で最も有名なエンターテイナーが、今、私のすぐ横を歩いている。
満席の店内がどよめいた。
もちろん、ムーンウォークをするわけではない。それでも誰もが彼に目を奪われた。
しかし私の目に映ったのは、スターのオーラを振りまくマイケルではなかった。礼儀正しく、少し照れたような笑顔を見せる、ごく自然体の青年だった。

その夜、マイケルは寿司を心から楽しんでいた。
特に気に入ったのが中トロだった。
スコットランド産のニューソフトサーモンも好んだ。
一貫食べるたびに表情が明るくなる。
まるで初めて寿司を食べる少年のようだった。

それ以来、ニューヨークでレコーディングがある度に店へ来るようになった。
しかも本人が直接電話をかけてくる。
「ハロー、マイケル・ジャクソンです」
最初は冗談かと思った。
だが本物だった。
「三分後に着くよ」
そう言って電話を切る。
そして本当に三分後、黒塗りのバンが店の前に滑り込んで来るのである。
注文は決まっていた。

中トロ十貫。
サーモン十貫。
鉄火巻二本。
サーモンスキンの手巻一本。
いつも同じだった。

そんなマイケルとの思い出の中で、倉岡が特に忘れられない夜がある。
三度目の来店だった。
食事を終えたマイケルは、座敷の畳の上でくつろいでいた。
倉岡が挨拶に行くと、マイケルは突然身体を起こした。
そして、歌い始めた。

「さくら、さくら弥生(やよい)の空は………..」

世界のマイケル・ジャクソンが、日本の童謡を歌っているのである。
しかも驚くほど美しかった。
大観衆を熱狂させる歌声ではない。
繊細で、どこか儚い。
そんな歌声だった。
歌い終えると、マイケルは笑った。
「この歌、好き?」
倉岡が、
「どこで覚えたのですか?」
と尋ねると、マイケルはいたずらっぽく微笑んだ。
そしてこう言った。

「It's very mysterious.」
とても神秘的なんだ。

その一言が、倉岡の心に残った。

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後年、記憶をたどりながら描いてみたマイケル・ジャクソン。絵心はともかく、あの時の「It's so mysterious」という言葉だけは鮮明に覚えている。

桜は日本人にとって特別な花である。美しい。だが、ただ美しいだけではない。咲き誇るその姿は一瞬で、ほどなく花びらは風に散っていく。華やかなのに、どこか儚い。明るいのに、どこか影がある。

倉岡は後年、その時ふと梶井基次郎の一節を思い出したと話していた。

「桜の樹の下には屍体が埋まっている」

あまりにも鮮やかな美しさには、人を惹きつけながらも、どこか不気味さを感じさせるものがある。
桜には、そうした美と死が隣り合わせになったような、不思議な力が宿っている。

マイケルは日本文学を知っていたわけではないだろう。
だが彼は桜をただ「Beautiful」とは言わなかった。「Mysterious」と言った。
倉岡が驚いたのは、そこだった。後になって私は思った。

マイケルは『Thriller』を生み出した人だった。
美しさの中に潜む不気味さ。
光の中にある影。
怖いのに、なぜか目を離せないもの。
そういう感覚に、人一倍敏感な人だったのかもしれない。
だから「さくらさくら」を聴いた時、彼の中で何かが響いたのではないか。

日本人が桜に感じてきた、あの説明しづらい美しさと不気味さ。
マイケルはそれを直感で感じ取ったのかもしれない。

畳の上に寝転び、「さくらさくら」を口ずさみながら、彼は日本の何かに心を動かされていた。
そして、その時のマイケルにとって、その感覚を表す言葉が “Mysterious” だったのではないだろうか。
倉岡も私も、その一言を長く忘れることができなかった。

今でも春になると、倉岡の言葉を思い出す。
「マイケルは桜の美しさの中に潜む不気味さを分かっていたのかもしれないな」
そして私の耳にも、あの優しいファルセットが聞こえてくる。

「さくら、さくら……」

その夜のマイケルは、世界のスーパースターではなかった。
畳の上で日本の歌を口ずさむ、一人の繊細な青年だった。

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『ニューヨーク喰い物語 』マイケル・ジャクソンが歌った「さくらさくら」|馬次郎
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