シートベルトを締めた女性が交通事故に遭うと、同じ条件の男性より重傷を負う確率が約47%高い。死亡率も2割近く高い。なぜか。理由は単純で、自動車の安全性能を測る衝突実験用のダミー人形が標準的な「男性の体」を基準に長らく作られてきたからだ。男性を守るように設計された車は、平均的な女性の体をきちんと守れない。このように、ぼくらの社会は知らぬ間にさまざまな領域で女性を「存在しないかのように」してしまっている。👉
本書を貫く概念は一つ、「ジェンダー・データ・ギャップ」である。直訳すれば、性別をめぐるデータの空白。世界はこれまで無意識のうちに男性を標準として設計がなされてきた。そのためか、そもそも女性に関するデータがあちこちでごっそり抜け落ちている。その空白が女性に不便を、ときに命の危険をもたらす。これが本書の主張である。
ささいな不便はたくさんある。スマートフォンの標準サイズは男性の手を基準にしているから、女性には片手で扱いにくい。ピアノの鍵盤の幅も、平均的な男性の手に合わせて決まっている。オフィスの冷房設定が寒すぎると感じる女性が多いのにも理由がある。空調の基準室温は体重70キロほどの男性の代謝量をもとに決められていて、女性の代謝を最大3割以上も過大に見積もっているため、女性の体感では職場はいつも数度寒いということになりがちなのである。
「そんな些細なこと」と思うかもしれない。しかし、これらは些細では済まされない問題に直結する。
たとえば、心臓発作といえばドラマでよく見る、胸を押さえてうずくまる姿を思い浮かべるだろう。実はあれは「男性の典型的な症状」である。女性の心臓発作は吐き気や息切れ、顎や背中の痛みとして現れることが多い。男女間でそこには症状の差がある。ところが、医学の教科書も診断の基準も長らく男性の症状を「標準」としてきた。結果として、女性は心臓発作を初期段階で見逃される確率が男性より5割も高いという研究結果まで出る状況となった。薬の治験もそうだ。女性はホルモン周期があって「変数が多い」という理由で、長らく被験者から外されてきた。男性の体で効果と安全性を確かめた薬が女性に思わぬ副作用を起こすこともある。データの空白は、ここでは直接、人の命にかかわっている。
そして──本書のすごみは、この空白が決して悪意の産物ではないと示すところにある。誰かが「女を危険な目に遭わせてやろう」と企んだわけではない。ただ、設計する側に、測る側に、データを集める側に、女性の体や生活が「見えていなかった」だけだ。悪意ではなく認識の欠如なのである。でも、だからこそ根が深い。悪人がいるなら糾弾すればいいけれど、誰も悪意を持たないまま全体として女性を不利にする仕組みは糾弾する相手が見えにくい。空気のように、世界の初期設定に溶け込んでいる。
もう一つ本書が可視化するのが、女性が担う膨大な無償労働である。家事、育児、介護。世界の無償ケア労働の四分の三以上を女性が担っているという推計がある。金額に換算すれば天文学的な額になるのに、それは国の経済統計、GDPには一円も計上されない。経済の数字の上では、その労働は「存在しない」。誰かが毎日それを担っているのに、データの世界からは消えている。本書のタイトル『存在しない女たち』は、この二重の意味――データから消され、それゆえ世界の設計から漏れ落ちる女性たち――を鋭く言い当てている。
この本は誰かを断罪するための本ではない。逆だ。悪意なき空白を、悪意がないからこそ見過ごしてきたぼくら全員に、「ここにデータの穴があるよ」と指さしてみせる本だ。そして解決の方向も、拍子抜けするほど明快に示す。データを取るときに、性別で分けて記録すること。それだけのことが、見えなかった半分の人間を世界の設計図に書き込む第一歩になる。もちろん、その先にはもっと細かい区分けが必要な場面もあるわけだが。
ご関心のある方は、ぜひ本書を直に読んでみてほしい。
キャロライン・クリアド=ペレス著/神崎朗子訳『存在しない女たち 男性優位の世界にひそむ見せかけのファクトを暴く』河出書房新社