2017年9月15付「リーの日記」で「ついに小和田家【出自】の秘密 《水間氏の意向により全文掲載条件でネット転載可》」を掲載し、小和田家が朝鮮人帰化人であることを書いた。今回は、雅子妃の母親優美子の実家江頭家のルーツを含めて、更に情報を調べてみた。
参照:ブログ「6月のシャンプー」↓
http://maruga935.blog8.fc2.com/blog-entry-2102.html【皇室の背乗りを暴く】愛子の着袴の儀は朝鮮漬けだった↓
https://www.youtube.com/watch?v=LGBuOKkLCwQ平成18年11月11日に、愛子の着袴の儀(ちゃっこのぎ)が終了。着袴の儀とは、平安時代から続く、数え年5才の年に、「賜剣の儀」の際に天皇陛下から贈られた袴を着用する伝統儀式。男子は滝の意匠をあしらった和服「落滝津の御服」の上に白絹の袴、女子は濃色(こきいろ)と言われる濃い赤紫色の袿(うちき)に、同色の袴を着用。 袿と袴の正装写真は、11月7日の儀式の練習時に撮影された。本番の11月11日、愛子はピンク色の丈が短い奇妙な衣裳を着用、皇太子も雅子妃も和装ではなく洋装だった。ピンク色の衣裳は、雅子妃の実家の小和田家の宗派の創価学会の池田大作(本名ソン・テチャク)名誉会長から贈られた朝鮮貴族の官服とのこと。池田名誉会長は天皇より上、という意味なのだろう。皇太子の着袴の儀では美智子妃は和服で、悠仁親王の着袴の儀でもご一家全員が和装だった。愛子は練習では、衵扇(あこめおうぎ:檜扇とほぼ同義)を手にしているが、本番の日は薄っぺらいただの扇子を手にした。
本番の韓国式衣装↓

東宮御所で雅子妃が飼う日本では珍しい珍島犬↓

雅子妃は、病気になる前の結婚当初から、宮中祭祀を拒絶している。当初は、外交官志望だったのでアメリカナイズされているからと言われたが、事実は日本の文化を嫌う朝鮮帰化人の創価信者だからだろう。
公式の場所でチマチョゴリ着用↓

参照:News U.S. 「皇室の闇・小和田雅子(創価学会・胡散臭い家系・部落解放同盟が擁護)に東京駅で「仮病だらけの税金泥棒!!皇室から出ていけ!!」と60代男性が罵声を浴びせネット大炎上…2ch「雅子は皇室に送り込まれたトロイの木馬だ。皇室を批判する者が、雅子だけは支持している」「公務は年に10数日、私的な遊びは100日以上」「小和田家の悪行が早く天の下に晒されますように」↓
http://www.news-us.jp/article/354209079.html在日韓国人、在日朝鮮人は必至で雅子妃を擁護するコメントを書き込むのは、同族意識が強いからだろう。雅子妃は学歴ロンダリングで、米国のハーバード大学には、父親の小和田恒が1979年から1981年までハーバード大で客員教授をしていたコネで入学。ハーバードの卒論も小和田恒のコネで、当時の経団連理財部長、経団連常務理事の糠沢和夫、東京銀行の真野調査部長、国際金融情報センターの榊原総務部長というすごいメンバーが手伝った。1986年に小和田恒が25年間、非常勤講師をしていた東京大学の外部学士入学(学士入学は編入学制度)では、雅子妃は共通一次、二次試験を受けず、語学と小論文と面接のみだった。翌年の1987年に東大を中退し、小和田恒の外務省のコネで外務省に入省。オックスフォードに国費留学したが、雅子だけ修士を取れなかった。父親のコネがないと結果が出ない人で、雅子妃の日本国内での学歴は実質「中卒」とのこと。
雅子妃の父方実家小和田家と母方実家江頭家の家系図↓

参照:ユーチューブ【皇室の背乗りを暴く】小和田一族は皇室解体を企む朝鮮人だ↓
https://www.youtube.com/watch?v=tmeQyxaAkK0小和田家が祖先が三代前までしか遡れない家系なのは、三代前の小和田金吉が、1867年~1868年頃に朝鮮から密航して来たからだろう。雅子妃の父親の小和田恒は、当時、水俣病を引き起こして世間の非難を浴びていたチッソ株式会社の社長江藤豊の娘の優美子と結婚。江頭家も、三代前までしか遡れない家系である。
小和田一家の雅子が嫁ぐ朝の両親と娘3人の前のテーブルに飾られたのが、韓国と北朝鮮の国花の槿(むくげ)。普通の日本人家庭は、めでたい日に槿を飾ることは絶対にない。槿は「槿朝一夕」(きんちょういっせき)と言われ、由来は朝咲いてその日の夕には枯れるという意味で、生け花では忌み嫌われて使われないのである。

小和田恒のモスクワ公使時代のピクニック時の3人娘との食事風景は、韓国風の器に盛られた韓国名物の混ぜご飯。木べらも実に朝鮮的だ。日韓併合前の李氏朝鮮時代、白丁(ペクチョン)と呼ばれる奴隷たちは、両班(リャンバン)と呼ばれる貴族たちの少ない食べ残しをかき集めて混ぜてやっと一人分の食べ物を作った。今の韓国人、朝鮮人の大多数がこの白丁の子孫であるなごりで、今も韓国人は食べ物を残飯のようにぐちゃぐちゃに混ぜて食べる習慣がある。

参照:ユーチューブ【皇室の背乗りを暴く】雅子・母方実家は部落民だった↓
https://www.youtube.com/watch?v=5GwOHhF31i8ブログ「日本における部落問題は朝鮮人問題」↓
https://ameblo.jp/nakasugi-hiroshi/entry-11979451899.html雅子妃の母親の実家の江頭家の出身は、九州である。江頭という苗字の由来の一つは、被差別民の穢多の頭(かしら)という意味。雅子妃の結婚前、宮内庁が雅子妃の家系図を調べようとした際、部落解放同盟が差別だと異議を申し立てたので、宮内庁は調査を中断した。九州は朝鮮半島に近いので、在日が多く住むことでも知られている。穢多・非人と言われた人々が住んでいたのが部落で、平安時代の頃、朝鮮半島を捨てて船に乗って亡命して来るような人々が部落民となった。
母親の江頭優美子の父は豊で、豊の父の安太郎は青山の墓地に埋葬されたが、豊は東京には埋葬されていない。豊は、自分の九州の出自を恥じて隠していた。安太郎の妻米子の実家の古賀家にも墓がなく、佐賀の阿弥陀寺に長い間、無縁仏として放置された。この無縁仏は、近年に一ヶ所に集められて合祀されたそうだ。前述の家系図では、安太郎の父の嘉蔵は明治維新まで佐賀の鍋島家の家臣(佐賀藩士)となっているが、明治初編の佐賀藩侍着着(出勤簿)に名前がないのが事実である。当然だが、部落民が藩士になるわけがない。江頭嘉蔵は番太部落出身で差別を受け、小学校の小使いの職についた。穢多・非人は、その職業に従って様々に呼ばれたが、番太は、夜警、浮浪者の取り締まり、刑場などの雑用、処刑など人が敬遠する仕事に携わり、都市に設けられた木戸に接した番小屋と呼ばれる粗末な家に住み、番太郎とも呼ばれた。なお、年長の親戚から聞いたが、「番太の子」というのは礼儀作法も知らない野蛮人の子という意味である。
息子の安太郎は、出自を隠して佐賀に一度も帰らなかったそうで、豊も自分の九州の出自を恥じて隠していたのには、このように部落出身という背景があったからである。1993年、部落解放同盟の集会で、沖浦和光が小和田雅子の祖先は部落民だと言った。雅子妃は、父方も母方も朝鮮のルーツということになる。
問題なのは、己の出自ではなく、祖先の出自の呪縛が解けず、日本の伝統、文化を蔑ろにすることである。雅子妃が反日朝鮮人韓国人同様、皇室を蔑ろにして、今も公務をきちんと務めないことが問題だ。雅子妃は、ご病気を報じられてから今年でなんと15年目!昭和天皇は、祖先が三代前以上は遡れない雅子を妃候補として認めなかったが、高円宮夫妻が雅子妃を強力に推したのである。
参照・ユーチューブ【皇室の背乗りを暴く】皇室解体の使命を帯び、陛下の死を待つ魔女↓
https://www.youtube.com/watch?v=BD_0O_STY0wブログ「remmikkiのブログ」故高円宮殿下とは↓
http://blog.livedoor.jp/remmikki/archives/4532365.html2002年に亡くなった高円宮憲仁の久子未亡人が、当時、夫と共に雅子妃の入内を推し進めた。通訳をしていた久子は、大正天皇の四男の三笠宮崇仁親王に見初められ、その息子の高円宮憲仁と結婚。雅子妃の母親優美子と久子は旧知の仲である。リーの日記「大鳳会と日本ユニセフ協会とベネッセと小和田家」2018年1月21日付でも書いたが、優美子が日本ユニセフ協会の評議員で、小和田恒が、妻が評議員を務める日本ユニセフ協会の認可を下した経緯があり、高円宮憲仁は外務省と接点があったとのこと。
優美子と末端の宮家で予算も少ない高円宮は、皇太子に接近して皇族としての公務の仕事を増やしたい思惑があった。昭和天皇の崩御後、小和田恒と高円宮夫妻は連携し、雅子の入内のために活動。1986年スペインのエレナ王女の歓迎パーティーに、小和田恒と一緒に学生だった雅子を招待し、皇太子に初めて引き合わせたのは高円宮夫妻だった。
高円宮夫妻は、皇族として初めてて韓国を公式訪問した。サッカーワールドカップ日韓共催を実現させたのも、日本サッカー協会名誉理事の高円宮憲仁と、当時の電通の最高顧問で朝鮮人の成田豊、河野談話で日本を貶めた河野洋平であり、高円宮家は韓国との関係が強い。高円宮夫妻は、在日企業ロッテの会長重光武雄と一緒に写真に写っている。

参照:ユーチューブ「【皇室の背乗りを暴く】高円宮久子の実家は穢多だった」↓
https://www.youtube.com/watch?v=rZ4dKJNIj6A高円宮久子の実家の鳥取家の宗教は浄土真宗で、穢多の可能性があるとのこと。遡れる祖先は、久子から三代前の治郎八までである。鳥取家は代々、香川県三豊市豊中町に住んでいる。インターネット版部落地名総監によると、三豊市は高瀬町下勝間、高瀬町新名、高瀬町比地中、「豊中町上高野」仁尾町仁尾仁尾の上、山本町辻中西が部落地区となっており、 久子の実家は部落地区のど真ん中にある。
浄土真宗には、穢多の信徒が多かった。穢多の信徒は、浄土真宗内の自治警察の役割を果たし、浄土真宗を捨てて他宗教の「邪宗門」へ流れる者を抑圧、排除した。この働きにより、浄土真宗は徳川幕府から信任されたので、穢多は浄土真宗にとって必要であった。近世幕藩体制下の「穢多」は、司法、警察に携わる「非常民」の一つであり、司法、警察に携わる「非常民」には、与力、同心、目明し、穢多・非人と、村方役人がいた。例えば、徳山藩の処刑の記録を見ると、一人の処刑に複数の穢多が係った。浄土真宗の説教では、穢多に非常民としての生き方全般についての精神的支えを用意していたので、穢多の信徒が多かったのだろう。
久子の祖父為三郎は祖業を継ぎ、仁尾塩田、讃岐煉瓦各社の取締役となったとあり、塩田事業は、社長も従業員も穢多が多く、暑くてきつい重労働だそうだ。仁尾塩田の会社の場所も部落地区にあり、仁尾塩田は、現在は仁尾興産と社名変更し、住所は香川県三豊市。久子の実家の鳥取家は部落民の可能性が非常に高いとのことだ。
韓国人を一人呼び込むと、その韓国人が同族を次々呼び寄せるので、組織内部が劣化するというのは、世間でよく言われていることである。
参照:
http://kabanehosi.up.seesaa.net/image/syutuji.htmより編集、全文引用↓
これは2009年まであったあるホームページから転載したものです。知人から引き継ぐ形でここに再度載せています。実際、2006年当時、知人のホームページには圧力があり、以下の内容では、「日本が好きなだけなんだよ」様にご迷惑がかかる恐れもあるので、付け加えさせていただきます。すでに散々「日本が好きなだけなんだよ」様の文章として拡散されているようなので手遅れかもしれませんが一応。また、「日本が好きなだけなんだよ」様からリンクされないようにファイル名を変えていたのですが、元に戻します。(2012年7月30日 日の本ブログ主)
小和田雅子さん(皇太子妃)の出自について
出自は本人の意思や責任とは関係ない。皇太子妃としての責務を果たし、その人柄が国民から敬愛され、すばらしい人…すばらしくなくても普通に真面目に生きている人であれば、今更血筋がどうのなどとは言われなかったのかもしれない。今の世で出自云々を問うこと自体、おかしいのかもしれない。実際、言ってはいけないこととされている。だが、ろくに公務も祭祀もせず、自分勝手な振る舞いをしていれば、やっぱりお育ちが…と言われるのも仕方がない。しかも、一部では雅子さんの後ろ暗い部分を紀子様にすり替えて、噂を流し貶めている。きちんとした家系図が存在する紀子様の出自に関する嘘の噂を、嬉々として流している。
医学博士のH・S氏は公の場でこう言った「おい、同和が親王を生んだぞ!」H氏はワールドメイトという団体に在籍している。ワールドメイトは創価学会とともに雅子さんを擁護し、それ以外の皇族方を誹謗中傷している。最終的には皇室の消滅→新しい世(教祖の自分が王となる)を目論んでいるのだろう。内側から次々と皇室を破壊してくれる雅子さんは、皇室を否定する人々にとって重宝な存在だと思われる。紀子様の名誉を守るためにも、皇室のためにも、日本のためにも雅子さんの出自をはっきりとさせるべきだと思う。
「富田メモ」で、「真偽を確認する為に全文公開せよ」との声に、「皇太子妃の入室について書かれている部分があるから公開出来ない」という回答。反対の理由は、チッソ(雅子さん祖父)、男性関係の他に血筋も関係しているのでは、と言われている。当時のお妃候補の中で、家系図の無い家は小和田家のみ。宮内庁は皇太子の結婚にあたって小和田家の家系を公表し、興信所に身元調査を依頼した。そのとき、部落開放同盟は差別であるという申し入れを行っていた(ニュースにもなった)。わざわざ部落開放同盟が抗議。
小和田家
一代目 小和田金吉(生年月日、生地、両親不詳)
二代目 小和田毅夫
三代目 小和田恒
金吉の前は不明。金吉の父は道蔵匡利のはずだが、雅子さんの曽祖父金吉が道蔵匡利とはつながらない。宮内庁が公表した家系図は、金吉で終わっていて匡利の名前はない。この事実だけで、金吉は匡利の子供とは断定できない。あるいは金吉の両親(もしくは父)は不明か、表に出せないということがわかる。地方では割合先祖のことを調べることは、容易である。新潟で3代前までしかわからないということは、非常に不自然。雅子さんの皇室入りが決まったとき、3代前の小和田金吉の父親がわからなくて宮内庁が困り、小和田家が無理矢理でっちあげた家系図の元になったのが、同じ地域出身の小和田本家の家系図。小和田本家では、雅子さんの曽祖父金吉のことを「知らない」と言っている。
匡利の次男に、確かに金吉(A)なる人物はいる。その本物の金吉(A)と、雅子の曽祖父の金吉(B)が同一人物なのかは不明。お妃内定のときも、結婚の時も、本家筋の方は誰一人出てこなかった。本籍地の村上市から新潟へお墓を移すときも、金吉しか動かしていない。村上市ですら、よくわからないと言っている。「小和田新六から曽祖父金吉までは不明の点が多く、調査が待たれる」村上市の西真寺と新潟市の泉性寺の言うことにも、食い違いがある。
1 村上市西真寺住職、本荘長弘師の証言(現在は兵五郎夫妻と道蔵(匡利)の妻とその子供だけの墓がある寺)
「小和田家の墓について毅夫氏(明治31年生まれ)が新潟市の学校に在勤中、父金吉の墓のみを新潟市の泉性寺に移した」
「なぜ祖父の妻と子及び曽祖父夫妻の墓を残していったのか。普通移すときはそっくりもっていくものなんですがねえ」
昭和61年(1986年or1987年)11月 恒、毅夫の両夫妻が村上に来たが、ここに墓参していない。
2 新潟市泉性寺住職、広沢誠師の証言
「小和田家の墓は明治7年よりうちにあるが、金吉と兵五郎の墓はない。匡利(道蔵)の墓だけがあります。…30年くらい前に、毅夫さんが父金吉の墓をうちに移したということは、まったく知りません」
泉性寺の檀家談
お墓は奥の方に非常にみすぼらしいのが建っていました。それが、皇太子のところに嫁ぐのが決まったら、場所もいいところに移動して、大変立派なのが俄かに 建てられました。
3 ご成婚前の小和田家の墓参り
両親と娘が拝んだ墓は新潟市泉性寺にある「匡利(道蔵)の墓」であり、「小和田家の墓」ではない(昭和55年(1980)に小和田毅夫(恒の父)が、この泉性寺にある墓の台座だけを新調した結果、異様なツギハギの墓)。
4 金吉と妻竹野(旧姓熊倉)は毅夫の幼い頃別居し、金吉死亡後、竹野のお墓は所在不明。
5 専門家の意見
「一説に小和田金吉は小和田道蔵匡利の三男と伝えるも年代齟齬して審かならず、仮に小和田兵五郎の三男の系に継ぐ。おそらくは別流ならん歟」金吉が匡利の子なら匡利12~13歳の時に生まれた三男となり、有り得ない。一言でいえば「この小和田家ではない」と言っている。
6 新潟県村上市小和田本家の証言
TVでのインタビューにて老当主が、「あちらの小和田家とウチが親戚とは初耳。こちらでもいろいろ調べてみたがわからない」と答えた。
以上より
・「金吉の墓」または「小和田家の墓」の所在地が不明なのはなぜ?(再婚してない場合毅夫母の竹野の墓の所在も不明)
・毅夫は西真寺から泉性寺に父金吉の墓を移すと寺に言いながら、泉性寺にお墓を作っていないのはなぜ?
・泉性寺の小和田家の墓が「金吉の墓」又は「小和田家の墓」ではなく、「匡利(道蔵)の墓」なのはなぜ?
・仮に金吉が小和田兵五郎の三男なら、西真寺に兵五郎の墓を残したままで恒、毅夫が当地に来ても墓参りしないのはなぜ?
・毅夫氏自身はどの小和田のお墓に入ったのだろうか?
江戸時代、犯罪者予備軍の無宿者は、新潟の佐渡ヶ島の金山に送り人足として使役。明治維新で解放されたこの人らの戸籍や墓は?(ご先祖流れ者説)戸籍を誰かから入手した?戸籍売買?(ご先祖は日本人ではない説)金吉は認知されていない子だった?(私生児説)→母方から先祖はたどれるはず。同じ姓の墓をどこからか入手した?(捨て墓置き場から…説)(墓が個人名でツギハギな点と欠けている点がポイント)
先祖の墓参りをしない家なら、先祖を敬うしつけや教育を受けていないので、祭祀を無意味としか思えない雅子妃の態度にも合点がいく。
▼小和田金吉
・人物像は不明、名前の読みも不明(きんきち?かねきち?かねよし?すら不明)。
・どの読みでも「下級武士」の出とは考えられない(小和田家主張=武士)。
・墓がない(それほど昔の人ではない。恒氏の祖父である)。曽祖父の墓はあるのに?
▼つぎはぎの墓
墓石つぎはぎの理由→昭和55年(1980)に小和田毅夫氏(=小和田恒の父)が、この泉性寺にある墓の台座だけを新調。墓石には「小和田匡利墓」とある(個人名)→小和田家、ではない。墓石側面には「明治七甲戌年 七月二十八日 永代経金一圓」小和田匡利→新潟県村上市の小和田本家「分からない」回答。金吉の墓はどこの寺にあるのかわかっていない。村上市の西真寺には、小和田金吉の墓はない。移したはずの泉性寺にも、小和田金吉の墓はない。あるのは匡利の墓のみ。
皇室入りのため、急遽作られた家系図によると、金吉は道蔵の次男(1867頃出生)。そうなると、道蔵が14歳のときの子ということになる。しかも三男。14歳でもう2人(以上)の子??明治時代に生きていた金吉以前の戸籍が、存在しないというのは不可解。私生児もしくは捨子とも考えられるが、戸籍が存在しない出自とも考えられる。部落民と言う話もあるし、犯罪者、あるいは半島から新潟へ流れ着いて戸籍を買った、または奪ってなりすましたという話も出てくる。(成りすまし…元々戸籍を持たない人が、小和田家の金吉と言う人になりすましたということ)だから現実として、年齢が合わないなどのボロが出る。
後継ぎが居なかった小和田金吉の家系を利用してなりすます、このやり方で日本人になりすます朝鮮人は大勢居る。小和田金吉は村上の小和田家とはなんの関係もない。村上の士族小和田家が、村上をはなれて戊辰戦争に負けてちりぢりになったのは明治の初年。士族小和田家は、明治初年以前も調べがつく。問題は、小和田金吉が1867~1868年頃朝鮮で生れ、新潟に密航して住み着いたのは明治以後。だから宮内庁は、小和田家が1868年以前は何をやっていた人なのかわからないといったのは、事実隠蔽のためで、本当に士族なら村上を調べたらわかるのである。佐藤朝泰の「閨閥」という本に、小和田金吉の代からしか載っていない(川嶋家は高祖父の代までのっている)。
朝鮮から密航してきたX=金吉。
明治17年の村上鮭産育養所の漁業権者名簿(736戸)に、金吉氏の名前が初出となる。もちろんこの金吉は小和田道蔵の息子で、雅子の曽祖父の金吉とは別人。X=金吉は新潟の吏員になるために(戸籍のない密航者だから)、村上士族小和田匡利の息子金吉から家系図を購入し、士族に成りすまして朝鮮参加(朝鮮傘下の間違い?)の男が小和田金吉に成りすました。その証拠に、小和田家の世代の年齢があわない。婚約時代の墓前報告の写真によると、にわか作りの墓石の土台の上に、苔むした古くて小さな墓石がちょこんと乗っかっている。先祖の供養もしていないことが、ありありとわかる写真だった。
母方江頭
江頭という苗字だけで、ピンとくる人はいるかもしれない。エガシラ→エタガシラ ※全ての江頭さんがそうだというわけではない。江頭家は村上水軍につながる(と成婚時に発表)ので、さらに部落民に遡る可能性は高い。以前、雅子さんの母優美子さんのいとこで作家の江藤淳(本名江頭淳夫)が、自分のルーツ探しに九州へ行った。そこで知った現実に、相当のショックを受けたという。そこそこの家ならわざわざルーツを探さなくても、先祖のことなら代々受け継がれて聞いているはず。なおタレントの江頭2:50も親戚(2:50の方が本家筋)。
優美子さん父は豊(チッソ)、豊の父は安太郎。この安太郎が母親から青山の墓地に埋葬している。それ以前の墓地は不明とあります(結婚記念誌に記載)。江頭家の出身は九州ですが、不思議に父親のお骨は東京へは引き取っていない。彼は九州の自分の出自を恥じて、ひた隠しにしていた。また安太郎の妻米子が古賀家から嫁いで居るが、この古賀家も佐賀の阿弥陀寺にながい間、無縁仏として放置されていた。近年になってそれらの無縁仏を一箇所に集めて合祀されている。雅子さん祖父・嘉蔵は明治維新までは鍋島家の家臣だったとされるが、明治初年の佐賀藩侍着到(出勤簿)にその名はない。番太部落出身で「いわれなき差別を受け」、小学校の小使いの職にしか就けなかった江頭嘉蔵。息子の安太郎は、その出自を生涯ひた隠しに隠し、佐賀には一度も帰ることはなかった。
江藤淳は、今上陛下を雑誌で批判(1999年7月21日自殺)。「何もひざまずく必要はない。被災者と同じ目線である必要もない…」その叔父も自殺。遠縁の江頭2:50も精神を一時患った。
正田家は数百年遡れる名家、公家の血筋も入っている。川嶋家も会津藩士(藩士録にちゃんと載ってる家)&紀州の名士。小和田は不明。
海外誌
日本では今日、江戸の最下層民と皇室が縁組をするという異常事態。しかもその最下層令嬢が、実家の親とつるんで皇室を我が物にしようとする異常事態。許しがたいのは、その下賤な血のなせる業か、マスコミを使って皇室を攻撃する。国民を騙す。
1993年部落解放同盟の集会で沖浦和光が「小和田雅子さんの先祖は部落民」だと発言。その後、なぜか川嶋家同和説が広まった(何者かによって意図的に広められた)。川嶋辰彦氏は同和問題の研究もしていたので、いかにも信憑性をもって悪意のある噂が広められた。
そもそもは家柄ではなく、雅子さん本人と実家の行状が問題。雅子さんの先祖がたとえ部落出身でも、3代前から不明でも、公害企業の社長でも、父親が機密費横領でも、雅子さん本人がきちんとしていれば、両親、先祖のことであれこれ言われることはなかったはず。生まれが卑しい…という言い方をするべきではないが、他の皇族方の出自を捏造して貶めるのだから(このやり方、どこかの国に似ている)、事実をはっきりさせたくなる。
家系を乗っ取るということを、なんとも思わない一族。だから皇統も乗っ取ろうとした。女系、雑系にして、小和田墓のように、ツギハギにしようとした。恐ろしい。どんなに卑しい素性でも、とりあえず皇太子妃として入内を許されたのだから、身内も身を慎み、本人も謙虚な気持ちでまわりに教えを請うていれば、ここまでいろいろ暴かれることもなかった。あの一族全員がやることなすこと下品。出自なんて、本人の努力でなんら関係ないという見方もあるが、出自が悪いと育ちも悪いというのは否定できない。
※この文章は2006年9月17日に書かれたものです。(引用ここまで)
天皇に女系がいいというマスコミの調査対象分母に、外国人がかなりいる可能性があります。これについても。いつかブログで取り上げたいと思っています。ジャーナリスト水間政憲氏が靖国神社で、日本人のみを対象にした女系天皇に賛成か反対かの公開調査をしている動画を見ると、確か100人中97人ほどという圧倒的多数で男系男子を皇位継承者にすべきという意見です。
私は日本人でない人が日本の象徴となる事に合点がいきません。
つまり、天皇は日本人でないと、日本はいったい何処の国のものなのか?
という疑問が出てくるような事態となってしまうと思うのです。
日本人てある天皇が日本の象徴だから日本なのだという考えなのです。