秦谷美鈴と氷渡香名江はPを巡って静かに戦う
久しぶりに投げます。
何作品かYouTubeに転載されてて驚きました。某掲示板に投げたのは好きにしてくれていいんですが、Pixivにしか上げてないやつは転載しないでね。
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放課後の空き教室は、いつも秦谷美鈴のものだった。
誰も来ない、と本人は言う。実際には来ないのではなく、来た者がみな彼女の漂わせる気だるい空気に呑まれて、いつのまにか引き返してしまうのだ。
窓辺に寄せた机に頬杖をつき、午後の光そのもののように溶けて舟を漕ぐ――それが、この教室における彼女の定位置だった。
プロデューサーは、たいていそこに彼女を迎えに行く。
もっとも、二人がこうして同じ教室で時間を分け合うようになるまでには、それなりの道のりがあった。
秦谷美鈴を担当することになったとき、周囲はみな彼に同情した。中等部の頃、月村手毬たちと組んだユニットで初星No.1と呼ばれた実力。誰もがその才能を認めていた。けれど同じだけ、誰もが匙を投げてもいた。隙あらば眠り、全力を出すことを面倒がり、それでいて自分が誰より上だと信じて疑わない。傲慢、と陰で囁かれていた。秦谷美鈴に憧れた者は、その才能に夢中になって振り回されるか、やる気のなさに焦れて離れていくか、そのどちらかだった。
初顔合わせの日も、美鈴は中庭の芝生で昼寝をしていた。プロデューサーが名乗ると、彼女は起き上がりもせず、薄目で彼を見上げた。
「はじめまして。秦谷美鈴と申します。――貴方も、私の才能のお話をしに来たんですか。それとも、お説教ですか」
才能を褒めそやす者は、美鈴という人間ではなく、彼女の出す結果だけを見ていた。努力を説く者は、彼女の怠惰ばかりを見ていた。どちらも、美鈴自身のことは一度も見ていなかった。
プロデューサーは少し考えてから、同じように芝生へ腰を下ろした。
「いえ。今日は、ただ顔を覚えてもらおうと思って来ました。秦谷さんがどういう人か、俺はまだ何も知らないので。これから知っていきたいんです」
美鈴は、ほんの少しだけ目を見開いた。
それからのプロデューサーは、奇妙な担当だった。美鈴の才能をことさら持ち上げることはしない。かといって、昼寝を見つけても声を荒げて叱ることもしない。ただ毎日、彼女のところへ来た。来て、隣に座り、たわいない話をして、レッスンの時間になるとゆっくり起こした。それだけのことを、何日も、何週間も、飽きずに続けた。
「貴方、変わってますね」
とある日、美鈴は言った。
「私を、便利な道具みたいには扱わない。かといって、出来損ないみたいにも扱わない。……不思議な人」
「秦谷さんは、道具でも出来損ないでもないですから」
彼は当たり前のことのように答えた。
「ただの秦谷美鈴さんです。それ以上でも、それ以下でもない」
その言葉を聞いたとき、美鈴の中で、何かが静かに音を立てた。
ずっと、誰かにちゃんと見てほしかった。才能でも結果でもなく、ただ自分そのものを。その渇きの正体を、美鈴自身、長いあいだ言葉にできずにいた。それを、この生真面目なプロデューサーはこともなげに満たしてしまった。
満たされた瞬間に美鈴が感じたのは、けれど安堵ではなかった。
――この人を、手放したくない。
これまで誰にも抱いたことのない、剥き出しの独占欲だった。自分を見てくれる人を、二度と見失いたくない。離したくない。自分だけの場所に置いておきたい。
ファンに、ライブで私だけを見るように強く渇望する、あの感情とはまた違う独占欲。
敢えて重い言葉で表すなら、人生のパートナー、伴侶、配偶者にしてやりたいという願い。
そして美鈴は、そのための方法を、本能的に知っていた。
お世話をするのだ。お茶を淹れ、休ませ、構い、甘やかす。少しずつ、自分なしではいられないようにする。掴むのではなく、置いておく。気づいたときには、相手が動けなくなっているように。月村手毬への献身よりももっと深く。
それは献身の顔をした、囲い込みだった。
こうして秦谷美鈴は、お世話をする側に回った。生まれて初めて自分を見てくれた人を、自分の側に縛りつけておくために。
◇
そうして空き教室は、いつしか二人の場所になっていた。
「……あら」
その日も、ドアに手をかけた彼を、声が呼び止めた。眠っていたはずなのに、足音のひとつも聞き逃さない。それが秦谷美鈴という人だった。
「お探しでしたか。ふふ、いい勘ですね。私、こんなところに隠れていたのに」
「探しました。今日のレッスン、もう始まる時間ですよ」
「もう、そんな時間ですか」
美鈴はゆっくりと身を起こし、乱れてもいない髪を指で梳いた。サイドに編み込まれた白い花が揺れて、また静かに落ち着く。
「トレーナーさんがお待ちです。向かいましょう」
プロデューサーは感情の起伏の薄い声で言った。
美鈴を叱らないのではなく、叱る隙をいつも逃しているだけなのだが、彼女はそれを「許されている」と解釈するだろう。秦谷美鈴の世界では、たいていのことが彼女に都合のいい形で着地する。
「もう少しだけ、お休みしませんか」
彼が踵を返そうとすると、美鈴は上着の裾を指先でほんの少しだけ摘んだ。
力などまるで入っていない。振り払おうと思えば息ひとつで振り払える。
それなのに、彼は動けなかった。彼女の「お世話」は、いつもそういう摘み方をしてくる。掴むのではなく、置いておく。気づいたときには、こちらが動けなくなっている。
「貴方が一番、頑張っていますから」と美鈴は言った。「だから、私が休ませてあげないと。ね?」
休ませてあげる、と彼女は言うが、その机の上でいちばん休んでいるのは、どう見ても彼女自身だった。
「……五分だけ、ですよ」
「ふふ。優しい」
その日は、それで済んだ。当時の彼にとって秦谷美鈴は、手のかかる、けれど憎めない担当のひとりに過ぎなかった。自分が少しずつ、その甘い「お世話」の中に搦め捕られつつあることに、彼はまだ気づいてもいなかった。
◇
その頃、プロデューサーの担当には、まったく毛色の違うアイドルもいた。
倉本千奈。
倉本財閥の令嬢である。と言っても、本人にその気負いはまるでなく、むしろ逆だった。
彼女は人と繋がりたいという気持ちが、人の何倍も強い。誰かと手を取りたい、認め合いたい、同じ熱を分け合いたい――その渇望が、いつも彼女を前へ前へと押し出していた。
理由は、彼女の生い立ちにあった。
倉本家は仕事が何よりも優先される家だった。父も母も祖父も、財閥の重圧の中で、幼い千奈に目を向ける余裕を持たなかった。広い別荘の、広い子供部屋で、千奈は毎日のように泣き、喚いた。
誰も来ないと知りながら、それでも声を上げずにはいられなかった。
その泣き声を、ただ一人、毎晩あやし続けた者がいた。
氷渡香名江。
倉本家に代々仕える家系に生まれ、幼い頃からメイド見習いとして別荘に住み込み、千奈と同い年でありながら、そのお世話役を任されてきた少女だ。
彼女は千奈が泣けば駆けつけ、千奈が眠るまで傍を離れず、千奈が笑えば、自分のことのように、あるいはそれ以上に安堵した。
両親が与えなかった愛情の、ほとんど全てを、香名江が一人で肩代わりしてきたと言っていい。
倉本家には大勢のメイドがいる。けれど、千奈が名前で呼ぶのは香名江だけだった。そして、財閥の重鎮たちが名を連ねる「倉本千奈非公式ファンクラブ」――その会員No.9というひと桁の番号を、使用人でありながら香名江が得ていることが、二人の絆の深さを何より雄弁に物語っていた。
その千奈が、アイドルになった。
人と繋がりたい、という生来の渇きを、ステージという形で叶えようとしたのだ。そして彼女を担当することになったのが、このプロデューサーだった。
香名江が初めてプロデューサーの前に現れたのは、千奈がアイドル活動を始めて、ひと月ほど経った頃だった。
香名江による直談判の後からは、倉本家の人間は、千奈のなすこと全てを応援しており、アイドル活動も当然それに含まれていた。応援もやや加熱気味であり、全肯定マシーンと化していた。
千奈が信用した人は当然倉本家にとっても信用に値する人物であり、千奈が惚れた人はなんとしても全力で囲い込む。全肯定しているからこそ、令嬢がどこの馬の骨に育てられているのか、確かめようともしない。
だから、香名江が動いた。
誰に命じられたわけでもない。むしろ命じる者がいないからこそ、彼女が動くしかなかった。生まれてからずっと、千奈を守るのは自分の役目だと信じてきた。両親が見ない代わりに自分が見る。おかしくなった家の代わりに自分が確かめる。
それが、氷渡香名江という人間の、存在そのものの輪郭だった。
得体の知れない大人が、お嬢様の人生に深く関わろうとしている。それを放っておくことなど、できるはずがなかった。
校門の前で、彼女はプロデューサーを呼び止めた。
青みかがったロングスカートに、塵ひとつないエプロン。きっちりと結われた髪。年の頃は千奈と変わらないはずなのに、まとう空気だけが、いくつも年上のように張り詰めていた。
「プロデューサー、ですよね」
声は、磨いた硝子のようだった。冷たく、滑らかで、向こうがこちらを映している。
「お初にお目にかかります。倉本家に支えております、氷渡香名江と申します」
「ご丁寧にありがとうございます。倉本さんのプロデュースをさせていただいております」
「僭越ながら、この私も、倉本千奈非公式ファンクラブ会員No.9として、お嬢様との取次を担当しております」
会員、とプロデューサーは胸の内で繰り返した。番号まである。
「お嬢様のレッスン、いつもお世話になっております。――それで」
香名江は一歩、距離を詰めた。微笑んでいる。確かに微笑んでいるのに、目の奥の温度がまるで上がらない。
「ひとつ、確認させていただいてもよろしいでしょうか。貴方は、お嬢様を、どのようなアイドルになさるおつもりですか」
問いそのものは、プロデューサーとして当然受けるべきものだった。だが香名江の口ぶりには、面接のような、あるいは尋問のような、ひやりとした底があった。
これは挨拶ではない。査定だと、そう直感した。
「倉本さんは、人と繋がりたい気持ちが人一倍強い人です」と彼は、言葉を選びながら答えた。「だから、その気持ちが届くステージを、俺は作りたいんです」
「届かなかった場合は」
「……届くまで、一緒に考えます」
香名江はしばらく彼を見ていた。値踏みではない。もっと細かい、針の先で皮膚を確かめるような見方だった。
嘘がないか。口先だけではないか。お嬢様を、この男に預けて、本当に大丈夫なのか。
彼女の目は、その一点だけを測っていた。
やがて彼女は、すうっと頭を下げた。
「結構です。今のところは」
今のところは。その四文字を残して、香名江は去っていった。スカートの裾は、最後まで一度も乱れなかった。
合格でも、不合格でもない。猶予を与えられたのだ、とプロデューサーは理解した。これから先、自分はずっと、この氷のような少女に見られ続けるのだろう、と。
その予感は、正しかった。
◇
それからの香名江は、千奈の付き添いという名目で、たびたび学園に顔を出すようになった。
最初のうち、彼女の目的は明快だった。観察である。
プロデューサーがお嬢様にどう接するか。お嬢様が消耗していないか。約束を違えないか。言葉と行動が一致しているか。彼女はそれを、まばたきの少ない目で、ひとつひとつ確かめていた。
そして、確かめれば確かめるほど、香名江の予想は裏切られていった。
このプロデューサーは、千奈を財閥の令嬢として扱わなかった。媚びもしない。けれど見下しもしない。ただ、ひとりのアイドルとして、ひとりの人間として、千奈の言葉に耳を傾けた。
レッスンでうまくいかず千奈が落ち込めば、慰めるより先に、何が難しかったのかを一緒に考えた。千奈が小さく前に進めば、大げさに褒めるのではなく、確かに見ていた、という事実だけを、静かに伝えた。
そして何より、千奈が変わっていった。
繋がりたいと願うばかりで、いつも空回りしていた少女が、少しずつ、本当に人と繋がり始めていた。他のアイドルと笑い合い、ファンの声に応え、ステージの上で、生まれて初めて「ひとりではない」という顔をするようになった。
香名江は、それを袖から見ていた。
嬉しかった。お嬢様が笑っている。それは、香名江が生涯をかけて願ってきた、ただひとつの祈りそのものだった。だから、嬉しかったはずだった。
なのに、胸の奥に、説明のつかない、冷たい澱が溜まっていく。
これまで、泣くお嬢様をあやせるのは、自分だけだった。眠れぬ夜に手を握れるのは、自分だけだった。
広い別荘の、誰も来ない子供部屋で、唯一そこにいたのは、自分だった。
「私がいなければ、お嬢様は」――それは香名江にとって悲しい事実であると同時に、自分という存在を支える、たったひとつの柱でもあった。
その柱に、ひびが入っていく音がする。
お嬢様には、もう、自分以外の手が届く。自分以外の声が、届く。
それは祝福だ。頭では、わかっている。だが、では――その手が届かなくなった自分には、いったい何が残るのだろう。
香名江は、生まれてから一度も、自分のために何かを欲しがったことがなかった。欲しがる、という感情の使い方すら、知らずに育った。彼女のすべては「千奈お嬢様のため」という一語に収斂し、その外側に、氷渡香名江という人間の輪郭は、存在しなかった。
だから、最初は気づかなかった。
自分の目が、いつのまにか、千奈ではなく――プロデューサーを、追っていることに。
◇
決定的だったのは、ある雨の日のことだった。
レッスンが長引き、千奈は先に車で帰っていた。
香名江は千奈が忘れた台本を受け取るべくひとり学園に戻っていたのだが、学園に到着すると同時に雨が降り始め、帰ろうにも帰れずにいたのだった。
雨脚は強く、軒下で迎えの時間を待つよりほかない。
傘は、千奈に持たせていた。自分の分は、いつものように後回しにしていた。
そこへ、プロデューサーが通りかかった。
彼は香名江を見つけると、少しの逡巡のあと、自分の差していた傘を、彼女に差し出した。
「使ってください」と彼は言った。「俺は走れますから」
香名江は、その傘を、すぐには受け取れなかった。
「……結構です。私のような者に、お気遣いは無用です」
「氷渡さんが濡れて帰ったら、倉本さんが悲しみます」彼はそう言ってから、少し言い直した。「……いえ。それもありますが。氷渡さんがいつも自分の傘を誰かに渡して、それでいて自分は濡れて帰る人だっていうのは、見ていればわかります。今日くらいは、受け取ってください」
雨の音が、やけに大きく聞こえた。
氷渡さんが――と、彼は言った。お嬢様の付き添いの誰かが、ではなく。倉本家のメイドが、でもなく。
氷渡香名江という、ひとりの人間が、いつも自分を後回しにしている。それを、見ていた、と。
生まれて初めて、誰かが、自分そのものを見ていた。
千奈の影としてではなく。役目の延長としてではなく。氷渡香名江という人間を、見て、案じる者が、この世にいた。
香名江は、傘を受け取った。礼を言う声が、ほんの少しだけ掠れた。
その夜、彼女は眠れなかった。理由を自分でも掴みあぐねていた。胸の奥で、ずっと凍ったまま動かずにいた何かが、溶け出そうとして軋んでいる。その軋みが、痛いのか心地よいのか、彼女には判別がつかなかった。
これは、お嬢様への忠義とは、別の何かだ。
そう気づいたとき、香名江はたまらなく恐ろしくなった。
自分のために、何かを欲しがってしまっている。生まれて初めて。よりにもよって、お嬢様の人生を預けている、その相手を。
許されることではないと思った。これは裏切りだとも思った。けれど、思えば思うほど、その人の姿を目で追ってしまう自分がいた。
だから彼女は、自分に嘘をつくことにした。
これは、査定の続きだ。お嬢様を任せるに足る人物かどうか、まだ見極めが終わっていないだけだ。
だから、もっと近くで、見なければならない。もっと頻繁に、確かめなければならない――
そう言い訳をして、香名江がプロデューサーに接触する回数は、目に見えて増えていった。本人だけが、その理由の本当の名前から、目を背け続けていた。
◇
秦谷美鈴の方も、自分の領分に踏み込んでくる氷のように冷たい気配を、はっきりと感じ取っていた。
ある日の放課後。例によって美鈴が空き教室で微睡んでいて、プロデューサーがそれを起こしに行ったとき、入り口に香名江が立っていた。
「……あら」
眠っていたはずの彼女が、ゆっくりと顔を上げる。
「お客さまですか、プロデューサー。珍しいですね、ここに人が来るなんて」
「お邪魔をいたしました」香名江は慇懃に一礼した。「プロデューサーをお探ししておりましたところ、こちらに、と伺ったもので」
「私のところに、ですか」
美鈴は頬杖をついたまま微笑んだ。世話を焼くときの、甘い顔だった。
「ふふ。困りますね。この人、ちょっと目を離すと、すぐ無理をするんです。だから私が、ここで休ませてあげているんですよ」
「左様でございますか」香名江の声は平らだった。「プロデューサーともあろう方が、お休みを必要となさるとは。お疲れなのですね」
「ええ。とても。だから――」
「でしたら、お仕事をお返しいただくのが筋かと存じます。お休みは、休むべき方が、休むべき場所で取るべきものでしょう。教室の机で、担当アイドルに奉仕させて取るものではございません」
美鈴は、ことん、と首を傾けた。
「奉仕、なんて。私がお世話したいからお世話しているんですよ」
「ええ。存じております」と香名江は言った。「それが厄介なのです」
ふたりの間で、プロデューサーは完全に置物だった。かろうじて口を挟む。
「あの……香名江さん、何かご用でしたか」
「お嬢様の次回スケジュールの件で、ご相談を。――ですが」
香名江は、美鈴の方をちらりと見た。
「先約がおありのようですので、出直します。失礼いたしました」
そう言って、彼女は退いた。退いたのに、退いた気がまるでしなかった。
ドアが閉まる。美鈴は、ふう、と小さく息を吐いた。
「……不思議な方ですね」
「氷渡さんですか」
「ええ。氷みたいな人」彼女は目を細めた。眠そうな、いつもの目に戻っている。「でも、ああいう人ほど、芯が熱いものですよ。何かを、ものすごく大事にしている目をしていました。――それから」
美鈴は、机に頬を寄せ直した。
「……いえ、やめておきましょう。考えすぎかもしれません」
「そうですか……?」
その意味が、プロデューサーには分からなかった。
◇
それからの数週間を、どう言葉にすればいいだろう。
表向き、何も起きていなかった。香名江はあくまで丁重で、美鈴はあくまでのんびりしていた。誰の声も荒げられなかったし、誰の眉も吊り上がらなかった。けれど、プロデューサーの周りの空気だけが、確実に冷えたり、甘く粘ついたりした。
夜遅くまで資料をまとめていると、机にそっと温かい湯のみが置かれる。美鈴だった。
「飲んでください。実家から送られてきたお茶です」
「これはどうも。ありがとうございます」
「……ふふ。これで貴方はもう、私のお茶なしでは眠れなくなりますよ」
冗談めかしているのに、目だけが本気だった。
それは、彼女のやり方だった。世話を焼くことで、自分の存在を相手に深く刻みつける。自分なしでは立ち行かないようにする。秦谷美鈴の「お世話」には、母性も献身も含まれてはいるのだろう。
けれど、その大半を占めているのは、まぎれもなく独占欲だった。
彼女は、手毬を、ファンを、そしてこのプロデューサーを――欲しいと思ったものすべてを、自分のものにしたいと願う人だった。
また別の日には、事務所のポストに栄養を完璧に計算したという作り置きの容器が、付箋つきで並んでいた。
誰のものかは一目で分かる。隅々まで隙のない、几帳面な文字。
『お嬢様の付き添いのついでです 作りすぎたのでどうぞ ご遠慮なく 氷渡』
ついで、と書いてある。けれど、千奈の付き添いがない日にも、それは届いた。
香名江自身、その矛盾に気づいていないわけではなかった。気づいていて、気づかないふりをしていた。これは査定の一環だ。プロデューサーが健やかでなければ、お嬢様のプロデュースに支障が出る。だから、栄養を管理しているだけだ――そう、自分に言い聞かせながら、彼女は今日も容器に手作り料理を詰めた。
プロデューサーは、二人の間で、せっせと食べさせられ、飲ませられていた。
温かいお茶と、栄養満点の作り置き。蜜のような甘さと、氷のような律儀さ。まるで違う二つの「お世話」が、彼を真ん中に挟んで、音もなく拮抗していた。それは、献身の形をした、静かな綱引きだった。
◇
そして、二人の温度が、初めて正面からぶつかる日が来た。
合同レッスンの日。千奈や美鈴はもちろん、数人のアイドルが同じスタジオで汗を流した、その帰り際。
プロデューサーが忘れ物のタオルを取りに戻ると、誰もいないはずのスタジオに、二人の声が響いていた。
美鈴と、香名江だった。
彼は入り口の手前で足を止めた。立ち聞きする気はなかった。けれど、最初の一言で、足が動かなくなった。
「――単刀直入に伺います」香名江の声だった。氷の声が、いつもより低い。「秦谷さん。貴女はプロデューサーを、どうなさるおつもりですか」
「どう、とは?」
美鈴の声は、いつもと変わらない。ゆったりと、眠たげに。
「お世話、お世話と。あれは、献身ではございませんね。あれは――囲い込みでございます。お一人の人間を、ご自分なしでは立ち行かないようにする。そういう手口を、私は存じております」
「あら。お詳しいんですね」
「私の家には、そういう手合いが、掃いて捨てるほど出入りいたしますので」
少しの沈黙。それから、美鈴の低い笑い声。
「ふふ……ふふふ。面白い人ですね、貴女」
「面白がっていただかなくて結構です」
「だって、可笑しいんですもの。貴女それ、まるごとご自分のことを言っているでしょう」
タオルを取りに戻る、という口実を握ったまま、プロデューサーは扉の陰で凍りついていた。
「氷渡さん。私、ずっと見ていましたよ。貴女が倉本さんを見る目。それから――最近、プロデューサーを見る目。あれは、お世話をする人の目じゃありません。あれは、手放したくない人の目です」
「……何を根拠に」
香名江の声が、初めてほんの僅かに揺れた。
「根拠なんて。同じ目をしているから分かるんです」
美鈴は静かに言った。甘い声で、けれど一切の遠慮なく。
「貴女、自分でも気づいているでしょう。お嬢様のため、お嬢様のためって何度も言い聞かせて。でも本当は、もう別の理由で、あの人のところへ通っている。違いますか」
長い沈黙があった。それが、何よりの答えだった。
やがて香名江は、その動揺を氷で塗り固めるように声を低くした。まるで自分自身に言い聞かせる宣誓のようだった。
「……仮にそうだとしても、私の役目は変わりません。私は、千奈お嬢様を支えてくださる信頼に足るプロデューサーを必要としております」
「……そうですね。私にも、とっても必要です」
「……貴女のような方の手であの方の判断が曇らされ、お嬢様が蔑ろにされるのを見過ごすわけにはまいりません。――ですから、プロデューサーからお離れください。これは、お願いではございません」
それは半分は本心で、半分は鎧だった。お嬢様のため、という大義の後ろに、彼女は自分でも持て余している我欲を隠していた。生まれて初めての、我欲を。
返ってきた美鈴の声は、ぞっとするほど穏やかだった。
「ねえ、氷渡さん。お嬢様のため、っていうの、もう少し上手に使った方がいいですよ。本当の理由を隠す盾にすると、その盾はいつか、貴女自身を刺しますから」
「……」
「それに、ひとつだけ教えてあげましょう。――私、欲しいものは、まだ一度も手放したことがないんです」
プロデューサーはそっとその場を離れた。背中に、二人の温度差が刺さっていた。蜜と氷のような形は正反対なのに、ぶつかり合うその熱だけは、不思議なほどよく似ていた。
◇
倉本千奈は、何も知らなかった。それがせめてもの救いだった。
プロデューサーは千奈のレッスンが好きであった。いつも一生懸命で、頑張り屋で、ぷにぷにで可愛いのだ。
「香名江が、最近ちょっと、元気がないんですの」
レッスンの合間、千奈がぽつりと、プロデューサーに言った。
「夜、わたくしが寝たあとも、ずっと何か考えごとをしているみたいで……」
「……なるほど」
「わたくしのために無理をしているんじゃないかって、心配で。香名江は、わたくしのことになると何でも背負っちゃうんですのよ。小さいころから、ずっと。わたくしが泣くと、いつもあの子だけが来てくれて……だから」
千奈は、少し言い淀んでから、続けた。
「だから、あの子が、わたくしのためじゃなくて――あの子自身のために何かを欲しがってくれたら。わたくし、すごく嬉しいんですの。叶わなくたっていい。欲しいって思ってくれるだけで、いいんですわ」
その横顔を見て、プロデューサーは、ようやくいくつかのことが繋がった気がした。
香名江が自分に向ける、あの刃のような執着。お嬢様のためと繰り返しながら、その実、付き添いのない日にも届く作り置き。あれはたぶん、生まれて初めて彼女が「千奈のため」という鎧の外で掴もうとした、たったひとつの不器用な我欲なのだ。
そしてそのことに誰より戸惑い、誰より怯えているのは、香名江自身なのだった。
奇しくも――それは、千奈が誰より願っていたことでもあった。香名江が、自分自身のために何かを欲しがること。
ただ、その「何か」がよりにもよって自身のプロデューサーであることまでは、千奈はまだ知らずにいた。
◇
一方の美鈴は、相変わらずだった。空いた時間に、プロデューサーと共に空き教室でゆっくりと時間を経過させていた。
その夜、窓の外には月が出ていた。
「ねえ、プロデューサー。私、欲張りなんです。昔から。まりちゃんのことも、ファンの皆さんのことも、貴方のことも、ぜんぶ私のものにしたいって思ってしまう……重たい女でしょう」
「……知っています」
「ふふ。知っているのに、逃げないんですね」
美鈴は振り向いた。月明かりで、その目が、いつもより少し寂しそうに見えた。
「私がどうしてアイドルになったか、言ったことありましたっけ。――昔、まりちゃんと一緒に、あるアイドルのライブを観たんです。その人がステージに立った瞬間、まりちゃんの目はその人にぜんぶ持っていかれて。私の方なんて、一度も見なかった」
彼女は、窓の外の月を見上げた。
「私、思ったんです。あの場所に立てば、まりちゃんは私を見てくれる。まりちゃんだけじゃない。世界中の人が私を見てくれる……私のアイドルの始まりは、それだけなんですよ。傲慢でしょう。呆れました?」
「いえ」
「あの氷渡さんに、邪魔って言われて。私、少し嬉しかったんです。だって、邪魔だって思うってことは、私のことをちゃんと見てくれているってことでしょう。私、見てもらえないのが一番嫌いなんです」
その言葉に、プロデューサーは何も返せなかった。
秦谷美鈴の傲慢さも独占欲も、根っこは同じ場所から生えている。「私を見て」という、たったそれだけの剥き出しの渇きから。そしてたぶん香名江もまた、別の形をした同じ渇きを抱えている。ずっと「千奈お嬢様のため」という鎧の下に本当に欲しいものを押し込めて、自分の渇きの名前すら知らずに来た人だ。
二人は似すぎていた。似すぎているから、どちらも引けないのだった。
◇
決着めいたものは、思いがけない形でやってきた。
千奈のオーディションの日。会場の控室で、トラブルが起きた。衣装の配送の手違いで、本番に間に合わない可能性が出たのだ。
千奈の顔から見る間に血の気が引いた。人前に立つ直前の崩れ方を、プロデューサーは知っている。繋がりたいと願う気持ちが強い分、その糸が切れかけたときの脆さも人一倍だった。ここで支えなければ、すべてが台無しになる。
彼が動くより早く、香名江が動いた。
「お嬢様。落ち着いてくださいませ。代わりはこの香名江が、必ず」
けれど、その香名江の手もわずかに震えていた。彼女もまた、千奈の崩れる姿に平静ではいられなかった。十数年この子の涙を止め続けてきた手が、今、間に合わないかもしれない。その恐れが、いつも完璧な彼女の指先を初めて鈍らせていた。
そのとき。
「――こちら、使ってください」
ふわりと声がした。
美鈴だった。出番の早かった彼女は、自分の衣装をすでに脱ぎ、予備の一式を腕にかけて、いつのまにかそこに立っていた。
「サイズ、たぶん合いますよ。倉本さんと私、身長こそ違いますが、体型は近いですから」
「……秦谷さん」香名江が、息を呑んだ。「なぜ、貴女が」
「だって」と美鈴は、いつものゆったりした調子で言った。「困っている子を見過ごすなんて、できませんから。私、お世話が好きなんです。知っているでしょう?」
そして彼女は香名江の方を見て、ほんの少し悪戯っぽく付け足した。
「それに、ここで倉本さんが転んだら――貴女はしばらく、私のことなんて構っている暇がなくなっちゃうでしょう。それでは、つまらないので」
香名江は、しばらく言葉を失っていた。それから震える手で衣装を受け取り、深く深く頭を下げた。
「……この御恩は」
「恩なんて。当然、貸しです」美鈴は微笑んだ。「貴女から取り立てるの、楽しそうですから」
千奈のステージは間に合った。繋がりたいという一心で歌う彼女の声は、その日、客席の隅々まで届いた。袖で見守る香名江の目に、光るものがあった。隣に立つ美鈴は、相変わらず眠そうに、けれど確かにまっすぐ舞台を見つめていた。
◇
ステージが終わったあと、控室の前で、二人はもう一度向かい合った。
「……勘違いなさらないでください」
香名江が言った。
声には、いつもの冷たさが戻っていた。けれど、その氷は以前より少しだけ溶けているようにも感じた。
「先ほどの件と、これとは別でございます。私は、貴女を認めたわけではありません。プロデューサーから離れろという話も、撤回いたしません」
「ええ。知っています」と美鈴。「私も、離れる気は、ありません。――でも、ひとつだけ」
美鈴は、めずらしく、まっすぐに香名江を見た。
「貴女が、自分の欲しいものに自分で気づける日が来たら。そのときは、ちゃんと正面から勝負しましょう。倉本さんの盾の後ろからじゃなくて。――その方が、きっと貴女も楽になりますよ」
香名江は何も答えなかった。否定も、しなかった。
その沈黙の意味を、たぶん二人ともわかっていた。
そして二人は、にこやかに笑い合った。笑い合いながら、火花を散らしていた。
その真ん中で、プロデューサーはおそるおそる口を挟んだ。
「……あの」
「黙ってください」
「お黙りください」
声がぴたりと重なった。まるで温度の違う二つの声が、その一瞬だけ、完璧に同じ言葉を口にした。
そして二人は、自分たちがハモったことに気づいて、ほんの一瞬、気まずそうに目をそらした。
「……今のは、忘れてください」
「……同感でございます」
夕暮れの廊下に、二人の足音が別々の方向へ遠ざかっていく。
似た者同士の終わらない綱引きは、まだしばらく続きそうだった。
けれど、その片方の端を握る氷の少女が、生まれて初めて、自分自身のために何かを掴もうとしている――それだけは確かだった。たとえ本人が、まだその手の中のものの名前を認められずにいるのだとしても。
そしてその真ん中で、プロデューサーは温かいお茶と栄養満点の作り置きを、これからも交互に食べさせられ続けるのだろう。困ったことに、それも悪くないと思っている自分がいた。
月が出ていた。
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