Any
6/27に開催される学園スターフェスティバル03で頒布される氷渡香名江親愛度コミュ捏造小説「Any」のサンプルになります
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「今、なんと?」
「あ、あわわわわ…………」
「倉本さん、改めて……落ち着いて聞いてください。何度でも説明しますので。俺としてもこんなことは本意じゃない……ですが……香名江さんも、どうか落ち着いて……ああいや、まあ……こうなるよな…………」
欠片ほどの汚れもないラウンドテーブルがかたんと揺れる。淹れた紅茶も冷めやらぬうちに、この男は。珍しく陽が射す昼下がりは剣呑さが吹き散らし、助走をつけかけた私の一歩目が制止されなければ、少し早い春荒れを起こすことも吝かではなかった。天を仰いでいる場合か。百面相の千奈お嬢様を放っておいて。
この一年の、曲がりなりにもお嬢様を支える同僚として、プロデューサーの働きぶりは認めている。彼は一人のアイドル、倉本千奈を。私は、倉本家の千奈お嬢様を。双方向から、各々が可能な限りのバックアップを行ってきた。ときに無謀を、たまにではない無茶を、危なっかしさが常の影踏みを強いられた日々。急に紹介され彼が現れたときは、いくら大旦那様の推薦とはいえ警戒したものだが、実際プロデューサーのあまりの奇想天外さに眉を顰めることも決して少なくはなかった。しかし彼のお嬢様を想う気持ちは本物であって、ならばと協力は惜しまなかったし、結果的には充実した日々であったと思う。なによりもその結果が、数ヶ月前のHIFであり、今私たちが目の前で戴く、尊き一番星なのだから。
だからこそ。だからこそ今回ばかりは我慢ならない。
彼は今、なんと言った?
「──倉本さん。俺は今日から、あなただけのプロデューサーを卒業しなくてはならなくなったんです」
「……香名江? せ、先生がおかしくなってしまわれましたわ……?」
錆びついたドールのような関節の動きで、蒼白の彼女は私に向く。私の足を進ませるのに、それ以上は不要だった。
「ええ。聞いておりました。やはり待てません。プロデューサー、千奈お嬢様を脅かすのも大概にするようにと――」
どうせいつもの如く、感受性が豊かなお嬢様の反応を面白がっての言葉遊びか、もしくはやや露悪的に事実を切り取って伝えているだけだ。そう確信し、プロデューサーに詰め寄った。これもいつものように睨みを利かせればきっと、すみませんとすぐに種明かしをするのだろう。そう、思っていた。
「聞いてください」
それが半ばルーティンになりつつあったことは否定しない。彼の荒唐無稽を私が窘め、お嬢様が胸を撫で下ろす。お嬢様が涙を浮かべたり、キャパシティを超えた様子を見せない限りは、私とて常に目くじらを立てるようなことはしない。だから、何度も繰り返されたそのワンセットに、私は確かに馴染みを覚えていた。
つまりお嬢様のあの表情は、この怒りが本物であることの証左で。そしてそれが片手で制されたことが、しっかりと私を打ち据える瞳が、これは冗談で済む話ではないと心得させられてしまう。
「香名江……」
なら、このやるせなさはどこへ置けばいい。アイドル倉本千奈としての在り方について、私は口を挟めない。駆けた足跡をそのまま辿って、部屋の隅に佇むしかないのか。退く足の重さを、唇をきつく結んで無理に御する。
「そのままここに居てください……あなたにも、大きく関わる話です」
「……私、ですか?」
私に? 意味がわからない。今日はいつに増してわからない。アイドルとプロデューサーと、役者はもう揃っている。己の無力に嫌気が差しそうだというのに、これ以上どんな恥を晒せと言うのだろう。
空の拳を握ったところでなにも変わらない。黙ってそれを甘受し、次の言葉を待つ。そんな私を一瞥し、彼はすぐにお嬢様の方へ向き直った。
「……ここでは一度、あなたを一番星と呼びましょう……世間から見たあなたと俺は、デビュー一年で快進撃を遂げた大型新人アイドルと、その敏腕プロデューサーという立ち位置にあります。ここまでは大丈夫ですか?」
「は、はい!」
「あなたが一番星として煌々と輝き続けることになんら問題はありません。ぜひその調子でお願いします……しかし、ここで問題になるのは俺の方なんです」
「先生に問題などありませんわ!」
「……ありがとうございます。ですが、業界から見た俺は、大問題児なようでして」
「……と、仰いますと?」
「やりすぎてしまったんでしょうね。もちろん後悔などしていませんが。俺は比較的若い年齢や学生という身分に対して、頭三つほど抜けた実績を得てしまった。そんな未来のヘッドプロデューサー候補を、業界としては放っておけないのです」
慢心や驕りは感じられない。ただただ相対するものへの強大さに起因する諦念だけ。
考えてみれば至極当然で、一年で一番星を擁立し、しかもバックに財閥がついている学生プロデューサーが、一体この世に何人いるのだという話だ。
「つまりは、たった一人のプロデュースに俺のリソース全てを費やすことが、もう許されなくなってしまった……そういうフェーズに、至ってしまった。次々とアイドルの卵が発掘され、絶えず孵っては羽ばたいていくこの世界の、受け皿の一つになれと……そういうことのようですね」
「先生…………」
少し俯いた彼の拳の丘陵が顕在化する。
私はこの業界に明るいわけではない。それでも聞き及ぶ、たった一人で三十人やら、あまつさえ百人規模でプロデュースし、結果を出し続ける猛者もいるのだと。この男がそうなるかはさておいても、確かにそれが機会の損失、利益の停滞と捉えられるのも、理屈としては頷ける。
しかしそれは。
「……失礼。やはり、黙って聞いている話ではありません。よりにもよって、私の前でそんな……」
そんなことは、私には関係ない。千奈お嬢様の幸福を切に願い、その為にのみ実行する。それが私だ。彼女の信頼を、そんな建前ごときで裏切ろうというのなら───
「あなたの前、だからです」
「……先ほどから、やけに私を意識されているようですが。私には、あなたがなにを言いたいのか、まるで理解できません……らしくもありません。いつものように結果から仰ればよろしいでしょう」
らしくないのは自分の方。苛立つ理由も対象も明確だけに、慣れないこれの手網の所在をを探り続ける。
「もう少し、順を追って話をしたかったのですが……仕方ありませんね」
お嬢様と私に順繰りに目を合わせた彼が、意を決したように立ち上がる。
「次の課題は学園長からです……『一番星を喰らう器を育て、且つ一番星の輝きを恒久的なものにせよ』……はぁ、全く、無理難題を言ってくれます……しかし、断れないのならやるしかない。そして俺の考えるその器こそが……香名江さん、あなたです」
は?
「───は?」
「──────か……先生⁉」
きっと私たちを気遣って、両手の動きでふためいていたお嬢様が、今日一番の仰天を上げる。私だってそうだ。私よりも驚いているお嬢様がいなければ、感情の天秤の振れる先がどうなっていたことか。
それにしても、それにしてもだ。一周回って言葉が出ない。一番星を、千奈お嬢様を喰らう器を育てろ、その命令を張本人に下す逸脱を差し置いても、それに私を指名するのなら、その方が余程どうかしている。仮に学園長の当てつけのつもりでもないと、そうはならないだろう。だがエイプリルフールはもう少し先のことで、しかも彼の真剣の証明さえ済んでしまっている。
「……今ならまだ、笑ってさしあげることもできますが」
「本気ですよ」
「先生! 先生‼」
「はい、倉本さん」
「それはつまり――香名江がアイドルになる……ということでしょうか⁉」
深い傾き。
行ったり来たりを繰り返すつぶらな瞳。
なにも変わらない。お嬢様とミーティングをしているときと。偶のお茶会のときと。絶えない平静がそこにある。おかげで少しは冷静になれた。考えてみれば、そんなことが不可能な理由など、サッシに溜まる埃よりも容易く降ってくる。話にならない。端から感情を乱される必要すらないではないか。
「大旦那様がお許しになるはずがありません。お嬢様専属の任を解くなど……」
「快諾でしたよ。寧ろ倉本さんが大半の時間を過ごす学園内での世話係を兼任させてはどうかと提案までされました。個人的にはアイドルに専念していただきたいところではありますが……」
待ってましたと言わんばかりに、プロデューサーは令状の如くコピー用紙を広げる。まごうことなき倉本の判はあざ笑うような深紅であって。
「……‼ お嬢様の学園生活を……なるほど、考えましたね……」
その悪魔的な提案は、燻る怒りの鉾を刹那でも収めるに足るものだった。
「いえ、話はまだ始まってもいません……」
垂涎が引っ込む。入れ替わりで再び刃先が飛び出す。
「……こほん。そもそも私に入学資格はないはずですが」
「特例です。編入試験は受けてもらいますが」
「……だとしてもその場合、私はお嬢様とは学年違いになりますよね?」
「それも特例です。合格の暁には、同クラスの編入まで確約を取り付けています」
「新学期まで二ヶ月弱。それで他のメイドへの引継ぎと編入試験の用意を?」
「前者は二週間、残りを後者に。いけますか?」
「っ……一週間で十分です」
ノータイムで口をついた反抗心に、しまったと内心毒づく。
「好都合。その後は早速レッスンです。試験のタイミングは入学ギリギリまで延ばしてもらえました。先の学年の件もですが、こればかりは倉本の力を借りざるを得ませんでしたが」
一切滞りのない問答は、私の弾切れで中断する。
要は、私の意思以外のすべてが揃っているということだ。話にならないのは私の方だ。目の前の男がこういう人間だったことを、私は知っていた。改めて認める。彼が根っからのプロデューサーだということを。
だから敬意を表し、最後のピースとしてNOを突き付ける。この話の欠点は、その唯一たる私の意思が最も重要であるということ。よく回る口車ではあったが、黙って乗せられるなどしてやるものか。色々並べ立てられはしたが、それでお終いだ。
なぜなら、なによりも、最も気に入らないのが───
「いいえ、やはり有り得ません。私にお嬢様を超えろなどと……!」
お嬢様。千奈お嬢様。私の大切で、最愛。あなたの居場所を守ることこそが、私の使命。そんな方を、いち従者たる私に超えてみせろと?
「超えろと言って超えられるような優しい壁を用意したつもりなど微塵もありませんよ」
「言葉遊びをするつもりはありません」
「それならもう一つだけ断言しましょう。倉本さんは――倉本千奈というアイドルは、俺の知る限り、最強のアイドルです」
破綻している。矛盾している。私の言葉が届いているのかどうかすらわからない。それなのに、話の主導を握れない。この話を聞かなければならないと、この強制力はどこから来ているというの?
「せん、せい……」
「それに比肩する存在になれというのは、新人アイドルに課す命題としてはあまりに重すぎる……その自覚はあります。ですが同時に、これはあなたにしか務まらないとも確信しています」
いい加減にしてください、と叫べなかったのは、感涙に耐えるお嬢様が隣にいたから。
「……もう少しだけ聞いてください。これは倉本さんのためでもあるんです」
「わたくしの……?」
彼の口から最も多く聞いた台詞のひとつ。
これをされると、どんな一縷であろうと私は聞きに回らなければならない。どんな思惑があれ、彼もまたお嬢様を第一に動く人間ということだけは信じているからだ。拒絶だけ忘れずに備え、続けるよう促す。
「もしあなた以外の……そうですね。来年の新入生から見込みのある生徒を器として育て上げたとしましょう。そうして二人目の優秀なアイドルが生まれたなら、次はどうなると思いますか?」
今プロデューサーが置かれている状況と照会する。一人ならばまだまぐれで通る実績が、二人になればもう言い逃れはできない。その才は本物ということになる。
「……すぐに三人目、四人目の担当を受け持つことになる、でしょうか」
「正解です。そうすればいよいよ、俺は倉本さんの傍に居られなくなってしまう」
「そ、それは……とても淋しいこと、ですわね……」
「ええ、全くです。ですが仮に、同じプロデューサ―が育てた二人のアイドルが、どちらも倉本の身内であったなら、どうでしょう?」
ようやく、話の輪郭が見えてきた。末恐ろしい。どの口でこればかりは、と宣っているのだろう。
「……ど、どうなるのでしょう……?」
「事情を知らない者からすれば、プロデュースそのものが内輪での事業の一環になる、ということです。つまりは、倉本の関係者しかプロデュースはしない、そう印象を操作すると仰りたいのでしょう……牽制としては、悪くない手かと思われます」
倉本の関係者しかプロデュースしない、完全にそう誤認させることは難しい。だがその門を叩く人間が減ることは確実だ。
「その通り。それだけ足止めができれば、あとはどうとでもなります」
それも大口ではないのだろう。
その共通認識を以て、プロデューサーは再びお嬢様に向く。
「それだけではありません……倉本さん。今から、少しだけ厳しい話をします」
「わかりましたわ、先生。先生のお言葉ですもの。きっと、わたくしを想ってのことなのでしょう? 一言一句、聞き漏らしませんわ!」
お嬢様の信頼を担保に、一度私も口を噤む。
「ありがとうございます……倉本千奈というアイドルは、急激な成長を遂げこそすれ……しかし、例えば十王星南や花海咲季のような圧倒的パフォーマンス。例えば月村手毬のような他を寄せ付けない歌唱力。例えば紫雲清夏のような誰もの目を奪うダンス。今挙げた彼女たちは、所謂アーティストとしての側面を強く持ったアイドルです。ですが現時点の倉本さんに、そういった武器はない」
「……返す言葉もございませんわね」
お嬢様の武器は、その純真さに因ってファンの心を捕らう爛漫。そして、どこまでも澄み切ったお心でお茶の間を温めるバラエティ適正。わかっている。目の前のこの男は、決してお嬢様を貶めるつもりも、侮るつもりもない。
「今香名江さんが浮かべているであろう倉本さんの魅力……それは俺たちが誰よりも理解しています」
「なんだかくすぐったいですわね……」
それでも満更でもなさそうに、お嬢様は椅子の上で揺れている。
「その分野において倉本さんは……贔屓目を除いたとしても、既に頂点に近い存在と言っていい……すみません、回りくどくなってしまいました。つまり今のあなたは停滞期……いえ、次のステップに進むときなんです」
「お待ちください、お嬢様には幾度となく鎬を削った、そして今も尚高め合い続けている、篠澤様が居るはずです。停滞などと……」
「ええ。アイドルにおけるステータス、天真爛漫と神性、ジャンルこそ違えどアイドルとしての在り方は極めて近い。ですからそれ故でしょう。倉本さんの中で、見えない『慣れ』が起こっていると考えられます。それこそ、何度も同じ舞台で競い合ったからこそに」
「たしかに……冬のライブは特に、広さんとの共演がほとんどでしたわね……?」
実践に勝る経験はない。似た属性であるライバルとの連戦は、その属性を伸ばすには最適である。お嬢様と篠澤様のカリスマ性がその証左だ。
ならば、その属性以外の伸び代は。彼が言いたいのはそういうことだ。
「必要なのは、ブレイクスルーです」
「それなら尚更私である意味が……」
「それこそ難しい話ではありません。先ほどの条件を満たしていて且つ単純に、倉本さんを一番よく知る人間だからです。加えて彼女に劣らない身についた丁寧な所作、侍従というマルチタスク且つハードな仕事を涼しい顔でこなすバイタリティ。断言してもいい、あなたなら定期公演の初回突破も可能です……なにより浮世離れしたそのビジュアルは、まさにアイドルのそれだ」
「……っ」
とんだ不意打ちに瞳孔の開きを認める。急に何を言い出すかと思えば。
どこまでも真剣に言い放つものだから、尚のことやりきれない。言うに事欠いて、私がアイドルに向いていると?
「お待ちください」
止まない感情の乱れ。家名に恥ずべき醜態を、早急に濯いでしまいたい。そんな当惑を跳ね飛ばすように、しゃんと伸びた大きな背筋から、相応しい声がした。見やれば、数分前のあわて困惑していた彼女はもういない。
「先生のお考えは理解いたしました。けれど、それでは香名江が……きっとわたくしのせいで根も葉もある悪意に晒されてしまうのではありませんか? わたくしは、もう自分の持つ力の大きさを見誤りません。その重さを、誰よりもしっているのはわたくしです」
「お嬢様……」
プロデューサーが立案する作戦の実行。それはつまり私の出自も隠さないとことを意味する。そうなれば傍から見た私は、なにかしらの意図で生まれたアイドルに映る。多少大袈裟な表現ならば、倉本の寵愛の賜物である、くらいは言われるかもしれない。お嬢様のためになるのなら私はそれでも構わないが、それは倉本の、なによりお嬢様の品位を汚してしまうことに他ならない。真っ先に浮かぶそんなリスクを、私は到底許容できない。
しかしそれは私の価値観。お嬢様はきっと、そんなこと露ほども考えてはいない。ただただ私などを想い案じてくれている。その優しさに、叶うのなら膝をつきたくなる。
或いはそんな感涙も暇を見せるほど、とぼけた顔をしたプロデューサーがいなければそうしていたかもしれない。
「……? それは、香名江さんのパフォーマンスが粗末なものであった場合でしょう?」
「へ?」
「そうはなりません。もう一つの理由というのはそれです。コネだとか、ひいきだとか、そんな言葉を発しようなどと微塵も思えないくらいのステージを、香名江さんなら創り出せる。そんなことは、前提条件ですらない」
そう淀みなく言い切られて、お嬢様と揃いの口のかたちで見合わす。心底で思う。この人にはなにが見えているのだろう。なにがそこまでの断言を生むのだろう。その感情は、期待と捉えるのが正しいのですか?
「わたくしのはじめましてと随分反応が違うような……?」
「それは……………………すみません…………」
「謝らないでくださいまし……でも、先生がそう仰るなら、そんな気もしてきますわね!」
「お嬢様、騙されないでくださ――」
可愛らしく胸を張れど、これはこれ。待ったを掛けようとし、倉本家のものにしては洗練された、フィルターを挟んだ着信音に邪魔される。すぐに音が鮮明になって、もしもし、と彼が遠ざかる。こんなときに。
「――待ってましたよ。今は……八時、そうですか。お忙しいところ申しわ……はは、あなたらしい。なるほど、明朝には飛行機に。了解しました。気を付けて――ええ、いますよ。今代わります…………倉本さん。ご指名です」
液晶を軽快に小突き、してやったりのプロデューサーがそのまま裏向きにして差し出す。矢継ぎ早の忙しない展開に、気が緩んだのかもしれない。その声の主も確かめず見送る。
「わたくしに……?」
「なんでも、二人きりで話がしたいそうです」
「いったいどなたでしょう……? では、少し廊下に出て参りますわね」
「いえ、それなら私たちが。プロデューサー、よろしいでしょうか」
「構いませんよ。倉本さん、終わったら呼びにきてもらえますか」
「ええ! かしこまりましたわ!」
扉を先に開けようと向かう思惑と足並みは彼と揃う。手を掛けるタイミングまで被って、どちらも譲らなかったところで、私が割って先行した。常々思っていたが、この人はどうにも客人の振る舞いが苦手らしい。その心意気は、お嬢様にのみ注いでいればいいものを。
慣れた重みが空気溜まりを呼び込んで、廊下に滞留していたそれの冷たさに前髪を押さえる。壁に沿って数歩ずれただけの足音がよく響いた。
「流石に冷えますね」
「申し訳ありません。しばしのご辛抱を」
「ああいえ、お構いなく」
「……先のお話の件ですが。まだ続きがあるのではないですか?」
左肩をさする彼の動きが、それを切り出す予備動作のように見えた。否、そうあって欲しいと思っていた。
彼の理屈は無理筋ながら納得自体はできる。お嬢様のためになる。その一言は私にとって計り知れない価値そのものだ。私にできることいえば、身の回りのお世話と、ただ彼女を想い続けること。それが些事だとは微塵も思わない。私にしかできない、確かな責あるものだ。けれどそれだけで足りうるのか。それは幾度と私を巡る不安のこと。
だから、まだやれることがあるかもしれない。その一縷に縋ろうとしている私自身が、悔しいが、彼の言を求めている。
「……これを、言葉にするべきかは怪しいと踏んでいましたが。これからプロデュースするあなたに隠しておくのも筋が通りませんね……怒るなら、怒ってもいい」
怒るとすれば、もう勝手にプロデュースすることを決定づけて話を進めていることこそだが。けれど実際に筋だけは通し続けている彼の話を望んだのは私だ。頭ごなしの否定に意味はない。保たれるべき品位を損ってまでやることではない。
「……伺います」
だから、話せばいい。
「───倉本さんは、きっとあなたには負けられない」
「負けられない……?」
打って変わって、捻りのないストレートさに、結局また不理解に戻る。
「そうです。去年を通じて、篠澤さんとの勝敗はほぼ五分、ややこちらが勝ち越しといったところでしょう。そのことを、倉本さんは認めすぎている。彼女に負けるのなら、それは仕方ないことだと」
篠澤様に負ける度、どれだけ篠澤様が凄かったか、煌めいて見えたか、ときに天女、ときに女神のよようだったと楽しそうに私に話してくれた。
「…………それも、彼女の良いところのひとつです。ことアイドルという視点において倉本さんには、良い意味でプライドがない。勝つためには教えを乞うことに躊躇いがなく、それでいて勝てなくとも、混じり気ない賞賛を相手に贈ることができる……本当に、勝負事に向いていない。天性ですよ、本当に」
「…………ええ……それでこそ、だからこそ。私は胸を張ってお嬢様を誇ることができるのですから」
「同感です。しかし、あなたならその、彼女にとってのプライドになれる。あなただけが、彼女に絶対に負けられないと思わせられる」
「……私にはそこが理解できません」
「おや、あなたならもう理解していると思っていたのですが」
勿体をつけていないで、いつもの突拍子のなさで済ましてしまえばいいのに。
「…………不勉強なこの身に、どうかご教授願えませんでしょうか」
この上なく目をひそめ、来客時より少しだけ高く頭を下げる。
「……意地悪が過ぎました。ですがこれも単純なことです───王が家臣に玉座を奪われることを、良しとすると思いますか?」
脳内で即座に主人とメイドに変換し、その物々しい例えが引っかかる。
「お嬢様がそのような…………」
「倉本さんがそんなことを考えるはずもないのは万も承知です。ですが、これは個人の感情の話ではありません。いずれ倉本家を背負うものとして、当然の帰結なのです」
詭弁だ。そう一蹴したくなる。アイドルとしての優劣は、家名に傷をつけることに関係はない。
「あなた方の絆は、俺では到底推し量れないくらいに深いものなのでしょう。数え切れないほどのあなたの話を倉本さんから聞きました。誇張なくずっと、倉本さんを導いてくれた、何時だって顔を上げれば手を引いてくれる存在だと……生徒会長になって、一番星になって、多くの人に慕われるようになった。それでも尚、倉本千奈が困ったときに最初に見つけてくれるのは、氷渡香名江だと」
身に余る光栄です。ですが感謝など、貴方がする必要はない。それでもそうしてしまうから貴方は貴方なこともわかっている。
「きっと、彼女が一番照らしたがっているのは、あなたなんです。ああ、ですから、一つだけ訂正を。彼女は王の器ではありますが、目指しているのは王ではない。星……或いは、空そのもの。そういった類のものです。煽るようになってしまい、すみません」
深い謝罪が私に宛られる。私はノータイムで頭を上げるように諌める。いくら話題が話題とはいえだ。やはりこの方には一度、客人のいろはを知ってもらうべきか。
「……それでもやはり、私はお嬢様を支える生き方以外を知りません。おいそれとその責務を手放す訳には……」
「見方を変えればいい。確かにお屋敷でのサポートは一時的に外れることになります。なら、これまで手が回せなかった学園内の倉本さんのお世話を、これからはあなた一人で担うことができる」
「先も聞きましたがあなたは……まるで詐欺師の物言いです」
「それであなたがアイドルをしてくれるのなら、いくらでも」
同じ質問を繰り返したのは、私にとってきっとただの時間稼ぎだ。適当や無謀で動く人間でないことを一年も見てしまっているから、これはきっと必要なこと。わかっている。指折りでは足りないくらい埋まっている外堀に諦念を馳せて、此度だけはお許しくださいと、小さく、本当に小さくため息を吐く。
「……大旦那様にも、このお話は伝わっているのでしたよね」
「ええ。こちらも驚くほど呆気なさで……先程は伝えそびれましたが、あなたのご両親も」
「……もう、驚くのも疲れました。いつの間に?」
「倉本さんのお爺様に伺いました。ご両親は彼の意向の下で、且つあなたが望むなら、と。こちらも快く理解を示していただけました」
「…………お話はわかりました。要は、千奈お嬢様が一番星として輝き続けるための試金石となればいい。そういうことでしょう……プロデューサーというのは皆こうなのですか? 言いたいことは山ほどありますが、筋が通っているのが憎らしい……とりあえずは、いいでしょう。金輪際ですよ。あなたに騙されてさしあげるのは───なにか?」
あなた、そんな顔もできたのですね。素っ頓狂で、どことなく無垢ささえあって。気味はいいなと思ってそこで、そう至った文脈が気になってしまう。この嫌な予感は、初めてじゃない。
「……? 俺の伝え方が足りてなかったのでしょうか……」
「…………と、仰いますと」
わざと長めに取った沈黙で、精々の心構えを整える。
「あなたも目指すんです、一番星を。学園長の望み通り」
「…………はい?」
言うが早いか、迷いなく彼の手が伸びる。
「改めて、俺と組んではもらえませんか。香名江さん」
もし鏡があったなら、餌を求める鯉のように口を開閉する私が写ったことだろう。錆びついた人形のように固いこの腕を吊り上げるのは誰の糸か。
「えええええええ~~~~~~~~~⁉」
「お嬢様⁉」
緊張はその刹那で放たれた。隔たりの向こうからの絶叫に、交わしかけた手を宙で翻す。少しでも早くと踏み出す私に、足音が付いてこない。すぐ後ろの見えない訳知り顔が浮かんで、歯噛みながらも努めて振り返らないように、重たい扉を押し開けた。
「氷渡、香名江と申します」
「え、え、え…………え~~~~~~⁉⁉⁉」
絶叫、咆哮。教室に轟いたそれを形容しようとすると、どうしても字面が厳めしく、画数も増えてしまう。私が入室したときから所在なさげに口を開閉していた佑芽様が、ようやく喉の主導権を取り戻したようだった。部屋の端から届いた音波が揺らすのは、給仕服よりも幾らか短くなったスカートの丈と、ヘッドドレスで留めた前髪。どちらを押さえようか迷う隙もなく、手は無意識に後者に伸びていた。
その余波が収まった頃、先ほど校門を過ぎたあたりに吹いた順風を思い出し、けれどこれは人力から発生しているのだったと、僅かに慄く。
「佑芽さん、声が大きいですよ」
「はっっ。ご、ごめんなさい‼‼」
「…………氷渡さんは今日付けの転入になります。まだ初星にも明るくないと思うので、皆さん仲良く……なんて言うまでもなさそうですね」
二言は追加したそうにしている担任教諭を横目に、改めてこれからのクラスメイトに礼を重ねる。素直に歓迎の姿勢を見せてくださっている方、転入のタイミング故か、疑問を抱いていそうな方、ただの些事と興味の埒外に私を置いている方。三葉の反応はあれど、総じて事を荒立てようという雰囲気は感じなかった。
それはお嬢様の学園内のお世話をし、且つアイドルとして優秀な成績を収める、その目的を至上とする私にとって、十分な反応だ。私はすぐにお嬢様の隣の席――確約していただいていた通り本当に空席となっていたそこを目掛ける。はしたなく駆け出さなかったこと、我ながらよく我慢したと思う。
「…………お久しぶりです」
実に半月ぶりになる。どれだけ。どれだけ、なんと声を掛けようと悩んでいたのに、結局この有様だ。
「香名江……! 制服、よく似合っていますわ!」
「――! ありがとうございます」
そんな自省など無意味と言わんばかりにその目の瞬きが、私を見てのものと己惚れてもいいのだろうか。スカートの裾で挨拶を済ませる影に、漏れ出る笑みを隠す。
思えば長かった。他の侍従に業務を引き継いだあとは、入学試験対策、並行してアイドルの基礎を叩き込まれ、そして初星の寮への引越しも済ませる必要があった。
『別荘から徒歩で通うというのは流石に……それとも倉本さんと一緒に車で登校しますか?』
できるわけがないだろう。最後の事案を飲み込むために心が流した血と涙は、まだ乾いていない。当然、その間にお嬢様に携われる時間などなかった。
仕方がなかったとはいえ、プロデューサーにはこの報いはいつか必ず受けてもらうと誓っていたのだが。果たしてそんなことは、眼前の幸福の体現の前にはもうどうでもいい。
「この度承った初星学園でのお嬢様のお世話係の任、本日より開始いたします……またお嬢様のお傍にいられること、香名江は心から嬉しく思います」
〝お嬢様〟の三文字で少しだけ周囲がざわめく。
「今、お嬢様って?」
「千奈ちゃんの? メイドさんってこと?」
「でも、制服着てる……」
当然、やましいことなどないとはいえ、プロデューサーの戦略とも一致するのだから、私とお嬢様の関係を隠す必要はない。この程度の喧噪は寧ろ好都合と彼も言っていた。きっとこの後遭うであろう質問攻めにも、全て包み隠さず答えていいとのことだった。
「……香名江ったら……あなたはもう、アイドルですのよ? それにわたくしだって、今やこの学園の生徒会長なのです! 自分のことくらい自分で、成し遂げてみせますわ!」
「そうでしたね。流石は千奈お嬢様です。ですが……そんな淋しいことを仰らないでください。香名江では……いけませんか?」
「~~~! 香名江! それはズルいですわ!」
わざとらしい演技を込めて、いじらしく困った顔をする。どうしても通したい意地があるときに、お嬢様にはこれが効果てきめんだったりする。これの悪いところは、何度やっても威力が減衰しないところにある。心苦しさを感じるため、乱用はできない。
「倉本さん、氷渡さん。仲が良いのは結構ですけど……」
感極まったあまり、ホームルームを妨げていたことを二人で謝罪する。それでもお嬢様への信頼あってのものか、傍から見れば奇異な私たちの関係性ゆえか、それを咎めるような空気は生まれ得なかった。寧ろ担任を除けば、続けてくれと言わんばかりに。
私たちを取り巻くそんな予感と関心を切り裂くように、けれどたおやかに、ことりと木を打つ音一つで、周囲の息を奪い去る。凛と伸びたお嬢様が私の手を取って、春晴れも身を引く笑顔で言い放つ。
「では改めまして……こほん――香名江。ようこそ、初星学園へ!」
*
「お嬢様……?」
お昼に差し掛かる三限目のこと。穏やかな声をしたご年配の物理学教師の授業中、隣から聞こえたもっと安らかな息に耳をそばだてる。いつもとまるで変わらない背筋に、気付くのが暫く遅れてしまった。事実目さえ瞑っていなければ、気のせいと断じていたかもしれない。
考えにくいことだけれど。眠っている。千奈お嬢様が。本当に?
「すぅ…………」
眠っている。紛れもなく。
「お嬢様、起きてください……!」
細心の注意を払い彼女をつつく。だが薄くなりはじめた季節の装いはダイレクトに触覚を届けてしまったようで。僅かに跳ねたその肩から伝う、手遅れの後悔が指先を走る。
「は、はいっ‼」
「! おじょっ――」
「はい?」
「えっと…………はっ! あ、あいふぁいん、せんきゅー!」
「…………ふむ。Sit down please?」
「あ――申し訳ございません……」
「ああでも、もうこんな時間でしたか。今日はここまで。宿題は共有フォルダにある通りですので、来週のこの時間までに提出してくださいね。それでは――」
庇う間もなく、お嬢様が赤く小さくなっていく。それは私の台詞です。なにをしている氷渡香名江。こんなことで、お嬢様に恥をかかせてしまうだなんて。先生が寛大な方であったからよかったものの。穴があったら、などと言っている暇はない。環境の変化など言い訳に過ぎない。気を引き締めろと喝を入れる。
お昼時になり、クラスメイトが出払いはじめる。未だ落ち込んでいるお嬢様にどう声を掛けようか悩んでいるうちに横目があって、彼女が照れ笑う。
「お恥ずかしいところを見せてしまいましたわね」
「いえ……私こそ配慮が足りていませんでした、申し訳ありません」
「そんな! 香名江が謝ることでは……ふふっ」
「? どうかしましたか?」
肩を落としていたお嬢様が身を寄せる。掌で遮る耳打ちに密やかな意図を感じて、唾を飲む。喋り出す前にまだくすくすと微笑む彼女が打って変わって幸せそうで、ずっと聞いていたい欲求に駆られる。この切り替えの早さもまた、お嬢様の美徳なのだ。
「ふぅ……ごめんなさい、その……わたくし、あなたが同い年と知ってから、何度か考えていたことがありますの。香名江が初星の制服を着て、同じ授業を受けて……これは少し、失敗してしまいましたけれど。一緒にご飯を食べて、そしてなによりも……わたくしの大好きなお友達たちと、同じように手を取ることを。でも、それがいっぺんに叶ってしまいそうで……まるで夢みたい!」
心底で楽しそうに語るお嬢様に、言葉が詰まる。
ここに立つのは、メイドじゃない自分。だとしても、どんな私でも、お嬢様が受け入れてくださることなんてわかりきっていたのに。一切の他意を含まない彼女に、吸って吐いての無意識さえ乱される。
「――そん、な……お嬢様に、そんな風に思っていただけていただなんて……身に余る……いえ、嬉しいです。とても」
だからこんな、形式ばった感謝を絞り出すことしかできなくて。光栄だなんて隔たる言葉を改めるくらいが私には精いっぱいだった。
「千奈ちゃーーーん‼ えっと……香名江ちゃんも! お昼行こうよ!」
呼吸を整えるには良い合いの手が挟まって、私はいつものように、貴方の一歩後ろをゆくのだった。
*
「それで香名江ちゃんがアイドルに……ほんと、びっくりしちゃった!」
「それよりも、本当に良いのですか? メンバー外の人間が……」
「これがダメだと、去年のわたしは大罪人」
「みなさん! お話はごあいさつの後にいたしましょう?」
教室と同じくらいの広さの部屋に、違うのは人口密度。広々と使えるにも関わらず皆様中央に集まるものですから、恩恵を活かしているとは言えませんが。
長机の向かい合わせ。時間が経っても輝きを損なわない銀鮭の切身が主役の小型のお重。三色の鳥そぼろ弁当が二つ。サンドイッチと豆乳が透けて見えるレジ袋。発光する液体の入ったボトルと色だけが異なるペースト状が敷き詰められたプレート。落ちものパズルがぴったりはまったように冷蔵庫の残り物を消化しきれた産物の私のお弁当。お嬢様のいただきますの号令で、各々箸をつつきだす。
「そのお話も兼ねているのでしょう? 急遽ミーティングと言われたときは何事かと思いましたが……会長命令でしたので」
「いの一番に、佑芽さんが進言してくださったのです、香名江と仲良くなりたい、と」
花海様と目が合う。屈託のない笑顔に
「そうだよ! ね、香名江ちゃんも入ろう? 生徒会!」
「お話は有難いのですが……私、入学初日ですよ?」
「いいではありませんか。わたしは賛成です。氷渡さん、きっと優秀な方でしょうから。わたしのお仕事も減りそうで助かります」
「とか言ってるけど。いいの? 会長」
「人事権をお持ちなのは秦谷さんですので……」
「あれはまりちゃんと篠澤さんを引き入れた時点でもう用済みです。会長にお返ししても構いませんよ」
「いけしゃあしゃあと……やっぱり今からでもクビにした方がいいんじゃないの?」
「まぁ。そんな淋しいこと言わないでください」
すっかり加入する雰囲気で、ゆるりとした閑話が流れ続ける。お気持ちは嬉しい。けれど易々と頷ける話でもない。
「……他の初星生徒が納得しないでしょう。ここにいる皆様は例外なく実績と実力のあるアイドルです。前会長が築いた聖域を、どこの馬の骨とも知れない人間で汚す訳にはまいりません」
「大袈裟だな……千奈の身内なのはもう割れてるんでしょう?」
「なればこそ、です。コネ入会などと思われてしまったら、それこそ問題です」
「――でしたら、実績があればよろしいのでしょう?」
柏手が鳴って、お嬢様が腰に手をやり、胸を張る。急な晴れ間につい惹かれるように、お誕生日席に全員が注目する。
「お嬢様?」
「わたくしとしても、香名江が手伝ってくれるのは心強いですもの! さしあたって、次の定期公演で一位になれば、皆様も納得されるのでは⁉」
「それはそうかもしれませんが……!」
「へえ、無理とは言わないんだ。いいね」
「月村様まで……」
「決まり、ですわね! 先生も仰っていましたわ。香名江にはアイドルの才があると!」
鶴の一声だった。もう反論の余地はない。なにより、一校を背負うお嬢様の遠大さに感服するほかなかった。
複雑に考える必要はない。どの道、やるべきこととしては変わらない。お嬢様がそう望まれるのなら、全うする理由が強固になっただけのこと。
「あたしたち皆で応援してるから! もちろん、特訓も!」
「ありがとうございます。こんな恵まれた環境で……結果を出せない方が難しいですね?」
「息抜きもお忘れなく。疲れたら、わたしのところにいらしてください」
「……ところで秦谷様。私のことはどうか、香名江とお呼びください」
場所は違えど、私の主君は唯一人。努(ゆめ)奉公人としての在り方を損なう訳にはいかない。
「でしたらわたしも美鈴、で結構です。様も不要です、香名江さん」
「畏まりました。美鈴さん」
「えー! ずるい! あたしも佑芽さんがいい!」
「ええ、よろしくお願いいたします、佑芽さん」
次に目が合ったのは、確かに咀嚼しているのに全然サンドイッチの形が変わっていない篠澤様。
「ひょっほまっへへ」
呂律が回らないほど詰め込んでいるようにもやはり見えない。彼女は片手で静止を表し、明後日の方向に豆乳で飲み下した。
「ふう。じゃあ、わたしも」
「はい、広さん」
「……?」
おかしなことはないはずだ。だが広さんは私がそう呼ぶと、神妙な顔を見せる。元より感情の機微が読みにくいのもあるが、その猫の眼は不可思議を灯している。
「ごめん、もういっかい」
「広、さん……?」
ううんと彼女は唸り出す。指の間に口元を押し込んで、反ったり、のめったり。そんな様子に皆様も心配しはじめる。誰もが声をかけあぐねていると、その前に薄く微笑んだ彼女が先行した。
「やっぱり、広様、で」
「広ちゃん⁉」
「ふふ、その呼び方はちょっとだけ特別、みたい」
彼女はほの紅い頬で左右に小刻みに揺れる。なにを想い、揺られるのか。特別、か。
「広様。お気持ちはよく、理解できます」
「さすが香名江」
「広さんったら……ねえ、香名江?」
打って変わった上目遣いで、甘えるような彼女の声。お箸すら置いていて、次に飛び出る言葉を当てるのはお部屋掃除よりも簡単だった。
「いたしませんよ?」
「まだなにも言っていませんわ⁉」
「お戯れを。お嬢様はお嬢様です。間違っても千奈さん、などと……」
「そんなぁ……」
おあとがよろしいようで。綺麗に畳まれた話題に次いで、そういえば、と思い思いの積もる話が点在していく。
最後に見た、その寂寥は冗談であった、と思う。断定できない一抹の予感を振り払って、私もまた、学園生活の話に花を咲かせるのだ。
「お疲れさまでした……いい、ライブでした」
「…………ありがとう、ございます」
差し出されたタオルを受け取る。ペットボトルの方は断った。まだ少し、息が整わない。客席のざわめきの余波がまだ届いて、振り返る。やり切った。その手応えが、鉄が滲む喉奥を中和してくれる。お嬢様のための壁になる。未だに実感が持てていない新しい使命の第一歩は、大きく踏むことができたのではないだろうか。
「……あの、まだなにか」
「ああいえ。本当に、誇張抜きに素晴らしいライブだったな、と」
「それは先程聞きました。他になにか」
明らかにプロデューサーはなにかを言いあぐねている。だからこうして聞きやすいように誘導しているというのに。彼はまず自分の中から答えを探しているのか、意識を彷徨わせているように見えた。
「……あるのでしょう? あなたが嘘を言っていないことはわかります。けれどそのような驚いた顔をされれば……気にもなるでしょう」
根負け、などと言いたくはないけれど。
「そう、ですね。その……確認のために伺うのですが。香名江さん、ステージに立つのは初めてですよね?」
散々勿体ぶった割に、瓢箪からでてきたのはそんな程度のものだった。きっと、定期公演ライブくらいでへばってもらっては困ります、くらいは言われるかと思ったが。
「それはあなたが一番よく知っていると思いますが……」
「ですよね。ありがとうございます……あまりに堂々たるステージぶりだったものですからつい。焦りも、緊張もまるで感じられなかった……基礎的なアイドルとしてのポテンシャルは十分と踏んでいたあなたをプロデュースをする上での課題の一つは、独りきりの舞台への向き合い方と考えていたんです。たった今、それが嬉しい誤算であると同時に自分の眼の甘さを痛感しているところなのですが」
一頻り捲し立てられようやく、私は合点を得る。歌えようが、踊れようが、それを数百、数千の観衆を前に臆せず発揮できるのか、と。というかそれがわからない時点で私をライブに送り出したのかこの男は。つくづく実践主義らしいところに、私に全てを教えた侍従長の面影さえ感じてしまう。
未だぶつぶつと推論を並べているところ申し訳ないが、それについては答えは出ている。
「……侍従としての私は、どこまでも倉本家の所有物でしかありません」
「……はい?」
「緊張の話です。例えば会食、例えば商談。別荘だろうと、そういうことと無縁にはあそこではいられません。あの場を利用するすべての場面において私たちは、ときにこの国を支えるような方々の前で給仕を行うこともあります。そこでの私たちの振る舞いは、そのまま当主の評価に繋がってしまう……完璧であることは前提で、当然粗相などあってはならない。〝見られる〟ことに対する耐性は、他人よりも強いのでしょう」
別にそれを不快だとも、厳格すぎるとも思わない。私を作る誇りの一つと断言できる。
開いた肩口をさする。だが今日のそれはまた別物だと、暗闇のステージを切った私の肌が言っていた。ステージに立つ私を囲む視線は、監視とも精査とも違っていた。期待、高揚、羨望。そんな類の関心が、それも大量に寄せられるのは、確かに初めてのことだった。
受け入れていいのか、わからなかった。お客様の気持ちを、ではない。その熱に僅かでもあてられていたと自覚している自分に、だ。
「……なるほど。理解しました」
「そうですか」
努めて他人事のように言い放つ。彼が私の言葉を咀嚼する時間で思考の整理ができたおかげか、心身は極めて平時に近いものとなってきている。
「それで、次はなにを? まさか、これで終わりとも思えませんが」
「もちろん。香名江さん、来週の日曜日は空いていますか?」
「はい。あなたのお陰で」
体力管理の名目で私は、休日だけでさえも屋敷に戻ることが叶わない。ほんの数ヶ月前ならば、日曜日はお嬢様に付きっきられていたものを。それ自体は二組の皆様が、休みが合う日にお嬢様と一緒にお出かけに連れたってくださるからいいものを、どの道通じない嫌味でそんな思いを込めてみる。
「一日だけ俺に付き合ってくれませんか。無理にとは言いませんが」
「なにをなさるおつもりですか?」
「今思い付いたのでなにかというわけでも。ただ、必要なことかと思いまして……詳細は追って連絡します」
急になんですかそれは。適当に予定があると言わなかった自分の落ち度だろうか。しかしどれだけ曲がりくねったなりにも、今後とも上手く折り合いをつけねばならない相手の誘いだ。理由もなく断るのも躊躇われる。
「……まあ、構いませんが」
「! ありがとうございます。今日はもう上がりましょう、香名江さんのバイタリティでも、ライブで掛かる負担は計り知れませんから。外で待ってます」
そんなことはないと強がるのも躊躇われるくらいには疲労がきている。お言葉に甘えてと控室を出て私たちは出口と更衣室に分かれる。今はただ、早くコルセットを緩めることだけ考えよう。ミモレ丈の端に散りばめられたスパンコールがオフィスライトを返す。遠ざかりかけた足音が不意に止んで、また、声。
「香名江さん、あなた今―――すごくいい顔してますよ」
*
「やはりここは……」
やはりもなにもあるものか。書いてあることが、つまりは『ハツミーランド前』とある剥がれて褪せたこの看板が全てだろう。ああ、制服を選んでよかった。ほんの数分であれ、着ていく服や靴を悩んでしまった己を掃いて捨ててやりたい。
初のライブを終えて一週間強。クールダウンも兼ねてトレーニング強度も落としており、久しぶりのなだらかな時間が過ぎた。学園生活にも慣れはじめ、立ち止まる回数も少なくなった。なにせ今は約束も果たされ、生徒会の一員でもある。そこでの在り方が比較的倉本家での動きに近かったことも、その助けの一つだろう。
そんな平穏の唯一のスパイスが、これだ。あれから結局二日前になって場所と時間の指定が送られたものだからたまらない。いつまで経っても訂正や誤字の連絡がなかったことから溜息は濃くなる一方だった。お嬢様が見ていればきっと、逃がした幸せを懸命に取り返そうとしただろうと頬が緩む。だが今回に限っては、如何せん場所が場所だ。お嬢様にそのままお伝えできるわけがない。本当に、どういうつもりなのだ。
「香名江さん」
近くの花壇で待っていたらしきプロデューサーがこちらへ来る。案の定というか、私は彼がスーツ以外の服を着ているのを見たことがない。
「おはようございます……プロデューサー、お尋ねしますが……目的地はそこではないですよね?」
まさか、ここからでも聞こえるジェットコースターの悲鳴や、色とりどりに回る観覧車があるような場所ではないですよね? 近くに芸能関係にまつわる神仏が祀られているとか、いえ、プロデューサーがそんな神頼みな人間であってほしくはないのですが。今はその方がマシというだけで。
「そのつもりですが……」
そのつもりでした。
「重ねてお聞きしますが……なぜ?」
「ライブ後にしたあなたとの会話で思ったんです。俺は、あなたのことをなにも知らないと。思い返せば、倉本さんしかプロデュースしていなかったときも、あなたとは事務連絡に留まるくらいで――」
「思い返す前にもう一つだけよろしいでしょうか」
なにかがおかしい。確証はないのだけれど。いつもの、どこか隙がなく、且つ掴みどころのないあなたという輪郭がぼやけていく。
「私が聞きたいのは、なぜこの場所なのか、なのですが……」
「ああ……そうですね。去年は倉本さんと出掛けることが多かったのですが……一番喜んでいたのがここでした」
「…………は?」
差し込まれた突然のマウントが些事に思えるほどの、耳を疑う発言だった。
「お恥ずかしながら、俺は交友関係がとても狭く……こういうときの定石があまりわかってはいないんです」
全く恥じ入る様子を見せないで彼はそう言ってのける。こと交友関係においては私とて別に広くはない。しかしこれが異常なことは誰だってわかるだろう。強いて言えばビジネスライクに近い関係性の私たちの距離を縮める、それは理解できる。だがその手段として、よく知らないと宣言した相手と一対一で遊園地を選べるものだろうか?
そんな呆然を抱えたところで、これに彼の悪意も他意も込められていないことは、悲しいくらいわかってしまう。雲一つない生憎の陽気が私の背中を押す。
「……………………チケットは…………」
「はい?」
まだ、ここでこれからだと答えてくれれば。
「ですから、チケットはあるのかと聞いています」
「ああ、もちろんここに。日付も間違いありませんよ」
まあ、そうでしょうね。あなたなら。
「……はあ……せっかく用意していただいたものを、なんであれ無碍にはできませんね……行きましょう、プロデューサー」
「……? はい」
ひび割れたアスファルトが重く運ばせる一歩目に、しかし私の諦念も往生際が悪かった。先も彼が言っていた。ここはお嬢様が定期公演ライブを成功させたご褒美に訪れた場所。そうだ落ち着け氷渡香名江。これも機会と捉えよう。お嬢様への対応を含むあなたの突飛にはもううんざりだった。この苛立ちがあなたへの不理解からくるものなのだとすれば。これはきっと、そういう機会。ファンシーな空想生物が迎える門の手前、胸を撫で下ろし、無理に心を畏まらせて振り返る。
「一つだけ、条件を付けても?」
「条件、ですか?」
そうして、迎え撃つ。
「――今日これから回るルートを……千奈お嬢様といらしたときと、同じものにしていただけますか?」
「あの日と……それは構いませんが。なぜです?」
「なぜ、ですか」
今日だけであと、何度その言葉を吐くことになるのか。考えないようにして言葉を続く。
「あなたが仰っていた通りです。私のことを知りたいと……私も同じ理由です」
それ以上は口にせず先を行く。視界が良くなった足元にももう慣れた。直に駆け足が並んで、足音はやがて雑踏に掻き消される。
パーテーションに沿って入園ゲートを抜ければ、非日常が私たちを迎える。あちこちで鈍く絶えない駆動音に、目まぐるしい色とりどり。そんな渋滞しそうになる情報量の中を行き交う人々。父親の手を引く小学生くらいの男の子。指を絡めて歩くカップル。よく見れば、頭上には動物の耳のように星型をあしらった揃いのカチューシャまで着けている。あれを装着する自分を想像し、かぶりを振る。お嬢様と来ているのなら迷いなどあるはずもないが。
隣の男はといえば、流石に混んでいますね、などと至極当然な感想を零しており、日曜日ですからね、とこれもまた差し障りなく返した。どこかで聞いたような会話を繰り返すこと数分、入口からすぐのところにある、ぬいぐるみや缶クッキーが壁に並べられた、オープンウィンドウで囲まれた施設に着いた。
「……スーベニアショップ、ですか?」
「その……倉本さんがカチューシャを着けたいと……」
「…………なるほど」
流石はお嬢様、楽しむことに余念がありませんね。
「……止めておきましょうか」
渡りに船の提案だった。私が指定したのは件の日と同様のルート案内のみ。なにも行動すべてまでトレースする必要はなかった。なのに、私のプロデューサーに対する全自動の反抗心さえなければ。
「……私が言い出したことです」
熊や兎、犬猫などおよそ定番らしきモチーフが並ぶ中で、おく嬢様が選んでいたのは先ほど見た双星のカチューシャだったとプロデューサーが言う。きつめのバンドがヘッドドレスと重なって、少しずらす。
「あとこの、サングラスを」
「……………………」
レンズ部が星型になったアイウェアが差し出される。統一感も意識されているとは、慧眼と言うほかありません。絶妙にかさばるサイズと、使用感を意識していればまず起こらない前髪との接触はさておいても、お嬢様とお揃いというただ一点で目を瞑ることができる。
「最後にこれも…………」
はつみちゃん、と言ったか。聞いた話では、非公式マスコットだったような気もするが。ぼかすでもなくシルエットがそのまま容器になったポップコーンバケツを提げてきたプロデューサーを見上げ、思わず聞いてしまう。
「プロデューサー」
「はい」
「鏡がないのでわかりませんが、あなたには今の私がどう見えていますか?」
「…………浮かれているように見えます」
「そうでしょうね」
たっぷり十秒、間があった。正直に答えただけ、よしとします。もし似合ってますよなどと宣おうものなら。
「……預かります。会計、してきますね」
「結構です。自分でしてきますので、外で待っていてください」
「そういうわけにも……」
「通らないのであれば帰ります」
「……わかりました」
あなたがこんなことで貸しを作った、などと思うような人間とは思っていませんが。それでも、私にも意地があるのです。
実際、先に出てもらったことは正解だった。レジにこれらを通したときの、この場で付けていかれますか? とタグを切る構えの店員にはいと答えた私の顔を見られなかったのは、不幸中の幸いだった。
「お待たせしました」
「いえ……えっと、それは?」
「勘違いなさらないでください……お嬢様なら、こうしたのではないですか?」
手に持ったカチューシャは二本。片方を突き出して答える。
「その通り、ではあるのですが……あなたも今は制服なわけですし……」
それはなにか。周りから見た、私たちの関係性が誤解される恐れがあると。当然それも考えた。そんな事態、私とて御免だ。だがしかし、カチューシャを差し、サングラスを付け、ポップコーンバケツまで提げた私の隣を、ただのスーツ姿で歩こうなどと、冗談ではありません。私は、そこまで無垢にはなれないのです。
「一人でこの格好をしているよりは良いと判断しました……さあ、もういいでしょう。最初のアトラクションはどれですか」
「すみま───いえ、あっちです。メリーゴーランドに」
予想通り。
今度は私がプロデューサーに追い並ぶ。なるほど確かに浮かれて見えます。仏頂面とまではいかなくとも、平時の感情の起伏に乏しいあなたの顔でさえ、夢の中にいるみたい。
「よくお似合いですよ」
「ありがとうございます」
皮肉だと気付いていないのか、気付いた上でなのか。やはり繰り出される探り合いじみた上辺の会話に、培われたテンプレートで打ち返している間は、気まずさと無縁でいられる。それが相互理解とも無縁なやりとりであるとわかっていても。
あっちと言ったものの目的地はすぐそこで。真昼にも目立つ白熱色の電飾が、白樺を思わせる天蓋から下りる回転木馬を際立たせていた。先の欠けた翼の白馬や鈍色の王冠の蛙に見下ろされる。彼らのなにも映さない黒い眼を過ぎれば、ローテンポのストリングスとパーカッションが音を潜める。並びも少なく、すぐに私たちの番がきた。
「倉本さんは最初は確か……グリフォン……いや、そのユニコーンだったかと」
プロデューサーの指がさした、清廉の獣と謳われるそれの、メッキの剥がれた角を撫で、そのまま支えに軽く地を蹴る。スカートの裾を畳んで、揃えた足を外に放る。彼はその隣の、メリーゴーランドにしては珍しい翼の閉じた燕に騎乗する。口に咥えた金片を見るに、どうやら各地の伝承や童話がモチーフのアトラクションらしかった。
「運転中は、手すりから手を離したり、立ち上がったりなどの運転を妨げる行為はお控えください──」
「改めて――」
運転前の点検に見回るスタッフの頭上越しに、前を向いたままの彼から声がかかる。
「定期公演、お疲れさまでした。良いライブでした」
「……ありがとうございます。未だに実感はありませんが」
これは謙遜でも卑下でもない。指示には忠実に従ったつもりだ。だがそれだけ。それ以上をすすんで行った自覚はない。できてしまった、の方が正しいとさえ思う。
ゆっくりと景色が加速しだす。傲慢だとは思わない。忠実に従った、だからこうなった。過不足ないレッスン量に、適切なプロデュース方針。後者は特に私の助けになった。未経験が故に一番の課題であったファン対応の部分を、今後はステージ特化型アイドルとして売り出すことで負担を減らすという計画は早々に立てられた。そのおかげでレッスンに集中することができたのは事実。結果的に、作戦の有効性は先の公演で見事に証明されてしまったのだから、彼のプロデュース能力が本物であった。それだけの話なのだ。
「『絶対零度の超新星』、『氷姫』、あとは……」
指折り数えて彼が呟く。
「……急にどうされました?」
「実感の話ですよ。どれもあなたに付いた通り名です。ステージで語る、クールで正統派アイドルというイメージ戦略も上手くいっているようです」
「姫……ですか。ますます実感が湧かなくなる一方です」
「すみません。気休めになればと思ったのですが……寧ろこの段階で明確に自身のアイドル像を確立できる方が珍しいというものです。滑り出しは好調ですし、いずれ見えてくるものもあるでしょう」
「本当に気休めですね」
「はは……」
彼は困ったように頬を搔く。あなたを選んだのは正解でしたと付け加えまた、沈黙。困りたいのは私の方だ。かつて私が選んだ道には、お嬢様という絶対が在る。だが選ばれた私が立つ先にいるのはプロデューサーで、その正しさに絶対は置けない。手腕だけが絶対なのだとすれば、私はお嬢様を選んだりなどしていなかった。
嫌ってはいない。不信もない。ただ、あなたは不透明すぎる。魔法使い。言い得て妙だ。その超人ぶりに反して、主義思想が見えてこなさすぎる。今日のことにしてもそうだ。突然二人きりで遊園地など、未だに納得できていない。人を見る目には自信がある。捻くれてはいるが、この人は善人だ。だからこその不理解。そのギャップからくるこれは、怖れ?
回る。回る。沈黙を破ったのは、またしてもプロデューサーだった。
「今後の話を、してもいいですか」
「……構いません。私からも伺おうと思っていました」
スカートのポケットにサングラスをしまう。取り戻した色彩で思考を洗う。
いつの間にか増えていた柵越しの人々の顔は境界を失くし、頭上にかかるノスタルジックな音源も高潮を迎えている。妙な被り物で燕に跨るプロデューサーが、極めて真面目な顔で告げた。
「以前軽くはお話ししましたが……香名江さんには、N.I.Aに出場してもらいます」
「N.I.A……」
新人アイドルの登竜門にあたる大イベント。お嬢様が昨年優勝したのも、現地で見届けている。忘れられるはずもない、あの日の燦然に馳せる。
「つまりは予定通りです。定期公演を一発抜けするところも含めて」
「そうですか。もう……二ヶ月は切っていますね。新しい楽曲を習得する必要があれば……来週中には頂きたいところですが」
買い被りですと言ったところでまた、聞くのが恥ずかしくなるほどの称賛を浴びせられるだけだ。
「話が早くて助かります。候補としては、『ENDLESS DANCE』、『雪解けに』、『古今東西』など色々とあるのですが……」
どれも一度は聞いたことがある。現状の手札は『初』、『冠菊』、『桜フォトグラフ』の三曲。学外のソロイベントに出場するでもなし、あと一曲ならば駒数に不安はなくなるだろうし、余裕をもってモノにできる。
「やはり大会が大会です。俺としては『Campus mode!!』を推し――」
「その曲は外していただけますか」
「えっ」
つい反射的になってしまった。彼も面食らっている。予想はしていた。その曲が提案されることを。だからその返答も何度も想定していた。
「理由を聞いても……」
「……その曲の歴史はお嬢様より伺っています。初星に代々伝わる、伝統ある曲なのだと。ですから私には相応しくありません……心からアイドルを望まぬ者に、歌いこなせるとも思いません……申し訳ありません。他の曲であれば、如何様にも」
実のところを言えば、今挙がった曲の中で最も歌詞もフリも頭に入っているのは、『Campus mode!!』ではある。だがあれだけの期待を集める曲を、表面上の技術だけで観客に認めさせることは至難だろう。それこそお嬢様のような全霊を、私に出力できるかどうか。そう、言い訳としては悪くない。戻れなくなる前に――
「……言い訳?」
今のは。誰が? なにに対して?
「香名江さん?」
「……お気になさらず」
目を塞ぐ。少し、考え過ぎだ。
「しかしそう、ですか……いえ、謝る必要はないのですが。それならパッション系の曲で考えて……来週には決定します。そのときまた」
「承知いたしました。よろしくお願いします」
見計らったように回転は停止する。先に踵を鳴らしたプロデューサーが差し出した腕を伝って降りる。軽く払って、順列に従う。ポケットのサングラスが中で暴れるも、もうこのままでいいかとすぐに忘れる。
「……結局こういう話ばかりになってしまいますね」
「始めたのはあなたですが」
「返す言葉もない……思えば俺たち、倉本さん以外の話を本当にしてきませんでしたね」
「なにを今更……私たちはお嬢様のサポーターです。今まではそれで問題ありませんでしたから」
私たちにおける最大にして唯一の共通項、それが千奈お嬢様であるからして。
「サポーターでした、ですよ。香名江さん」
すごい。していないドヤ顔が見えるようで大変不愉快だ。やはりちょっとは嫌いなのかもしれない。
「……兼任することも可能でしょう」
相手の土俵には立たぬよう、感情を殺して進む。レンガ造りの壁を沿って、次に向かった先はコーヒーカップ。
「回してみますか?」
「いえ……」
終ぞ停止まで放置されたハンドルでも、若干の自転はもたらしてくる。両手を離して口を覆う髪を捌けるくらいには強化された体幹を実感しながら、映しはしても視ないようにしたプロデューサーとのにらめっこを引き分けた。
「次は……」
前門の強風、後門の絶叫。数秒ごとにそれらがスイッチする、振り子運動を繰り返す海賊船の後方列で、ひたすら今日一番の非日常を享受していた。振りの最大地点での浮遊感から、一気にG圧に包まれる。細めた横目の先の、眼鏡を外した彼に、普段からそうしていれば多少は柔和にも見えそうなものなのに、などと間違っても口にはしないが。
ただ、ひとつだけ。何往復の強風にあおられた。けれどそのどれもに、物足りなさを感じていた。それがなにと比較してのことだったのか。向かい風に瞑る度蘇る、乱反射するステージで腕を振り、肩で切る、己の五体で裂いた風を。また、奥歯を打つ。
それらの間も、そのつもりがなくとも無言は延びていった。彼のする、動きの激しいアトラクションの後は支えをくれたり、さりげない差し入れがハンディサイズの天然水であったり、階段では必ず下側に立ったりといった、とにかく会話を除くエスコート力を見せられ続けている。苦手意識のある人間のそういう所作が、思いのほか居心地が悪い。一年前のこのときも、彼が同じようにしていたのだろうか。
園内にいる限り、ましてや行き慣れない場所。さっき見たような、それも気のせいのような道をゆく。答え合わせの瞬間はすぐに訪れて、その感覚が実は正しかったと露になる。
「メリーゴーランド……?」
「お化け屋敷やジェットコースターは……倉本さんの乗れるアトラクションは制限があったもので……中でもここはお気に入りのようでした。ちなみに、あと三回来ます」
そうして通された先は、カボチャの馬車を模したロココ調のポット。どうぞと促されるまま奥に腰掛ける。
お嬢様のことだ、来る度に違う物語を選んでは目を輝かせていたのだろう。幼い頃、眠る前にはいつも読んで語っていた、浦島太郎におやゆび姫、シンデレラ。貴方はその全てに等しく憧れを灯していた。そんな私だけの思い出を、あなたに聞かせるつもりもないが、しかし。
「いいのではないですか。いつも通りで」
「え?」
「世間話をしにきたわけではありませんが、共通の話題に乏しいのも事実。なにもないところから相関は生まれにくい……ましてプロデューサーと、アイドル志望ですらない私では」
「それは……そうかもしれませんが」
「ですから、いつも通りお嬢様の話をしましょう。幸か不幸か……時間はいつもよりあることですし」
今日の私はいくらか不安定だ。目的が目的だとしても、多少なり敬遠している自覚のある人間に対して、そのまま黙っていれば過ぎる時間を自ら手放したのだから。
「……三、四月は本当に、頑張ってくれました」
豪奢な外観にしては固く冷たそうな馬車の背もたれに、空気を抜くみたいように押し付けながら彼は言う。遠心力が働けば触れてしまいそうになるくらいに肩も脱力している。
「新生一番星と生徒会長の両立……私の前でさえ、決して笑顔を崩されませんでした。ですがその負担が如何ほどだったのか……私にも計り知れません」
「あれでも厳選したんですよ」
「責めているわけではありません。それと同時に、本当に、楽しそうでしたから」
お嬢様の前に頼むまでもなく降って湧いてきていた、やりたいこと、やらなければならないこと。学園のため、ファンの皆様のため。そして、プロデューサーのため。誰かを想ってことを成す貴方は、目にしても痛くない眩さだった。
「そうですね。なにがあっても笑っていて……この前のライブも、倉本さんのそういうところに助けられました」
「『空と約束』の、ですか?」
「それです。繰り返すようですが、よくあの土壇場で動揺しないものです」
春も終わる渋谷のライブハウス。その箱が主導のイベントで、招待された全アーティストがバンドセットでのパフォーマンスをすることになった。場も温まった矢先のお嬢様の『雪解けに』のアウトロで、バスドラムを踏み破ってしまうアクシデントが発生した。曲こそ中断しなかったものの、演奏が終わり次第すぐにスタッフやメンバーが駆け寄った。ザワつくフロアを一望したお嬢様が、近くのスタッフになにかを尋ね、答えを得るのと満面の笑みを浮かべたのは同じタイミングだった。
『五分ですわね! かしこまりました!』
そうしてマイクをスタンドに差し、聞いてください、とすぐにアカペラによる『空と約束』の歌唱が始まった。当然、セットリストにはなかったものだ。比較的アッパーな客層が身じろぎさえ忘れていた景色を、未だに覚えている。
「ええ、本当に。ですがそれは昔からですよ……何年も前ですが、千奈お嬢様の目の前でお屋敷の花瓶を割ってしまったことがありました」
「それは珍しい」
「まだ見習いでしたから……お嬢様はまぁ、とだけ言って駆け足で通り過ぎました」
止める間もなく駆け出したお嬢様はすれ違いざまに慣れないウインクをしていた。当時はパニックでその真意に気付けなかったが、今思えば、見つかれば私がこっぴどく叱られるのを知っていたからだろう。
「破片を集めているとすぐにメイド長が飛んできて……身構えたものの、いつまでもそのときはやってこなくて……しきりにお嬢様に怪我はないか慌てるだけなのを見て、ようやく事態を飲み込みました」
「なるほど、確かに彼女らしい……素直に褒めていいものか迷いますが」
「わかっています。当然訂正は入れました……お嬢様は真横で愕然とされていましたが」
幾度と巡る、子どもたちが掴んで揺らすフェンスの向こう。蕾のような形をした東洋風の宮殿を横目に、感慨にふけってみる。思い出を瞬けば、それは極地の氷山に、煤と蒸気が支配するロンドンと移ろっていく……なんというか、雑多なコンセプトの遊園地ですね。
「流石に座りが悪いですからね」
当然だ。主人が侍従の罪を被るなど、そんなことが許されていいはずはない。すぐに謝罪と正しい報告を入れ、しっかりとお叱りは受けた。もしもまた今同じことが起きれば、いや、絶対に起こさない前提の上でではあるが。全てが片付いた後でメイド長と二人のときに報告をするだろう。
「はは……いや、すみません。想像がつくなと……しかし今は、その大胆さに他人を慮れる繊細さも備わっている……人に好かれるわけです」
上手いこと落としどころをつけたつもりか。丁度馬車の回転が止んだのも、彼に風が吹いているようで釈然としない。
「結構です」
またも差し出された手を、今度は取らなかった。出口の近く、よく磨かれた大きな瞳の蛙に、忘れかけていた珍妙な私が映って、眉間が痛む。
「あのライブはそれだけではないでしょう」
また置き去りにしたくて、話題を戻す。初めてのバンドセット、リハを合わせてもメンバー全員と練習した回数は片手で収まるほどだったと聞く。それを感じさせない練度もさることながら、随所での曲のアレンジも効いていた。元よりお嬢様はアドリブを多用する方だ。リズム隊の走りもカバーに回ったり、ライブハウスという狭いステージが故のファンサの比率を調整したり。目を光らせる箇所はいくらでもあった。
そんな話はもう既に語り尽くしたはずなのに。私の脳の一番深いところの鍵を開く。口にするたび層になるあの高揚が、より確かなものになっていく。私を占める貴方の割合が一厘でも増えますように。
「あのときの落ちサビで――プロデューサー? 聞いています……か……え?」
いない。途中から、やけに黙って話を聞いているとは思っていた。どこに? 認めよう。らしくもなく話に熱中してしまっていたと。チップシューズが鳴る音さえ気付かなかったのは私の落ち度だ。
風船。ベビーカー。ポップコーンを啄む鳩。シルクハットを胸元に深々と礼をする燕尾のキャスト。曲芸師。ひざ丈の新緑の茂み。全天を瞥していく中で、一巡で目に留まってしまったのは、どうか偶然だと思わせてほしい。
茂みの奥の噴水に、蹲る黒衣と俯く小学生くらいの少女。片方は探していたプロデューサー当人で、すぐに駆けつけようとしたが、事態の運びに足が止まる。片膝をついている、なぜか固まって動かない彼の先にいる女の子の手首を代わりに拭う仕草が、泣いているようにしか見えなかった。
そんな彼女に彼は手を差し伸べるでもない。読唇の心得があるわけでもないが、そもそもそれも動いていないのだからどうしようもない。把握は不可能の断定。焦りを含ませない足取りを意識し、歩を進めた。やはり不動だった彼に今は、不可解を問い詰めはしないが。少女の手を取り、尋ねてみる。
「……ごきげんよう。お母様は、どちらに?」
「っ…………えっと……」
可哀想に。ツインテールが肩の揺れに倣って震える。嗚咽混じりに腫らした瞼の視界がひらける。これから紡がれる言葉を聞き漏らさないよう、不安の視座を合わせて窺う。
「…………おひめさま?」
「……え?」
しかし返ってきた答えはといえば。
「お姉さん、ううん、おひめさまでしょ!」
不審がらせないよう、余計な装飾を一度しまいこんだことか。つい癖でカーテシーを交えたことか。言葉遣いか。どれがこの少女の琴線に触れたのかは不明だが、勘違いを生んでいることは間違いない。制服なのに。
衣装だけなら寧ろこの子の方がお姫様らしい。童話の姫に扮した夕焼け色のロングドレスの、両端をたどたどしく摘んで挨拶を返してくれた。涙を反射板にした輝きで彼女は私を覗く。
『──香名江!』
聖夜を越した枕元ああでのやり取りがフラッシュバックする。ああ、もう。壊すわけには、いかなくなってしまったじゃないですか。
「ふふ、バレてしまってはしかたありませんね。その通りですよ」
「香名江さん?」
「やっぱり! じゃあお兄さんは、王子様?」
唐突な矛先に、ようやくプロデューサーの硬直が解ける。
「え、いや俺は…………えっ⁉」
「まあ、お疲れですか? 王子、そろそろお城に戻りましょうか」
無粋な野暮が完結してしまう前に強引に彼の空いた腕の隙間を奪い、立たせる。空いた片手でハンカチを取り出し、目線で左膝の土埃を指す。
「ありがとうございっ⁉ …………あっ、ありがとう……?」
「おしろ……わたしも行きたい! いけるかな?」
組んだ腕の内をつねる。そんなに大袈裟に痛がることもないでしょう、軽くしたじゃないですか。しかし相変わらず、姿勢だけは良い。それは初めてお目見えしたときからずっと。
「もちろん。ほら、手を取って、さあ」
憧憬が晴らした笑顔に手応えを感じる。少女が素直に手を取れば、巻き取るように引き上げる。そのまま私たちの間に迎え入れ、横並ぶ。小さなプリンセスは何度も交互に私たちを見ては、鼻を鳴らし、子供らしい喉奥の高まりを鳴らした。インフォメーションセンターの位置を思い出し、来た道を戻る案は視線だけで成立する。
私、少女、プロデューサーの谷を作って園の真ん中を練り歩く姿を、俯瞰してしまえば終わりだと、今はひとつの笑顔を守ることに集中した。お城にはなにがあるのか、お姫様はなにを食べるのか、転校初日の質問攻めを上回る勢いがたった一人からなだれ込み、苦戦する。だがいつの間に適応したらしいプロデューサーが空想上の王族の生態を次々とまくしたてるさまに、うっすらと目を細めてしまった。
「──どこーからーゆめーは、うまーれるーのー」
ようやく段落を跨いだと安堵したところで、両端の私たちは不意に立ち止まる。誰よりもよく知っている曲の歌い出しに。
「その曲……」
「うん! 知ってるの?」
「ええ、よく知っています。私も大好きな歌なんです」
「ほんとうに⁉ わたしも! 千奈ちゃん、本物のお姫様みたいで、すっごくかわいい! わたしも千奈ちゃんみたいになりたいんだー!」
「────」
純真に触れた。思わずこみあげたものを、堪えるのも忘れて。こんな近くに目の当たるのは、初めてだったから。届いていた。一番星の、倉本千奈の、貴方のあたたかい歌声は。
「泣いてるの……? だいじょうぶ?」
「……大丈夫ですよ。きっと悲しくも、痛くもないはずです。ですよね、香名江さん」
「……はい、ごめんなさい。きっと、なれますよ。ですから、彼女を見ていてください……いいえ、見ていても、見ていなくても、願っても、願わなくても。彼女はずっと、私たちのことを照らしてくれますから。いつだって、私たちの側にいてくれますから」
もう一度、彼女と目線を合わせる。言わんとするところがどれだけ伝わっているのか、不思議そうに傾げた瞳が語っていた。それでもいい、ただの自己満足に付き合わせてしまった。罪悪感を誤魔化すように頭を撫でれば、懐疑はもうどこかへいってしまったようだった。
今日の中では指折りに穏やかな時間だったと思う。このあと、どうこの子に迷子センターとお城の辻褄を合わせるか悩んでいたが、同じ方角に向かっていたらしい母親が私たちを見つけた。事情を説明する間もなく柔らかい熱が離れて、おおよその顛末は把握された。何度かの深いお辞儀と手を振り交わして、ドラマなんてない。お別れはあっさりとしていた。
「あれはどういうおつもりだったのですか?」
「あれ?」
「噴水の前で固まっていたでしょう」
数歩の度に振り返るあの子に返しながら、前を向いたまま問う。なぜ、泣いていた彼女を前になにもしなかったのか。返答次第では、こちらにも考えがあるというもの。
「どう……と言われると難しいですね……」
「難しい……?」
「お恥ずかしながら……はは、今日はこればかりですね。あんな状況、初めてでしたから。正解がわからなかったんです。泣いている子を放置はできない。ですが身長もある方ですから、知らない男に声をかけられるのも怖がるかもしれない。近くに保護者がいるのかもしれない。そう思ったら、動けませんでした……情けない話です。動かないことが一番不審なのは、明らかなのに」
「……あなたにしては、普通の葛藤ですね」
「……やはり、なにか勘違いしているとは思っていました」
「勘違い?」
なんのことだろう。私のあなたへの態度についてなら、勘違いもなにもない。
最適解を最速で、最小手で導いては、次のタスクへ。人間性こそ気に食わないところはあれど、プロデューサーとしてのあなたはそういう、優秀さでできているではないか。
「香名江さんには、全部見透かされている気がしたんです。聡明な方ですから。ですが……これまで誤魔化せていたのなら、俺の努力賞と言ったところなんですかね……担当アイドルの前では超人で居なければならない───この教えは、アイドルになりたいと本気で願う人がいたとして、その人が迷うことなくプロデューサーに夢を懸け続けられるようにという意味があるそうです」
無秩序に胸がざわめく。話の舵が大きく切られて、話が見えなくなる。前後で異なる話題の行間を接いでみる。待ってほしい、その文脈でいくと、続きは。
「半ば無理やりスカウトという形に漕ぎ着けてしまった俺たちの間に、その姿勢は不要だと、そう思ったんです。あなたは俺に頼ったりはしないでしょうから。信用してもらうことの方が重要だと、できる限り取り繕わない、そういう俺を見せる必要があると。今日だけはなるべく、それを意識して過ごしていたつもりなのですが……」
待って欲しいと、いや言ってはいないが。つまりはこういうことか。今日の突拍子のなさも、噛み合わない会話も、不可解な行動も、それらに私が勝手に意味を求め深読みしただけで、全て自然体だった、と。プロデュース能力は傑物の域にあっても、それ以外は装わなければ実はからきしだった、と。
「突然二人で遊園地だなんて言いだしたのも」
「……そんなに突然でしたか?」
「一々こう、一言多いとは思っていましたが」
「……すみません、どれのことでしょうか…………」
「それであの子にも…………なにからなにまで、不器用すぎます!」
それは意図せず声を張ってしまうくらいに。
「それでなぜ、お嬢様の前では繕えているのですか……?」
「それは……倉本さん、俺のすることは基本的になんでも全面的に好意的に解釈してくださるので……それを否定するのも忍びなくてここまで……」
なんだったんでしょう、この半日。そしてこの一年、全部全部、私の思い過ごし。超人の皮は、少女の涙でふやけて裂けた。感謝するべきか、頭を抱えるべきか。見透かされていると思っていた? 露ほども思いませんでしたよ、そんなこと。そのまま隠し切るつもりなら、上手くいってたのではないですか。そんな恨み節ばかりが湧いてくる。
「…………今日は帰ります」
「えっ。まだ倉本さんと来たルートが──」
「お互いを知るという目的は、概ね達成できたのではないですか」
これ以上の収穫はないでしょうから。それに私、悔しいんです。ほんの一瞬でも、不器用なりになにかを成し続けたその在り方に、「一緒じゃないか」と思ってしまったこと。
「ならせめて、送ります」
「結構です───どうかその無防備、お嬢様の前では晒されませんよう」
だからこの強がりを、淀みない所作に隠すのだ。
「最後になにかあれば、お伺いしますが」
「……では、好きな食べ物……とか」
「今日びお見合いでも中々聞かないのでは?」
「俺はまだあなたのこと、十分に知れたとは思ってませんので」
だから今こんなに怪訝さを隠してもいないのだけれど。まぁ、知りたいというのなら隠すものでもない。
「……お嬢様が焼いてくださったクッキーです。他は特に。嫌いなものも同様です」
「取り付く島もない……」
「別に拒絶したくてこう言っているのではありません。本当に、そこまでの頓着がないというだけで」
眉をひそめるほど嫌いなものもなければ、目を輝かすほど好きなものもない。それだけ。
「強いていえば……味の濃すぎるものは、苦手かもしれませんね……プロデューサーは、どうなんですか?」
まかないはどうしてもお屋敷で食べることが多かったからだろうか。完璧な栄養価計算の下の食事は、繊細な味付けなものが多かった。
彼も似たようなものなのではないかと、考えたこと自体はある。仮にもお嬢様の隣に立つだけの振る舞いは去年から身についていたのだし、育ちは良いのだろう。想像を巡らせれば、銀鮭をほぐしている姿がなんとなく浮かぶ出で立ちだ。
「俺も……嫌いなものはありません。好物……言われてみるとパッと出てきませんね……強いていえば、カレーやラーメン、そばはよく食べるような……」
子供っぽいとは言わないが。意外ではあった。好物と聞いて浮かぶ最もステレオタイプな群の名前が、ほんの少しの違和感と共に次々と挙がる。
「あとは……お茶漬けなんかも」
急な毛色の違う回答は、すぐにパズルの最後のピースとなってぴたりとハマった。
「プロデューサー、もしかしてですが……営業中にすぐに食べられてカロリーが確保できるという意味で好き、と言っているのではないですよね……?」
「…………」
「……………………はぁ」
全ての真相を知ってからこの会話ができたことは不幸中の幸いだ。この斜め上の回答が、彼の本当なのだろう。今後、これに慣れていかなければならないのだ。全く骨が折れる。
「……次の外回りはいつですか」
「急ですね」
「あなたに言われる筋合いはありません。とにかく答えてください」
彼は焦ったようにスマホを開く。
「二日後ですね」
「わかりました。あと今後の営業スケジュールを私に共有しておいてください。そしてその日の朝は、事務所に寄ってください。お弁当を用意しておきます」
あなたはあまり直行はしませんから、そのくらいの時間はあるでしょう。
「いやそんな、悪いですよ」
「滅茶苦茶な生活をされて、プロデュースに支障が出ると困ると言っています。どのみち私は毎日自分の分を用意しているので、量が増えるだけでなんの支障もありません。いいから受け取ってください」
「ぐ…………それなら、今後の買い物のレシートはこちらに回してくださいね」
「折半で、ということなら」
プロデューサーはまだ不満そうだが、知ったことではない。
「……わかりました。香名江さん」
「まだなにか。次は最近の趣味は? だなんて聞かれたら私……ふふっ……笑いますよ」
「もう笑ってるじゃないですか……また明日、それだけです」
「──ええ、また明日」
浅く腰を折る。まだ日が高い。道すがら、早速献立を考えることにしよう。
そんな帰り道がやけに清々しい気分だった正体を、家路に着いた姿見に映った、口角の描くなだらかな曲線で知ることになり、急いでそのカーテンを引き下ろすのだった
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- クロモコJun 20th