「量子もつれと時間の矢」研究の黎明期
量子情報分野での著名研究者であるセス・ロイドさんは、博士課程の学生の頃、時間の向きの存在理由を量子もつれに見出そうと試みました。量子情報に対する認識が、物理業界内部で非常に低かった1980年代の話です。
粒子間の通常の相互作用では、量子的にもつれていなかった粒子達はどんどんともつれ合っていきます。個々の粒子が持っていた情報は、その過程で非局所的な量子もつれという形で保存されるようになります。このマクロな量子もつれ状態では、小さな各部分系においてほとんど情報が消滅しています。しかし系全体としては、その純粋状態の情報は全く失われていないのが、特徴です。個々の部分系の中ではなく、部分系の間の量子的な相関に多くの情報が記憶されるのです。
図1のように、熱平衡から大きくずれた初期状態にある多体系では、時間とともに相互作用を通じて粒子群はもつれ合いながら発展していき、その情報を蓄える量子もつれの構造も大規模化していきます。
この現象こそが「時間の矢」の本質であると、ロイドさんは当時考えたのです。この考えは、当時非常に先進的でした。この観点に意味があるのなら、緩和の各素過程で増加し続けるはずの量子もつれは、緩和の終状態である熱平衡状態において何らかの意味で最大になっているはずだというのです。しかしそれを確かめるのは簡単ではありません。
そこで、熱平衡状態は典型的なカオス状態の1つに違いないという前提のもと、多体系の典型的状態の量子もつれを彼は調べてみたのです。
自由度の大きな多体系において、純粋状態の集合を考えること。それは一般に高次元のヒルベルト空間の中の単位球面を考えることになります。そして彼はその系を大小2つの部分系に分け、その2つの系の間の量子もつれの分布を確率的に計算してみます。その確率測度は、状態空間での単位球面上で一様分布にとりました。現代的な言い方では、ハール測度(Haar measure)という設定になります。
得られた結果は、彼の期待に応えるものでした。その典型的な値は量子もつれの最大値にほとんど等しかったのです。典型的カオス状態である熱平衡状態では、量子もつれが高い確率でほぼ最大となる状態と考えられるのです。
この結果に基づいて、時間が流れる向き(時間の矢)は量子もつれを最大にする向きと確かに一致するという結論を彼は出して、博士論文にしました。
現代において当たり前になったこの見方は、当時は理解されることがほぼ無かったそうです。
「量子情報理論は当時大いに不人気だった。」
後になって彼はこのように回想しています。博士論文を学術誌に投稿しても、「この論文には物理がない。」("no physics in this paper")と査読者から酷評されたそうです。この査読者は、しかもノーベル賞受賞者だったらしいのです。
ところが現在では、ロイドさんのこの仕事は量子統計力学の基礎分野だけでなく、最近ではブラックホールの情報喪失問題でも重要なツールになっています。
ところで時間の矢の問題は、当時のロイドさんの話で終わったのでしょうか。現実はそう簡単ではありません。たとえば量子もつれは、典型的な多くの場合に相互作用を通じて大きくなるが、そうでない場合もあるのです。実際、量子論でも古典論でも、状態の再帰性という性質があります。十分長い時間をかけると、任意の状態の近傍に物理系を時間発展させることが可能なのです。(ただしその再帰時間は、宇宙年齢をはるかに超える長時間になるのが、普通ではあります。)
ともかく、ほとんどの時間領域で量子もつれが増加していても、ある時刻から減少に転じて熱平衡から大きくはずれた小さな量子もつれの状態になることも、実際に起きるのです。
この再帰性はエネルギー一定を満たす状態集合の「面積」が非常に大きくても有限であることに起因しています。図2のように、(E,E+ΔE)の間のエネルギーを持つエネルギー固有状態で張られる部分ヒルベルト空間を考えてみましょう。これらの固有状態の重ね合わせで作られる純粋状態の集合は、この空間の単位球面になります。そしてその上に図2で青色に塗られているような微小領域を考えます。Δtの時間間隔での時間発展演算子Uで、この青色領域の中の純粋状態全てを発展させると、その微小領域は球面上を移動していきます。
この過程では領域の形は変わっていきますが、重要なのはその面積がいつも同じであるという性質です。
そして図3のように、このUを何回も作用させてどんどん青色領域を時間的に移動させていきます。
球面の面積は有限であるため、そのうちに必ず元の微小領域とオーバーラップを必ず生じることがわかります。この事実は、いくら領域の面積を小さくしても有限である限り、変わりません。このために量子状態の再帰性が導かれるのです。
ロイドさんの結果[1]を踏まえても、時間の矢の問題について多くの研究者はもっと精密に問題設定から熟考する必要があると考えており、現在まで多くの取り組みがなされてきました。そしてこの流れは、孤立系の熱的純粋状態(Thermal Pure State)研究の最近の進展へと繋がっています。
[1] S. Lloyd and H. Pagels, Ann. Phys. (NY) 188, 186 (1988).
[2] Time’s Arrow Traced to Quantum Source | Quanta Magazine
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