深夜1時。
屋敷の者は恐らく、ボディガードと私以外は寝静まっている時間帯。
勿論、千奈お嬢様もその例外ではない。
私が寝かしつけたから、今頃スヤスヤと寝ていることだろう。
仕事が一通り終わり、休憩の1杯でちょっとした段差に座り、紅茶を啜る。
そこへ、闇を切り裂くようにして、一台の聞き慣れたエンジン音が近づいてくる。
……またあの男ですか。
「……こんな時間に、泥棒かと思えば。プロデューサー、あなたでしたか」
私は立ち上がることもなく、冷ややかな声を投げた。
車から降りてきた男は、コンビニの安っぽい缶コーヒーを片手に、力なく笑った。
「泥棒扱いはひどいですね、氷渡さん。資料を届けに来たついですよ。……倉本さんは?」
「とっくに夢の中ですよ。あなたのような不規則な男とは違うのです。それで?資料を届けるついでに、私の夜食でも奪いに来たのですか?」
そもそも、こんな深夜に直接来るなど不敬の極み。
メール一通で済む話を、わざわざ顔を見て話しに来る。
……さては、お嬢様の成長を誰かに自慢したくて堪らないのでしょう。
浅ましい。
実に浅ましいプロデューサーですね。
「はは、手厳しいですね。……でも、言いたくなるのも無理ないですよ。今日のレッスン、見ましたか?倉本さん、ついにあの難関のステップをモノにしたんです。あの瞬間の笑顔……あれは、世界を救いますよ」
プロデューサーが、酔いしれたように語りだす。
私は紅茶のカップを口元へ運び、鼻で笑った。
「ステップ?あの程度の段差、お嬢様が本気を出せば三日もいりません。むしろ遅すぎたほどです。……それに、世界を救う?買い被らないでいただきたい」
「え?」
「お嬢様の笑顔は、お嬢様ご自身を幸せにするためのもの。世界などという実体のないもののために消費されて良いものではありません。……プロデューサー、あなたのその安っぽい感動がお嬢様にプレッシャーを与えているとは考えないのですか?」
見てなさい。
少し褒められればすぐにこれだ。
ステップができた?
当たり前でしょう。
あの方は倉本千奈なのですよ。
呼吸をするように奇跡を起こすのがあの方なのです。
それをさも自分の手柄のように語るなど、烏滸がましいにも程があります。
「いや、プレッシャーなんて……。倉本さんも楽しそうにしてましたよ?」
「『楽しそう』? 観察眼が腐っていますね。お嬢様は、あなたが喜ぶ顔を見て、仕方なくサービスして差し上げたのですよ。そういう慈悲深いお方なのです。……それを理解せず、ただ喜んでいるだけとは。やはり担当を代わったほうがよろしいのでは?」
「……相変わらず、隙がないですね。じゃあ、香名江さんから見て、今日の彼女はどうだったんです?」
プロデューサーが探るように聞いてくる。
私は一度目を閉じ、今朝、お嬢様をお見送りした際の、あの一瞬を思い出した。
「……靴擦れを隠しておられましたね」
「えっ……?気づかなかったです。練習中、そんな素振りは……」
「だから節穴だと言うのです。右足のかかと、わずかに重心が外に流れていました。帰宅後、私が丁寧に手当てをしましたが……。あなたが無茶な反復練習を強いたせいでしょう。……万死に値しますね」
あぁ、あのおいたわしい足首。
私がどれほど心を込めてマッサージしたと思っているのです。
プロデューサー、あなたの命一つでお嬢様の靴擦れが治るなら、今すぐその首を差し出させるところですよ。
……まぁ、あなたの命にそんな価値はありませんが。
「……すみません。明日からはケアの時間をもっと増やします。……でも、そんなところまで見てるなんて、さすがだ」
「メイドですから。あなたのように、ライトを浴びている姿だけを見て満足している男とは、見ている解像度が違います。……お嬢様の睫毛が今朝より一本、角度が下がっていることすら、私は把握していますから」
「それは……流石に引くというか、なんというか……」
「褒め言葉として受け取っておきます。……で、資料は?」
私は手を差し出した。
プロデューサーは慌てて鞄から分厚い封筒を取り出す。
「次回のステージの構成案です。倉本さんの意見も聞きたいけど、まずは君に目を通してほしくて」
「……ふん。お嬢様を疲れさせるような演出があれば、即座に赤ペンで埋め尽くして差し上げます。……帰ってください。エンジンの音が、お嬢様の安眠の邪魔です」
「……はいはい。おやすみです。香名江さん。……あ、これ、差し入れ。香名江さゆの分です」
そう言って、プロデューサーはレジ袋に入った温かいほうじ茶のペットボトルを石段に置いた。
「……いりません。毒でも入っているのでしょう」
「入れるわけないでしょう。……じゃあ、また明日。現場で」
車が去っていく。
テールランプが夜の闇に消えるまで、私はそれを見送った。
「……毒、ではありませんね。ただ、安物なだけです」
私は置かれたほうじ茶を手に取り、その温かさを指先で確認する。
冷めた紅茶を飲み干し、私は再び、お嬢様が眠る屋敷へと背を向けた。
……全く。
お嬢様の輝きを一番近くで見ているのが自分だと思っている、あの勘違い男。
……でも、まぁ。
お嬢様が一番星になるまで、プロデューサーの運命を動かす力だけは利用してあげましょう。
……あくまで、利用、ですが。
屋敷の扉を閉める。
私の仕事は、まだ終わらない。
明日の朝、お嬢様が一番美味しい温度でココアを飲めるよう、お湯の加減を計算し直さなくてはならないのだから。
ああ⋯やっぱり香名江とPこういう関係がよく似合う⋯
このやり取りを千奈に見られて「もう!二人とも!辞めてくださいまし!」とか怒られてオロオロしたあとに、お互いが「あなたのせいで⋯」とか責任転換しあっててほしい⋯