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ono_tsubame
知識と構造──解釈と感じ方としての主観性
今回はぁ、解釈と感じ方としての主観性について吟味していきたいと思います。
一、解釈の主観性
わたしたちは基本的に他者の心の中を理解したり把握したりするわけではない。アヒルはどういう生命体なんだろうか、と疑問に思っても他者のアヒルに関する考え方が浮かぶとは限らない。また、アヒルに関する考え方を取り入れようと、質問したり本などで調べたりしても精確に回答が齎されるわけではない。自分自身の考え方でアヒルについて解釈してしまう、こういうことがよくあるのである。テレビでアヒルの映像が映っていて、アヒルの体毛は白いんじゃないかと解釈する。多くの人々が自分自身の考え方で解釈しているという主観性をはたらかせている。共感・共鳴ではないと他者の考え方に触れられない、そういう見方もある。これは、共感・共鳴ではない"かぎり"他者の考え方に触れられない、という"かぎり"という語をアスペクトの閃きとして視野に入れることが可能である。アスペクトの閃きというのは対象を視野に入れることである。アヒルかうさぎかどちらもかというアスペクトの閃きという事柄も懸念されえる。(アヒルにもうさぎにも見える映像をご覧ください。)
二、感じ方としての主観性
自分自身の感じ方は他者と共感しないかぎり自分自身の感じ方の中で主観性がはたらいている。間主観性、相互主観性というのは共感性である。この間主観性のはたらかない、主観性のみによる体験の感じ方では、知識化することは可能だが、独りよがりの感じ方であって、誤った情報として知識化されることもある。


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