知識と構造──問いと応えと余談としての構造化
今回はぁ、問いと応えと余談とが知識として具有されうるのは、現存在の存在のみが適するという仮説を立ててみたいと存じます。
一、問いと応えと余談と
問いが自分の心の中で発される、この心の中を自分自身には了解する能力が具わっている。母親は優しいか、と自問するとき、優しい、という応えがあったり、優しい、ということがわかったりする。わかった事柄の保持は暗記で可能であり、わかったということを知っているということとしての知識もあり得るであろう。次いで、わかったという現象がトマト関連では生じなかった、とうもろこし関連では生じなかった、と意味のなさそうな余談を考えることも知識化の方途であるが、余談ばかり考えていては空回りしてしまいかねない。いわば時間の浪費という現象であって、思考回路を転換していくことが要請されうる。現存在の存在は、余談を知識化しても転換に適する可能性がある。カブトムシが樹液樹液樹液と無駄なことを拵えたとしても、転換には適さない。われわれ現存在の存在が問いを発し、応えを出し、暗記することで、実存的展開を果たすことが使命なのである。
二、問い方と応え方
脳裏に問いが発されたり心の中で問いが発されたり、胸の内で問いが鳴ってしまったりすることも問い方の分岐である。応え方としては、脳裏で応えが発想されたり心の中で応えを想ったり胸の内で応えが鳴ってしまったりすることが考えられうる。脳裏と心の鳴りと胸の内の鳴りというもので言葉が知識化され、潜在意識野も含めれば、少なくとも三種類の構造が看破しうるのである。知識は記憶野にあり、理解・了解・音調・視覚野の情報・鳴り・想い・思考・文章・声・心的現象といった各構造がある。
三、言葉としての嘘としての知識化
この宇宙に鳥は無い、という嘘について考えていきます。嘘を嘘と知識化することはできます。しかし、嘘の内容は事実ではないため知れません。言葉としての嘘としての知識化は、嘘が嘘であるとあるがままに考えたときに齎されます。


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