ゴミを捨てれば「民度が低い」と怒り、ゴミを拾えば「出しゃばるな」と怒る。では一体、人間はどうすれば満足するのか。人間というものは、実に不思議な生き物である。日本人サポーターが試合後にゴミを拾えば、世界は「素晴らしい」と褒める。ところが褒められた途端、今度は同じ日本人の中からそれは偽善だ、清掃員の仕事を奪っている、自己満足だと爪を立てる者が現れる。まことに忙しい。おそらく答えはない。なぜなら彼らが見ているのは、ゴミではないからである。
見ているのは、自分の中にある劣等感であり、苛立ちであり、「誰かが褒められていることが許せない」という小さな嫉妬なのである。
ゴミ拾いとは、本来ただの行為である。
落ちているものを拾い、場をきれいにして帰る。
それ以上でも以下でもない。
だが、SNSという黒い水槽に投げ込まれると、その単純な行為に無数の意味が貼りつけられる。
「日本すごい」に見える者もいる。
「海外へのアピール」に見える者もいる。
「労働を奪う行為」に見える者もいる。
「美談の押しつけ」に見える者もいる。
しかし私から見れば、そこにあるのは、ただ一つの静かな事実である。
汚れた場所を、少しきれいにして帰った。
それだけである。
もちろん、「日本人は全員素晴らしい」などと言うつもりはない。
日本にもゴミを捨てる者はいる。
日本人にも人を傷つける者もいる。
卑怯な者も、傲慢な者も、冷たい者もいる。
国籍ひとつで人間の品性が決まるなら、猫はもっと人間を信用している。
だが、それと同時に、良い行いをした人間まで引きずり下ろす必要もない。
「日本人だから偉い」のではない。
「拾ったから偉い」のである。
そこを間違えてはならぬ。
善行を国家の手柄にしすぎるのも危ういが、善行を国家ごと憎んで踏みにじるのもまた浅ましい。
問題は、ゴミを拾ったかどうかではない。
誰かの良い行いを見た時、自分の心がどう反応するかである。
素直にいいねと言える人間もいる。
自分も次は拾おうと思える人間もいる。
一方で、「偽善だ」「気持ち悪い」「世界の恥だ」と吐き捨てる者もいる。
その瞬間、拾われているのはスタジアムのゴミではない。人間の心の底に沈んだ、分別されていない感情である。
燃える嫉妬。
燃えない誇り。
資源になり損ねた皮肉。
誰にも回収されない劣等感。
それらがSNSのタイムラインに散らばっている。
清掃員の仕事を奪う、という意見も一見もっともらしく聞こえる。
だが、仕事とは「汚しておけ」という免罪符ではない。
飲食店に店員がいるからといって、床に皿を投げる者はいない。
ホテルに清掃員がいるからといって、部屋を故意に荒らす者が上客になるわけでもない。
誰かの仕事があることと、自分が最低限きれいに使うことは、矛盾しない。
むしろ、他人の労働を尊重するからこそ、汚さずに帰るのである。
本当に恥ずかしいのは、ゴミを拾うことではない。
誰かが拾ったゴミを見て、その手の清潔さより、自分の心の汚れを先に世界へ撒き散らしてしまうことである。
日本すごい、で終わらせる必要はない。
世界もやっている、で張り合う必要もない。
ただ、良いことは良い。
それでよいではないか。
人間はすぐに旗を立てる。
国の旗、思想の旗、正義の旗、反論の旗。
だが、ゴミを拾う手に必要なのは、旗ではない。少しの余裕と、帰る場所への礼儀だけである。
スタジアムをきれいにして帰る者より、善意を汚して帰る者の方が、よほど分別が難しいと私は思っている。
すげーな日本がチュニジアに勝ったってのに、今度は「日本人サポーターはゴミの分別してない!ゴミをゴミ箱に突っ込んでるだけ!」て言いはじめたよあの界隈…。
もう人生楽しめよハゲるで?