【消滅家族の記録 15】 父の戦争体験
私は父と親しく話した記憶がない。小さい頃から、よそのおじさんのような存在で、なつくこともなく疎ましい存在だった。
それが高校の時、夏休みの宿題の日本史レポート「家族の戦争体験」を作成するため、家族のなかで唯一戦争らしい戦争を経験した父に話を聞くことになったのだ。ほかの家族は戦災にあったこともないし、食料の配給制や隣組での連携を経験したくらいだった。
話を聞き出すためには父と話さなければならない。仕方なく父に宿題の趣旨を説明し、体験したことを時系列で具体的に話してくれるよう頼んだ。
倒しても倒しても敵が湧いてきて到底勝てぬと知りながら従軍せざるを得なかった体験談が過熱して息苦しくなることもあったが、取材する記者の気分で淡々とメモを取った。
そのメモをまとめて、宿題の日本史レポートを作成し提出した。
予期せぬことが起こった。日本史の授業中に、先生が私のレポートを朗読したのだ。作者の名前は明らかにされなかったものの、恥ずかしさと作者の許可なく読まれたという怒りで、顔から火が出る思いだった。
最近、その思い出深い「日本史レポート」を見つけた。本に挟んであったのだ。数十年ぶりに読み返してみて、あまりの生々しさに驚愕した。
昨今「南京虐殺はなかった」「日中戦争は侵略ではなかった」といった言説を吐く人が増えているが、私の父は不本意であったとしても侵略の片棒を担いだ人間に間違いない。この「日本史レポート」をnoteに載せることで父を断罪し、父に代わって中国の方々に謝罪したい。
「日本史レポート」
私は先生がどういう趣旨でこの宿題を出されたのか疑問に思う。第一、無知で鈍重な大衆に「あなた方は太平洋戦争をどう受け止めたか」と問うてみたところで、歴史学的意味を持つ返事がかえってくるだろうか。彼らにとって、戦争は、日々腹いっぱい銀メシを食べられるのなら、身内から戦死者が出ないなら、何年続こうと、いや永久に続いたとしても一向にかまわぬのだ。
それに、例え彼らが戦争は「悪」だという素朴な感情を抱いていたとしても、赤紙は否応なしに青年たちを引き立てていくし、新聞等は「鬼畜米英をやっつけろ」と急き立てるし、そして偉い軍人さんたちは「天皇陛下のために」と民衆を扇動するしで、彼らは戦争に対する自分の意思を捨て去らなければならなかった。偉大な学者先生たちまでが戦争に赴くべきだと説いた時代だったのである。
このレポートを書くために、私の父のような下級兵士だった者に先の戦争に対する意見をきいたところで、普通の神経の持ち主なら二度と聞きたくないような残酷物語や飢餓物語を得々と弁じたてるだけだろう。
それ故、私は歴史的意義をもった先の戦争についての感想は、かつての高級将校の口から語られるべきだと思うのだ。彼らは○○海戦やxx事件について正確に語ることができる。
しかしながら、私は今、レポートを書こうとしている。宿題は休み終了後、直ちに提出すべき義務であるそうだから。
私の父はいわゆる職業軍人ではない。それどころか、なるべくなら兵役なんか行きたくなかった。それに円背のうらなり瓢箪で、徴兵検査に合格しない自信も多分にあった。が、あにはからんや「甲種合格」。渋々、練兵場へ連れて行かれた。
盧溝橋事件の一か月後に中国に渡り、一時帰国はしたが、約6年滞在した。その全部が軍隊生活ではなく、何年間かかなり優遇されて(給与は当時の下級将校よりはるかによかった)中国の地方自治体に勤めていた。
私は父がどこでどんなふうに戦ったのか、いろいろな地名が出てきてよく覚えていない。それで、印象に残った残酷物語と逃亡物語について書こうと思う。
軍隊とは極端に封建的で残酷なところだと、彼は言う。下級兵士だった彼は、物を誤って壊すと、「陛下のものを粗末にする不届きな奴だ」と皮のスリッパで殴打され、たるんでいると言われては往復びんたを喰らった。そして将校たちには有り余る食料を与えられたが,重労働の歩兵には充分与えられず、いつも腹を空かせていた。
父は戦争という名のもとに数えきれない程の罪を犯した。今なら二三回死刑を受けても足らないだろう。
まず、敵兵とはいいながら、確実に11人は殺した。行軍の途中、中国人(満州人)の家を見つけると、あるものすべてを、家畜までも略奪し、その家の戸や家具で焚火をしてその家畜を焼いて食べたり、死んだ戦友の足を切り取って焼き遺骨づくりをしたり、捕らえた敵兵を木に縛り、あたかも竹槍と藁人形で突きの練習をするかのように、苦痛で悶える人間を楽しみながら刺し殺したりした。
彼はすべて命令だったと弁解する。
彼の上官はもっと残酷なことをした。ドイツ・ナチスのように捕虜を使って生体実験をした。麻酔もかけずに、医学的な実験としてではなく、遊びとして生きている人間の皮膚を切り取ったり、内臓を切り取ったり、腕を切り離したりした。
ある時、重慶の方向からB29を護衛してきたP51を撃ち落としたとき、一人の乗員が助かり捕虜になった。彼らは負傷した米国兵を数日間にわたって尋問し、聞き出せるだけの情報を手に入れると、珍しい鬼畜だといって晒し者にして銃殺してしまった。
終戦時、父は輸送隊にいた。中国大陸の日本軍は徐々にシベリアに送られていった。
彼の戦友たちの多くも、シベリアの凍土に相果てるとも知らずに、ウラジオストクから日本へ帰れると信じて、貨車に乗せられシベリアに送られていった。
そんな混乱のなかで、彼の部隊の将校たちは、ちょっとしたことで手に入れた金の分配をめぐって大もめにもめていたのだという。
シベリアに送られる三日前に父は脱走を計画した。大連や旅順の港町や朝鮮半島にいる日本軍が北方に送られているという情報を得たからだ。その時、彼はシベリアへ送られることを直感したのだった。
それから急いで逃亡の準備をした。将校たちが金を持っていることを知っていたので、「餞別をくれ」と一人の軍医将校に迫った。ところがその軍医はシベリアに持って行ってもちり紙にもならぬお札を大事にしまい込んでいて一銭も出そうとしなかった。しかし、父の「生体実験」の一言で、わなわな震える手で一万円を差し出し「帰国したら、軍法会議にかけますぞ」と言った。父が中国語を話せたので、彼らの数々の悪事が暴露されるのを恐れたのだ。
軍隊生活を通してこれほど愉快なことはなかった、と彼は言う。
その夜、父は自動車に食料や毛布などを積めるだけ積み、近くの民間の日本人と連絡を取り、その家の縁の下に物品を運び込み、長く行動を共にした部隊に別れを告げた。
それから、それらの物品を満州人に売り払った金と、軍医から巻き上げた金で、その日本人家族と共に二三か月間、飲めや歌えやで過ごした。まさに最後の晩餐だった。
ついに持ち金も底をついたので、その家族と別れて、あてのない旅に出た。途中、幾度も危険にさらされたが、ロシア人や満州人に使われて、汽車の修理工、自動車修理工、土方、レンガ運び、鋳物工…何でもやって命をつないだ。
彼は、日本はロシアではなくアメリカに占領されてよかった、という。彼は方々で、腕時計や万年筆をめずらしがり、いじり壊してしまうロシア人をたくさん見たからだ。
奉天(瀋陽)に着いた時、引揚が始まったことを知った。そして、運よくも満鉄に勤めていた旧友とバッタリ出会った。
ついに父は、終戦から8か月を経て、満鉄社員として日本に帰国することができたのだ。
くだらぬ体験談のようなものを長々と書いたが、要するに父の話が言おうとしているのは、自分だけは生きのびようと利己に徹するのが得策ということだろう。「陛下のために」「お国のために命も捨てよう」と大義名分を気取ってみたところで、全く「骨折り損のくたびれ儲け」。熱に浮かされた安っぽい英雄主義にすぎぬのだ。勝っても負けても、戦争の恩恵をこうむるのは一部の将校や御用商人だけなのだ。 ~完~
テレビの戦争関連番組で舞鶴港から日本に上陸する引揚者・復員兵を見るたび、父を思い出す。
同居していた祖母は、殺人者が同じ屋根の下にいるような気持ちになるのか、父を毛嫌いしていた。私はなぜか父に近づきたくなかった。彼はいつも遠くを見ていて、心ここにあらずに見えた。
昔は、家族揃って外食をする機会は少なかったが、父は偶に思いついたように街に一軒だけあった中国人が経営する本格的中華料理店に連れて行ってくれた。普段は寡黙な父が、店の人たちと楽し気に中国語で話し、生き生きとしていた。
酪農や農作物に繋がる植物について学びたかった父は、中学時代に進路を巡って彼を軍人にさせたい父親と対立し、家を飛び出したと言っていた。徴兵で否応なしに兵士にさせられた彼の人生は中国で終わり、その後は贖罪を果たすための魂の時間だったのかもしれない。


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