うさぎのぬいぐるみ
前作→ novel/23094494
※前作『クレープ』の咲希ちゃん視点です
※天馬兄妹の幼少期を捏造しています
※司がトラウマを抱えています
※前作を先に読むのを推奨します
★感想等あればマシュマロにお願いします
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『お兄ちゃんはひまわりだよ!』
太陽みたいだったから、そう言った。
ひまわりがいつか枯れてしまうものだなんて、考えたこともなかったのだ。
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咲希は全部知っている。
「……咲希、頬にクレープのクリームがついてるぞ」
「ホント?!」
手近に拭けるものがなくて、慌ててバッグからポケットティッシュを取り出そうとしていると、司が紙ナプキンを持った手を伸ばしてくる。
「拭いてやるから、こっちを向いてくれ」
その笑顔が、昔、ひな祭りのケーキ越しに見た彼の笑顔に重なる。
司は昔からそうだった。
咲希のために、できることならなんでもしてくれた。それがどれほど嬉しかったかは、きっと咲希にしかわからない。
『咲希!!』
一心不乱に走ってきた兄に、小学生の咲希は心から安心した。
クレープに目を引かれて立ち止まった咲希は、繋ぐ手が緩んだ瞬間、誰かに押されて人の濁流に飲み込まれた。司のもとに戻ろうにも、人の流れに逆らうことは、身体の小さかった咲希には不可能だった。
一人ぼっち。それは咲希が最も嫌うことだった。
怖くてこわくて、どんなに叫んでも喧騒に飲み込まれてしまうから意味はなくて。
そんな時に発作が起きたものだから、絶望した。自分はこのまま一人ぼっちで消えちゃうんだな、と思って、泣きたくなった。
そこに司が現れた。
探しにきてくれたのだとわかって、胸が温かくなり痛みも少し和らいだ。司はいつでも、咲希のヒーローのような存在だった。
だから、驚いた。
——立ちすくむ兄の表情を、見たときは。
「おいしいか?」
「うん!」
司の言葉に頷くと、彼は「よかったな!」と破顔した。彼がついさっきまでひとりで苦しんでいたなんて、誰にもわからないだろう。
ふたりはショッピングモールのフードコートでクレープを食べていた。空いている席が運良く見つかり、向かい合って座っている。
お昼にクレープ。司なら反対しそうなものだが、何も言わずに買ってくれた。
——お兄ちゃん、覚えてるのかな。
咲希は手元のクレープに目を落とす。いっぱいに詰まった生クリームが、少しはみ出していた。
「お兄ちゃん」
咲希が呼ぶと、司は優しく微笑んだ。
「どうしたんだ、咲希」
その顔をされると、どうしても次の言葉が出てこなくなる。「覚えてないの?」と、そう訊きたいだけなのに。
「……なんでもないよ!」
笑顔で言うと、司は頭に疑問符を浮かべながらも自分のクレープに齧りついた。
★
あの出来事から、司は目に見えて変わった。
咲希がどこへ行くにも、何をするにも、必ずついてくるようになった。もともと気にかけてくれてはいたが、それの比ではないほど、心配された。
『咲希を守るのは兄であるオレの役目だからな!』と声高々に言っていたが、それだけが理由ではないと咲希は知っていた。
中学生のとき、司はよく病室に来てくれていた。ある日、咲希が眠りから目を覚ますと、司が自分の手を握っていたことがある。
お兄ちゃん、と声をかけようとして、咲希は口をつぐんだ。司の尋常でない様子に気づいたからだ。
『咲希……咲希……』
彼はベッドの横に跪いて、咲希が起きたのにも気づかず、ただひたすら名前を呼んでいた。
その声が切羽詰まっていて、咲希はいたたまれなくなったが、話しかけられなかった。きっと咲希には見られたくない姿だろうから。
寝たふりを決め込んでいると、司の言葉が耳に入った。
『死なないでくれ……咲希……』
別に危篤な状態ではないのに、ぶつぶつと唱えるような声で繰り返す兄に違和感を持った。
しかし次の言葉を聞いて、咲希は悟った。
『オレのいないところで、死なないでくれ……』
——お兄ちゃんは、アタシとはぐれたときのことが、忘れられないんだ。
★
咲希が見つけたとき、司はしゃがんだまま壁に寄りかかって苦しそうに息をしていた。
「はぁっ……はっ……」
駆け寄ると、不規則な呼吸音が聞こえて、まずいと思った。
「お兄ちゃん!」
何かを掴もうとするように伸ばされた右手を手に取る。
司が顔を上げてこちらを見た。顔色は青白く、薄く開いた唇は小さく震えている。潤んだ瞳は、生理的な涙によるものだろうか。
妙に幼い表情が目に焼き付いた。
咲希は生まれて初めての恐怖に襲われた。いつも生気が有り余っている兄が、誰にも気づかれないような隅っこで小さくなっている。そのまま消えてしまいそうに見えて、咲希は手の力を強めた。
「お兄ちゃん、大丈夫?!」
そう訊くと、彼は顔を歪めた。それは痛みや苦しさによるものというより、嬉しさによるもののように咲希には見えた。
きっと彼は、小学生の頃にはぐれたときのことを思い出してしまったのだろう。あの時と同じように、咲希がいなくなってしまったから。
大切な家族と離れてしまい、見つけたとき、苦しそうにしている。その辛さが咲希は初めてわかった。今なら、ただでさえ幼かった司がどれほどの恐怖を感じたかも、しっかり理解できる。それなのに。
「大丈夫だ」
普段の調子でそう言い放った司に、咲希は胸が抉られるような思いがした。
ああ、兄はどうしても弱みを見せてくれない。やっと見られたと思っても、いつもうまく隠されてしまう。どうしてそこまでするのだろう。
——アタシだって、お兄ちゃんのことを助けたいのに。
★
お兄ちゃんはいつも、大切なことを忘れてしまう。
「ん? どうしたんだ、咲希」
司は柔らかい笑顔を浮かべる。いつも咲希だけにする表情だ。それに優越感を覚えないわけでもない。しかし、どうしても思ってしまうことはある。
アタシがお兄ちゃんの妹じゃなければ、お兄ちゃんはアタシを頼ってくれるのかな、と。
クレープを食べ終えたふたりは、タクシーに乗って帰路についた。ショッピングモールは家から少し遠いから、司の身体が心配で、なんとか説得したらタクシーを使うことにしてくれたのだ。
司の手元には、咲希があげたうさぎのぬいぐるみがある。
——今しかない。
意を決して、咲希は切り出す。
「ねえお兄ちゃん、なんでアタシがうさぎを選んだか、わかる?」
司は目を瞬いてから、うーんと唸り始めた。髪をくるくると指先で回している。最近、髪の毛が伸びてきたからついたのだろう、考える時の新たな癖だ。これを眺めるのがなかなか面白い。時々人差し指が空振って、宙を彷徨うのだ。
「うさぎが好きだからか?」
無心で見ていたら安直な答えが返ってきて、咲希はむすっとしてそっぽを向いた。
「違うよ〜!」
「それなら……昔うさぎのぬいぐるみを持っていたからか」
「あーもう、そうじゃなくて」
お兄ちゃんは、どうしてこんなに忘れんぼなの? と、咲希は焦れったくなる。
咲希は一度も忘れなどしなかったというのに。
「うさぎ……うさぎ、が………」
ふと、司の声が途切れて、咲希は隣を見た。
彼は窓の側に頭をもたせ掛けて、子供のようにすやすやと寝息を立てていた。
窓から差した光が、金色の髪を照らしてきらきらと輝いている。それを見て、やっぱりお兄ちゃんは太陽だな、思った。
小学生のころ、兄に抱いていたイメージだ。咲希が見る司は、いつも輝いていた。眩しいほどの光が咲希を何度救ってくれたか、きっと一日かけても数え切れない。
ただひとつ、知らなかったのは、その輝きが不断ではないということ。
「お兄ちゃん、覚えてないの?」
咲希は行儀のよい寝顔を覗き込む。
「アタシね、お兄ちゃんにお礼をしたかったの」
うさぎのぬいぐるみを、寝ている司の手からそっと掴みとる。
それは、咲希が昔持っていたうさぎのぬいぐるみに、よく似ていた。
「どうしてもこれがほしかったのは、お兄ちゃんが買ってくれた、あのうさぎのぬいぐるみに似てたからなんだよ」
咲希は昔を思い出す。
咲希が買い物中にはぐれて、司が探し出してくれたあの日のことだ。咲希が運ばれた病室で目を覚ましたら、枕元に見慣れないうさぎのぬいぐるみが置いてあった。
『あれ、これ……』
咲希はゆっくり身体を起こして、きょろきょろと室内を見回す。母親が気づいて、駆け寄ってきた。
『咲希、具合はどう? お医者さんは、すぐによくなるから、明日か明後日にはお家に帰ってもいいって——』
『ねぇ、お母さん』
咲希が母親の言葉を遮った。珍しい咲希の様子に、母親は目を見張った。
『どうしたの?』
『これ』
咲希はうさぎのぬいぐるみを指さした。
『このうさぎさん、なに』
『あ、これはね』
母親が表情を緩める。
『お兄ちゃんが、咲希のために買ってくれたの』
『お兄ちゃんが……?』
『先にそれを伝えるべきだったね』
ぬいぐるみを手に取って、咲希に渡してくれる。
ふわふわな毛が、くすぐったかった。
『さっき、咲希を連れてくるとき、お兄ちゃんがどうしても残りたいって言うから、後で迎えに行くことにしたの。それで、咲希を送ってから戻ったらね、お兄ちゃんはこのぬいぐるみを差し出して、これを咲希に渡してくれーって言ってね』
咲希はうさぎのぬいぐるみを見つめる。
つぶらな瞳が見つめ返してきた。
『お兄ちゃんはきっと、咲希が最後までお買い物できなかったから買ってくれたんだね』
そっか、と咲希は思った。
お兄ちゃんは、アタシが前、うさぎのぬいぐるみがほしいって言ったのを覚えててくれたんだ。
だからアタシを元気づけるために、うさぎを買ってくれたんだ——
今ならわかる。あのうさぎのぬいぐるみは、小学生には高すぎる。少し貯めたところで手が届かない金額だ。
おそらく買い物に行くずっと前からお金を貯めて、うさぎのぬいぐるみを買おうとしてくれていたのだ。家族で買い物に行ったときに購入するつもりだったが、途中で咲希が倒れたためひとりで買いに行ってくれたのだろう。
あの人混みの中を、ひとりで。
「お兄ちゃんが忘れちゃっても、アタシは一生忘れない」
司が過去の記憶に苦しんでいるのを咲希は知っていた。店の中について来させなかったのは、うさぎを選ぶのを見られるのが、恥ずかしかったからだ。しかし結果的に司はぬいぐるみのことを覚えていなかったし、会計が終わったら人に阻まれて店に戻ることができず、司から離れてしまった。
「ありがとう、お兄ちゃん。恩返ししようと思ったのに、また怖い思いをさせちゃって、ごめんね……」
兄のあどけない寝顔に語りかける。
こんなに無防備な姿を晒してくれるのに、弱点だけは隠そうと頑張るのだ、この兄は。
声が大きくて、鈍感で、忘れんぼ。目立ちたがり屋で、変なところがある。でも……。
咲希は、彼に囁く。
「世界で一番、大好きなお兄ちゃんだよ」
咲希は全部知っている。
司の恐怖も、苦しみも、底知れない優しさも——咲希を大事にする理由も。
だから咲希は、今日も兄に笑いかける。
優しい世界ですね…ふたりともお互いに大切に思いあってて、素敵でした。