「差別を生むのは個人か、それとも構造か」
「人は肌の色ではなく、人格の中身で評価されるべきだ」
肌の色が違うだけで、食事する場所・泊まる場所・トイレをする場所まで分けられていたらどうでしょうか?
平等に分けるならば、まだ理解はできますが、一方に圧倒的不利な形で区別されたらどうでしょうか?
1960年代のアメリカでは実際に黒人を差別するということが横行していました。
その代表的な法律にジム・クロウ法というのがありました。白人と黒人の公共スペースを強制的に分けるという法律です。
その法律の背景には「分断するけど平等ね」というものがありました。
しかし、実際には黒人に圧倒的不利な環境でした。
今回の参考映画『グリーンブック』という映画では黒人というだけで、レストランのトイレを利用させてもらえず、外の工事現場の簡易トイレみたいなところで用を足さなければならないシーンがあり、すごく衝撃的でした。
「え?同じ人類という種でしょ?同じ人間なのになんで?」って思いました。
多分彼ら(白人は)は黒人のことを同じ人間と思っていなかったところがあったから、そのような過酷な所業をしたのではないかと思います。
この『グリーンブック』という映画は、そんな黒人差別の激しかった1960年代のアメリカの話です。
黒人の有名なピアノアーティストの運転手に白人が雇われて、徐々に仲良くなっていくという話です。
この映画の面白いところは、黒人のピアノアーティストの方が教養があって階級が高く、白人の運転手の方が野蛮で教養がないというところです。
ですが、実際に差別されてしまうのは、黒人の方なんですよね。
このことから、人々は「肌の色」というたったその1つの尺度で人の価値を決めているということが分かります。
今生きている私たちから見ると、「なんて愚かな」って思ってしまいますよね。「人間の価値はそんなもので分かるわけない」って思いますよね。
でも、私たちも似たようなことをしていませんでしょうか?
人種の差別はしてないかもしれませんが、物事を「二項対立」で考えて、白か黒で考えてしまってはいないでしょうか?
例えば「この人は東大卒だから信頼できる」とか「この人は美人だから心も綺麗な人なんだろう」とか、「この人はみすぼらしい姿をしてるから、ろくなやつではないんだな」とかです。
見た目や肩書だけで、その人の良し悪しを判断してしまってはいないでしょうか。
そう考えると、ただ単に昔の人を「あいつらは差別をしていた悪者である」と単純に片付けてしまっていいのでしょうか?(もちろん差別自体は許されざる行為です。)
彼らがそのような態度になってしまったのは本当に彼らが悪かったのかということを考える必要があると思います。
僕は差別の背景には2つの要素があると考えました。
心理的な要因と社会構造的な要因です。
先ほども話したように私たちは物事を「二元論」的に考えてしまう癖があります。
これは脳の癖なので、その人が完全に悪いとは言えません。
後は、私たちは「ウチ」と「ソト」で分けたがる習性もあります。
自分が属している「ウチ」に「ソト」から人が入ってきたら、私たちはどうしても「ウチ」を優先してしまうのではないでしょうか。
そっちの方が脳にとっては楽だからですね。複雑な物事を単純に考えるというが脳は得意なんですね。
また、社会構造的に黒人と白人を区別する法律があると、いくら個人が黒人に対して何とも思っていなくても、決まりだからと言って無意識に差別してしまうという状況が起こると思います。
そして、生まれた時からそれが当たり前になっていると、大人になってもそれが普通だと思って悪気なく差別をしてしまうということもあり得ると思います。
このように複雑な要因が絡み合って差別というのは起きてくるので、一概に差別をする側が完全に責任を負っていて悪いと言い切るのはどうなのかなとも思います。
最後にまとめると、僕が言いたかったことは、差別=悪いで終わらせるのではなくて、その背景にはどんなことがあるのか、そして、現代における「差別」ってどういうのがあるのだろうか、ということを考えたいということです。
ではまた。弱者の勝ち方でした。


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