現代絵画と品質:作品展示編
絵画工学は、“充実した鑑賞体験を生み出す作品を制作することさえできれば、そこに価値と魅力が宿る”という理論を出発点にしている。この考え方は、“魅力的で価値のある作品を鑑賞すると充実感が得られる”という鑑賞者側の感覚を、制作者の視点から反転させて捉え直したものだ。
だが、近年の現代絵画は今まで以上にオルタナティブな場所に展示されたり、多種多様な人々が鑑賞するようになった。そのため、空間と鑑賞者という制御不可能な外的要因との軋轢によって強烈なバックラッシュや炎上を引き起こしてしまう例も少なくない。これらの問題を乗り越え、より多くの鑑賞者に質の高い鑑賞体験を提供するにはどうすればいいのだろうか?
鑑賞ノイズと頑強性
絵画工学では、鑑賞体験の破綻をもたらす要素(誤解 / 価値観の相違 /展示空間との不調和など)を鑑賞ノイズと呼ぶ。しかし、鑑賞ノイズの多くは対処が難しく、除去しようとしてもモグラ叩き状態になりキリがない。
そこで絵画工学では、鑑賞体験の質を高めるためには鑑賞ノイズに対して頑強な作品をつくる必要がある、と考えていく。つまり、誤解されても、空間と調和しなくても、作品の魅力が損なわれないのならば何も問題はないと考えるのだ。
むしろ頑強な作品の多くは、鑑賞を台無しにするはずの不測の事態:困惑を、作品の美的魅力へと変換するため、鑑賞者を心地よい困惑へと誘う作品こそが良い作品と考えることができるだろう。
絵画は鑑賞者を困惑させてもよい(むしろそうすべきだ)という主張は一見すると不条理だが、絵画というメディアの特性を考えれば当然のことでもある。絵画は空間に溶け込んだり、複雑な事象を誤解なく説明することに向いていないからだ。
視覚芸術は鑑賞者の視線を惹き付けて鑑賞してもらえないと意味がないので、必然的に空間の調和を乱す異質な存在となる。また、現代絵画は革新性と専門性を重要視するジャンルであるため、大多数の人々にとって“よく分からないもの”に取り組んでいる場合が多く、鑑賞者の理解 / 共感 / 同意を得ることが根本的に難しい。
つまるところ現代絵画は困惑生成装置なのだ。それでもアーティストは視覚言語を駆使し、不快なはずの困惑という体験を、知的好奇心を刺激する魅力的な鑑賞体験へと変換するため、様々な展示手法や表現技法を開拓してく必要がある。
この方法論に基づいて作品を制作するならば、異質な物体、難解な理論、語りにくいテーマ、技術的なぎこちなさといった困惑を与える要素は、鑑賞体験の充実度を高める強力な武器となる可能性を帯びる。(瞬間的かつスムーズな理解を促すデザインとは完全に真逆の目的で視覚言語を駆使していることになる)
では、複雑かつ繊細なコンセプトを扱いながら、それでも鑑賞ノイズを無効化し、鑑賞者を心地よい困惑へと誘うにはどうすればいいのだろうか?以降では、鑑賞ノイズを人的ノイズと環境ノイズのふたつに分類し、それらに対するノイズ耐性(頑強性)を高める方法について考えていきたい。
人的ノイズ
人的ノイズとは、鑑賞者とアーティストの認識の齟齬が生む困惑であり、最も予測不能かつ制御不可能な要素である。特に複雑でセンシティブなコンセプトを扱う場合は認識の齟齬が大きくなりやすい。絵画を通じて心のこもったキャッチボールをしているつもりでも、見知らぬ誰かの顔面にボールを投げつけてしまう恐れがあることに注意しなければならない。
なぜなら絵画は、視覚情報を一方的かつ唐突に鑑賞者へ突き付ける表現様式である。個々人に対して繊細な配慮ができる親密な対話とは異なり、絵画は公共的な場で展示されるため、どんな人が、どのように自分の作品と出会うのか分からない。そこであまりにも直球な表現を行えば、気付かぬうちに誰かを傷付けてしまう可能性があることは容易に想像できるだろう。
なので絵画工学では、作品展示をキャッチボール的な親密な対話ではなく、植物が果物を使っておこなう種子散布のようなものとして解釈する。
果物は魅力的な色・香り・味によって動物たちを惹き付けると同時に、分厚い皮やトゲ、硬い果肉、あるいは苦みや酸味や辛味によって、どんなタイプの生物にどのように食べられ、どんな場所へ種子を運んでもらうのかをコントロールしている。
現代絵画もこれと同じく、魅力的な表象で鑑賞者を惹き付ける一方で、簡単には読解できなくすることで、どんなタイプの鑑賞者に、どのように解釈してもらうのかをコントロールするのだ。
人的ノイズ耐性
人的ノイズ耐性のある作品とは、困惑によって鑑賞体験が損なわれず、むしろ困惑によって鑑賞体験の充実度が向上する作品である。そのような作品では扱う問題が難解で複雑であればあるほど、作品の魅力が増すことになる。
表象のコード化
鑑賞者を心地よい困惑へと誘う最も有効な方法は、難解で複雑なコンセプトを一種の謎解きゲームへと変換することである。果物の皮を剥くように文脈を解体し、噛み締めるようにじっくりと読み解かなければ理解できない表象へとコード化すれば、弱点であるはずの伝わりにくさが、知的好奇心を刺激する強みに変わるのだ。
また、難解な作品は感情的な衝突を引き起こしにくい。一見すると意味不明なので瞬間的な拒絶反応が起きないだけでなく、作品を読み解いていく過程で、アーティストの意図は鑑賞者の解釈と混ざりあいながらじっくりと受容されていくので、不要なショックを与えにくいのだ。
そして何より重要なのは、謎解きゲームはたとえ正解できなくても面白い、という点である。アーティストの真意が伝わるかどうかは、鑑賞体験の品質を考える上でそこまで重要ではないのだ。
環境ノイズ
環境ノイズとは、作品の視覚的魅力を損ねる外的要因である。照明、展示位置、配置離隔が不適切なことで生じるノイズや、展示空間の構造や装飾、一緒に展示されている作品によって生じるノイズも存在する。
いわゆるホワイトキューブと呼ばれる展示空間は、これらの環境ノイズを可能な限り除去することを意図して設計されているが、展示会場が常にそのような理想的環境であるとは限らない。屋外や公共空間、雑多な作品が集まるグループ展など、コントロール不可能な状況に飛び込んで展示をする場合、環境ノイズを取り除くことは不可能に近い。そのためアート作品は、環境ノイズに晒されても視覚的魅力が減退しない頑強性を持っていることが望ましい。
環境ノイズ耐性
環境ノイズは作品の視覚的魅力を減衰させて空間に埋没させてしまう。だが環境ノイズ耐性の高い作品は、空間から影響を受けるどころか空間に影響を与える側となる。展示されたその場所を作品空間へと変えてしまうのだ。
言い換えるならば、環境ノイズ耐性の高い作品は空間に視覚的なリズムを付与する心地よいノイズとして機能する。空間における異質な物体として存在し、周囲を異空間に変えることで鑑賞者の視線を惹き付ける一方で、不快感は与えないのである。
この手法を大まかに分類するならば、占拠・侵食・緊張・隔離の4つが挙げられるだろう。
占拠:
単純に作品のサイズが大きければ、鑑賞者の視界に半強制的に入り込んだり、鑑賞者の視界を作品で包み込むことができるようになる。
巨大な作品は視認性が高く、他の視覚情報を打ち消すと同時に様々な距離や角度から鑑賞できるようになるので、鑑賞ノイズの影響を受けにくい。究極的には、アート作品として部屋や建築、庭園や公園などを制作する場合さえあるだろう。
侵食:
空間や壁面を支持体のように扱い、現地制作的に装飾していけば、他の視覚情報を打ち消し、空間の印象を塗り替えることができる。
壁画を描く、インスタレーションとして様々なオブジェクトを配置する、影・透過光・映像などを壁面に投影する、音・照明・空調などを操作する、といった手法ならば、空間全体を作品化できるのだ。
緊張:
作品が今にも動き出しそうな躍動感を持っている、あるいは今にも崩壊しそうなほど不安定で脆弱な印象を与える場合、作品の周囲には近付きがたい緊張が生まれ、他のものが目に入らないほどに鑑賞者の視線を強力に引き付けることができる。
ここでいう躍動感、不安定感、脆弱感において重要なのはあくまでも視覚的な印象の話であり、実際には静止していたり安定した構造を持っていても構わないが、実際に作品が動き続けていたり壊れ続けている場合も、鑑賞者の視線を強力に惹きつけることができるだろう。
隔離:
空間や壁面を区切って空間を切り取ると、作品の存在感が際立ち、視線を強力に誘引することができる。
額縁や台座、柵や小部屋などを用いた物理的なフレーミングが最も分かりやすいが、暗闇に対するスポットライト、白壁に対する影、ごちゃついた空間に対するシンプルな図像など、空間と対照的な視覚情報によって作品の存在感を強調し、空間から分断することもできる。
まとめ
作品が引き起こしてしまう困惑を心地良い困惑に変えることができるならば、普段なら見ようともしなかった物事との出会いを鑑賞者に提供できる。
物事を深く考えるのは非常に疲れるので、人間は認知リソースを節約するために、自分が興味のないことはスルーしてしまうか、先入観に基づいた短絡的な解釈をしてしまうことが多い。しかし視覚言語を使いこなせば、認知負荷の重たい物事であっても、貴重な認知リソースを割いてでもじっくりと考えてみよう、と感じるきっかけを生み出せる。絵画は説明には向いていないが、新しい何かとの出会いを生み出すことには向いているのだ。
本稿でまとめた鑑賞ノイズ対策の基本戦略は、過去の優れたアート作品のアイデアを抽象化・整理したものである。偉大な先人たちが開発した多種多様なアイデアを応用するだけでも大抵の課題は解決できてしまうかもしれないが、我々も制作者のはしくれとして現代絵画に取り組んでいるのならば、同時代の政治的・文化的・技術的環境に適応した、全く新しい表現技法を自分達でも開発できるようになりたいところである。



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