なぜ「異論」が出ない?教員の相互不干渉が蔓延か…同志社国際高校・辺野古事故から考える"学校ならではの風土"の問題点
同校に限らず、修学旅行中のプログラムの具体について、職員会議などで侃侃諤諤の議論をする学校は、私立、公立問わず、おそらくごく少数だろう。
教育上の意義を強調するあまりリスクや影が見えづらくなる
それに学校組織は、「個人商店の集まりのようなもの」と比喩されることがままある。個々の教員や学級の自律性が高く、全体としてのまとまりやチームワーキングは弱いという意味だ。 これに加えて、生徒の自主性を重んじる学校の伝統・風土であったとしたら、生徒が事前学習し、選択したことに、担当外の教員は口を挟まない、ということが「普通」と考えられてきたのかもしれない。 さらに、「教師文化や教員気質の一つとして、『現実や人の欲求よりも理想を重視する』傾向がある」(前掲、神戸市の事案での報告書)。 今回の辺野古事故に照らすなら、沖縄に集中する米軍基地のことをはじめとする日本の安全保障の問題、あるいは沖縄への負担について(これを「平和学習」と括ってしまっていいのかどうかも疑問があるが)、高校生が自分たちなりに主体的に調べ、現地の人の生の声を聴きながら考察、探究する、などと教育的な意義を仮に教職員集団が捉えた場合、その意義を強調するあまり、安全上のリスクや教育上のバランスの悪さを軽視することになったのかもしれない。
似た話は、内田良教授の『教育という病』(光文社新書)でも論じられていて、運動会で危険性の高い組体操が続けられてきたのは、団結や感動という教育的な意義に注目し過ぎたことなどが述べられている。
「対立を恐れる組織」か「対立から学ぶ組織」か
心理的安全性の研究の第1人者であるエイミー・エドモンドソン教授は、「心理的安全性は、感じよく振る舞うこととは関係がない」と述べる(エイミー・エドモンドソン『恐れのない組織』英治出版)。 「心理的安全性は、率直であるということであり、建設的に反対したり気兼ねなく考えを交換し合ったりできるということ」、「どんな職場でも、対立は必ず起きる。ただ、心理的安全性があれば、異なる意見をもつ人同士が、どんなところに納得がいかないかを率直に話せるようになる」とも述べる。 本件でも、教職員が「対立」を避けようとしてきたことがあるかもしれない。ただし、ひとくちに対立といっても、いくつかの種類がある。仕事の内容に関する意見やアイデアの対立を意味する「タスク・コンフリクト」と、人間関係上の敵意や怒りがもたらす対立を意味する「リレイションシップ・コンフリクト」は、分けて考える必要がある。 あるいは論者によっては、仕事自体ではなく、役割や権限責任、締め切り、仕事配分についての対立を「プロセス・コンフリクト」と呼ぶ人もいる。例えば、部署間で「自分の担当ではない」となすりつけたりすることを指す(お役所ではよく起こる)。 各地の学校ではどうだろうか。アタマではこうした区別は理解できても、現実には混同されるときも少なくないのではないだろうか。例えば、ある授業研究の場で採用1〜2年目の若手が大学で勉強してきたことをもとに先輩教師に意見を述べたとする。授業観や指導方法にはさまざまな捉え方ができると、タスク・コンフリクトと捉えればよいが、「アイツは生意気だ」「オレのこと嫌っているのか?」となると、リレイションシップ・コンフリクトとなる。 修学旅行中の安全対策としてこれまでの不備や不足を指摘すること、あるいは現地プログラムとして疑問があることを述べることで、たとえ、意見や見方が衝突しても、それはタスク・コンフリクトであろう。 だが、人事異動もなければ、この先、十数年も付き合っていくかもしれないので、人間関係への影響、リレイションシップ・コンフリクトと混同されることを恐れて、発言しにくかった可能性がある(とくに新参者や若手、あるいは教員以外のスタッフ職にとって)。 ここでは、同志社国際高校でなぜ異論が出なかったのかについて、いくつかの仮説、可能性を考えてきた。繰り返すが、こうした見立てが当たっているのかどうか、実際はどうだったかは、今後の検証課題であって、現時点では断言できない。 だが、事故の記憶と悲しみが深いうちに、ほかの学校でも、近いリスクや職員室の問題があるかもしれない、と考え、見つめなおすことは、これ以上、子どもたちの犠牲を繰り返さなさいためにも、意味があることだと思う。
妹尾 昌俊 :一般社団法人ライフ&ワーク代表理事、OCC教育テック大学院大学 教授