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朝日新聞「一語一会」が大きく報じた埼玉連続幼女殺害事件・宮﨑勤元死刑囚と私との関わり

月刊『創』編集長
死刑確定直後に届いた宮崎勤元死刑囚の緊張感漂う手紙(筆者撮影)

朝日新聞の人気連載「一語一会」で報道

 朝日新聞夕刊の好評シリーズ「一語一会」の4月23日付にインタビュー記事が掲載された。宮﨑勤元死刑囚との12年間に及んだ関わりの一端を紹介したものだが、事件から相当な年数が経っているし、そもそも死刑囚が置かれた環境についての話なのでわかりにくかった読者もいるかもしれない。補足するためにここで一文を書いておきたいと思う。

朝日新聞4月23日付(筆者撮影)
朝日新聞4月23日付(筆者撮影)

 

 記事は紙の紙面では上のような感じだが、下記の朝日新聞デジタルに全文が載っている。

(一語一会)月刊「創」編集長・篠田博之さん 宮崎勤元死刑囚からの言葉:朝日新聞

日本社会を震撼させた幼女連続殺人事件

 宮﨑勤元死刑囚の事件についてはもう30年以上前のことだから知らない人もいるだろう。昭和の終わりに起きた事件だが、その時代を生きた人にとっては忘れられない事件である。今は普通名詞になっている「オタク」という言葉はこの事件から生まれたものだ。社会とのコミュニケーションが十分でなく、長髪にメガネ姿、同好の相手を「オタク」と呼んだことからこの名称が生まれたのだが、宮﨑(以下、肩書き抜きで記載)はまさにそれ。「オタク」というのは、今と違って当時はとてもネガティブなイメージの言葉だった。

 1988年から埼玉県を中心に、幼女が次々と行方不明になり遺体で発見される事件が相次いだ。計4人の幼女が犠牲になるのだが、首都圏の親たちは恐怖のどん底に突き落とされた。そして89年に入王子で幼女にいたずらをしようとしたとして逮捕された宮﨑が、一連の事件の容疑者とされ、その後、幼女の遺体を自室で解体していたことなどが明らかになって社会を震撼させたのだった。我が子が起こした事件で追い詰められた父親は投身自殺した。

 私が彼に関わるようになったのは1審で死刑判決が出される前の1996年11月からで、月刊『創』(つくる)に手記を掲載し、それをまとめた宮﨑勤著『夢のなか』を98年に出版した。その後、裁判記録や宮﨑の手記続編をまとめた『夢のなか、いまも』を2006年に出版した。彼はその年の1月に最高裁で死刑判決が出され、2月初めに死刑が確定する。判決から確定に至る時期はちょうどその本の編集の最終段階で、連日面会を重ねながら出版準備を進めていった。

緊迫感が漂った「早く来てください」の手紙

 そして今回、朝日新聞の記事で取り上げたのは、2月2日付で私のもとに届いた彼の手紙だった。この記事の冒頭の写真がそれだ。宮﨑とは12年にわたって関わり、やりとりした手紙は往復で600通にのぼる。彼はもともと人と関わることが苦手で、家族と弁護人以外とは手紙のやりとりはしていたが、面会はいっさい断わっていた。ただ最高裁判決後、私と面会するようになったのは、死刑が確定すると接見禁止がついてもう会えなくなってしまうことを知っていたからだ。彼は死刑判決には動じていないように見えたが、接見禁止になることについてはかなり怖れていた。私も本が完成する前に接見禁止になってしまうのを避けるため、2006年1月下旬から2月初めには連日のように面会していた。

 そうした過程で届いたのが冒頭に掲げた手紙だ。宮﨑との長い付き合いの中で、そんなに緊迫感の漂った手紙を受け取ったのはその時が最初で最後だった。その手紙を書いた日に、弁護人が裁判所に提出していた死刑判決訂正申し立てを棄却するという通知が彼のもとに届いていた。それによって宮﨑は死刑判決が確定し、接見禁止がついてしまうことを覚悟し、その前に面会に来てほしいと手紙で知らせてきたのだった。

 判決が出てもそれが確定するまでには手続き上、一定期間は接見可能な状態が続く。実際に彼が接見禁止になったのは2月9日だった。実際には、私は彼の著書を編集していたし、それまでの彼と私の関係を東京拘置所も把握していたので、特別接見許可がおりて、4月まで私は面会が可能だった。

 接見禁止がついた後に突然、私が面会に訪れた時は、宮﨑も驚いたようで、面会時にもいつもぼーっとしていた彼の口元がほころんだ。そんなふうに感情を表に出した宮﨑を見たのはその時が初めてだった。2月2日付の緊迫した手紙と、特別面会での彼の表情がとても印象的だったので、今回の朝日の「一語一会」ではそれを話したのだった。

 宮﨑は、精神鑑定でも結論が鑑定医によって異なったことでわかるように、最後まで謎の人だった。私はその後も何人かの死刑囚と関わるのだが、やはり一番印象的だったのは宮﨑勤だ。最後まで「謎の人」だった。

宮﨑勤元死刑囚から届いた手紙の数々(筆者撮影)
宮﨑勤元死刑囚から届いた手紙の数々(筆者撮影)

 

死刑囚の獄中結婚の背景に確定後の接見禁止が

 私は、10年前のやまゆり園障害者殺傷事件の植松聖死刑囚とは今も関わっており、約1年前の彼の獄中結婚を仲介もした(詳細は昨年刊行した創出版刊『死刑囚と家族になるということ』参照)。なぜ死刑囚と獄中結婚をと驚く人が多いが、死刑確定者の接見禁止など彼らがどんな状況に置かれるかといった実態を知らないとその事情を理解するのは難しいかもしれない。

 日本では世論調査によって国民の8割が現行の死刑制度に賛成していると言われるが、実は死刑囚がどんな状態に置かれ、何を考えているかといったことはほとんど知られていない。詳しいことが何もわからなければ当然、アンケートなどには現行のままでよいのではないかという回答が大半を占めることになる。

 死刑囚の置かれた現状については接見禁止で取材が困難なこともあって、新聞・テレビの大手メディアではほとんど報じられていない。私は宮﨑との関わりについては『創』でかなり記事にしたし、拙著『増補版ドキュメント死刑囚』でも詳細に書いたが、当時は今のようなネット社会でなく、紙中心の時代だったため、宮﨑元死刑囚について今、ネットで検索してもあまり情報が出てこない。それはまずいと思って、ヤフーニュースに記事を書くようになってからは、なるべくいろいろな機会に彼についての情報をネットにあげていきたいと思っている。宮﨑についてこのヤフーニュースに書いた記事は下記を始め何本かある。

https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/d6c1e86a041d9b4df54d4b4fbfdc0ae6582abde6

 宮﨑が死刑判決よりも接見禁止がつくことを気にしていたという話は、死刑確定者と接見禁止について考えるのに参考になるし、この10年ほど目に付く死刑囚との獄中結婚の話とも結びついている。

息子の死刑執行の翌々日に母親からの電話が

 この何年かは『創』で「加害者家族」の問題にも取り組んでおり、昨年には元オウム教の三女、松本麗華さんの著書『加害者家族として生きて』を創出版から刊行もしたが、宮﨑元死刑囚の事件でもその家族についていろいろ考える機会があった。接見禁止がついてからも私が宮﨑とやりとりできたのは母親の協力があったからだ。

 30年以上前は今よりも死刑囚についての理解が社会に欠けており、宮﨑と一緒にその家族も、生きていけないような地獄の状況に追い込まれた。父親が自殺したことは前述したが、母親や妹たちも普通の市民生活を送れないような状況に追い込まれた。犯罪者とその家族を区別して考えるということが今よりはるかになされていない時代だった。

 だから事件後、息子の刑が執行されるまで、定期的に面会を行い、サポートを続けた母親に私は敬意を持ち続けた。母親は財産の一部を被害者の保障にも捧げている。2008年6月に彼は死刑を執行されたのだが、執行の翌々日、母親はわざわざ電話をかけてきて「勤が長い間お世話になりました」とお礼の言葉を述べた。その気遣いにも私は敬服した。多くの死刑囚が家族から絶縁されてしまう現実を知っているだけにそう思う。

 死刑囚の接見禁止の問題や、その家族までもが生きていけないような状況に追い込まれるという、今につながる問題が、30年以上前の宮﨑勤の事件で既に浮き彫りになっていた。そうした意味でも、彼の事件は、私が死刑囚の問題に関わるようになった原点と言える。

死刑囚との別れは突然やってくくる

 この朝日新聞のシリーズ「一語一会」は、もちろん「一期一会」をもじったものだが、

死刑囚との別れは執行によって突然訪れる。特に宮﨑死刑囚の場合は、確定から2年で執行という異例の早期執行だった。どうしてそうなったかと言えば、故・鳩山邦夫元法務大臣が、大臣就任直後に、死刑執行は法に則って迅速に行うべきだと主張し、提示された死刑囚のリストから、自分が知っている事件の実行者を選んだのだという。自身がテレビでそう説明していたから本当なのだろう。死刑制度をめぐるそういう政治的事情によって、宮﨑は異例の早さで執行されたのだった。

 2008年6月17日朝、マスコミ各社から取材の電話が携帯に次々と入り、宮﨑が死刑執行されたことを知らされた時は本当に衝撃だった。宅間守元死刑囚のように、自ら早期執行を望んで法務大臣に手紙を書いたりして確定後1年に執行されたケースはあるが、宮﨑の確定後2年の執行は、当時極めて異例だった。法律では確定から半年以内に執行とされているのだが、実際には10年20年を経ても執行されていない死刑確定者がたくさん存在する。凶悪犯と言われても人の命を奪うことに法務大臣がためらいを感じるのは当然だし、しかも袴田巖さんのように死刑囚とされた人が実は冤罪で無実だったという事例もある。法律が定めるように半年以内にといったように単純になされないのが死刑執行だ。死刑制度はとても多くの矛盾を抱えているわけだ。

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ありがとうございます。
月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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