ある真面目な人魚の生物分類学的悩み 四話 最終回
人魚パロ最終回。泳ぎの下手な人魚の出来上がり。2p エピローグ。3pなくてもいい注釈、読まなくてもいいです。アホです。
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彼らのマンションに監査部の人間が訪れている。
「独身者用寮に居ればこんな面倒なことはしなくても良いものを」
「別にいいだろ。ちょっとハジけてみたくなっただけじゃねーか」
「君がそういうタイプだとは思わないが。彼は?」
訪問者の視線が日車に向けられる。
「資料にあるでしょ。その通りだよ」
「――財団に勤務の専任弁護士。機密接触レベルD。特に理由もなくランクアップしているな。君が何か喋ったか?」
「業務上、接するでしょ。車壊したり虎杖が人間ぶん殴ったり、あったじゃん」
「…茶を淹れます」
日車は席を立った。
「結構。私は監査官です。賄賂の疑いを避ける為、水一杯いただきません」
日車は無視して茶を淹れた。当然三人分だ。日下部には黙って座っていろ、と言われている。
「報告漏れしていることは?」
「ないよ。お前は機械的に同じ業務だけこなしてれば地位は安泰だからいいよな。宇佐美」
神経質そうな顔をしたボックスコートの男が少し眉を上げる。どういう意味なのかは分からない。快不快の表情を表に見せない男だ。自分のことは棚に上げて、日車はそう考えた。
「すべき事をするだけだ。仕事とは、そういうものだろう。個人的な情には流されない方がいい」
「あー、はいはい」
「彼とずっとルームシェアしている理由は?」
「書いてるじゃん。ただの気分。妹家族に金渡してるの、知ってるだろ」
「寮に住めば金はかからないが」
「だから、気分だよ。俺もお年頃なの」
日下部はわざとらしくお手上げポーズをしてみせた。
「俺は育ちが悪いから。小父貴によろしく」
「今、伯父上に挨拶は必要ない。君は素晴らしい経歴を築いている。無駄にしない事だ」
「はいはい」
最後に監査官はちらりと日車を見て、形式的な挨拶をすると、さっさと出て行った。年に一回ある特殊捜査員の監査だ。日下部のように組織指定以外の場所に他人と一緒に住んでいたりすると家の中までチェックされる。厳しいように見えて、実はこれは恒例行事のようなものだった。日下部は慣れたものでなんとも思っていない。だが、日車は怯えた。自分のことで日下部が疑われているんじゃないかと。
日下部篤也は優しい男だ。無論、ビジネスとプライベートの区分はきっちり付けている。任務に私情は持ち込まない。それでも、裏社会で特殊なエージェントの任務を遂行するには心優しすぎるんじゃないか、と日車は常々思っていた。特に自分のように一度、懐に入れた相手には過剰なくらい面倒見が良かった。それを自然にできる男だ。秘密組織の息が掛かった財団で働き始めた日車は秘かに組織の様子を伺った。やがて日下部が所属する組織が自己の権力や業績よりも民間人の保護を優先事項としているらしいことを理解して、彼は安心した。表に出でこない秘密組織だけあって、世間に対する威信や体面にこだわる必要がないことが、この組織の本質維持に一役買っているのかも知れない。常人とは異なる日下部の居場所としては悪くない。彼の友人たちも……。
自分のせいで彼がその居場所を失ったり、自ら捨てたりするような事にはなりたくない。彼の同僚や古くからの友人たちとの関係にも悪影響を及ぼしたくない。どうも自分はあの五条悟という特別なエリートに目を付けられてしまったように思える。彼は日車の特殊捜査班への加入を薦めようとしたらしい。だが彼の所に話が来る前に、日下部が間に入って拒否していた。後になって知ったことだ。
このままずっと彼の好意に甘えて彼の背の後ろに隠れていたら、その内よくない事が起こるんじゃないだろうか? ……自分はこの世界にたった一人の種族だ。
下手をすると『世界のすべてが敵にまわる』なんて何処かの劇場のキャッチフレーズのようなことになりかねない。いざという時の、自分の始末は自分で付けよう。
日車寛見は慎重に話を切り出した。
「せっかく君が紹介してくれた職場で申し訳ないが…」
「財団の環境になんか不満あるの!? いじめられた?」
「いや、まさか」
「んじゃあ、労働条件がダメ?」
「違う。逆だ。良すぎる。大した仕事もしていないのに給料と待遇が良すぎる。退職したい」
「どーゆー悩みィ!?」
人魚姿を見た時よりも、こっちの方が未知の生物に遭遇した気分だ。
「え、まさか故郷に帰るとか言わないよね?」
「……自分の事務所を持つとなると、東京では不可能だが…」
「えっ、嫌だよ。せっかく仲良くなったのに」
「……」
この日下部の台詞は日車自身が思っていたよりも強く彼の心を揺さぶった。俺もこんなに素直に好きだと伝えられたら良いのに。
———好き?
「あ、なんか、俺と一緒に暮らして不便なことあった?」
「いや、とんでもない。……友人として…君は最高の親友だ」
どうしても『好き』という一言が出てこない。これが俺の限界だ。
「守秘義務は当然、死守する。組織お抱えではなく、普通の弁護士に戻りたい」
日車は機密事項に接触できないから仕事は事務的、表面的な事案になりやすい。やり甲斐がないとか退屈とまでは言わないが、自分が単なるツテで過剰な利益を得ているような気がする。
「権勢ある組織の仕事より弱い個人に寄り添う仕事をしたいんだ」
「知ってっけど…じゃあ、どっか近くの弁護士事務所に入れば? お前、優秀だし。どこでも喜んで受け入れてくれるだろ。自分の事務所持ちたかったら、それこそ財団で元手稼いで独立しろよ。協力するぞ?」
どうして君はそんなに私のために—と尋ねることは出来なかった。決定的な何かを迫られるような気がして。
「自分が普通の人間じゃないと分かってから、まさか誰かにカミングアウトすることがあるとは思っていなかった。君に見つかった時は、人生終わったと思ったものだ。君には君の秘密があったとは言え、君の対応は予想外だった」
「運が良かったな。お互い」
「君が思いやりのある善良な男だったからだ」
「そうでもないけど」
「自分の手柄より俺の、赤の他人の人生を優先しただろう」
「大事な友だち売らないだろ。普通」
「…君と過ごして…初めて人魚としての自分の本当の姿を確認して…己の正体を隠すことなく自然に振舞えて…その間、その、幸せだったと、思うんだ。少々気恥しいが、やっぱりお礼を言いたい。それに…」
日車は指先で顔をいじりながら、いつになく歯切れの悪い話し方をした。あれ、これ照れてるな、と日下部は容易に察した。
「それに…もし、私が故郷に帰ってしまっても君と決別したいわけじゃない。むしろ、これからも付き合いを続けてほしい…」
あれ、これって
(あれか、ひょっとして告白待ち!? いや、違うか。あ、でも、なんか普通の会話と違うし、やっぱり俺の方から何か言う雰囲気? )
「だから、少し距離を置こうかと」
「なんでぇ!?? 今の雰囲気でなんでそっち行くの? ベクトル違くない??」
押してダメなら引いてみろ論法で引かれているのか。日下部はそう思ったが、そもそも自分には押された記憶がないことに気付いた。彼の戸惑いを察したのか。日車が自分の心持ちを説明しようと試みる。
「物語の中の『人ならざる者たち』のように悲劇に終わるんじゃないか、という予感はある。例え話だが」
「……どういうこと?」
「…幸せな時間を過ごした後、結局最後には自分の故郷、水の中に戻る。何も知らなかったときより幸せを知った後の方が寂しい、という話だ」
「じゃあ、なおさら帰らなきゃあいいじゃねぇか」
この日下部の率直さは日車をたじろがせた。
「俺の同僚どもが時々お前をいじってんのは知ってるけど」
「いや、それは問題ない」
「あっ、郷愁ってやつ?」
「そこまでデリケートでも年寄りでもないが」
「お前がどーしても帰るってんなら俺も足洗って東北で米でも作ろ―かな。肉体労働には自信あるし」
「何言ってるんだ!!? そう簡単に抜けられる組織じゃないだろう」
「うん、だから情報提供者って言うか、通称『窓』って言うんだけど、使い走りみたいな連中が全国に散らばってるんだよ。一般人に紛れてな。座敷童のお世話とか、その地域のちょこっとした仕事をしながら一般社会で生きてるの。『視える』だけの奴等とか、かつてエージェントだった引退した人物とかね。俺もお前も辞職したら『窓』扱いだぞ? あ、あと『窓』は口外禁止ね。自分は視えるって言いふらす自称霊能者は殆ど偽物だから。そんなに厳しい組織じゃないよ」
「君が抜けると組織にとって損失がデカい」
「お前もな」
日車の退職と帰郷、その結果としての別居はいったん保留となった。
日下部篤也は日車がかつて話していた水の妖精の物語を読んでみた。少しでも日車の気持ちを理解したかったのである。
——ドイツの作家、フリードリヒ・フーケの中編小説「水の妖精の物語(ウンディーネ)」だったか。幻想的で情緒的な異種間婚姻譚だと言われているが。
「何が悲劇だ。男がクソなだけじゃねぇか!!」
日下部は思いッきり毒づいた。彼は後に、
「あれって単に浮気男が前妻にブチ殺されたってだけの話だよな」
と正直な感想を述べて、日車にとてつもなく白い目で見られた。
自分は浮気なんかしねぇ。日下部は腹の中でそう思ったが、このセリフはそもそも恋人や配偶者間で使うものである。自分と日車がまだそんな関係にない事については思い至らなかった。
昼食時の街角に人々がたむろしている。雑多な人々が行き交う中、ふと日車の視界に透明なシャボン玉がふわふわと漂った。見ると少しだけ離れた石造りのベンチにフリルだらけの派手な服を着た少女がひとりでシャボン玉を飛ばしていた。ぱちん、と顔の近くでシャボンが割れる。
『取引しよう』
囁くような声が聞こえた。性別年齢不詳の、しかし幼子とは思えない知性と狡猾さを感じさせる口調。
ぱちん
『君は特別』
日車はその場に凍り付き、ぎょっとして少女の方を見た。女の子は動かない。
ふわふわ、ぱちん
『女の子を凝視するの?』
日車は息を飲んで視線を逸らせ、足元のくすんだアスファルトを見た。落ち着きなく視線をさ迷わせながら、周囲に神経を張り巡らす。ふわふわ、ぱちん。
『大富豪のお抱え』
『雇用条件は』
『なんでもお望み通り』
『能力次第』
『交渉役は——』
日車寛見はちらりと少女を見やった。女の子は動かない。全くこちらを見ないし、表情も変わらない。ただシャボン玉を飛ばし続ける。装飾の多い服装も相まって操られた人形のようだ。日車のすぐ側を追い越していく人並みも、囁き声に気付いた素振りはない。なんらかの方法で彼女を拘束しても大した情報は得られないかもしれない。そもそも日車には衆人の眼前で少女を拘束する手段もない。
この場合、誰に、どこに連絡すればいい? 日下部か? 財団か?
相手が誰で、日車の秘密をどこまで知っているのかもわからない。人魚だということまで知られているのか、財団職員に対する背信活動の勧誘なのか——
カラン、と音を立ててカフェの扉が開かれる。こじんまりとした清潔な店内、モノクロを基調とした簡素なデザイン。ありふれた個人経営の喫茶店である。その店に、二、三日前から少し変わった客が訪れた。サラリーマン風の黒いスーツ姿で、磨かれたぴかぴかの革靴を履き、黒い髪をきれいに整えた三十代位の男。つまり、見かけは日本のホワイトカラーの90%が当てはまりそうな人物だ。コーヒーを一杯注文し、座ってじっと待つ。携帯をいじるでもなくパソコンで作業するでもなく、本を読むこともせず、明らかに誰かを待っているような風情なのだが、一時間たっても誰も来ず、何もしない。そして、そのままテイクアウトの飲み物をふたつ注文し「長く居座って申し訳なかった」と言い置いて退店していく。
三日目だったか、四日目だったか、店主は彼の卓に近寄ってさり気なく話しかけた。
「ご入用のものはございますか?」
男は手元に小さなメモを抑えて、
「ご存じだと思うが、個人的に直接お会いできるだろうか。組織を通すことなく」
メモには『五条悟』とだけ書いてあった。
そのカフェが実は捜査班ゆかりの場所でこっそり情報交換が行われたりする、と日下部に教えられたのは上京してきてすぐの頃だった。たった一度だけ日下部と一緒に入ったことがある。
日下部篤也が夜遅く帰ってきた時、同居人の日車は家にいなかった。もう寝ているだろうと思っていたのに。暗い部屋に電気をつけて、ガランとした室内を見まわし、日車がどこにもいない事を確認して日下部は嫌な予感がした。
澄んだ水の中で、ぴちゃん、と自分の尾びれが揺れる。オレンジ色の照明に照らされた半球形の天井を見上げる。この天井を開けば室外プールになる仕組みだろうか。それにしては水泳場のサイズが小さいが。
気絶していたのでここがどこなのか分からない。まだ少し頭がぼうっとして胸がむかむかした。麻酔薬の影響だろうか。実際の所、自分が締め落とされただけなのか、麻酔銃で撃たれたのかもはっきりしない。
照明の光を反射して金色に揺れる水の中に、漆黒の鱗に包まれた自分の『足』がある。鱗は硬くて頑丈だった。
そうか、これは俺の心理状態、つまり警戒心によって色と硬度が変化するのか。こんなに、鎧のようになったりもするんだな。日下部と一緒にいた時は——安全な場所で心を許した相手とずっと一緒に居たら、自分の鱗はもっと白っぽくなって模様のある観賞魚のようになるのだろうか。
頭上から足音が聞こえ、日車は首を仰け反らせて訪問者を見上げた。両腕をプールサイドに固定されているので泳ぐことも座ることも出来ない。ただ、水の中に体を漂わせているだけだ。厳つい男が彼を見下ろした。
「待遇が悪い。話が違うぞ」
日車の静かな抗議を男は鼻で笑った。
「何が待遇だ。テメェの能力が『未来予知』や強力な『催眠』なら雇った後で気持ちよく働いてもらわなきゃならねぇ。だが」
男は屈んで日車の短い髪を掴んだ。
「ただの人魚だ。テメェの価値が自分の意志で仕事をすることじゃなくて、単に珍しい存在ってだけなら捕まえた時点で終わりだろうが。お前が満足しようがしなかろうが与えられた水槽の中でバチャバチャ水遊びするしかできねぇんだから」
「……」
男の発言には一理ある。
「…下っ端だろう? 『交渉役』と話をさせてもらいたい」
髪を引っ張られる手に力が籠って、日車は眉を顰めた。男の手が水中に入り鱗をベタベタと触られる。
「ほお、サイズがサイズだけに硬いな」
男の手が鱗の一枚を逆なでする。ぞわっとした。気色悪い。と思った瞬間、男は力任せに鱗の一枚をはぎ取った。
「…!! 痛
不意を突かれて身をよじる日車を男はせせら笑った。
「お前に必要なのは待遇じゃなくて躾けだよ、この魚が」
日車はプールサイドに立つ男に向かって思い切り尾びれを跳ね上げた。べチン、という大きな音と共に男が転倒した気配がした。
「このクソ野郎が!!」
罵倒が聞こえ、あっという間に男の手が日車の首にかかった。そのまま締め上げられ、目の前がチカチカする。太腿のあたりに鋭い激痛が走った。意識を失う前に日車は解放され、男はプール場から出て行った。鱗を剥がされたところから、血が水に溶け出ていく。稀少だから身体的な暴力は振るわれないだろうという考えは甘かった。日車は一文字に口を結び、ズキズキする痛みに耐えて目を閉じた。
(日下部は、心配しているだろうな)
どれくらい時間が経ったのかもわからず、ただ彼が無茶な行動をとらない事だけを祈った。
交渉役の男は紳士然とした装いだった。日車や、粗暴な荒事担当の男たちよりは大分年上に見えた。立派なひげと帽子はそれらしい雰囲気を醸し出すためかも知れないし、素顔を隠すためかもしれない。
「まずは、貴方の特異性を証明していただきたい。そうでなければ御得意様に責任をもって斡旋できません」
「こちらの手の内を明かすのは納得できる待遇を提示してもらえた場合だけだ。ギャラだけでなく雇用環境をも重視する。日本国と相手国における法律上有効な雇用契約書を交わすことも必須だ」
こっちは別に雇ってもらえなくても生活には困らないんだ。
「途上国の貧民じゃないからな。あ、あと俺はそれなりの味が保証された日本食しか食べないから、社内食堂のメニューも確認しておいてくれ」
日車は『真面目な弁護士の皮を被っている俗物』の演技を続けながら交渉役の男と周囲を観察した。事務所のような一室はそれとなく頑強な警備員たちで固められ、すでに逃げ道はなさそうだった。
「邸宅はいかがいたしましょうか。涼しい地域がお好みならばカナダから、暖かい地域ならば太平洋上の無人島買取までご自由にお選びいただけます」
「海は好きじゃない」
「ほほう、では広々としたプール付きの邸宅を。水は真水にしますか、それと塩化ナトリウム水溶液のほうがよろしいでしょうか」
「淡水に決まっているだろう」
「ほほう」
とても興味深そうだな。そんな事を想っていると、いきなり制圧された。
……気が付いてみるとこのザマだ。結局、俺が人魚だということは確定で解っていたんだな。
粗暴な男に鱗を剥がされてからどれくらい時間が経ったか分からないが、ドアが開く静かな音で目が覚めた。うつらうつらしていたらしい。ズキズキと痛んでいた傷は、もうあまり気にならなくなっていた。
「失礼。ご機嫌いかがかな」
交渉役の男だった。口を開こうとした日車は数人の手下を従えた交渉役が手に持っているバスケットボール大の塊にぎょっとした。ギュッと目をつぶって顔を背ける。
「おっと、これは醜いものをお見せして申し訳ありません。我々が貴方様の味方であることを証明したかったので」
ぼとり、と何かが床に落ちる音が聞こえた。
「この不埒者が仕出かしたことの後始末をご説明いたします」
交渉役は日車の側に屈んだ。
先ほど、日車を襲った男は『人魚』の下肢の生体組織をごく少量、ナイフでえぐり取って持ち帰り実験用マウスに与えた。その後、マウスの頭を切断し、すぐ縫合した。ネズミは死んだ。
「愚かな男です。もし哀れな実験用マウスが不死になったら、貴方を喰らって我々から逃げるつもりだったのでしょう。もし本当に不死に成れても逃げ場などないというのに。もう船は出港していますから」
そうか、船上なのか。おぞましい現実から目を逸らすように考える。船が揺れているせいで船酔いのようなムカつきを感じるのかもしれない。
「まずは傷がちゃんと治るかどうかですね」
日車は目を開けてちらりと自分の『足』を見た。少しとは言え肉を抉られたはずの傷口はもう塞がりかかっていた。交渉役は日車の腕に手を添えた。
「ご主人様に引き渡されて、信頼関係が築ければ繋がれる必要はありません」
所有者ときたか。
「休暇、外出、旅行の申請は自由です。いつでも専属運転手と護衛、お好みの小間使い、荷物持ちがお仕えします」
つまり逃げないように監視役か。
交渉役は端末機を掲げた。
「ご主人様です」
『男か、しかも黒いな。デザインにはいささか失望だが、本物が見つかるとは』
彼の買い主と思われる男の声が聞こえる。相手の姿はこちらからは見えないが、向こうからは見えているのだろう。
「モデルが東洋人です故、その割には良い方かと。若くて健康です」
『不死の実験はクローン技術が人魚にも有効かどうか確認してからだ』
ぱちゃっと水音が立つ。交渉役は日車の肩に手を添えた。
「落ち着いて。実験台にされるのはクローンの方です。オリジナルに傷を付ける愚か者はいませんよ」
『私は別に不死になりたいわけではない。人生は限られているからこそ張り合いがあるのだ。ただし、病気や障害で無為の時間を過ごすのはごめんだ』
端末機からの音声が語る。人類の医学の発展のためだ、歴史に残る偉業の一端を担いたいだろう、名誉ある仕事だ、と。
金をちらつかせるのではなく、社会的意義を訴えてくるということは自分の下手な演技は全て見透かされていたのか?
『もし美しいメスを手に入れられたら繁殖させよう。気に入るデザインが生まれるかも知れん』
——死のう。尊厳を破壊されるくらいなら。
とっさに、その想いが胸に迫った。同時に「人魚の生殖ってどうやるんだ」という学術的好奇心が電子パルスと化して脳味噌を過ぎった。日下部にまた怒られてしまうな…
うつらうつらしていると夢を見た。
上半身はシャツを着させてくれ。水温はもう少し上げてくれ。日車の要望はすべて叶えられ、温泉旅館の懐石料理レベルの夜食が提供された。人の姿になることは許されなかったので、プールサイドに寄りかかることが出来るふわふわのクッションが準備され、日車は人間姿のままの上半身を『人だろうが人魚だろうが生きとし生ける者をダメにして』しまいそうなクッションに身を委ねた。クッションの下半分は水分を吸ってぐしょぐしょになっているし、日車の上半身は柔らかいクッションにぼふっと沈んでいる。無意識のうちに尾びれを動かしてぴちゃんと水音をたてている。その音で余計に眠くなった。実際、日車には分からなかったが夜だった。
大金持ちに囲われ、贅沢な衣食住を惜しげなく与えられ、水族館のような巨大な水槽で自由自在に泳ぐ。好きな時に、好きな所に旅行に行く。ぞろぞろと従者を連れて。日下部を呼び出してリゾートエリアで一緒に遊んでもいいな。好きな人に何でも買ってやれるし、なんでもしてやれる。燦燦と降り注ぐ太陽の光。後ろから逞しい日下部の背に語り掛ける。自分が何を喋ったのかは分からない。日下部が振り返る。見たこともない気難しい顔をしていた。
それはそうだな。自分のこんな境遇を彼が喜ぶはずがない。
五条悟の銀色の髪と、青い瞳が記憶の中に鮮明に蘇った。恐ろしく美しい男はいつも笑っていた。
日車は薄っすらと目を開けた。上半身にはブランケットが掛けられ、プールの水温は適温に保たれていた。物理的には、とても心地よい。プール場の壁際にいる警備員がさっと両手を背に隠して『気をつけ』の姿勢を取った。だが、日車は彼の手に銃があったのを見てしまった。麻酔銃だろう。
逃げなければならない、そう思いはしても自力では無理だった。両手の手枷は外されたが、代わりに首輪を付けられてしまっている。鉄製の枷が痛いという日車の訴えによって、弾力のある素材不明の首輪に交換され頑丈な鎖でプールサイドに繋がれている。その気があれば犬のようにプール内を泳いで散歩できるかもしれない。勿論、そんな惨めな真似はご免だった。
異変は突然、起こった。直前に連絡を受けたらしい警備員が彼に駆け寄り、
「貴方を強奪しようとする者がいます。すぐ退避してください。必ず守ります」
彼らは鎖を外し日車の体を水から引き上げようとした。終わらない内に、入口の重厚な鉄の扉が凄まじい轟音を立てる。何者かが、強引に扉を破壊しようとしているのだ。日車は迷った。日下部たちが助けに来てくれたのであれば自分がここに居ることを知らせなければならない。だが、これが犯罪組織同士の抗争に過ぎないのなら彼に危害を加えるつもりのない、この連中に大人しく守られた方が安全だ。
彼はあっという間に水中から引き上げられ、柔らかく頑丈なシーツでぐるぐる巻きにされた。
「ちょっと、待って—」
ドアの向こうが明らかに騒がしく、更に大きな衝撃音が伝わる。警備員は日車に抵抗を許さず、猿轡を嵌められた。ドゴン、と鉄製のドアがひしゃげ、攻撃は立て続けに加えられた。日車の目にべコっと歪んだ扉が部屋の内側に吹き飛び、勢いよく床に当たって跳ね返ったのが見えた。
(えっ…???)
日車は目を疑った。爆破の閃光も煙も見えず、開け放たれた四角いドア枠の中に、拳を握り、静かな憤怒の表情を湛えて虎杖悠仁が仁王立ちしていた。
(えっ? 素手? 爆薬でドアを吹き飛ばしたんじゃなくて、素手?? 子どもが…)
びっくりしている場合ではなかったが、余りにもとんでもない光景に思考がフリーズする。簀巻きにされて転がされた日車が身をよじって虎杖を見上げた。視線が合う。虎杖が動くのと、警備員が銃を構えるのとは同時だった。引き金を引くより早く、若者の拳が男の腹にめり込んだ。息を飲む日車の目の前で、犯罪組織の構成員は吹き飛ばされ、うめき声をあげて転がった。鉄のドアを破る拳で殴られたのだ。人間が一瞬で赤い肉片になってしまうんじゃないかと冷や汗をかいたが、人間相手には手加減したようで、日車は心底安堵した。
————実際は殴られた方も身体強化を使うことが出来る異能の持ち主だったから、この程度で済んだだけだったのだが。
虎杖少年が日車に駆け寄った。助け起こして拘束を解き、猿轡を外す。
「助けに来たよ、日車。五条先生が教えてくれたから」
(彼に持たされた発信機はとっくに取り上げられたはずだが)
(一人なのか。危ないだろう。大人はいないのか? )
口からは別の言葉が飛び出してきた。
「鉄だよな。え? 素手で? 鉄のドアを? 君が破ったのか? ええ??」
「うわっ、すごい。ほんとに人魚だぁー」
無邪気な歓声。いや、君の膂力の方が異常だぞ、絶対に。素材不明の首輪が、日車の力ではびくともしなかったのに、簡単に引きちぎられた。
「ガキは殺せ!! 商品には絶対、キズを付けるなよ!」
銃声。止める間もなく虎杖が飛び出し、床に転がる重い鉄扉を掴むと恐るべき力でブン投げた。ドアの向こうで聞こえる罵声。
「待て、跳弾するぞ。撃つな! テイザーガンを使え! 魚に当たる」
「魚じゃねェ―!! 日車は人魚だ! 」
どうでもいいことに憤慨して虎杖が大柄な戦闘員を投げ飛ばした。
静かな怒りが漲る虎杖の顔が意外と大人っぽいし、精悍で格好いい。
………こんな時に何を考えているんだ
下肢が魚の日車は自力で歩くことも出来ない。目ぼしい戦闘員をのした虎杖が日車を抱え上げる。
「船を壊せば泳いで逃げられるよね」
「待て、ここがどこかも…」
追跡の物音が迫り、彼らは戦闘で壊れた壁から甲板に駆け出した。
「日車、先に行ってて。追手が来ないように船壊すから」
「船、壊すって…ちょっと、待っ——」
日車は容赦なく真っ黒な夜の海に投げ込まれた。
波にもまれて上も下も分らない。日車はどうにか息が続かなくなる直前で海面に顔を出すことに成功した。空も海も水の中も真っ黒で方向感覚が狂う。目の前に波に揺れる巨大な鉄の塊が影のようにそそり立った。こんなに揺れていたのか。海洋を渡る船にしては小さいのかも知れないが、生身で見上げると恐怖を感じさせる大きさだった。ぶつかったり、巻き込まれたりしたらたまったものではない。日車は必死に尾びれと両手を動かして巨大な鉄の塊から離れようと試みた。プールと違って、海は水の質量が狂暴すぎる。振り回されるような底抜けの天井を見上げて星を探し、頭の中の知識を探った。
あの混沌と暗闇と恐怖の中で、日車を追って海に身を投じた虎杖悠仁を見つけ出せたのは本当に奇跡のような幸運だった。この少年が常に前向きで楽観的で、どちらかと言うとあまり深く考えないタイプなのは既に知っていたが、どこかの海のど真ん中で密輸船をぶっ壊して泳いで帰ろうとする、その脳味噌が理解できない。日車は正直、何度も『もうダメだ』と思った。
泳ぎ着いた日本の浜辺で、どこで探し出してきたのか虎杖が人魚姿の日車にブルーシートをかける。
「ごめん、なんか死体を隠すみたいになっちゃって」
「…言われたくなかった」
本当にそうなるかも。怪我をしているし、身体が重くて冷たい。なぜ虎杖は平気なのか。見た目はともかく、この子の方がオカシイ。絶対、自分よりオカシイ。
「捜査班がすぐ来てくれるよ」
日本国内なら冥冥が鳥を通じて見ているから。子どもの虎杖が大人の日車を励ました。しばしの沈黙。少年は横たわる日車の横に腰を下ろした。
「な、日車。やっぱり俺たち、結婚した方がいいのかな?」
虎杖が笑顔を向けた。
「………………なぜ…急に?」
「だって、海で溺れた時に人魚に助けてもらったら結婚するじゃん」
「私も溺れかけていた。助けてくれたのはイルカだ」
「ええ~、そうなの」
超音波のイルカ語など理解できないが、泳ぎの下手な子イルカだと思われたような気がする。日車が確固たる意志をもって日本に向かおうとしていたから、なんなら途中からイルカたちが彼の思考を察知して助けてくれたような気さえする。夜の海を何時間も泳いでいた日車は夜明け間近の浜辺に疲れ切って横たわった。一般人に見つかる前に日下部が来てくれるだろうか。明けの明星の輝く藍色の空に目をやった。空と海の躍動する境界線、遠い山の黒い輪郭。『朝闇』……いや、あまり良い漢字ではないな。『朝霧』にしようか、暗さが霧に閉じ込められているようだ。日車はそんな必要もないのに、自分たちを助けてくれたイルカに勝手に名前を付けた。
感謝します、イルカの朝霧さん。二度と会うことはないと思うけど恩は一生忘れません。結婚は出来ません。想い人がいるので。
「君がよければあのイルカと結婚したらいいんじゃないか? 雌のようだったし」
「え~イルカかぁ…」
正常な思考が働いていないようだ、と指摘する人員はいなかった。
彼らを近くの病院の個室に匿ってくれたのは五条家の私的な人員だった。人魚姿をぐるぐる巻きのシーツで隠し、ベッドの上の布団で隠して、人間の姿に戻るまでにそこそこ時間がかかった。人魚の間は身体が冷たくても平気で、傷の治りも早かった。不死はともかく、治癒力が高いのは確かなようだ。連絡を受けた日下部が慌てて駆けつけてくるころにはすっかり人間の姿に戻り、高熱を出してダウンしていた。医師は検査の結果、これを単なる疲労と貧血と判断した。日車は三日ほども寝込み、日下部をあたふたさせた。
五条悟は、日車寛見が経過観察のため東京の警察病院に移された後に、ゆっくりと見舞いにやって来た。日車を囮にして死にそうな目に会わせたにも関わらず、彼は極めてあっけらかんとした態度で、日車は恐怖を覚えた。自分から囮作戦をもちかけた手前、文句は言えないし怖くて言えない。五条悟は、日車に持たせた発信機が没収されるのは最初から想定していた。むしろ、発信機を奪うことで犯罪組織の人員は慢心し、他のグループと連絡を取るだろうと踏んでいた。そして五条自身は、いや、五条『だけ』は日車本人につけていた『超常追跡コード』で情報収集ができる。そのことは日車自身にも知らされていなかったので、尋問されたり勘づかれる危険もない。そして、五条は得た情報から大元を叩き、虎杖には日車の救出に向かわせたのである。
「日下部さんが来ないとは思わなかったから悠仁ひとりじゃあ船の制圧ができなかったのは計算外だったけどね」
「…私が敢えて彼を遠ざけたんだ。囮なんて絶対、了承しないとわかっていたから」
「そっかぁ。じゃあ今回のことは日下部さんには内緒にしててくれないかな。離反されても困るし辞職されても困るんだ」
日車は一も二もなく了承した。五条悟と虎杖悠仁の雰囲気はどこまでも軽かった。五条は虎杖少年のことを『弟分』と紹介していたのに、密輸船に一人で乗り込ませて、数時間もの間海を泳いでやっと生還した彼らに向かって、
「へえ~ すごいじゃん。悠仁、やったね」
「えへへ…(照れくさそうな虎杖)」
である。ついて行けない。絶対自分には無理だ。美丈夫な青年は白いベッドに肘をつき、遠慮なく顔を寄せて言った。
「今回の見返りに貴方のことは内緒にしてあげるよ。監視されずに自由に暮らせるように」
「いや、監視されてもいいから護衛がないと長生きできる自信がないんだが」
「それなら問題ないでしょ。日下部さんと一緒になればいいんだから」
五条の軽い言葉に、日車は病院のベッドの上で真っ赤になった。
個人経営の小さなカフェに、『全快祝い』の飾りつけがされ、入口のドアは『貸し切り』として閉められた。店内はガランとしていて、日車寛見はルームメイトの日下部と二人きりで中央のテーブルに向かい合っていた。店全体に飾り付けがされている所を見ても、本当はみんなで集まって
「日車の全快祝いパーティーをしようぜ!!」
と言う企画だったのだが、流石に勇気を出した日車が
「病み上がりでどんちゃん騒ぎはキツイので静かにして欲しい」
と発言した事で、今の状況に落ち着いている。他のメンバーは多分、主役不在の場所で彼らのことを肴に飲んで騒いでいるだろう。
日車寛見は唯一のお邪魔虫、カフェの主人が作ってくれた特別メニューのミートパイをもぐもぐしながら
「具合どう?」
「もう大丈夫」
「これからどうしたい?」
「人間として普通に生きるつもりだ(もぐもぐ)」
等の基本的なやり取りをこなした。例によってお腹が空く症状がまだちょっと続いている。疲れ果てて長く眠っていた間もお腹は空いていたのだが眠気の方が勝ったため補充不足だ。ミルクと砂糖をたっぷり入れたアイス珈琲をストローでちゅーっと吸い込む。
「守れなくて悪かった。これからは片時も離れないから」
「……」
これを言われると日車としては後ろめたい。五条と企んでワザと攫われたからだ。日車はカフェの主人にストレートの暖かい紅茶を追加注文し、普段は食べないミルフィーユにフォークを突き刺した。日下部はどこか落ち着きがなかった。
「今回、お前に手を出した連中は大半捕まったし、多分、幹部以外にはお前の情報は洩れてないとは思うんだが」
「そうか? この先、平穏な生活は困難だと思うが」
「いや、裏連中も競争が激しいからな。極秘は極秘なんだよ」
「そうか…困った」
思ったより事態は悪くないのかも知れない。
「ミルフィーユってこんなに食べづらいんだな」
日車はバラバラに砕けた香ばしいパイ生地を丁寧にフォークで掬って口に入れた。
「でもな、やっぱ護衛はあった方がいいと思うんだよな。危ねぇしな。お前にとっては窮屈かも知れねぇけど」
「護衛が誰かによるな」
出来る限りきれいに食べ終えたミルフィーユの皿をテーブルの隅に押しのける。店主が白い上品なティーカップを置き、空いた皿をさり気なく回収して立ち去る。
「じゃあさ…俺なら?」
「いいな」
日下部は小さな四角い箱を取り出して卓上の空いたスペースに置いた。
「それなら、これからずっと、一緒にいてくれねぇかな。その、ルームメイトとか、そんなんじゃなくて、つまり、コレ、プロポーズなんだけど」
日車は冷静に紅茶のカップを傾け、口の中の甘ったるさとパイ生地の欠片を流した。
いい雰囲気だが。
ティーカップを慎重にソーサーの上に戻し、日車はそっと手を伸ばした。彼の鱗のような綺麗な青い色をした四角い箱——の、となりの一口サイズブルーベリーミニスコーンを取ってパクっと口に入れた。
「……」
「……」
もぐもぐと口を閉じたまま咀嚼する彼の膨らんだほっぺがだんだん赤くなる。ついに、彼は両手でそうっと四角い箱を取り、蓋を開けた。中にはごく平凡で特になんの意匠もない典型的な金の指輪が収まっていた。
「結婚…指輪?」
「そりゃそうでしょ。プロポーズしてるんだから」
不安そうな日下部に、日車は夢見心地のような柔らかい微笑を浮かべた。
「天にも昇るような心地だ」
「いや、昇らないで! ここに居て! 置いてかないで!?」
「大丈夫だ。私は天女ではないから羽衣を窃盗する必要はない。大気圏外まで浮遊できないし、イルカほど潜水できないし、カジキのように早く泳ぐこともできない」
日車は片手を差し伸べ、テーブル上の日下部の拳に自分の手を重ねた。
「それ、普通だよね。つまり、答えはYESってことでいいのかな!?」
不意に日車が真顔になった。
「君、正気か?」
「本気ですよー!!! 断るんなら早く断って!? さりげなくさっさと断って!? ダメージデカいから」
「断るわけないだろう。ずっと——ずっと、前から君に好意を抱いていた」
日車の手に力が籠る。
「君は人魚姿の私をきれいだと言ってくれたが…」
「うん…」
「君は—もし私が人魚になれる人間じゃなくて脊椎動物門魚上綱顎口類人魚目だったとしても失望しないのか?」
「な訳ないでしょー!! じゃなかった、たとえお前が全身金魚になっちゃっても俺はお前が好きだよ。魚たる時も人たる時も永遠の愛を誓います!! これで信じてくれるかな??」
「ストライクゾーンが広すぎるぞ、日下部」
「違うでしょー! お前だからよ。日車寛見を愛してるの! 分かる? はい、お前の番、さあ、お返事!」
この期に及んで、日車はまだ三秒ほど日下部を見つめたまま躊躇った。
「君の申し出はとても嬉しい」
「うん」
寛見なら金魚になっても口をぱくぱくさせながら理屈こねてそうだな。そんな考えが頭をよぎる。
「私も、君が好きなんだ—ずっと前から…好きだった」
「うん(可愛いな)」
「だから、もし君が浮気したら君を殺して私も死のう」
「うわぁ…」
「冗談だ」
「何がどこまで冗談なのかなー!??」
「浮気したら許さない。私も決して浮気しない。もし君が浮気したら殺すというのは冗談だ。しかし、疑うわけではないが、万一君が浮気した場合、わたしが海の泡になるか、ならないかは現時点で判断不可能だ。我々が離婚した時、君に自動的に死が訪れないという保証もない」
「……それって、伝承の内容とか、いろいろ?」
「伝承には元になるなんらかのファクターがある。それが我々の身の上に起こらないとは断言できない」
どうやら日車は真剣なようだった。
「私と結婚する上で起こりうるあらゆる不測の事態に対して君はその覚悟があるのか?」
「あるよ。お前、俺も普通の人間じゃねぇの、忘れてるだろ」
日車寛見は静かに相手の目を見た。視線はしっかりと交わった。
「後悔しねぇし、後悔させねぇ。一緒に生きよう」
「私も———君と共に生きると誓うよ」
彼らは立ち上がり、死の戦場から生還した戦友同士のようにしっかりと抱き合った。
強い風が気持ちいい海辺のデートコースを並んで歩いている。恋人らしく手を繋いで。ちゃんとしたデートをしたことないから、やっておこうという目的でデートをしているのだ。想いを通じ合わせた彼らだが、これまでにしたことと言えば手を繋ぐことと、ほっぺにキスしたことくらいである。男同士だし、結婚式や披露宴など考えていない。それでも二人の距離は縮まった。こうしてみると今までは一緒に暮らしながらも相手の領域に踏み込まないように気を遣っていたことに気付いた。
「あのさ、ちょっと話しておきたいことがあるんだけど」
「うん?」
「実はさ。俺、釣りが趣味なんだよな…」
「ん? 知っているが?」
「いやな、それが、お前のことを知ってからは、なんか釣り針の先でもがいてる魚を見る度になんか罪悪感があってな」
「……(俺に何の関係が?)」
「いや、お前が海にいないことは解ってんだけど、釣り針の先に引っかけちまいそうな気がしてさ、落ち着かないっていうか……まさかお友達釣られてるとか感じないよね?」
「……そんな訳ないだろ…」
「だよなー。こうやって海をながめてたらさ、海で伸び伸びと自由に泳ぎたいって思う?」
「別に泳ぎたくない」
一体なにを考えているんだ、この見た目だけは申し分なくかっこいい男は。釣りなんて、いくらでもすればいい。なんなら美味い魚を釣って捌いてくれ。
「じゃあ、海に帰りたいとは思わないんだよな? サラディーンみたいに?」
「ウンディーネだ……サラディーンは滅茶苦茶強いイスラムの戦士だ」
「そうだっけ? 何でもいいけど」
「日下部、俺の故郷は岩手だ。海じゃない。好きなだけ釣りをしろ。それに、正直に言うぞ。夜の海はすごく怖かった。海の生物もけっこう怖い。うみ…きらい」
「ん、そうか。お前、海水魚じゃなかったんだな?」
「魚って言うなぁー!!」
日車の平手が日下部の左頬でバチーンと派手な音を立てた。
なんでだよ。お前の魚の部分まで理解して丸ごと受け入れてこそ、種族を超えた愛じゃねーか!!!
——————こうして、人魚姫は人間のかっこいい彼氏と結ばれて末永く愉快に暮らしましたとさ。めでたし、めでたし