優しい夢ほど覚めた時に辛いと知ったのはいつだっただろう。
小さな靴が鳴らす足音
胸に飛び込んできた子どもを抱きしめる、しなやかな腕
愛しさにあふれた笑顔
もうどこにもない
悲しいとか虚しいとか処理しきれない気持ちが絡まったまま、天井をぼうっと眺めて。
だけど、今でも鮮明に思い出せることに安堵してもいたんだ。
あの笑顔も小さな手の温もりも抱き上げた身体の重みも皮膚の下の骨の感触も、一つだって俺が忘れてはいけないものだから。
いつも綺麗にしていた長い髪は、寝起きのまま縺れている。
櫛を通してやると、細い首が壊れた人形のように傾いた。
前髪が目に刺さりそうになってきたな、と思う。そろそろ切り揃えてやった方がいいだろうか。
ちょっと短かすぎじゃない?と前髪を押さえながら文句を言う幼い頃の妹の声が不意に思い出されて、つかの間瞼を閉じた。
声を掛けながら触れてみても、虚ろな目は宙を見つめたままで、身じろぎもしない。
乾いた唇だけが小さく動いて、此処にいない子どもの名前を形づくった。
妹はきっと何もかも分かってた。
もう二度とあの子に会えないことも
もう抱きしめてあげられないことも
何度呼んだって返事は返ってこないことも
全部。
生きてさえいれば何とかなるとかいつか前を向ける日が来るとか。そんな信念とか希望みたいなもんは、俺にはなかった。
俺がしてきたことを思えば、生きることが正しくて死ぬことが間違ってるなんて言えない。
妹はもう、この世界に未練なんかない。
俺は妹が生きる理由にはなれなかった。
それでも生きてほしかった。
たった一人残った家族を繋ぎ止めるのに、考えついた方法は一つだけだった。
それが罪だと分かっていて、あの人に縋った。
あの人は応えてくれた。
恩を返す前に、あの人も向こうにいってしまった。
……あの人は、会いたかった人に会えたんだろうか。
「……どうした」
零れ落ちる涙を拭う素振りで、日車の頬に触れた。
少し手を伸ばしただけで伝わる体温が、当たり前のものではないことを知っている。
生きたいと願ってしまうこと、傷を癒してしまうことが苦しいと、日車は言う。そうやって苦しむことすら傲慢だと自分を責め続けている。
愛おしいものの傍にいる幸福。体温の心地よさ。
そういうものにずっと甘えていられたら楽なのにと思っても、俺も日車も、もうそのようには生きられないのだと知っている。
取り返しのつかない罪を犯してしまったから。
清算など望まない。
罪も傷も死ぬまで抱えて歩いていくしかない。
それでも。
「癒されるくらいは自分に許していいんじゃねーの。償いから逃げてるわけじゃないんだから」
半ば自分に言い聞かせてんなぁ、と思う。
でも人間、ちょっとくらい自分に甘いところがないと生きていけないだろう。
自責と痛みだけで前に進み続けられるほど人は強くない。
お前だって、それを知っていたから他人の弱さに寄り添い続けてきたんだろうに。
「今さら、こんなことを言ってすまない」
……そうやって俺にもまだ気ぃ使うのって意味では、今さらだと思わなくもないけど……まぁ、今までろくに人を頼ったことがなかったんだろうな。頼られたことは数え切れないほどあっても。
「言ってくれ。お前が一人で背負いたいって言うもんまで取り上げたりはしないから。でもお前が苦しんでることすら知らないままなのは嫌なんだよ。言いたくなった時でいいから、なんでも最後まで聞くから、言って」
必死だな、とどこかで違う俺が言う。
そうだよ必死だ。傷つけたくなくて、離れていってほしくなくて。
「わかった。……ありがとう、日下部」
真っ直ぐに見つめられながら礼を言われて、一瞬言葉に詰まった。
「……ただの俺の我儘だよ」
「それでも、言わせてほしい。とてもうれしいから」
「……ん」
「好きだ」
……そろそろキャパオーバーしそう。なんでも聞くとは言ったけど、そんな可愛い顔で可愛いこと言うのは小出しにして欲しい。
「……俺も好きだよ」
そう、情けなく目を逸らしながら返してしまったせいか。
日車は「言いたくなっただけだから、返してくれなくていい」などと言う。
「ばか」
なんでそーなんの。いや俺が悪いんだけど。
もっとちゃんと伝えていかなきゃ駄目なんだろうな、と思う。行動だけじゃなくて言葉でも。好きとか大事とかお前が生きていてくれるだけで嬉しいとか、いつか当たり前のことだって思ってもらえるくらいに。
……でも、今はキスをさせてほしい。
欲に忠実に、ガキみたいに唇を押し付けた。頬を手で包んでねだるように啄むと、日車が受け入れるように唇を薄く開いた。
そこから舌を潜り込ませて、日車のものと絡め合って吸ってまた擦り合わせて。
あたたかい体温が溶け合っていく。
「ん、……」
日車の腕が少しさまよったあと、俺の背中にそっと触れた。
薄く目を開けると、震える睫毛が間近にあった。
その細かな睫毛の間で、小さな涙の粒が光っていた。
可愛い。好きだ。
どうしようもなく愛してしまっている。
いつかこの温もりを失う時がくるのかもしれない。
あるいは俺が置いていくのかも。
それでも、それがどれほどの痛みを齎すものであっても、
最後までこの男を愛することはやめられないのだろう。