遺伝子検査導入の波紋 女子種目の一律判断は「明らかな後退」と識者
国際オリンピック委員会(IOC)は3月、女子種目の出場資格を改定した。
2028年ロサンゼルス・オリンピック(五輪)から、遺伝子検査で「生物学的な女性」と認められた選手に限定。性自認が出生時の性と異なるトランスジェンダー選手は除外され、身体的な性が一般的な発達パターンと異なる形で成長する状態の性分化疾患(DSD)選手も、ごく一部を除いて参加できなくなる。
元フェンシング女子日本代表で、引退後にトランスジェンダー男性であることを公表した杉山文野・日本オリンピック委員会(JOC)理事に、今回の決定について聞いた。
――今回の決定をどう評価しますか?
「競技上の公平性を守りたいという意図は分かりますが、SRY遺伝子の有無だけで女性かどうかを決める点をはじめ、問題が多いと感じます。五輪では昔、性別確認検査をしていました。1999年に廃止されましたが、その理由は検査の技術的精度の問題だけではありませんでした。『遺伝的特徴が競技能力の優位性を意味するわけではない』という科学的判断、そして人権侵害であるという認識が核心にありました。今回も、その問題はどちらも解決されていません。世の中への影響力が極めて大きいIOCが、全競技で一律に遺伝子検査を義務づけたことに、深刻な懸念を覚えます」
――競泳の金メダリストでもあるIOCのコベントリー会長は「五輪ではわずかな差が勝敗を分ける。生物学的な男性が女子種目で競うことが公平でないことは明白だ」としています。また、この検査は五輪というエリートスポーツに限るもので、一般のスポーツ愛好者に強いるものではないとも強調しています。
「しかし、IOCが女子種目での遺伝子検査義務づけを発表した直後から、トランスジェンダーやDSDの選手に対する偏見に基づくバッシングがSNS上ではすでに起きています。発表の全文を丁寧に読む人ばかりではありません。むしろ、ごく一部でしょう。『IOCが排除のお墨付きを与えた』という受け止めが広がって差別が助長されるのは避けられません。IOCがそうした波紋をどれだけ想像していたのか疑問に感じます」
――2021年、IOCは「誰も除外しないこと」を重視する「枠組み」を策定しました。今回の方針はそれに逆行すると?
「その通りです。21年に発表した『枠組み』では、それぞれの競技特性を踏まえた模索をIFに呼びかけていました。それに比べて、明らかな後退です」
「前回の『枠組み』を決めたとき、各国際競技連盟(IF)に丸投げしてIOCは逃げたのではないかと批判する人もいました。が、身体的な差異が結果に与える影響は、競技の特性によって大きく異なります。合理的な判断だったと感じています」
――合理的、とは?
「仮に出場資格が各IFの裁量に任されていれば、『IFが柔軟な考えを持つ競技をやってみよう』という選択肢があります。一律排除では行き場がありません」
――トランスジェンダーと、DSDの選手で分けて考えるべきだという意見についてはどう思いますか? DSDの場合は、女性として生まれ育ち、持って生まれた個性であり、医療介入しているわけでもないのに、SRY遺伝子検査によって、「あなたは女性ではない」と判断される可能性があります。
「DSDとトランスジェンダーは別の話だという意見は分かります。でも今回の検査は、その違いを考慮していません。一つの検査で、まったく異なる背景を持つ人たちが同じようにはじかれてしまう。それ自体が問題だと思います」
「競技能力への影響という観点から、懸念を持つ人がいることは理解できます。ただ、その懸念に答えるためには、SRY遺伝子一つで判断するのではなく、競技ごとの科学的な検証が必要です。そもそも、男女の身体的な差異はSRY遺伝子だけで決まるものではありません。筋肉量・骨格・テストステロンへの応答性など、複数の要素が絡み合っています。SRY遺伝子の有無が競技能力にどこまで影響するか、科学的な根拠はまだ十分ではない。身体的な差異が結果に与える影響は競技によっても大きく異なるのに、一律に同じ検査で判断しようとすること自体に無理があります」
――IOCが今回の方針を打ち出した背景に、アメリカのトランプ大統領の存在を指摘する声があります。どうみますか?
「直接の因果関係を断言することはできません。ただ、状況証拠は重なっています。24年パリ五輪のボクシング女子では、2人の選手の出場資格をめぐり、根拠なくトランスジェンダー選手などと中傷される騒動が起きました。そのときもトランプ大統領はいち早くSNSで反応していました。2期目の大統領就任時にはすぐに、トランスジェンダーのアスリートを排除する大統領令を出しています」
「28年五輪がアメリカのロサンゼルスで開かれることを考えると、IOCとしては大会を成功させるために開催国とのトラブルは絶対に避けたいはず。こうした文脈をIOCが全く無視して今回の判断をしたとは、考えにくいです」
――JOCでは昨秋、人権タスクフォースという組織を立ち上げたそうですね。
「きっかけは、25年の夏から秋にかけて、世界陸連とボクシングの国際統括団体が相次いでSRY遺伝子検査を導入したことでした。9月には東京で世界陸上も開かれ、この問題が一気に注目を集めました。このままでは選手の人権保護の観点から看過できないと感じ、來田享子理事とともに橋本聖子会長に直接提案しました。会長も問題意識を共有してくださり、検討委員会が立ち上がりました」
「医学、法律など各分野の専門家の話を伺い、その後、討論する時間を設けています。(出生時に割り当てられた性と自認する性が一致する)いわゆるシスジェンダー女性のアスリートの思いも聞いています。より多くの人に、この問題についての理解を深める機会になっています」
「トランスジェンダーの人は、総人口の1%程度と言われています。幼い頃からスポーツの現場でいじめられたり、そもそもスポーツに参加できる機会もなかったりと、人生の早い段階から社会的な困難に直面しがちです。競技スポーツはその人の可能性を最大限に引き出す場です。その機会が一律に閉ざされることの重大さを見過ごすべきではありません」
――五輪には、各競技の世界選手権とは違う価値を求めているそうですね。
「五輪憲章は21年から、『より速く、より高く、より強く』という従来のモットーに『共に』を加えました。五輪憲章はオリンピズムの目的を、スポーツを通じて平和な社会を推進すること、としています。世界選手権のように1等賞を決める大会とは違う価値が、五輪にはあると信じています」
――JOC理事として、今後はどのような活動をしていきますか?
「JOCとしては選手の人権保護の観点から、運用や実施方法について検討を続けていきます。そして私自身の考えでは、2年後のロス五輪以降の再検討のタイミングで、改めて問題提起をしていきたいと考えています」
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