傷になるような真似はしたくないと思っていた。そのくらいには懐の奥深くにいつの間にか日車寛見という男は日下部の中に居着いていて、だからこそ、多少近くて気の置けない仲であればそれで重畳とのらりくらりと過ごしていた。
大したことのない任務のはずだった。現地で合流予定だった日車を待つより先、暴走により急激に呪力の増した呪霊の一撃によって、迎撃に繰り出した刀を折られるまでは。そこからは分の悪い悪あがきでしかなく、相手にも深手を負わせる代わりに見事に腹を抉られた。
あー、クソ、死にたくねえなあ、と半ば諦めの境地で思った時、見知った気配と共にガベルの音が響いた。呪霊の影が消えて再び姿を見せた時には案の定日車がそこにいて、振りかぶった獲物で身動きの遅れた呪霊を叩き潰してみせた。
「無事か!? 日下部!」
そんなでけー声出さなくても聴こえるって、とでも軽口を叩ければよかったかもしれない。けれど、かろうじて吐き出せる息の間際では、ふざける余裕もからっきしだった。
「無事、じゃあねえかもな……」
ついさっきまで神経をそのまま引きずられるようだった痛みが遠い。代わりにいやに体が冷えて、これはかなり駄目そうだと日下部は顔を顰めた。
「悪い、……日車ぁ、……あと、任せた」
弱音ではなく、告げる。ただでさえ重い荷を背負った男の肩にこれ以上のものを積みたくはなかったが、託せるとしたら彼だとも思っていた。駆け寄ってきた日車が、現実を嚙み潰すように叫んだ。
「馬鹿を言うな……ッ!」
そうして応急処置をするためだろう、日車がこちらに身を屈める。押し当てられたのはハンカチだろうか。いつもきっちりしてるもんな、と日常を思って、血染めにしてしまうことを日下部は胸の内で詫びた。
「っ、出血が酷いが、応援まで持たせられれば……!」
やがてそのハンカチをあえて外して掌を押し当てられる。何をしようとしているか、咄嗟にわかってしまうのがいっそ辛かった。
「く、ぅ……!」
自分を治すのとはわけが違うと理解していないはずがないのに、反転術式を日下部へ向けて行使し始める日車に、堪らず声を絞り出す。
「ば、かやろ、無理すんな……」
「断る……!」
日車が頑ななまでに首を振るが、他者への反転術式は生半可なことではできはしない。ほとんど力の入らない腕を動かして、どうにか日車の手首を掴む。
「できることと、……できねえこと、ってのが、あんでしょーが」
だからもうやめろ、と言いたかった。言うつもりだった。だがその前に、いやに熱い掌に、きつく右手を握りしめられた。
「――すまない、日下部」
すぐに離れた手が再び腹の傷口に触れる瞬間、これは俺のエゴだ、と懺悔のように日車が言った。
「ぐ、……?!」
燃えるような熱が腹部を襲う。肉が焦げる嫌な匂いがした。呪力で傷口を焼き切るつもりらしいと遅れて脳が理解する。
「無茶、しやがる……ッ」
「こんな形ででも、それでも俺はーー、っ、日下部……!」
傷を焼かれた衝撃で少しクリアになった視界に必死な形相の日車が映って、痛みからではなく唇を噛んだ。
――馬鹿野郎。んな、泣いてる方がまだマシな面、すんなよ。
腹の熱が引いてから、出血が幾分か止まったらしいことが朧気にわかる。それでもなお、死ぬまでの時間が多少稼げただけなのだろうとは嫌でも悟れた。
目の前の男はただでさえ領域を使った後な上、無茶な反転術式の行使に今の行動も重なって、下手な怪我人よりも顔色が悪かった。
本当に、馬鹿だ。こんなおっさん相手に必死になって。
けれど、今の自分より馬鹿な奴はきっとこの世にいないとも、日下部は思った。
「え、――」
日車のかさついた唇が血にぬめって、口元くらい拭っておけばよかったと己のそれを重ね合わせたまま後悔した。それでもここで離せばもう身を起こせる気がしなかったから、構わずあと少しだけと吐息を奪う。
ひどく寒いはずなのに、触れ合う箇所ばかりが灼け付くように熱かった。
最善を尽くして自分を助けようとした男に向けるにはあまりに自分勝手な冥土の土産に、けれど日車が抗議の声を上げることはなかった。
「……君とのキスは、甘いと思っていた」
あー、いつも飴舐めてるから。唇を離してすぐの呟きに妙な納得をしてしまう。
「そうでなければ、酒の味か」
そうだな、割とよく飲んでるし。続く言葉にはつい笑ってしまった。
そもそもそういう問題なのかと問うには、こちらを見返す男の目はあまりに真っ直ぐすぎた。
「……悪い、な」
かろうじてそれだけを声にすれば、日車が笑おうとして失敗したかのようだった顔から堪えるように一度口を引き結んだ
それから、再び唇を開いた日車が、小さく呻きを溢したと思うや、胸元に倒れ込んでそのまま動かなくなる。無謀なまでの呪力行使のつけが回ったのだろう。折り重なるようになった体から呼吸は正常に保たれているらしいのが伝わって、そこでようやく日下部はほっと息を吐いた。
無茶させちまったな。一挙に気が抜けて霞んでいく頭の中でぼんやり思う。
キスしても怒らなかったな、コイツ。それどころか甘いとか、酒の味とか、前から想像してた、みたいな。
こんな時でなければ脈のありなしだとかに胸を躍らせられるだろうに、身じろぎ一つするのもやっとの今が歯がゆい。
このまま抱きしめても、いいんだろうか。逡巡はと言えばそう長くなく、いいことにしよう、と、どうにか腕を日車の背に回す。
凍り付きそうなほど冷えた中で、思った通り硬くてしっかりとした腕の内に収まるぬくもりに、腹の底から湧き上がるままに日下部は零した。
「――あー……っとに、死にたくねえ、なぁ……」
それを最後に意識は途切れた。
ここから生き残れるとかあるのかよ、と見慣れた医務室の天井に目を瞬かせることができたのは、ひとえに先の日車の応急処置のおかげだという。
怪我人であり禁煙者でもある日下部に一切構うことなく煙草をふかしての家入の言はこうだった。
「反転を捨てて呪力での焼灼に切り替えたのは、まぁ、正解かな。できん治癒より確実な延命。すぐ応援が来るからって無茶は無茶だけど」
目が覚めたらちゃんと礼言っときな。そう残して彼女は出ていってしまったから、医務室には今、治療を終えた日下部と日車の二人だけだ。
日車はといえば、隣のベッドで昏々と眠っている。消耗の度合いで言えば、きっと彼の方が激しいのだろう。枕元の椅子に腰掛けてみても、気がつく様子は見られない。
口元に付いてしまったはずの血は、治療の過程で拭い取られたのか、もう跡形もなかった。ほっとしたような思いと後戻りのできなさとが同時に胸を去来する。
目が、覚めたら。礼ももちろんしなければならない。けれど、叶うなら。間接的に吸わされた煙の誘惑を断つためにと飴の包みを解いて含む。馴染んだ甘味がやけに懐かしく感じた。
日車の、倒れる前までの険しさが嘘のように穏やかに伏せられた目元を、指の背でゆるくなぞる。
目が覚めたら、ご期待通りのとびきり甘いのをくれてやろう。その時こそ頬を張られたら、それはそれだ。
そう独り決めしながら、日下部はそっと目を細める。のらりくらりと前のまま、なんてことは、もうできない自覚はあった。
――それから、どんなにらしくなくてもいいから、一言、ちゃんと。
日車が目を覚ますまで、日下部はそこを動かなかった。
重荷になるような真似はするまいと思っていた。そのくらいには心の寄る辺となる位置に日下部篤也という男は日車の中に根付いていて、だからこそ、必要以上にもたれ掛かることのないように時折酒でも共にできればそれでいいと日々を過ごしていた。
窓からの報告の時点では単独でもこなせるだろうと見込まれていた任務に、日下部を先行として後詰めに己まで駆り出されたことを最初は訝った。だが、楽巌寺の判断は正しかったらしい。日車が呪霊の拠点に現着したまさにその時膨れ上がった敵の呪力量と急速に力を失う見知った気配を察知してから、交戦場所へとどう駆けて行ったかなど最早記憶にすらなかった。
最初に目にしたのは、袈裟懸けに裂かれて劈くような悲鳴を上げる呪霊と、折れた刀に呪力の刀身を纏わせたまま背中から倒れる日下部の姿だった。かろうじて形を保つ呪霊が道連れにとばかりに凶爪を振り上げる様に、言語など介さないのを承知で咄嗟に領域を展開する。畏怖される獣たちの混合体のような巨躯が暴力を封じられた場に硬直した直後に術式を解き、すかさずガベルを撃ち込んで祓いきる。
「無事か!? 日下部!」
こんなものの相手をしている場合ではなかった。風に届く鉄の匂いにも、身を起こす気配もなく横たわる様子からも、事態の重篤さが痛いほどに知らしめられる。先の呪霊の爪にやられたのか、腹部を中心にスーツはもちろん馴染みのコートまで赤く染まりつつあった。
「無事、じゃあねえかもな……」
顰めっ面で吐息に紛れるように零す日下部の目にいつもの余裕などない。その目が駆け寄った日車をひたと見据えて、すまなそうに眇められる。
「悪い、……日車ぁ、……あと、任せた」
「馬鹿を言うな……ッ!」
張り上げた声の端が嚙み潰すように軋む。彼がこんな後を託すような言葉を向けるほどに、死を受け入れざるを得ない状況を認めたくなかった。
嫌だ。逝くな。ここに居てくれ。まだ俺は君に――!
ただ仲間の死を拒むだけには過ぎた想いが頭の内を埋める中、傍らに膝をついて身を屈める。内臓までは届いていないようだったが、血の量からしておそらく裂かれた場所があまり良くない。
こんなことならばどれだけ醜くとも呆れられても彼に打ち明けてしまえばよかったと、よぎってしまった浅慮に一度首を振った。
死んでほしくない。死なせたくない。否――死なせない。
押し当ててすぐに赤に濡れそぼるハンカチに眉を寄せながらも思考を止めまいと目を凝らす。
「っ、出血が酷いが、応援まで持たせられれば……!」
突入前に連絡は済ませた。増援が来るまでそう長くはない。それまで、できうることの限りを尽くして日下部の命を繋ぎ止める。
心を定めながら、一度払おうとした願いも共々に抱えて、止血する手に力を籠めた。
――生きて帰れたらきっと彼に伝えよう。どれだけみっともなくても構わないから、一言、必ず。
ハンカチを投げ捨て傷口に掌を押し当てると、ただ日下部を死なせぬためにと、日車は己の呪力を回した。