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南町サンセット/Novel by かみや

南町サンセット

19,174 character(s)38 mins

両片想いの篤寛が夜祭デートで両想いになっちゃうn番煎じです
攻厨なのであつやを当社比キラキラにしました

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 ばちんっ、と派手な音を立てて虎杖の頬が道場の床に叩きつけられた。一拍遅れて、吹き飛ばされた竹刀がくるくると優雅に宙を舞い、壁際で満面の笑みを浮かべていた釘崎の両手に吸い込まれるように収まる。
「いいねえ、虎杖! 今日イチ冴えてる!」
「……っま、マジか……」
「だーから言ったろ。打ち込みの速さで勝負するんじゃねえ、まずは最後まで俺の動きを見ろって」
 ほい、立って、と日下部は短く促すと、板張りの床に転がったままの虎杖の髪を無造作に掻き回した。
「安心しろ。速さだけならとっくにお前は俺を超えてる。授業とはいえうんざりするぜ」
「それってセンセ、俺のこと励ましてる?」
「別に。俺は事実しか言わん」
「速さだけなら、って言われたろ、虎杖」
 釘崎の隣で腫れた鼻先を押さえながら、伏黒が低く割り込んだ。
「それがすべてだと思うぞ。ちゃんと日下部先生の話を聞け」
「えっ、お前だってさっき吹っ飛んでたじゃん、なんならヅラちょっとずれてたじゃん! ねえ、日車?」
 ──日車、と不意に話題の中心に放り出されて、慌てて日車は体育座りのまま道着の背筋をぴんと伸ばした。ようやく立ち上がった虎杖が釘崎から竹刀を受け取る、その若い肩越しに、ほんの数秒、日下部と目が合う。
「ええと……今の質問は、伏黒のカツラがさっきずれていたかどうかという事実確認か? だがその場合、俺がその質問にはいと答えてもいいえと答えても、俺は伏黒がカツラを着用しているという事実を前提に話を進めてしまうことになる。つまり質問の中に既に一定の答えが含まれているわけだ。君のそういう質問は典型的な誘導尋問という手法で」
「はーいはいはい、そこまでだ日車」
 日下部が呆れたように遮った。
「ガキの会話に本気で首を突っ込むなよ」
「君はそう言うが、少なくとも今日、俺は虎杖たちの《同級生》だ。そうだろう? なので雑談にも加わる」
 ──ちなみに次は俺の番だ、と日車が立ち上がると、日下部は不味いものでも食べたような顔で、黙って下唇を突き出した。


 呪いの王の復活劇に一応の幕が引かれ、政府が一連の騒ぎを違憲すれすれの限時法とそれとない言論統制とで収めようとしているなか、呪術高専では徐々に生徒の学び直しが始まっていた。といっても上層部には、少年少女のためだけにこの時期からカリキュラムを組むような時間的余裕はなく、また貴重な教育者でもあった東京校の校長は、既に亡い。
「ってことで、東京校は当面、俺も含めた二級以上の術師で実技を担当する。一般教養はこれまでどおり窓と補助監督でまかなうことになるな」
 高専が本格的に授業を再開した翌週、今後の教育態勢について尋ねた日車に向かって、日下部は淡々とそう返した。こちらも営業を再開したばかりの深夜のファミリーレストランで、ようやくふたりでハンバーグ定食にありついたときのことだった。
「シン・陰はシン・陰で門下生のシステムで今更揉めてるし、俺だって二学年分担任持つほど暇じゃねえのによ……」
「そういえば君、最近毎晩必ず誰かと電話しているな」
 プラスチックのグラスに汲まれた無料の水を口に運びながら、日車は一応同情的な声を出してみせた。リビングで本を読んでいてもかすかに聞こえてくる、日下部のあの困ったような低い会話の声を、本当は日車は気に入っていた。
「まあ、古い連中は、今回のことで流派の中での自分の地位がどうなるのか、随分不安にもなってるんだろう。だからって俺に当たるなっちゅーの。一応当主ですよ俺……」
「君は聞き上手だから」
 ちらりと瞳を上げてそう答えると、ちょうど唇を尖らせながらサラダを口に運んだ日下部と、ぱちりと目が合った。凛々しい眉にさっと戸惑いの影が差し、彼はあからさまに日車から目を逸らした。
「褒めても何も出ねーぞ」
「見返りが欲しくて言ったわけじゃない。大きな流派の当主を務めながら高専の教師を続けるだけでも大変なのに、君は重い任務には真っ先に駆り出されるうえに、一日中俺の監視までさせられてる。この三か月、君と暮らして君のそばでずっとそれを見てきた。俺が君を尊敬しないわけがないだろう」
「……ハンバーグ、半分要ります?」
 ふふ、と笑って日車は首を振った。照れ隠しのつたなさは、日車が見つけた、日下部篤也の数少ない欠点のひとつだった。
 それからしばらく、会話は途切れ、淡々と食事が続いた。お互い深夜になっても元気溌剌という年齢ではない。ただでさえ今日の日下部は早朝から高専での会議で、引き続き一コマ目からは久しぶりの通常授業をこなし、昼休みの間は伊地知が持ってくる山のような書類を《見て見ぬふり》と《見たふり》と《処理したふり》とに振り分けることに費やし(そのうちのいくつかは日車が《必ず処理》へと振り分け直した)、午後の授業の合間を縫ってシン・陰流の事務方に何度か電話を入れたあと、日車と伊地知の熱い視線を受けながら《必ず処理》へ渋々目を通し、それらをようやく終えた定時間際で猪野から入った応援要請を受けて急遽千葉県へと向かい、──そのすべてに、総監部から特別監視対象に指定されている日車が同行したのだ。
 弁護士時代には多少の無理はまったく厭わなかった日車でさえ、さすがに深夜まで呪霊の相手をしたあとでは、疲れたな、という感想しかなかった。高専ではほぼ何の活動もしていない日車でさえそうなのだから、日下部の負担はどれほどだったかと思う。
「……でも、まあ、お前がいてくれて助かった」
 薄い湯気の立つハンバーグの最後の一切れをフォークの先に乗せたまま、ぽつりと日下部が口を開いた。やわらかい口調はそのままに、今度は彼は日車から目を逸らさなかった。
「話せる大人がそばにいるってのは、それだけで心強いもんだ。高専のガキ共だって、術師としてはこれ以上ないくらい頼りになるっちゃなるが、それでもやっぱり、年端もいかねぇ連中を頼みにするのは違うからな」
「……そうか」
 日車は小さく答えた。何でもないような声で答えたつもりだったのに、胸が詰まって、声の端が少しかすれた。
「俺でも、役に立てることがあったのなら、よかった」
「結構助かってるんだぜ? ハンバーグ半分じゃ申し訳ねえくらいだ」
「ハンバーグは間に合っているし、君、もう全部食べてしまっただろう」
 これまで日車が観察してきた限り、日下部の食欲は男子高校生並みだ。そしておそらく、その摂取する栄養すべてをたくましい体躯がもれなく消費する結果、日下部の身体の輪郭には一切の無駄がなかった。あらゆる筋肉があるべきところに配置されているのだろうなと思わせる、朴訥なバランス。刀を振るうときの大きな身振りだけではない、黒板に向かう背中や車のハンドルに掛けた左手、ガードレールを軽々とまたぐ瞬間ののびやかな両足の軌跡は、どれもけだもののように完璧だった。彼が器用にロリポップの包み紙を剥くときの、親指と人差し指の細やかな動きさえ、日車は見飽きるということがない。
 特定の人物とこれほど同じ時間を共有するのは幼少期以来のことだった。小学生のときでさえ、学校にいる数時間は親とは離れていたのに……
「……そうだ」
 ふと思い出して、日車は口を開いた。
「ハンバーグの代わりというわけではないが、その、できれば君に頼みたいことがあって」
「へえ、珍しい。聞かせてくれよ」
 大盛りのライスの最後の一区画を崩しながら日下部が目元をなごませた。それに励まされるようにして、日車は小さく息を吸い込むと、言葉を継いだ。
「高専で、君の授業に参加したい。後ろや脇で見ているだけではなくて、俺も君の生徒になってみたいんだ」
「んあ?」
 日下部のフォークがぴたりと止まった。彼が何かを否定する前にと、慌てて日車は言い募った。
「俺が君の授業の場にいられるのは、単純に、君が俺を監視する必要があるから、目の届くところに置いておく必要があるからだ。それは十分理解している。だが、先週からずっと、教室の隅で、最初から最後まで黙って座ったままでいると、まるで自分が永遠に誰にも紹介されない転校生みたいに……いたたまれない気分になった。それは俺にとって当然の報いだし、これが贅沢なわがままだということも、わかっているんだが」
 一息に言い切ると、日車は目を伏せてスープマグを手にとった。もうすっかりぬるくなった、塩辛いコンソメスープを一口、口に含む。
 ──なるほどね、と日下部が低く答えた。
「普段何も欲しがらないお前が、そこまで言うなら、そりゃ叶えてやりてえけど」
「一度でいい。もちろん、そういう便宜を図ることで君の立場が悪くなるなら、こんなことは二度と言わない」
「いや、そういう重い話じゃなくてな……」
 日下部は困ったように視線をさまよわせた。切れ長の目が、残り少ないライスやテーブルの上のドレッシング、注文用のタブレットまでうろうろと意味もなく見渡したあと、最後にようやく日車へと戻った。
 目の端がわずかに赤かった。
「……照れ臭い、って話ですよ」


 深夜のファミリーレストランでその他愛のない約束をしたのが、もうひと月前の話だ。
 あのときの、文字どおり照れ臭いとしか言い表しようのない日下部の表情を思い出しながら、日車は静かに竹刀を手にして立ち上がった。目の前の日下部にはあの夜の面影は微塵もなく、手の中の竹刀をくるくると回しながら、細く長い息を吐き出す。
 途端に、しん、と彼の周囲の空気が重くなった。うっわぁ……と虎杖と伏黒が、呆れたように顔を見合わせた。
「えっ、それ絶対本気でやる気でしょ、日下部先生」
「大人げないですよ、そういうの」
「当たり前だろーが! 相手は天才、俺は肩書きだけ一級の、しがない高校教師! 本気でやらんでどうするよ」
「……君のそういう謙遜は、いつも、どうかと思う……」
 小さく切り返した日車の声にかぶせるようにして、「じゃあさ!」と釘崎の明るい声が飛んだ。
「せっかくだし、何か賭けてよ、ふたりとも。日車さんが参加できるのって今日だけでしょ? イベントじゃん!」
「あのな釘崎。これ一応、俺の授業な?」
「だってずっと、どの授業もこの三人だけで同じメンバーでしょ? 他の誰かが参加してるのって初めてで、嬉しくなっちゃうんですよねえええっ」
 ねえええっ、と顔を覗き込まれた虎杖が、戸惑いながら慌てて頷いている。──これだからガキはよ、と日下部は肩をすくめた。
「だってよ、日車。どうする?」
 切れ長の目が少し眠たげにこちらを見遣る。──賭博というのはいただけないが、と日車は静かに返した。
「だが、賭けるものにもよるだろうな。賭けるとして、君は何を賭けるつもりだ、日下部?」
「そうねえ……」
 ついとそらをあおぐと、少し考えたあと、彼は日車へと視線を戻した。
「じゃあ、秋から半年間の東京校のカリキュラム、全学年分。もしも俺がこの立会いでお前から先に一本取ったら、お前が原案作ってくれ」
「いや、ちょっと待て、それは随分な労働に聞こえるが」
「大丈夫だって! 日車、お前ならできる。つーか、この勝負に負けなきゃいいっちゅー話よ」
「……それもそうだが」
 日車は道着の背筋を伸ばすと、両手で慎重に竹刀を構えた。日下部が小さく首を傾げた。
「で? お前は何を賭ける。お前が俺から先に一本取ったら」
「──八幡祭り」
 答えは決まっていた。
 それを一音ずつ、ゆっくりと舌の上で転がすように日車は答えた。
「俺が勝ったら、今度の土曜日、一緒に南町の八幡祭りに行ってほしい。もちろん、着物で。そして露店で俺が欲しいと言ったものを全部買うこと。これが俺の条件だ」

       †

 後部座席に日車を乗せた伊地知の車が南町の交通規制を堂々と抜けて八幡神社へたどり着いたのは、午後六時ちょうどだった。──この手の交通規制はすべてやり過ごせることになっていまして、と伊地知が控えめに説明した。
「まあ、高専の特権です。……では、私はここで」
「ありがとうございます。帰りもお気をつけて」
 日車は車を降りると、上着のボタンを手早く閉めた。鳥居の前は既に車道へあふれるほどの見物客でごった返し、町内会の法被を着た老人が警察官と並んで、参道から本殿へと向かう人の流れをてきぱきと整理している。
 その手前、《奉納》と刻まれた標柱の隣に日下部が立っていた。黒の着物に明るい色の縞模様の帯、雪駄を合わせた瑞々しい正装だった。上に重ねた黒っぽい羽織は、道沿いに掲げられた商店街の協賛提灯の下でわずかに緑がかっているのが見てとれる。いつもはトレンチコートに斜め掛けする菖蒲柄の竹刀袋が、今夜の装いにはこれ以上ないくらいしっくりと映えていた。
 その日下部は、日車を見るなり「げっ」と顔をしかめてみせた。
「お前も着物で来るんじゃねーの? 俺だけかよ」
「仕方がないだろう。総監部からの面接調査が昼から今まで長引いてしまったし、そもそも俺はそういう着物を持っていないし」
 気を悪くさせたならすまない、と上目遣いで日下部を見上げると、彼は少しきまり悪そうに日車から目を逸らした。
「……いや、いいんですけどね」
 わかっている。日下部が何かに気を悪くすることは滅多にない。それはひとつには、彼が心底やさしい男だからだ。わかっている。
「じゃあ、まあ、行きますか」
 日下部はちらりと背後へ目を遣った。地方育ちの日車にとっては尻込みしたくなるほどの見物客が、参道に居並ぶ露店の間をみっしりと埋め尽くしながら、奥へ奥へと少しずつうごめいている。
「迷子なんなよ、ほら」
 日下部の大きな手が伸びてきて、日車の乾いた左手を素早く掴んだ。そのまま水の流れに飛び込むように、ふたりでたちまち、人の波にとぷりと飲まれた。

 境内の桜がすべて若葉になると、八幡神社の祭りがやってくる。
 日下部との同居生活が始まってしばらくしたころ、商店街で桜祭りのポスターに目を留めた日車に向かって、日下部がそう教えてくれた。
「八幡神社は桜祭りも悪くねえけど、なにせ花見客ばっかりなんだ。俺のおすすめは若葉のころだな。祭りがあって、小せえけど町内会で神輿が出て、露店が並んで、最後にちょっと花火も上がる」
「それは豪勢だな」
 刑事事件での処遇もいまだに中途半端なまま、人権無視の監視対象として毎日を過ごしていた日車のことを、おそらく日下部は様々なかたちで気にかけてくれていた。日下部の暮らしぶりは意外に丁寧で、半額シールの貼られたスーパーの惣菜を食卓に並べるときにさえ、細切りにした新鮮な大葉を添えるような男だ。かと思えば同じ洗剤の詰め替えを二日連続で買ってきてしまうような、どこか抜けたところもあって、二週間もするとふたりの暮らしのリズムは驚くほどぴたりと揃った。
 部屋数が多く、日車が小さいながらも自分の部屋を持てたこともありがたかった。日下部の住むマンションはいわゆるファミリータイプで、独身男性が選ぶには相当贅沢な広さだ。もしかして彼は、ここに誰かと住むはずだったのではないか──そう思わせる広さだった。
 もちろん、それを彼に訊けたことは一度もない。
「あそこの焼きそばがいい」
 高校生らしきふたつのグループの間に挟まれてもみくちゃになりながら、日車は必死に首を伸ばして露店を見渡した。人混みの中でも、日下部の右手は日車の左手をぎゅっととらえて、離れることがない。羽織の袖口から覗く、その右手の甲にくっきりと残った竹刀の痣を目にして、日車の胸の奥がひりりと痛んだ。
「……まだ痛むか?」
 ぽつりとこぼれた日車の言葉を日下部は聞き逃さなかった。あ? と振り返ったあと、すぐに気づいて小さく首を振った。
「平気だ。つまんねえこといつまでも気にすんなって。天才相手に気ぃ抜いちまった俺が悪い。だから今日は限界まで俺にタカるんだろ?」
「そのとおりだ」
「じゃあ気合い入れろ」
 ロリポップの白いスティックが日下部の口元できゅっと上がる。返事の代わりに日車は、つないだ左手に少しだけ力を込めた。
 あのとき竹刀の先を日下部の右手に叩きつけた、なんともいえず硬くやわらかな手応えを、胸の底でじくじくと思い返しては悔やんでいる。何度も。
 鳥居の向こう、商店街のほうから遠く、神輿を運ぶ担ぎ手たちの威勢のいい掛け声が切れ切れに聞こえてくる。

「……一応言っておくが」と日車は運良く空いた参道脇のベンチに座って割り箸を割った。
「この手の露店というものは、何らかのかたちで反社会的勢力の財源になっていることが少なくない。もちろん例外はあるが、結局そのあたりの因果は、経済的にも社会的にも完全に断ち切ることは難しいんだ」
「そうかい」
 隣に座った日下部は、膝の上に積み上げたプラスチックのパックから器用に輪ゴムを外していく。一番上に乗った焼きそばを日車に差し出すと、自分は缶ビールのプルタブを二人分、手際よく引き開けた。
「まあ、今夜はそれも含めてお楽しみだろ? ほれ、乾杯」
「ありがとう」
 まだ少し肌寒い夜のはじまり、冷えたビールを控えめに喉に流し込む。膝に乗せた焼きそばは、小さないきもののようにまだほんのりと温かかった。
「食い切れなかったら手伝ってやるから、好きなもんから食えよ?」
「……すまない。目についたものを言いすぎたかもしれない」
 たこ焼きにお好み焼きにイカ焼き、じゃがバターとフランクフルトに肉巻きおにぎり。日下部の膝に積み上がったパックは子どもの夢の詰め合わせのようだ。
 紅生姜が雑に乗った焼きそばに箸を入れると、日車はスーツを気にしながらそれを口に運んだ。いつも日曜日の昼間に日下部が作ってくれる焼きそばとは比べものにもならなかったけれど、祭りの日に野外で食べる焼きそば独特の、懐かしいような、浮ついた風味もまた唯一無二のものだ。
 一口食べると、不意に妙な食欲が湧いてきた。脇に置いたビールの缶のことも忘れて、日車はせっせと箸を動かした。
「うん、美味い。なんというか、全体的に、祭りの味がする」
「お前それ褒めてるつもりなら言いかたは考え直せよ?」
「君の焼きそばが一番美味いから、二番目のことを褒めあぐねているんだ。ところであそこに出ている、あの、はし巻きというのは何だろうか、日下部」
「どれかひとつ食い切ってから興味持ちなさいよ……」
 関西のやつじゃねえかな、お好み焼きが箸に巻いてあるんだ。日下部は博識を披露しながら、たこ焼きのパックを開けると、ひとつを割って箸にとった。
「はいよ。こっちも冷めねえうちに」
「……ああ」
 当然のように口元に差し出されたそれを、日車はぱくりと口にした。両手は焼きそばのパックと箸とでふさがっているのだ。仕方がない。舌に乗ったソース味の濃いそれは想像よりも少しとろりと熱くて、小さなタコの切れ端を噛むと、小気味いい磯の香りがした。
「こっちも美味い」
「そりゃよかった」
「君も食べてくれ。遠慮しないで」
「そりゃそーよ。俺の金だからな」
 わざとらしくしかめ面をしてみせると、日下部はタコのないほうのたこ焼きを口の中に放り込んでビールをあおった。
 それからしばらく、ふたりでソース味のするあれこれを食べ漁りながらとりとめのない話をした。日下部は日車が今日の面接調査で何を訊かれたのか、しきりに気にした。
「大丈夫だ。日常生活についての質問には正直に答えればいいだけだし、高専や呪術界に対する俺の思想信条を探るための質問なら適切な回答はわかりきっている。その都度表現を変えたり、前段の理屈部分に多少素人的な誤解を交えたりして、結局は同じ内容を繰り返し答えるだけだ」
「さすが弁護士っちゅーか……」
「元、弁護士だ」
 除名はされていないが、と心の中で付け加える。少なくとも日車の社会的処遇を守るという一点においては、総監部の力は恐ろしいほど侮り難いものだった。彼らは日本政府のどこにまで食い込んでいるのか。この世界に対する自分の知識など、実は大したことはないのだと実感する。
「まあ、今は身動きしづらいだろうが、もうちょっとの辛抱だ。そのうちお前がどれだけ役立つ人間かわかれば、つまらん監視もなくなるっちゅーもんよ。住むところだって自由に──」
「俺は、身動きしづらいと思ったことは一度もない」
 フランクフルトの串を空のパックに放り込み、じゃがバターを箸の先で四つ割りにしながら、日車はきっぱりと言い切った。
「君が俺の暮らしぶりに心を砕いてくれているおかげで、俺は毎日何ひとつ不自由なく暮らせている。ただ、君に迷惑をかけていることを本当に申し訳ないと思う。釣りが趣味なんだろう? 少なくとも君の家に厄介になってから、俺は一度も君が釣りに出るのを見たことがない」
「それはお前がどうこうってんじゃなくて、単純に毎日暇がないだけだ。イカ焼きは? まだ食えるか?」
 ずい、と口元に持ってこられたイカ焼きの、香ばしい先端を一口かじって、日車は日下部を見上げた。
「……もういい。堪能した」
「あっそ」
 それきり気にするふうでもなく、日下部は残りのイカ焼きを豪快に頬張り、ビールで流し込む。二十分も経っていないというのに、いつの間にか彼のビールは三缶目になっていた。
 ──毎日暇がない、と日下部は言った。それはそうだろう。一コマの授業のためにその五倍の時間を使って彼が準備していることも、日車は彼と暮らして初めて知った。
「お、ようやく全部食い切ったな。もう満足か、先生?」
「満足じゃないし、先生でもない。先生は君だろう、日下部」
 教師としての彼の忙しさを、日車も傍で見てきて痛感している。
 けれどそれなら、なぜ月に二度、高専に伊地知がいるときを見計らって、彼は行き先も告げずどこかへ出掛けてゆくのだろう。日車を伊地知に託して。

 神輿は商店街のあちこちを回りながら、少しずつ神社へ近づいてくるらしい。露店を堪能したらしい家族連れが、今夜の花火をどこで見るかとしきりに議論しているのを横目に見ながら、日車は日下部を射的に誘った。
「いーけど、お目当てがあんの?」
 いつの時代もそうなのか、射的の周りには小学生らしき男子児童たちが何重にもむらがり、居並ぶ景品のすべてを口々に値踏みしている。その中からかろうじて待機列らしきものを見つけ、最後尾に加わりながら、ふたりもまた射的の景品を見渡した。
「一等は何だ? ゲーム機? ……は、お前さん要らねえだろ」
「あのクマがいい、右上の。取ってくれ」
 右手のりんご飴を歯の先でかじりながら、日車は迷いなく答えた。
「表情が気に入った。セーラーカラーも可愛らしい」
「ええ……あれ絶対落ちねえだろ、あんなデカいもん、コルクガンで。しかもここからあの位置狙うんだぞ」
「君ならできるだろう?」
 ちらりと日下部を見上げる。こういう小さな無茶を言われているとき、日下部がつくってみせる迷惑そうな表情を日車は気に入っていた。
「もちろん呪力はナシだ。子どもたちの前で卑怯はいけない」
「へいへい」
 成人男性ふたりが列に並んでいるのに勇気づけられたのか、日車のすぐ後ろには男女のカップルも並んだ。女性のほうが甘い声でねだるのが聞こえる、──あのクマがいい、絶対! セーラー服が可愛すぎるもん。
 一等のゲーム機を狙った小学生たちが次々と脱落し、たちまち日下部と日車の番になった。ひとり五〇〇円で三発。日下部が千円払い、先に日車のりんご飴を預かってくれる。無愛想な店主に指示されるまま、日車はコルクガンのレバーを引き、先端に軽く弾を込めると両手で銃を構えた。身体は乗り出してもいいけれど、大人は両足を地面から離さないのがルール。サイトで照準を定め、まずは真ん中、ためらいなく引き金を引く。
「うおっ」
 隣で日下部が低くうめいた。ぱん、と勢いよく飛んだコルクの弾は、上段真ん中のゲーム機の足元をわずかにかすめて外れた。予想よりも遥かに弾道がゆがむ。玩具とはいえタチが悪い。
「え、お前、一等狙いだったの?」
「せっかくだから一等を狙ってみたくなった。クマは君が取ってくれるからな。ただ、弾が相当左に曲がるから注意しろ」
「それより日車、左手……」
 日下部の言葉を遮るように、日車は二発目を放った。まだ上手く力の入らない左手は添えるだけだ。今度は小さなコルクはゲーム機の右下に命中したが、本体の位置がわずかにずれただけだった。さすがに釘で固定するような真似はしていないようだが、あれを落とすには重心を最大限に揺さぶるための標的位置を正確に見定める必要がある。
「左手はもう平気なんだ。力の調整が難しいだけで」
 いまだに茶色く皮膚がごわつく左手で最後の弾を込めると、日車は肺に残った息を深々と吐き出した。──何を緊張しているのだろう、と不意に可笑しくなる。遠くからちぎれて聞こえてくる祭囃子の音ごと、夕刻の空気を軽く吸い込むと、日車はコルクガンを構えた。もうサイトを覗くことはしなかった。
「!」
 鋭い破裂音がして、コルクに射抜かれたゲーム機の箱がふわりと宙に浮いた。そのままゆっくりと、バランスを崩し、棚から後ろへとあっけなく落ちる。
「おお、やった!」
 日車が驚くよりも先に日下部がはしゃいだ声を上げた。だがその目の前で、黒いニット帽をかぶった店主がうんざりしたように首を振った。
「後ろに倒れたのはダメだよ。前に落とすのがルール」
「……は? いや、書いてねえでしょーがどこにも!」
「書いてあるよ、そこ」
 そこ、と示されたのは店先に立てかけてある段ボールの札だった。《3発500エン》の下に小さく、ごく小さく──《上の段の商品は、前に落としてね!》
「……見えねえよ、あんなん……」
「書いてあるから」
「つうかこっから撃って前に落とすって、どう考えても物理的に無理でしょーが!」
「おにーさん次、やるなら早くして」
「……なんとかならんの、弁護士先生」
「ならないだろうな」
 声に笑いが混じるのを抑えることができなかった。ゲーム機が欲しかったわけではない。日下部だってそうだろう。けれど大柄な日下部がムキになって食い下がる姿は少年のようで、いつも以上に尖らせた唇が愛くるしかった。周りの小学生たちが何やら囃し立てながら、日車と、そして日下部に釘付けになっている。
「さて日下部。君の出番だ」
「あっそう……」
 全身で《納得していません》と語りながら日下部は羽織を脱ぐと、コルクガンを手にとった。レバーを引き、深さを確認しながら慎重に弾を込める。日車がねだったクマのぬいぐるみは体長四〇センチ強、棚の一番右でつぶらな瞳をぼんやりと遠くへ向けていた。日下部はそのまま右手だけで銃身を前へ向けた。墨黒の絣の袖に隠れて、まるで日下部の右腕そのものが銃のようだった。
 ──ふ、と彼が小さく息をついた。と思った次の瞬間、高く音が鳴った。コルクの弾がクマの左、足元の棚板をほんのわずかにかすめ、弾みで高く変わった軌道がそのままセーラー服の胴体を下からすくい上げる。くるりと身体をよじったクマの右耳を、勢いの弱まった弾が最後に軽く叩き込み、クマは無言のままころりと前へ転がり落ちた。
 やった、と思わず日車は身を乗り出した。
「やった、日下部!」
「うっし、今度は前に落ちたぜ? 見てたよなあ」
 日下部の朗らかな嫌味に、うんざりした目つきの店主が何か答えるよりも早く、小学生の軍団が口々に「見てた!」と叫んだ。ははっ、と日下部は笑うと、店主の手から颯爽とクマを奪い取った。
 ──マジかよ、と不機嫌そうな声がして、日車は振り返った。すぐ後ろに並んでいたカップルの、金髪の男性がピアスの口元をゆがめている。彼はじろりと日車を、そしてその隣でクマを抱えている日下部を睨みつけた。それから隣に立つ彼女に向かって聞こえよがしに囁いた。
(キモくね? マジ空気読めって)
「悪ぃな」
 受け止めたのは日下部だった。抱え込んだセーラー服のクマの、小さな両手をおどけたように動かしながら、彼は凛々しい眉を上げて若い男を真っ直ぐに見下ろした。
「こっちも大切な約束なんでね。裏切れねえのよ」

 いちご味のクレープは半分も食べきれなくて、早々に日下部に渡した。社殿に向かって奥へ進むと金魚すくいの店がある。右手にクマを抱えた日車は、左手でついと日下部の袖を引いた。ええ……と日下部があからさまに顔をしかめた。
「うちじゃ飼えねえぞ? 家空けることも多いし」
「わかっている。持ち帰らずにちょっと楽しむだけだ。正直、生き物を使った遊びについては大人になると色々思うところもあるんだが、せっかくだから懐かしい遊びがしたい」
「なるほどねえ」
 日下部の手から千円札が離れ、代わりに赤と緑のポイがひとつずつ、ふたりの手に渡った。水槽の周りには冷やかしの大人が数人、あとはどう見ても幼稚園児と小学校低学年の子どもばかりが、親に付き添われて必死に金魚を追い回している。
「君は得意か?」
 日車は水槽の脇にしゃがみ込むと、クマを膝で抱え込み、緑のポイを構えた。
「得意も何も……つうか、わざわざ聞くっちゅーことは、お前は得意そうだな」
「実はそうだ」
 日車は動きの遅い一匹に目をつけると、迷わずポイを水に浸した。金魚と一緒にしばらくポイを泳がせ、手元に浮かせたボウルに近づいたところで素早く、獲物を枠に引っ掛けながら斜めにポイを引き上げる。
「おお……」
「この金魚すくいの道具にはポイという名前がついているが、これは表、紙の貼ってあるほうが強度が高い。ただし表面に枠の凹凸がない分、金魚が引っかかりにくいというデメリットがある」
 続けざまに二匹、近づいてきたところを頭からすくい上げてボウルに入れた。
「できれば金魚は頭からすくうといい。尾鰭でポイの紙を破られるからな。ポイの出し入れは必ず斜めの角度で。慌てずに金魚の下を泳がせて、ボウルに近づくタイミングを狙う」
「聞けば納得するんだが、実際にやるとなると話は別なんだよなあ」
 ロリポップをくわえてぼやきながら、日下部は乾いたままのポイを片手にぼんやりと金魚の群れを眺めている。その間に日車はさらに三匹、ボウルの中へ招き入れた。幼いころから築き上げてきた自分の勘が鈍っていないと自覚するのは気分がいい。
「すっげえ!」
 不意に水槽の向こうから幼い声がして、日車は目を上げた。小学校低学年くらいだろうか、野球帽をかぶった少年が日車のボウルに熱い視線を送っている。
「ぜんぶオジサンがとったの?」
「……そうだ」
「おい、喜べ少年」
 隣で日下部が唇の端を上げて笑った。
「あとで全部くれるって。この目のおっきなオジサンが」
「待て、君だって立派なおじさんだろう……」
「こっちのオジサンは得意じゃねえんだよ、こういう心理戦はよ」
 日下部はようやくポイを水槽に沈めた。途端に金魚全員が示し合わせたように、一斉に日下部の手元から離れてゆく。
「あ、コラ、こいつら」
「もっと静かに動かしたほうがいいぞ、日下部。金魚が怯えないように」
「やってるんですけどねえ」
 むむ、とくわえたロリポップの白いスティックが下がる。
「天才にはかなわん」
「……コツを勉強しただけだ。天才というわけじゃない」
「百なら百、勉強したことを、百そのまま出力できるのが天才っちゅー話ですよ」
 日下部の赤いポイが、金魚のあとを追いかけてうろうろと動く。その右手の甲に、日車がつけた竹刀の痣が赤黒く残っている。
 自分は日下部から何かを奪ったのだろうか。それはもう取り戻すことのできないものだろうか。
「よ、っと」
 大きな身体を傾げるようにしながら、日下部がようやく一匹すくい上げた。ボウルにぽちゃんと跳ねた金魚は少し太めで、先の割れた尾鰭に妙な愛嬌がある。
「オジサンもとれるじゃん!」
 あの野球帽の少年が日下部を見て笑顔になった。そーだな、と日下部は口元を緩めて少し笑った。
 射的の露店で小学生軍団を味方につけた、あの日下部の勇姿を思い出して、日車は思わず口にした。
「君は子どもに好かれるんだな」
「どうだろうな」
「君が優秀な呪術師だという前提で言うが、教師も君の天職に近いと思う。君だって子どもが好きそうだし」
「……嫌いじゃねえよ」
 日下部の視線は金魚の群れで揺れる水面を淡々と泳いでいた。水の中に沈めたままのポイの上を、小さな生き物が次々と行き交い、はかない陰影が彼の手元で生まれては消える。幾度も。
「でも、すぐに壊れちまいそうだよ。ガキなんてみんな、小さくて」
 日下部がポイを引き上げた。真ん中に細身の金魚が乗っている。やったな、と日車が喜びかけた次の瞬間、濡れた紙はぱっくりと破れて、赤い金魚がぼちゃりと水面に叩きつけられた。
 日下部がようやく顔を上げた。
「行こうぜ。神輿が来る」
 いつの間にか祭囃子は耳にうるさいほど近く、担ぎ手たちの声がそこまで迫っていた。

 参道の両側には神輿を通すための規制のロープが張られていた。見物客は皆、おそろしいほどのすし詰めで、ロープの外に無理やり寄せられている。大切なクマが潰されないようにと両手で抱えると、日車もそのすし詰めに加わった。
 神輿の先をいくのは大太鼓に小太鼓、手で鳴らす鉦と、ひときわ華やかな横笛。器用に笛を吹く一行の中に《子ども会》の手ぬぐいを肩から掛けている少年がいることに驚いた。逆に法被姿の担ぎ手たちをよく見ると、若者はほとんどおらず、大多数は初老に近い男性のようだ。都会だな、などと場違いな感想を飲み込むと、日車は人垣の向こうへじっと目を凝らした。背伸びをしなくてもどうにか神輿を楽しめる背丈は、こういうときにありがたい。
 それからふと思いついてちらりと隣を窺うと、日下部も真っ直ぐに前を向いていた。凛々しい眉に眠たげな瞼、少し色素の薄い、鳶色の瞳。ついさっき、射的の露店で彼が若者に向けた視線を思い出した。
 誇らしさで胸が詰まるような瞬間だった。
「どうした?」
 気配に気づいたのか、日下部がこちらを振り返った。
「ちゃんと見えるか? こっち来る?」
「平気だ。よく見える」
 彼はやさしい男だ。けれど時々こう思うのだ──彼にとっては誰もが平等にどうでもよくて、だからこそ誰にでもやさしいのではないかと。
 やる気がないと断るはずだった頼まれごとからは逃れられず、ふた周りも年下の学生から気安くからかわれ、あらゆることを常に面倒臭いとぼやきながら結局は誰の面倒も最後までみる。けれど日下部の目はいつも、どこか別のところを見ている気がする。ここではない場所に、まるで日車の知らないやすらぎを探しているかのように。
 誰にでも秘密はあるというのに、そのことがどうしても、もどかしくてたまらない。
 祭囃子が最後の盛り上がりとばかりにひときわ高く鳴り響き、日車たちの目の前を過ぎて、神輿とともに社殿へと向かっていった。みっしりと詰まった人波はそれを見送るかのようにみるみるほどけ、今度は一斉に鳥居へ向かって参道を逆戻りし始める。神輿へついて行く見物客はわずかだった。クマを抱えたまま小さく首を傾げる日車の隣で、日下部が教えてくれた。
「もうすぐ川縁で花火が始まるんだ。ちょっとだけどな。ついて行くか?」
「迷うところだ。せっかくだから最後の奉納まで見たい気もする。来年の今日もこうして晴れるとは限らないからな」
「来年にはお前はこの街にいねえよ。正式な一級術師だからな」
 くわえたロリポップの、白いスティックの先を軽く上げて、日下部は小さく笑った。
「皆わかってる。お前に必要なのは信用されるための時間だけだ。そのうち監視は外れる。だから俺と離れて、ここじゃない、好きな街に住める。休日だって好きにできるし、呪術師として上の連中とも真正面から渡り合える、それこそ俺以上に。チートな領域に反転術式の運用、呪力を乗せた体術で虎杖も負かすレベルだ。俺が教えた知識は聞いたそばから完璧に吸収しちまうし、もう天才に教えることなんざ残ってねえのよ」
 社殿のほうから太く張りのある声がした。担ぎ手の掛け声がわっと高まり、割れるような荒々しい拍手がそれに続く。日車はゆっくりと瞬きをした。橙色の祭り提灯がふたりの頭上で風に揺れて、日下部の頬の凹凸を美しく照らし出し、すぐにまた闇へと沈めた。
「……そうか」
 硬くこわばった舌を動かして、日車はそれだけ答えた。全身の血の気が引くようだった。日下部はぐるりと首を巡らせると、ちらと神輿に目を遣って、すぐに逸らした。そばにあった露店向けのゴミ箱に細いスティックを放り投げて、言った。
「花火見ようぜ。あっちの参道口が近い」
 彼は日車に背を向けて歩き出した。絵馬掛けの裏、小さな行燈に沿って、木々の間に細い道がさりげなく伸びている。気づけばあれほど参道を賑わせていた露店は次々と店仕舞いを始めていた。向こうの社殿では奉納の楽が流れ始め、熱心な氏子たちが今日の祭りの最後を締めくくるべく整然と並んでいる。いつの間にかどこも自分の居場所ではなかった。
「──置いていかないでくれ」
 ほろりと言葉がこぼれた。羽織に包まれた広い背中がぴたりと止まり、驚いたように日下部がこちらを振り返った。
「え?」
「君は、俺が君を尊敬するのがそんなにも疎ましいのか」
「日車?」
「そんなふうに……言わないでくれ」
 日車は手の中のクマをきつく抱き締めた。ほかにすがるものがなかった。やっぱり間違っていた。今日のことを望むべきではなかった。
「俺は別に天才じゃない。入力した情報を理屈で解釈して次の問題に対する最適解として出力するスピードなら君に負けないだろう、でも君という男には最適解では追いつかないこともよくわかっている」
「……ちょっと待て」
「あのとき俺が君から一本取れたのは、君が伏黒と虎杖に見せた勝ちパターンとほぼ同じ手順で俺と戦ったからだ。細部の動きと方向こそ違ったが攻めと守りの構成はまったく変えていなかったな? 君が披露したのはあとから授業で説明するための型とその応用で、先に二試合連続で観た俺にはそれが手に取るようにわかった。そして君と週末の約束が手に入るなら、俺はそのことを黙って試合に臨むくらいの狡猾さは持っている。でも俺は別に天才じゃない」
 理屈ばかりよどみなくすらすらと出てくるのに、痛いほど肺が軋み、指の先まで震えが止まらなかった。本当はときめくような言葉でありったけの感謝を、大切な信頼を伝えたいのに。
「……今夜、待ち合わせの場所で君を見つけたとき、俺がどれほど嬉しかったか君にはわからないだろ」
 日下部は何か言いたげに唇を動かしたけれど、それだけだった。木々の生い茂る夜のはるか向こうで、ぱぁん、と小さく遠く、一発だけ火薬の鳴る音が響いた。
「君が手をつないでくれたとき、あまりにきつくつなぐから、俺は本当に……子どもみたいな気分だった。まだ食うのかって、君がうんざりした顔であちこちの露店で小銭を出すたび、俺はこの街の全員に君のこと、見せびらかしたくて、仕方なかったんだ」
 ひとりでにあふれ出す言葉のどれもが脈打つ自分の心臓を削り取るようで、耐えきれず日車はやわらかなぬいぐるみを抱いたままうつむいた。あまりに懐かしい痛みで、鼻の奥がつんとした。
「君が、君が約束だからって、俺のためにコルクの弾でこれをとってくれたとき、俺がどれほど、誇らしくて、幸せで、胸が、潰れそうだったか君には想像もつかないだろうな!」
「なあ、聞けって──」
「──この、ぼんくら」
 心からそう思い、そして絶対に違うのにと思った。日下部は答えず、ただ張りのある衣擦れの音がして、それからしばらく沈黙が降りた。顔を上げなくてもわかる。日下部はきっと、少しきまり悪そうに、いつもみたいに首の後ろを掻いているのだろう。
 誰にでも見せる、あのやさしい仕草で。
「……お前はさ」
 そろりと、ため息混じりに彼は低く切り出した。
「お前はたぶん……俺がいじけた了見で今夜、ここに立ってるって思ってるんだよな?」
 質問ではなく確認だった。日車はうつむいたままクマに隠れて答えなかった。
「つまりお前は、俺がわざとお前に負けたとは、これっぽっちも想像しなかったっちゅーわけだ」
「……」
 一瞬、言葉の意味がわからなかった。日車は鼓膜の奥で、たった今聞いた音を、慎重に再生し直した。
 二度、それを繰り返した。
「……え?」
「だよな? 俺が自分で選んで今日ここにいるなんて想像しなかったんだよな?」
「……ええ、と?」
 考えが追いつかない。ただ何か、──何か思いがけない理屈を見落としたという、直感がある。
 信じられない罠に落ちたように、その恥ずかしさに、今更足がすくむ。
「それ──」
 うろたえた声も取り繕えないまま、日車は思わず顔を上げた。瞳を凝らして日下部と視線を合わせた瞬間、瞼のきわにたたえていた涙がぽろりとこぼれた。
「それは……どういう」
「どういうことだろうな」
 切れ長の、あの眠たげな目尻を困ったように緩ませて、日下部はくしゃりと笑った。
「ま、三輪といいお前といい、ちょっとばかし俺を舐めすぎじゃねえかっちゅー話よ」
 日下部の大きな手が伸びてきて日車の髪をやわらかくかき回す。それから少しごわついた親指で、濡れた日車の目元をぐいと拭った。彼らしい、甘く無造作な手つきだった。骨張った指の背がくすぐるように頬をすべる、その一瞬のはかない感触に胸が震えた。
「泣き虫め」
 甘ったるい悪態とともに、日下部が両手を回して日車の身体を抱き寄せた。──触れる、と思ったけれど、意地の悪い魔法のようにふたりの距離は途中でぴたりと止まった。
 日車は思わずこぼした。
「これ、邪魔だ、日下部……」
「ご挨拶だな」
 日車が両手で抱えたセーラー服のクマがふたりの胸板に挟まれてひしゃげたまま、いたたまれなさそうに遠くを眺めている。日下部はクマごと日車を抱いたまま、遠くから少しだけ身体を寄せて、日車の額にそうっと唇を押し当てた。
 いつも彼のまとう、色とりどりのロリポップの、あの幼く甘酸っぱいにおいときたら。
「……ちゃんとは、してくれないのか」
 日下部の唇が離れる瞬間、精一杯の不満を込めて日車は呟いた。
「君のこと、ぼんくらと呼んだことなら、すまない」
「いや、そういう重い話じゃなくてな……」
 日下部は凛々しい眉根を寄せて、困ったようにそらを仰いだ。それを待っていたかのように、街の向こうで夜空が小気味よく鳴り始めた。花火の光はなくても、夜風に乗って人々の笑いさざめく声が途切れ途切れにこの暗い森まで届く。遠く弾ける幸せの気配にふたりきりで耳を澄ませている。
「……じゃなくて、照れ臭い、って話ですよ」
 弱りきった抑揚で日下部は答えた。──ああ、と思い出して日車は笑った。
 君、また同じことを言った。
 いつか深夜のファミリーレストランで聞いたのと同じ。
 そうからかおうと顔を上げた瞬間、日車の手からやわらかなぬいぐるみが抜き取られた。逞しい腕が日車を痛いほどきつく抱き締め、しなやかな黒い羽織の中で、日下部は今度こそ長く深い、初めてのキスをくれた。




スピッツ「大宮サンセット」(2004)

金魚すくいと射的の篤也が書きたくて
まんが描ければ自分で映像にしたかったですが無念!

そんなわけで篤寛にハマり、ツイッタランドの神作品を愛でるだけでは飽き足らず、6月末のカプオンリーに申し込んでしまいました
5億年ぶりにペラペラスケベブックが出るといいなとおもいます!!!
体外式ポルチオ調教されるひろみは見たいじゃん…

次のページのはどうでもいいおまけ

ご感想などいただけると嬉しいです!
wavebox

Comments

  • Natukaze
    May 4th
  • かぼちゃ

    もう本当にずっと胸がキュンキュンしていました…!恋する日車さんが可愛くて健気で何度か「うぐぅ…」と呻き声を…。読了後は多幸感に包まれながらお願いだからずっと幸せでいて…!とお祈りさせて頂きました。イベントでの御本も楽しみにしています!素敵なお話をありがとうございました✨

    Apr 26th
  • 小夜双☆スカィWeb
    Apr 25th
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