きっかけは、いつだっただろうか。俺は、いつものように浮き玉の影からそっと堤防を眺めた。毎週決まった時間に現れる名前も知らない男が、釣りをする姿を見上げるのが、いつしか日課になっていた。
そうだ、始まりは半年前の事だった。網に絡まったイルカが辛そうに浅瀬を目指していたのを見かけ、何か切れる物を探しに家へ戻った。ハサミを手に、彼の元へ戻った時、大柄な人間がイルカにしがみついていた。俺は、男が彼を仕留めようとしているように見えて、慌てて近寄ろうとした。しかし近づいてみて気づいた。男はナイフを手に、自分がずぶ濡れになるのも厭わず、彼を助けようとしていた。
その時から、男の事が気になって仕方がなくなってしまった。こんな思いを抱いたのは初めての事だ。
今日も、いつものように釣竿を振るう男を眺める。パチリと目が合った気がした。日車は驚き、勢いよく海へ姿を消した。別に、この世界において人魚は珍しくない。人間と共存しているし、数は少ないが中には足をはやし陸で生活している個体もいる。海へ行けば、人魚なんて当たり前にそこら中に生息している。だから、たかが目が合ったくらいの事で、勢いよく隠れる必要などなかった、と日車は少し反省した。
ドボンと勢いよく水面が揺らめく。驚き、音のした方を向けば、そこには彼がいた。目が合うのは二度目だ。彼は、日車の姿を確認すると、勢いよく口から息を吐きだした。ブクブクと泡が立ち込め、彼の顔が見えなくなってしまった。日車は、勢いよく水面へ向かう彼の後を追った。堤防へ向かって泳ぎだす彼に並走し、素朴な疑問を投げかけた。
「人間は服を着たまま泳ぐのか?」
「そんなわけねーだろ!」
男はガシリと堤防にしがみつくと、筋力のみで這い上がった。呆気にとられつつ、堤防へ近寄った。
「では、なぜ?」
ガシガシとタオルで顔を拭き、日車を見下ろした。こんなにも高さがあるところをよく上ったな、と場違いな関心をした。男が大きなため息を吐き、シャツを脱ぎ、ギュッと搾り上げた。
「…誰かが溺れてんのかと思ったんだよ。」
人魚だったのかよ、飛び込んで損した、とぶつくさ文句を言う男の姿に自然と笑みがこぼれた。
「…そうか。君は優しいんだな。」
男は目を丸くして微笑む日車を見つめた。しかし、それも一瞬の事で、次の瞬間には元のしかめっ面に戻ってしまっていた。
ドクリと高鳴った胸の鼓動に気づかないふりをして、謝罪を口にしている人魚に意識を向けた。
「俺は日車寛見。君の名前が知りたい。」
「……日下部。日下部篤也な。」
小さく名前を復唱している日車を一瞬でも愛おしく思ってしまった自分に驚きつつ、そんな思考を外へと追いやった。
「今日は何を釣っていたんだ?」
「え?…ああ、」
クーラーボックスへ視線を移し、日車へ見せる。釣った魚の調理方法や、海底の暮らしなど、互いの事を話していくにつれ、だんだんと居心地の良さに気づき始めてしまった。時間を忘れ、日が沈むまで会話は続いた。
この出来事をきっかけに、奇妙な交友関係が始まった。毎週釣りへ日下部が現れるたび、日車はひょっこりと海の中から顔を出すようになった。時には堤防、時には船で、と二人の時間を楽しんだ。これがいつしか、日課になっていた。
「一度、君の作った料理を食べてみたいな。」
とある日の事、日車が会話の中でポロッと呟いた。日下部はいつもの調子で、釣竿に意識を向けつつ、日車の方をチラリと横目に見やった。
「今度食いに来るか?」
なんてな、と冗談交じりにそう言えば、キラキラと目を輝かせた日車と目が合い、思わず身じろいだ。
「いいのか?では、来週お邪魔させてもらおう。」
心做しか声色を明るくし、そう言うと、海の底へと帰って行ってしまった。残された日下部は、呆然と水面を眺めた。
「どうやって?」
投げかけた疑問の答えが返ってくることは無かった。
待ち合わせ当日に、船へ乗り日車のもとへ向かった。遠目にひょっこりと海から顔を出す日車が見える。その姿がまるで顔だけ水面に出すアザラシのようで、小さく笑みを浮かべた。日車は、いつもと違い、黒いスーツを着こなしていた。すぐそばまで近寄り、声をかける。
「で?どうすんの?お前が入れる水槽なんて無ぇぞ。」
「水槽は必要ない。だが、手を貸してくれ。」
言われるがままに日車の脇に手を回し、船から落ちぬよう気を張りつつ、グッと持ち上げた。船の上へ日車を引っ張り上げる。船へ上がった日車は、しっかりと両足があり、スーツを着こなしていた。
「は!?声売った!?いやいや、喋ってたよな、お前。」
混乱している日下部をよそに、ムッと不服そうな表情を浮かべた。
「いつの時代の話だ。今は24時間だけ足をはやす薬くらいドラッグストアに売っている。」
様々な疑問が日下部の脳内でグルグルと渦巻いた。
「海ン中って薬局あんの?」
数ある疑問の中で、つい口から出た言葉がこれだった。そんな軽口をたたきつつ、陸へ向かって船を動かした。いつの間にか乾ききっている日車のスーツに、改めて海の中の技術力に驚かされた。船乗り場へたどり着き、いつものように船から降りるが、日車が中々降りようとしないことに気づき、首を傾げた。
「どうした?降りないの?」
その言葉に、日車は視線を海へ落とした。
「……立ち方がわからない。」
小さく呟かれた言葉に日下部は目を丸くした。
「今の時代はいつでも足をはやして陸に上がれんじゃないの?」
コクリと頷き肯定すると、バツが悪そうに言葉を続けた。
「……確かにそうだが、今まで陸に上がる用事がなかったから…陸に知人もいないし…誘われたのも……君が初めてだ…」
いつもより色づく頬に、しばし目を奪われた。なんだか、こちらまで恥ずかしいような気持ちになり、つられて赤面した。ガシガシと頭を掻き、ぶっきらぼうに日車へ手を伸ばした。日車は意外にも、素直にその手を取った。
「歩き方のコツなんて説明できねぇけど、文句言うなよ。」
「…ああ、問題ない。」
日車の腰へ手を回し支えると、船から降ろした。その際、倒れ込みそうになる日車を咄嗟に胸で受け止める。
「本当に陸に上がんの初なんだな。」
「…だからそう言っているだろう。」
顔を真っ赤に染め、ニヤニヤとした笑みを浮かべる日下部を睨みつけた。日下部は気にもとめず、日車の腰に手を回し、片手を差し出した。反射的に、その手に縋り、必死にバランスを取った。
「ま、そのうち慣れるでしょ。」
「……努力する。」
船貸しの老婆が微笑ましげに寄こしてきた視線は見なかった事にし、車まで日車を支え歩いた。助手席の扉を開き乗せる。窓の外に夢中になっている日車の横顔を盗み見しつつ、車を走らせた。
道中、知識としてしか知らなかった陸上の様子をじっと観察した。かなりの時間が経過し、初めて日下部が海から遠い所へ住んでいる事を知った。
「何もねぇけど、まあ、ゆっくりしてくれ。」
「ありがとう。」
相変わらず、支えてもらいつつ、部屋へ足を運んだ。大きな図体の割にこじんまりとした部屋に住んでいるんだな、と失礼な事を考えつつ、部屋をゆっくりと観察した。
「君の部屋はなんだか落ち着くな。」
初めて来た気がしない、と言いながら敷かれた座布団の上に腰を下ろし、正座した。一息つき、談笑している間にあたりは薄暗くなり、時計の針が上下を指した。
「お、もうこんな時間か。ちょっくら準備してくる。」
「待て、俺も何か手伝う…っ?」
立ち上がろうと机に手をついた瞬間、上手く立ち上がれず、カクンとひざを折った。瞬間、足が感電したかのような痛みに襲われ、ピシリと固まった。
「おい、大丈夫か?」
「っ、すまない、足が…」
「あ、痺れた?」
ニヤリと意地悪気に笑い、日車を見下ろした。ちょっとした悪戯心が沸き、膝を立て固まっている日車の足に触れた。
「陸初心者だもんな、アンタ。」
「ッ!やめろ、触るな…!」
日下部から逃れるように尻もちをつき、後ずさった。目に涙を浮かべ悶える日車を見て、終いには腹を抱えて笑い始めた。恨めがましく日下部を睨みつける。それがまた、笑いのツボにはまってしまったのか、涙を流し笑い続けている。
「悪い悪い。しばらく足伸ばせよ。」
日下部に言われた通りに座り直し、ムスッと口を真一文字に引き結んだ。その様子に苦笑しつつ、台所へ向かった。しばらく時間が経つと、だいぶ足の調子も元に戻り始めた。それと同時に、台所からいい香りが漂い始めた。着々と料理が運ばれ始める。日車は変わらず、そっぽを向いている。
「悪かったって。機嫌直せよ。」
苦笑を浮かべ、日車の目の前に様々な魚料理を並べていった。箸を渡し、日車の向かい側に腰を下ろした。
「大したもんじゃねぇから、あんま期待すんなよ。」
日車はコクリと頷き、小さく「いただきます」と手を合わせ、箸を伸ばす。甘辛く煮込んだ煮つけを口に運んだ。
「…美味いな。」
「そりゃよかった。」
先ほどまでの態度と一転し、キラキラと目を輝かせ舌鼓を打った。日下部は思い立ったように、冷蔵庫へ向かった。
「お前、酒とかいける口?」
「多少は。」
日下部から缶ビールを受け取り、ひんやり冷えた缶のプルタブに触れた。
「君も飲むのか?」
ふと、日下部の手にも握られている缶に気づき声をかけた。日車の言葉にキョトンとしている。缶を持ったままどっかりと腰を下ろした。
「え、うん。そのつもりだけど。だって泊まってくだろ?」
当然のように言う日下部に目を丸くした。
「いいのか?」
「おう、つか夜中にお前乗せて運転する方がダリィしな。」
プシッと片手で缶を開け、口をつけた。これで今夜は、海へ帰る術がなくなってしまった。その事実に、日車は頬を緩ませた。
「君は本当に横着者だな。」
「いまさら気づいたのか?」
ニヤリと笑み浮かべ、カツンと缶を合わせ鳴らした。酒がすすみ、話も弾む。ふと、ペタンと足を折り、女性のような座り方をする日車の存在に気づき、思わず反対側から覗き込んだ。日下部の視線気づいた日車は、ムッと口を尖らせた。
「……なんだ。」
「いやぁ~…」
「この座り方が一番楽なんだ。」
「あ、そうなんだ…」
「…何かおかしいか。」
何とも言えない表情を浮かべる日下部に、だんだんと不安がこみ上げる。尚も、日下部は、もにょっとしたまま言葉をはぐらかしている。
前々から愛おしい、という感情を抱き始めていたが、今日一日でここまで日車への思いが膨らむとは思わなかった。日下部が思わぬ誤算を感じている間、日車は居心地悪そうに缶に口をつけた。
ふと、思い立ったように日下部が勢いよく顔を上げた。日車は、日下部の行動にビクリと肩を揺らした。
「あ、そうだ。お前、風呂どうする?」
「入る。」
間髪入れずに答えた日車に、思わず笑みを浮かべた。膝を立て、立ち上がると、入浴の準備を始めた。バスタオルと着替えを用意すると、日車に声をかけた。日下部に案内されるがまま後を追い、浴室へ向かった。パッと表情を明るくし、湯船にかかる蓋を取った。立ち込める湯気に目を輝かせ、浴槽の淵に腰を掛けた。
「待て待て!服は脱げ!」
「ああ、そうか。」
忘れていた、と言わんばかりに脱衣所へ戻る日車に、だんだんと不安が募る。壁伝いなら、問題なく一人で歩けるようになったとはいえ、一人にして大丈夫なのだろうか。結局、一から全て説明し、日車が入浴している間は、脱衣室で待機した。
何の問題もなく上がって来た日車はホクホクと満足げだった。後で聞いたが、海の底では、身体を拭くことはあっても、入浴という概念は無いそうだ。知識でのみ知っていた入浴に憧れていた、と嬉しそうに語っていた。
下着は新品を渡し、洗濯したばかりのスウェットを用意した。身長はそんなに変わらないが、身体の厚みに差があるからか、日車が着ると袖が余ってしまっている。やや大きいサイズのスウェットを身に着けた日車は、すんすんと鼻を鳴らし袖口で鼻をカポリと覆った。
「あん?サイズがあわねぇ位なら我慢しろよ。」
「いや…サイズは問題ない。」
多少歩きにくいが、と続ける日車に、じゃあ何だと首を傾げた。
「君の香りがする。」
「は!?」
脳裏に加齢臭という言葉がよぎり、ショックを受ける。肩を落とし項垂れる日下部に気づきもせず、マイペースにすん、と鼻を鳴らした。
「何故か落ち着く。」
「あ、そう…」
変わってんな、と呟き、唇を尖らせた。臭い訳では無いようで、ひとまず安堵のため息をついた。湯から上がったばかりだからか、ほんのり血色の良い日車の様子に頬を緩ませつつ、湯が冷めぬ内に自分も入ってきてしまおう、と浴室へ向かった。
風呂から戻れば、相変わらず、ペタンと腰を下ろしたままの日車と目が合った。手伝おうとする日車を大人しく座らせたままにし、一通り片付け終える。台所から戻ればうつらうつらとしている日車がいた。寝室へ案内し、客用の布団を用意すれば、コロンと寝そべった。
「ふわふわしていて落ち着かない。」
「普段どんなとこで寝てんの?」
ふふ、と小さく笑った日車を横目に日下部も自分の寝床へ向かった。どちらからともなく「おやすみ」と挨拶すると、静かに眠りについた。