大きな背中
日下部×日車のカップリング。
X(Twitter)に書いてたものをだいぶ加筆修正した短編です。
直接的な描写はあまりありませんが、事後描写なのでR15くらいです。
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眠っている時に必ず壁があるほうに体を寄せる癖がある。
弁護士として働いていた頃、日付を変わる頃の帰宅になった時にはソファーに倒れ込むような形で眠っていたからだ。玄関から廊下をまっすぐ歩き、リビングの扉を開いたすぐ先にソファーは設置していた。全国に展開しているチェーン系インテリアショップで買ったソファーは一般人男性が横たえるほどのサイズだった。仰向けで寝ころべば、足は余ってアームの外に飛び出すし、油断していれば床に落ちる。しかし俺は小さなソファーで眠ることをなかなかに気に入っていた。低いアームの上からクッションを乗せれば枕としてちょうどよく、ウール生地のレザーは肌触りがよかった。それに体を丸めながら背もたれにすり寄れば、足はアームの外に飛び出すことはないし床に落ちることもない。背もたれのすきまに顔を埋めれば、空白のピースがなくなるような心地の良さがある。
ぼんやりとした意識の中で俺は目の前の柔らかな壁に鼻先を押しつけた。汗で湿った肌は壁にくっついている。ピースがはまるというより、粘土に手形を押しているような感じ。ぺた、ぺた……と凹凸がある壁を眠気眼に触った。顔の向きを変えて耳を壁に押しつければ、一定間隔の音も聞こえてきた。とくりとくりという規則正しい音は秒針が進むよりもゆっくりだ。とても耳心地がいい。ひとりで眠っている時に聞こえてくるリビングにたてかけた時計の空しい音よりもよっぽど。耳の輪郭から奥へにかけての空間を響かせて、俺の内側に入ってきて安心感を与えてくる。俺は壁に手を当てたまま、壁に体を摺り寄せて、耳を澄ませた。これはいったい何の音だと考えた時に、くしゃりと、頭を撫でられた。
「寝ぼけてんのか?」
乱暴に手のひらで髪を撫でられて、一気に目が覚める。目を開けてみれば、そこには日下部がいた。
「………君の、心臓の音か」
その安心を感じるほどにゆっくりで等間隔に脈を打つ音は。
ぼやけた視界がだんだんはっきりとして、俺は日下部の体から離れて、すぐうえにある枕に頭を乗っけた。
「あ?」なんのことだと日下部は体を起こして、ベッド際に座った。
シーツを退けて露になる日下部はなにも身に着けていない。それは俺も同じで、俺は裸のまま体を起こす気はなかった。日下部が退けた分のシーツを取って、素っ裸の体に巻きつけた。
事後だ。
完全に、間違いではなく、お互いの同意を持って、性欲処理を行った。すっかり目が覚めた俺は寝ている場所がソファーではないことを認識した。かつて暮らしていた部屋ではなく、ここはホテルの一室で、寝ているのはれっきとしたベッドだ。しかも男二人が寝転んでも余分があるほどのサイズ。そして俺が壁だと思っていたのは、日下部の胸板だった。どうりで妙にふわふわと毛の感触もあったわけだ。
とくにすることもなく、俺は日下部の後ろ姿を眺めた。
ベッドサイドランプはゴムに吐き捨てた自分の精液を処理している日下部の体を仄暗く照らす。
………大きいな、と思った。
日下部の背中が。
よくめんどくせぇと口癖を吐いているが、その実、肉体はよく鍛えられて一級呪術師にふさわしい特別な体だ。その大きな背中は作品として美術館に展示されていても違和感はないだろう。……本当にアカデミア美術館でダビデ象の隣に日下部の裸体が並んでいれば笑ってしまうが。それでも日下部の肉体は呪術師として完成している。薄っぺらい平面なところはなく、すべてがなまめかしく盛りあがって影ができている。じっと長く見ていても飽きなかった。
覚えているかぎり、知っている筋肉の名前をひとつひとつ思い浮かべてみる。
するりとシーツから手を出して太い首を指差す。そこが始まりだ。首の側面の骨甲挙筋、つけ根の僧房筋、大きく盛り上がった肩甲棘から三角筋、そして有名な上腕三頭筋。まばたきをして視点を移す。切り揃えられた生え際の首の真ん中から板状筋、硬い骨の形が浮かぶ上後鋸筋と脊椎にくっついている菱形筋、わきの下から段階的に波打つようについている小円筋と大円筋、立派な広背筋から腰にぷにっとついている外腹斜筋と腹横筋。あと綺麗に分かれている尻の裂け目。
意外にも次々に名前は出てきた。
法医学者の説明を十分に理解するために覚えた知識が、まさかベッドのうえで役立つとは。
俺は静かに息をついて、肘をついた。みっちりと肉が詰まり、ありありと形が分かる筋肉を覆っている皮膚に意識向けた。筋膜の流れが分かるように黒い体毛がうっすらと生えている。最近は忙しかったから剃る暇がなかったな。届かない背中の真ん中はいつもは俺が剃っているから、と指差していた手を広げた。なんとなく日下部の背中に向けて手を伸ばす。指先がいくつもある筋に触れる。
色濃い体毛があっても分かる傷の跡は今まで日下部がどのような任務に行って死にかけてそのたびに生き残ったのかを表していた。かつては分厚い肉を裂いて生々しい血を流したであろう傷跡は、ふさがって、細く盛り上がっている。そこだけ皮膚の色が褪せているから分かりやすい。
まっすぐ、斜め、十文字、ときには煮え油でも被ったかのような火傷跡の際をなぞる。
そして赤い筋を見つけた。傷というほどではない。ひっかいたような跡。
まぎれもなく行為中に俺がつけたものだった。明日には消えているだろうが、歴戦の傷跡に混じっているとどうも日下部の人生に関わっているようでむず痒い。
俺は指を離して、手の甲で日下部の背中を撫でた。骨の出っ張りに滴る日下部の汗がひっついて、広い背中に広がっていく。まるでキャンバスにペンキを塗っているようでちょっと楽しかった。
「で、何の文字を書いてたんだよ」
俺に好き勝手されていた日下部が後ろを振り向いた。口を縛ったゴムをポイッとごみ箱に捨てる。
「とくになにも書いていない」
「えぇ?ずっとくすぐってーの我慢してたんだけど」
「しっかり爪を切ってもだめだな。どうしても跡が残る」
「なにが?」
「きずあと」と言って俺は体を起こした。
今度はしっかり指先で自分がつけた爪痕をなぞる。チェックのように真ん中から外側にかけてつけられた短い跡に日下部はあぁなるほどと頷いた。
「べつにあんたの浅ーいやつなんてすぐに消えるから問題ないだろ。なに、それとも深いやつがほしいか」
にやっと日下部は笑って、もう一度の行為を望むように日車の頬を撫でた。ずいぶんと旺盛だ。でも俺は日下部のように大きな体ではなく、それに従って体力もない。一回果ててしまえば、もうそれで充分だった。それにこれ以上……と思いかけて思考を止める。関係が進んでしまえば、戻れなくなる。健全な同僚関係は仕事をするうえで重要なことだ。俺はもう弁護士になることはないし、日下部はずっと呪術師だ。呪術界は狭いから、一度関係がこじれてしまえば任務に支障をきたす。窓や学生たちがよく惚れた腫れたで任務が組めなくなったという噂話をしている。そうやって日下部と離れたままになるのは嫌だった。指示があれば一緒に任務をして、時間をつけて好みのつまみを持ち寄って晩酌をする。そしてお互いに性欲が溜まっていれば利害の一致で道具として処理する。電波が届かないくらいに遠く、心臓の音が聞こえるほどに近く、時と場合によって適切な距離を保っていれば、面倒な事態に発展することはないだろう。それこそ日下部自身が嫌っていることだ。
「おい、なんか言えよ」
しばらくなにも話さずにいれば、しびれを切らした日下部がむにっと弱く頬を引っ張ってくる。
……もう終わりにすべきだ。
俺は日下部の誘いに乗らず、頬の手を放すように日下部の手を掴んだ。
この関係の始まりは俺の不眠からだった。よく眠れないという俺を赤子のように寝かしつけて、でも体は大人だったので意思に反して勃起していた性器を日下部の手が慰めてくれた。慰めてくれるだけではなく、体にも直に触れて行為は進んだ。酒を飲んで、酔った勢いでキスもした。告白を済ませた恋人たちのようなセックスをするようになった。
性欲処理などただの建前だ。日下部はとっくに俺との関係をそう認識しているだろう。仕事終わりに待ち合わせで俺を見た時の顔を見ればわかる。でもその瞳に映る自分の顔だって、同じだった。
目があってしまえば、お互いが好きだと言葉にしなくても分かっていた。
でも、でもと俺は繰り返す。俺は日下部篤也の一生に残り続ける存在にはなりたくはない。それを許される身分でもない。俺は下唇を噛んで、言葉に詰まった。その顔を見た日下部は低い声音で俺の名前を呼ぶ。……日車、と。
「俺は、」と答えるように覚悟を決めて口を開いた。
「君の傷跡になりたくない」
まっすぐな目を日下部に向ける。
ちょっと前までは日下部はそうやって俺に見つめられれば、弱いところを突かれたように怯んだ。しかし日下部は顔を見つめたまま、太く短い指で俺の顎を弱く掴んだ。ぐいっと顔を近づけて、唇がくっつく寸前までに距離は近くなる。
「じゃあなにになる?」
「なに、とは」
「これでただの同僚とはいかんでしょうよ」
それは、そうだ。その通りだ。もう一度でも日下部と交わって、キスして、傷をつけてしまえば体にあとは残らないけど事実は残り続ける。人よりも優れている自覚のある頭は日下部に抱かれた記憶だけを消してくれるという都合の良さはないし、自分にだけ都合のいいことを許せるほどのしだらない性分ではない。そもそも、これでまた他人に戻るという道理は、おかしいとも思う。
でも日下部との関係にどんな名前をつればいい。
恋人というには俺たちはそれぞれに一等の大事なものを抱えて、友達というには俺は日下部の背中に傷をつけすぎた。日下部ならどんな名前を付ける。
訊ねようと口を開いた時に、俺は日下部から食い入るようなキスをされた。
「………ふ、」
日下部は大きく口開けて、俺が逃げないように顎を掴む力を強めた。日下部の分厚い唇と俺の薄い唇が吸いつくようにくっついた。日下部が乾いていた薄い皮を舌にのせた唾液で湿らせてくれたからだ。
本当に、日下部は雑なくせに大事なことだけは丁寧に扱う。
んんっ、と俺は小さく喘いだ。舌が伸びてきて、俺の口内を荒らしていく。先で歯をなぞって、つっついてくる。息をするためにあるすきまから唾液がこぼれる。しかし寝たまんまの体勢ではうまく息継ぎができなくて呼吸が短くなった。体重がかかって軋むベッドでぴちゃぴちゃという湿った音が混ざる。はぁーっと唇が離れた時には、とろりとした糸が繋がって、やがてぷつんと切れた。落ちた唾液の一滴はシーツを染みになる。その染みはぼんやりと滲んでいき、白いシーツの海がくしゃりと波打って、見えなくなった。俺は自分の下腹部にまた熱をもった血液が回っていくのを感じた。やがてそこは一点に集まっていく。興奮が高まれば、それは自然な生理現象だ。しかし頭では理性のガタが外れておらず、体と理性と欲の矛盾に羞恥心が刺激される。
ちゃんと、返事をしようと思ったのに、俺は。
情けなさや恥ずかしさで滲み出てきた涙で視界が歪む。日下部は目で見る必要はないと耳の縁まで口を近づけて、「なぁ」と低い声音で囁いた。
「名前なんて必要ねぇよ」
お互いに分かって、受け入れてんなら、皆まで言うこたぁない。
そうだろ、と日下部は俺の首元でかぶりと歯を立てた。躊躇なく皮膚を破られそうな力で日下部はつよくつよく俺の体を噛んだ。鋭い痛みが走って、俺は目を見開いた。
「———————いっ、」と声を上げれば、日下部は噛むのをやめて代わりに舌で自分が噛んだ跡を舐めた。舐めれば舐められるほど舌の感覚で分かる。きっとくっきり形が分かるほどに赤く残っているだろう。俺が日下部の背中に立てた爪痕のように。日下部は「すまん」と謝って、「でも」と続けた。
「これでおまえが気にするもんはなくなったっちゅーことにしてくれ」
俺は日下部に抱かれるたびに死を望むほどの快楽と罪悪感を抱いている。俺のまっさらな体に刻まれた透明な傷跡は、おそらく一生消えないだろう。それを日下部は証左として歯を立てることで見えるようにしてくれた。その傷跡を日下部は優しく撫でてくれた。それは生きるための体の組織と器官だ。大きな背中、その皮膚の下、筋肉、骨、血、内臓。それらがちゃんとそろっていれば、きっと、きずあとだらけの体でも正常に生きていける。日下部はその重要性を教えるように俺を押し倒した。
俺はもういちどの行為を受け入れた。
日下部を好きでもいい。関係に名前がなくてもいい。どうなっても俺と日下部は呪術師で、もう離れることはできないのだ。じゃあ俺たちはなになるという返答として、俺は日下部の大きな背中に強くつよく爪を立てた。すると日下部はそれを望んでいたというようにニヤリと笑って生々しく体を動かす。擦れた快感で俺はまた小さく喘ぐ。そうやって、また、行為は激しくなっていった。
もう、何言ったら良いか分からないほど感動しました。ありがとうございますm(_ _)m