捜査会議に出席した後、日下部は一人電車に揺られていた。
通勤ラッシュを過ぎた時間帯。四方八方から揉みくちゃにされ、内臓が押し出されそうになるようなあの圧迫感こそないものの、依然として人が多くいる車両では座席に座る事もままならない。仕方がなく手頃な吊り革の下を陣取って空調に揺れるアニメのキャラクターが描かれた吊り広告を眺めると、何となく非日常感を味わえるような気がして日下部は自嘲気味に息を吐いた。
何もサボっているわけではない。
今日は暇を貰ったのだ。たった半日だけだったが。
そして日下部が本日わざわざ休暇を取って向かった先は、障がい者支援施設『ひまわり』だった。諸々の世話を焼いてくれるケアマネジャーにもこればっかりは任せられない大仕事がある。10日後の入所に向けて、契約書等の書類を再度取り交わさなければならないのだ。
ありがたい事に五十嵐は快く送り出してくれた。彼は今、11月1日に発生した新宿無差別殺傷事件に際し掻き集められた現場周辺の膨大な防犯カメラ映像を一人眺めている事だろう。帰りに何か詫びの品でも買って行こう。そう心に決めた直後、電車は滞りなく目的の駅へと辿り着いた。
*
「それでは以上で入所の手続きは全て完了となります。今日はお忙しい中足を運んでいただきありがとうございました。日下部さんの方から何か追加でご不明な点や、私どもに気を付けて欲しい事などございましたらお伺い致しますが」
「いえ…、大丈夫です」
介護士と看護師、入れ替わりで似たような説明を受けた日下部は内心渋い思いを抱いていた。それは前回入所時よりも明らかに増えた施設側の免責事項についてだ。その内容を見るに、危険物の管理や見守り体制の強化等で相当迷惑を掛けたらしいと自覚させられたのだ。
「ただ…申し訳ないなと」
そう言って頭を下げた日下部に、慌てて首を振った介護士はまたお気付きの点がありましたら何なりとおっしゃってください。と言い残して退室して行った。それは少しでも部屋を整理してから出たいだろうという配慮に違いなかった。
こぢんまりとした部屋には既に必要最低限の家具や家電、衣類や多少の飲食物等が運び込まれていた。これはケアマネジャーが搬入の付き添いをしてくれて妹が少しでも快適に過ごせるよう整えられた部屋だ。感謝しかなかった。
まっ更な介護用ベッドの周りにはセンサーマットが敷かれている。そして間違ってももう二度と点滴チューブも電化製品のコードも巻き付けられないよう、手摺りの類は全て取り払われていた。
後は中に人間が入れば完成する。そんな部屋だった。
何だか急にここが監獄のように見えてしまって、日下部は逃げるように部屋を後にした。
「今日はこれで失礼します。12月1日からまたよろしくお願いします」
玄関ホールから併設された事務室へ向けて声を掛けると事務員らしき女性が小窓から顔を見せ、柔らかな笑顔でお疲れ様でしたと頷いた。それから室内で何やら操作し、それでやっと玄関の自動ドアが開く。不審者の侵入を防ぎ、入居者の脱走を防ぐ。いちいち面倒ではあるが、結果よく出来た仕組みなのだ。
外の世界は着々と冬が迫って来ていた。
*
仕事に戻るまでにもう一つやる事がある。
日下部はその足で楡原記念病院へと向かっていた。
すっかり見慣れた外観はいつ見てもまるで歓迎されていないような、そんな雰囲気がある。
自然と重くなる足取りはそのまま歩くスピードに変換されて気が付けば牛の歩みだ。
何とか目的地である5階へ辿り着くと、ナースステーションではひっきりなしに鳴り響くナースコールに奮闘しながらカルテ記録をこなし、薬剤の準備に奔走する数名の看護師の姿があった。
本当は声を掛けるのも憚られたのだが、ここまで来て何もせずに帰るなど許される筈がない。そうでなくとも五十嵐は今も必死に働いているのだから。
「あの…すんません」
日下部が声を掛けると今日の妹の担当らしい看護師が顔を上げた。
「あぁ、日下部さん。どうされました?」
「師長さんいますか」
師長ですね、お待ち下さい。そう言って彼女が受話器を手に取った瞬間、背後でエレベーターが開き聞き覚えのある声を日下部の耳へと届けた。
「日下部さん、お疲れ様です。良かったですね、ひまわりさん」
この病棟の師長だった。
日下部は軽く会釈をすると、今妹さんお連れしますねと言う彼女を制止した。
「いや、今日はアナタに聞きたい事があって来ただけなんで、妹の所へはまた来ます」
「あら…そうでしたか、それではこちらへどうぞ」
突然押し掛けたにも関わらず、彼女は嫌な顔一つ見せずに日下部を部屋へと案内した。通されたのは約2週間前にも使用した相談室だった。
「それで、どうされましたか?」
優しく包むような声色が張り詰めた気持ちをそっと逆撫でしていくようで、日下部は内心舌打ちをする。一拍置いて、やっと目の前に座す彼女と視線を合わせた。丸眼鏡越しの瞳は穏やかに凪いでいる。
「一昨日、妹がまた発作を起こしました。先日アナタから安定していると聞いていたばかりだったので、正直かなり驚きました」
そうですね…。と彼女は視線を落とす。
一気に表情に影が落ちて見えた。
「単刀直入に聞きます。…一昨日、アイツに何があったんですか?誰に会って、何を話しましたか?」
彼女は言い淀んだようにすぐには答えなかった。
押し潰されてしまいそうな程の沈黙が相談室の中を満たしていって、瞬きの音すら聞こえてきそうな時間が流れる。
ひゅぅっ、と息を吸う音が聞こえた瞬間、彼女の胸元でピッチが甲高い電子音を奏でた。
すみません、ちょっと失礼します。そう言って退室する彼女を引き留める事は出来なかった。
ただ真っ白な部屋の中に一人取り残されると時間の感覚も、自分が何処にいるのかすらも分からなくなるような、そんな情けない妄執に囚われる。
戻らなければ。そう思う反面、自身の目的を何としてでも果たしたいという欲求だけが募るようだった。
日下部篤也としての自認が朧気になり始めた頃、ノックの音を伴って師長が戻って来た。
「ごめんなさい、お待たせしました。呼び出されたついでに一昨日の訪問記録や妹さんの看護日誌を確認して来ましたが…、特に誰かが面会に見えた様子はありませんでしたよ」
当日は休暇をいただいていたもので、すぐにお答え出来なくて申し訳ありません。そう言って彼女は日下部の目の前に看護日誌の写しを差し出した。
日下部はそれに手を伸ばす事なく頷いた。
「そうですか、だったらいいんです。アイツも何か、環境が変化する事を感じたんでしょう。忙しい所ありがとうございます」
そう言って席を立つと、置き去りにされた看護日誌を手にした師長も立ち上がる。
「いえ、また何かありましたらお気軽にお尋ねくださいね」
彼女は最後までにこやかに日下部を見送っていた。
*
「こんにちは」
総合受付の前を通った時だった。唐突に声を掛けられた日下部は、しかしそれが自分に向けられたものだとは思えずに事実上の無視を決め込んだ。何せ日中の病院は混み合っている。声はあっと言う間に雑音の中に溶けて消えた。
「あ、待ってくれ……君」
足音が背後から追って来てようやく振り返ると、そこにはあの死神──日車寛見が立っていた。
「……、またアンタか。よくここで会うな?」
「あぁ、奇遇だな?」
「奇遇?は…どうだか」
見え透いた嘘に思わず嘲笑に近い笑いが漏れた。
日車はそんな日下部の態度を気にするでもなく、院内に設けられたカフェを指差した。
「折角会えたんだ、この間の礼をさせてくれ」
「まだ言ってんのかよ…、待ち伏せしてまで男と茶ぁ飲んで一体何が目的なんですかね」
「安心してくれ、今日君を見付けたのは本当にただの偶然だ。それに、俺の性的嗜好はストレート、君に対して何ら下心はない」
んなもんあってたまるか!と日下部は内心ツッコミを入れた。
見れば見る程不思議な男だと思う。飄々としていて浮世離れして見えるのに、妙に意志が強く知的で堅苦しい印象を覚える瞬間もある。一筋縄では行かない。コイツを黙らせるのは骨が折れる。一瞬でそう感じてしまった。だからだろう、振り切るのも面倒になって、結局日下部はランチタイムに突入したばかりのカフェへと足を運んだ。
コーヒーの香りにリラックス効果があるというのは真っ赤な嘘だと日下部は思う。何故ならこんなにもコーヒーの香りが充満したカフェの中、病院の中庭を眺められるカウンター席の一角には異様な緊張感が漂っているからだ。尤も、警戒しているのは日下部だけであり、その対象である男は呑気にカップの中に描かれたスワンのラテアートに感動しているらしいのだが。
「それで…、俺に何の用だ?何の目的があって俺に近付くんだオマエは」
溜息混じりにそう問うと、日車は一瞬呆けたような顔をして、それから肩を竦めて笑って見せた。
「何度も言っているだろう。俺はただ、大切なものを拾ってくれた君に礼をしたかったんだ。…気付いていないようだが、君という男は見る度に酷く疲れた顔をしている。人は疲労が積み重なると時に正しい道が見えていながら、それを選び取れなくなってしまう。そして正常な判断力を失った上で選んだ選択肢が取り返しのつかないものだった場合、人は正しさとは何かが分からなくなる。だからこそ、無理矢理にでも休息を取らなければならない時が来るんだ」
それが今だ。そう言って日車はカップの中のスワンを崩さないようにそっと息を吹き掛け、それから更にそうっと一口カフェラテを啜った。
頬にあの日の屋上の風を感じた気がして、日下部はギリと奥歯を噛み締める。
「要するに…お節介で俺を引き留めたと?」
「まぁ、端的に言えばそうなるな。だが君は選んだだろう?俺と今、無為な時間を過ごす事を」
「選ばされたの間違いだろ」
「まさか、俺は一切強要はしていない筈だが?」
心外だと言いたげな大きな縁取りの目が二つ、真っ直ぐに日下部を射抜き大層居心地が悪い。視線を外したいが為に口をつけたカップはずっしりと重かった。
「ふふっ…」
カップを睨んでいた日下部の耳に唐突に堪えきれなかったというような笑い声が届き、素早く顔を上げる。声のした方へ視線を向けると、日車はその口許をカフェラテを飲む仕草で誤魔化していた。
「オイ、何がおかしいんだ…」
「いや?ただ…そうだな、一つ君にくだらない話をしよう。残念な事に多くの人は、自分の選択こそが正しいと思って生きている。または正しかったと思いたがっている。認知バイアスの中でも確証バイアスや自己奉仕バイアスなんかが強いとそういった傾向は目立つだろう。これは自己防衛の結果であり、何も特異な思考ではない。ごく自然な、人間の思考の癖だ。だからこそ人は自ら選んだ選択を信じ、結果に責任を持つようになる。逆に言うと自ら選んだと思った瞬間、その結果から逃げられなくなる」
「…だからどうした」
「君の言う通り、君は先程ほとんど逃げ道を断たれた状況でこうなる事を“選ばされていた”。だが、俺が強要はしていないと言った途端にばつが悪そうな顔をしたな。つまり、俺の主張を認めて自分が選び取ったのだと思い込んだ。その瞬間、この結果を肯定するしかなくなった」
喉の奥が張り付いたようになってなかなか言葉が出てこない。
「アンタ…ペテン師かよ」
飲み込みやすい温度になったコーヒーを勢い良く喉へと流し込んで、日下部の唇はやっとそれだけを紡ぎ出した。
カップを置いた所で時計を探す為に視線を巡らせると、慌てていると勘違いしたらしい日車が申し訳なさそうにその腕に巻かれた文字盤を突き出して来た。
「11時30分だ。すまない、ついつい話し込んでしまった。…だが、良かった。眉間のシワは少し薄くなったようだ」
そう言うと日車は中庭の方へと向いたきり、日下部の存在を意識から消したようだった。立ち去りやすいよう、彼なりの心遣いなのかもしれない。
遠慮なく自身の飲んだカップを手に立ち上がる。返却口へそれを返してこっそり眉間を指先で撫でてみた。言われてみれば確かに、幾らか解れているような気がするから悔しかった。
ごちそうさん。そう黒い背中へ呟いて、日下部は病院を後にした。