渦
アニメを見たら少しだけねっとりとした、湿度の高い文章を書きたくなってしまって、我慢出来ずに気が付いたら犯行に及んでいました。
日車さんが当然のように呪術師の世界線。
一応2部構成の予定です。
後半はもう少しキャッチーに出来たらいいなという願望だけはあります。
何でも許せる方、どうぞよろしくお願いいたします。
続き
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《Day1》
蒸し暑い夜だった。
南の空には今にも落ちて来そうな程の立派な満月が重たげに浮かんでいる。
街灯と、それから月明かりで照らされた夜道が随分先まで長く伸びていて、真っ直ぐに続く緩やかな坂道は無数にある脇道へ逸れる事を許してはくれない気配があった。
何となく追い詰められた小動物のような気になって、すぐそこにあったコンビニへと滑り込む。店内は外の世界よりもずっと明るかったが、自身の存在を都会の風景へと容易に溶かしてくれた。
エアコンのひやりとした冷風が頬を撫でて、呪霊との戦闘で火照った身体を急激に冷ましていく。まるで強制的に“何も知らなかった頃の自分”へ戻されるようで、日車はこの時間が嫌いではなかった。
ここしばらくは連日連夜駆り出されていたという事もあり、人間らしい生活からは縁遠い日々を過ごしていた。そのせいか、人間らしい欲求が枯渇しているのを嫌でも感じる。
食べ損ねる経験が積み重なれば食欲は湧かなくなり、睡眠時間が確保出来ない日が続けば睡眠欲もあるのかないのか朧気になる。性欲など、論を俟たない。
過度なストレスは脳のパフォーマンスを著しく低下させる。
結果、自己防衛本能が脳に期待させる事をやめるのだ。
微かな食べ物の匂いすら不快に感じ、奥へ進む事を躊躇い竦む足が、まるで自分のものではないようでいっそおかしかった。
スーツの内側で汗が冷えて行く感覚に僅かに身震いをして、日車は雑誌の陳列棚へと重い足を進めた。
ジャンルごとに整然と並ぶ雑誌の中で日車の目を引いたのは旅行雑誌だった。
一冊手に取ってパラパラとページを捲る。堂々たる観光名所や食べ歩きの紹介ページが続く中、見開き一面でひまわり畑の写真が掲載されたページで思わず手を止めた。
微かに胸の奥がヂリと燻る。
静かにページを閉じて、それをレジへと運んだ。
「これも頼むわ」
雑誌をレジカウンターへと出した途端、その上へ重ねるように置かれたのは数本のロリポップだった。いつからそこに居たのかは分からないが、気付かぬ内に居合わせていたらしい日下部の仕業だ。小銭がねーんだなどと言い訳をしているが、最近彼が専らコード決済ばかり利用しているのは分かっている。
「………」
「えっ…と……」
「すまない、構わないから一緒に会計してくれ」
思わず黙りこくってしまい困惑させてしまった店員に謝罪を入れる間も、斜め後ろに突っ立ったままの男は涼しい顔をしているのだろう。そう思うと少し腹が立ったが今の日車には彼に噛み付く余力はない。当然この男ときたら、それも全て分かってやっているのだ。
「1,534円です」
「カードで」
会計の途中、横から攫われていくロリポップを手首ごと掴んで一本抜き取る。あー…と残念そうな声を無視して店員に礼を言うと、雑誌を手に取りコンビニを後にした。
蒸し暑い外へ逆戻りすると駐車場の明かりの中でロリポップの包みを剥がす。金も出していない男の、俺の飴食うなよとか言う戯言はすっかり無視してやった。
頭上に浮かんだ月を彷彿とさせる黄色のそれを口に含む。
爽やかな酸味と、それから久しく感じていなかった甘みを受けて間欠泉のように次から次へと唾液が生み出された。
「…甘いな」
「そりゃまぁ、飴だからな」
隣で包みを剥く音が聞こえる。
蒸し暑い夜に甘ったるい匂いが混じり合って、何だか噎せ返りそうだった。
「んじゃ俺行くわ。お疲れさん」
まるで本当にたかる事が目的だったといわんばかりに唐突に別れを告げて、隣に並んでいた日下部が歩き出す。
無骨な手が夜を撫でて、諸々を一緒くたに背負った背中はあっさりと逃げ場のない夜へと遠ざかって行った。
いつまでも口に残る甘さを噛み砕いた瞬間、誘蛾灯の低いノイズに誘われて命が爆ぜた音が重なって聞こえた。
《Day2》
雨が降っていた。
昼過ぎから降り続いているそれは夏の驟雨とはならなかったようで、日付が変わった今でも篠付く雨がアスファルトを絶えず叩いている。
こんな日に外でやり合うなんて勘弁して欲しい。そう思っていたにも関わらず、願いも虚しく日下部の全身はしとどに濡れ、開き直って傘も差さずに街灯が点々と照らす帰路を辿っていた。
こんな非常識な濡れ方をしていては迷惑でコンビニにすら入れない。常日頃人並み外れた生活を送っている自覚のある日下部と言えども、その程度の倫理観は持ち合わせていた。
しかし面倒臭がりにとって一度家に帰り、着替えてまた出掛けるなんて事はとてもじゃないが現実的ではない。それもこんな夜中にだ、ハードルが高過ぎる。日下部とて例に漏れず一度帰ってしまえば明日の朝まで部屋から出る気など更々なかった。
部屋には食べるものなんて何もない。
それでも明日も朝から受け持ちの授業がある。
出来る事なら今すぐにでも風呂に入って、さっさと寝てしまいたい。
要するに、今日もまた食いっぱぐれが決定したというわけだ。
どうしようもない濡れ鼠のまま、間もなく最寄りのコンビニへと差し掛かる。
そう言えば数日前に立ち寄った時には今にもぶっ倒れそうな同僚の姿があったものだから、その負けず嫌いを利用して強制的に糖分を摂取させたんだったか。そんな事を考えながら駐車場を突っ切ってその前を素通りしようとした時だ。雑誌コーナーに人影があるのを見掛けて日下部は思わず足を止めた。
血色の悪さが原因か、陰鬱とした雰囲気を纏って相変わらず何やら真剣に旅行雑誌を吟味している男が一人。
この春から高専所属となった日車寛見その人だ。
日車は数日前にも手にしていた筈のその雑誌を再び手に取ると、レジへ向かうべく顔を上げた。すると当然視線の先には狂ったように全身で雨を受けている男が居るわけだ。彼は今まで見た事がないくらいに両目を大きく見開いて、それから雑誌を元あった場所へ戻して駆け寄って来た。
「何をしているんだ君は…」
呆れているのだろうか。そう思ったのは一瞬で、じきにそれが困惑から発せられた言葉なのだと理解する。
誰の目から見てももうとっくに手遅れな日下部の頭上へと自分のものらしい傘を差し出して、日車は静かに返事を待っていた。
バツバツと濃紺の傘の上を跳ねる雨の音。
雨粒が寄り集まって川となり、滝のようになって傘の裾から日車の肩に降り注いでいる。
日下部は濡れた手を伸ばして傘を持つその手を掴むと、そっと押し返しておどけて見せた。
「水も滴るイイ男だろ?」
「言ってる場合か」
「あー…つか、悪いんだけどさ、何か食うもの買って来てくれるとありがたいんだが。この状態じゃ中に入れねーもんで。頼んでいいか?」
何でも良いからさ、そう付け足しつつ最近ではあまり使わなくなった財布から虎の子の最高額紙幣を抜き出して差し出す。日車はそれを受け取ると了承の言葉と共に再び店内へと戻って行った。
「サンキュ、マジで助かったわ」
そう時間を掛けずに戻って来た日車に礼を言いつつレジ袋と釣銭を受け取る。
一通り袋の中を確認してからレンジで温めるタイプのうどんを抜き出すと、それを日車に押し付けて踵を返した。
「あ、オイ…、日下部!」
当然のように引き留めてくる声に足を止める。
雨脚は一層強くなっていた。
「何だ、どうした?」
「すまない、うどんは嫌いだったか?」
本当に申し訳なさそうな顔をする日車に対し購入品に不服があったわけではない事を告げると、彼は益々困惑を露わにし手元のうどんへと視線を落とした。
「こないだ飴買ってくれた礼だ。オマエ、どうせ飯食ってないんだろ?」
「いや、礼ならあの時一本貰っているが」
「あ?それは自分で買った飴を自分で食っただけだろ?」
濡れるから、もう良いか?そう言って既にびしょびしょの肩を竦めて見せると日車も諦めたようでゆっくりと頷いた。
「…引き留めて悪かった、行ってくれ」
「おう。んじゃ、またな」
ひらり、と雨粒を撫でて歩き出す。
家に辿り着くまでずっと浮足立った心はアスファルトを流れる水面を一足ごとに激しく跳ね上げていた。
《Day3》
今日の任務は呪詛師を相手にしたものだった。
こと日車においては対峙する相手にある程度知性があり、ついでに同じ言語を介していればそれだけで任務の難易度はぐっと下がると言っていい。領域展開で自身が優位に立てる状況を作りやすい為だ。
結果として任務終了予定時刻を大幅に巻いて解放された日車だったが、妙なもので時間を持て余していた。
黄昏時の空にビーナスベルトが微かに滲んでいる。
しかしこの空を隣で眺めて感想を言い合う相手を持たないのでは降って湧いた自由時間も虚しく感じるものらしい。この歳にして初めて知る感情がある事に自嘲気味に鼻を鳴らすと、自由気ままに散歩中らしい猫と目が合ってしまい何だか無性に気まずくなった。
逃げるように足が向かった先はやはりあのコンビニだった。
ここ最近は“誰か”に会える気がして、帰宅途中に可能な限り立ち寄る事が日課になっている。
来る度にそう何度も同じ雑誌ばかりを買ってもいられず、何かしら腹に入れる物を購入するようになってからは自然と空腹を感じる機会が以前よりも増えた気がしている。食事を摂るようになれば自然と身体の調子も幾分かマシにはなったが、それに付随して多少困った事もあった。それは一つ満たされればもう一つを求める人間の性と向き合わなければならない事だ。
普段よりも早い時間に訪れたせいか、店内は買い物客で賑わっていた。
日車はこのレジが列を作っている所など今まで一度だって見た事がなかった。否、それどころか二つのレジが同時に開いている事すら初めて見たのだが。しかしながら今日は二つのレジが共にフルで稼働していて、それでもまだキャンディやガムの棚の辺りまで最後尾が後退している。ほんの少し気後れした所で致し方無いだろう。
客層はバラエティに富んでいた。
学生から主婦、仕事を終えたであろう社会人に、明らかに仕事中の社会人。きっと近所の老人も居る。購入品も様々で、飲み物や煙草を筆頭に夕飯のおかずや間食の菓子類、晩酌のあれそれに荷物を発送する人もいる。
世の人々は思っていたよりもずっとこのコンビニを都合良く利用しているらしい。
斯く言う自分も岩手に居た頃は──。そこまで考えて、日車は強制的に思考を止めた。
時間帯が違うからだろう。普段は余白が多く残り物のおにぎりやパンばかりが目につく商品棚も、今日は珍しい物が多くある。
季節柄恋しくなった冷やし中華に手を伸ばした所で横合いから伸びて来た無骨な指先と爪の先が僅かに触れ合えば、日車は慌てて手を引っ込めた。
「あぁ、すみません。どうぞ…」
「あー…、いや、いいや」
聞き覚えのある声だった。
咄嗟に顔を上げるとそこには“誰か”がいた。
「今日はもう上がりか?」
手に取った冷やし中華を差し出しながら日下部が問う。
直後、苛立ちを含んだ声色で背後からすみませんと声が掛けられた。反射的に振り返ると麺コーナーに近寄りたいらしい男性が邪魔者を見る目でこちらを見ていたので、思わずそれを受け取って退いてしまう。
そのままサンドイッチを吟味している日下部へと近寄ると、彼が手に取ろうとしたそれを素早く奪い取って何食わぬ顔でレジへと並んでやった。
会計の途中、これもいい?と付け足されたフライドチキンの代金も全てカードで支払うと、コンビニを出た所で冷やし中華を抜き出した袋を日下部へと差し出した。
「すんませんね、奢って貰っちゃって」
そう言って遠慮なく受け取る姿は素直に好感が持てる。
別に気恥かしかったわけでもないが、いや…と曖昧な返事をしながら帰る方向を眺めると、先程よりも紺を多く流した空が等間隔で仕事を始めた街灯を見下ろしていた。
共に空を眺める相手が隣に存在した事を喜んだのも束の間、気付けば日下部は左手で持ったフライドチキンの包みを噛んで器用に破りながら、右手で携帯端末を操作していた。恐らくは車の手配をしているのだろう。
「…まさか、これからまだ任務と言うんじゃないだろうな?」
「お、流石。よく分かったな。まったく上の連中め、こき使いやがって…オマエはもう帰るんだろ?折角早く上がれたんだ、たまにゃ湯船にゆーっくり浸かれよ、良く眠れるぜ」
確かに、疲れている時こそ湯船に浸かるのは妙案だと思う。深部体温が上昇し、その後緩やかに下降していく段階で自然と睡魔に襲われる事だろう。
食欲が満たされて、睡眠欲の方も何とかなりそうだ。そう思った途端、妙な事を口走った気がする。
「君の帰りを、待っていても良いか?」
突然の失言に気付いたと同時に彼へと視線を向けると、その口角はいまだかつてない程に上機嫌に吊り上がっていた。