ファミレスの扉が開閉し、来客を察知した装置が単調な機械音を鳴らす。素早くレジへと現れた女性店員が、お二人様ですか、と理想的な笑顔で出迎える。
「はい、二人です」
額に縫い目を付けた青年が笑みを浮かべ答え、その横には元天才弁護士が並んでいた。
数奇な偶然を辿り俳優としての生活を始めた日車寛見にとって、初の主演作品となる刑事ドラマは。ネット配信限定という縛りがあったにも関わらず、当初の想定以上の視聴数と評価を獲得した。何もストーリー性が特別であった訳ではない。良く言えば定番、言い方を変えると在り来たりな。予算を押さえる代わりに無難な気楽さで消費出来る娯楽を創り出す予定であったのだ、本来は。それに思わぬ形で、非常に稀有な付加価値がついた。エキストラとして一瞬出演した三週間後に主演俳優として類まれなる才能を披露してみせた元エリート弁護士、日車寛見の存在である。そんな奇天烈な経歴を誰もが疑う程に、日車の演技は全く違和感がなかったのである。ノンフィクションの登場人物として一切の不具合なく溶け込んでみせたのだ。その異常な経歴と成長速度、そしてもう一人の主演である日下部篤也との絶妙なコンビネーションこそが、このドラマの最大の肝となっていた。
「……分からん」
単独で話題を掻っ攫った日車のもとに数々のオファーが舞い込んでくるのも必然であったが。自宅でいくつもの企画書を並べながら彼は首を傾げていた。
「お前まだ迷ってんのかよ、次の仕事選び」
「勝手が分からん……」
キッチンに立つ日下部がカップラーメンに湯を流し込みながら声をかけてくる。
エキストラの仕事も、前回の主演の代役も、全て自分の元へ自然に舞い込んできたものだ。自らの意思で仕事を選出する機会を初めて得た日車は、複数のオファーから何を選出し排除するべきなのか、決断しきれずにいた。
「テーブルの上片付けろよ、昼飯出来上がっちまうぞ」
台の上に広げていた書類を渋々まとめてゆく。日下部がカップラーメンを二つ持って運んでくる。
「まずバラエティはナシだろう。取材に答えるだけならまだしも、ああいう空間に自分が馴染むとも思えないし、俺のやりたいことではない」
「ドラマや舞台のオファーも結構来てたよな」
「そうなんだ。思いの外、選択肢が多くてな。俺のキャパシティでは一度に複数背負うのは骨が折れるだろうし、一つに絞りたいところなんだが……」
どこかで名前を見たことがある名前もあれば、一切聞いたことのない監督名まである。経験不足故に各監督の作風をイメージ出来ない日車は、何を基準に選出するべきか決めあぐねていた。
「君の意見を聞いてもいいか」
「どれどれ」
演技系統に絞って企画書を日下部に手渡す。流石芸歴が長いだけあって、手慣れた様子でぺらぺらと書類を捲っていく。
「こいつは社畜で俺と気が合わん。こいつは脚本がダセェ。こいつはセクハラジジイ。誰だこいつ新参者かぁ? 頭悪そうな芸名だな」
「ポジティブトークも頼む」
「俺に期待すんなそんなもん」
面倒臭いか面倒臭くないかが基準の男は流石言う事が偏っているな、と思いながらリストを取り返す。見事に参考にならない。
「俺が口挟むと俺基準になっちまうだろうが。俺とお前じゃキャリアも得意分野も全然違うんだからあんまり参考にしない方がいいぜ」
「それはそうだろうが……こうも判断材料が乏しいとな」
「いっそ変な先入観無しで、感覚で選んだ方が上手くいくんじゃねーの? そういうの得意だろお前」
ぺらり、と束ねられた企画書から一組を抜き取る。
「感覚でいうなら……これが少し引っかかった。羂索という男を知っているか?」
小難しい漢字を持つ映画監督の名前が記されたリストを日下部へと手渡す。
「はっきりと覚えていないが、過去に見た映画の中で妙に印象に残った作品に、彼の名前があった気がする。全体の大まかな設定のみで具体的な役柄について一切書かれていないのが奇妙ではあるが」
「これだけはやめろ」
「は?」
急に声質を変えた日下部が、顔から一切の感情を消したまま立ち上がる。床を歩いてゴミ箱の中に企画書を投げ込んだ。そして無言で戻り座椅子に座り直す日下部の顔を、疑問を抱きながら眺める。彼がこれ程明確に、強い否定を示したのは初めてのことだった。僅かに流れた静寂を払拭するようにタイマーの音が鳴り響く。カップ麺の蓋を開けて早速昼食に取り掛かる。
「あ。そういやゴム切らしてるんじゃねーか?」
「それは大事じゃないか」
「俺とスケベが出来ないのは大事なのね」
「それだけが生きる楽しみだと言っても過言ではない」
「そこまで嘘が見え見えだと全然嬉しかねーわ」
「失策だったか……」
じゃんけんぽんの合図で互いに手を繰り出す。日車のパーに対し、チョキを出した日下部が勝ち誇った笑みを浮かべる。
「へへーん。じゃんけんの勝率は俺のが上だな天才様」
「やめろ。じゃんけんとは関係ないだろう」
「どうでしょうかねぇー」
「ついでに買ってくるものがあるか?」
「んー、特に思いつかねぇな。任せるわ」
気を取り直して、ずるると麺を啜り始める。
「ちょっといいかな? 日車寛見さん」
コンビニへと向かう最中。不意に背後から響いた他者の声に、反射的に振り返る。見知らぬ男が立っている。額に縫い目を付けた黒髪の男が。声をかけられるまで、全く気付かなかった。随分と近い距離にいるのに、足音も気配も感じ取ることが出来なかった。
「ああごめん、そういえば初対面だったね。企画書には目を通してくれたかな? 私が羂索だ」
細目を開きにっこりと微笑みながら男が歩み寄ってくる。その手に名刺が握られていたので、条件反射のようにそれを受け取ろうとした。
正確に受け取れるはずだった名刺を取り零した。
……なんだ、この男は?
その感覚を上手く説明できる言葉が見つからなかった。しかし。何か得体の知れない感覚が、日車の背筋を這い上がってきたのは明確であった。
咄嗟に屈んで足元に落ちた名刺を拾い上げる。
「これは失礼した」
「あはっ、やっぱりそういうの分かっちゃうんだ? 君も」
「はぁ……良ければ私の名刺も」
「いやいやーいらないよ。君のことはある程度知っているからさ。あと堅苦しいのも無しにしよう。私は君のファンなんだ、是非とも対等な関係として仲良くしたいものだ」
「それは、有難い話だが」
眼を開き、目前の男を観察する。どこまでが本音なのか、よく分からない。全てが虚言のようにも見える。ここまで掴み所の無い人間を目にしたことがなかった。
「いやーでもさぁ。君が出ていたあのドラマは糞以外の何物でもないよね」
変わらぬ笑顔のまま吐き出された毒素。思わず瞠目してしまう。
「は?」
「君もさぁ、なんでわざわざ周りに合わせちゃうかなぁ。君以外全員面白くもなんともない猿ばかりなのに、なんで君が底辺に合わせようとするの? 勿体ないなぁ、人間としてのプライドないの? 君」
「今すぐ発言を撤回したまえ。それは明らかな侮辱だ」
「しらばっくれちゃって……君も心のどこかで思っていたんだろう? あの場にいた自分以外の全員が、自分よりも劣っている、ってさぁ」
分からない。
この男の意図が。何を目論んでいる。どこへ誘導しようとしている? 最大限まで警戒レベルを強める。
「……貴方の言葉は、実に不愉快だ。早く要件を言え」
「ああ、そう? 君は話が早くて助かるね。ストレスなく話を進められる」
にぃ。
三日月のように、細い目が笑う。
「私の所においでよ、日車寛見。つまらない加減なんていらない。真に優れた人間のみが選ばれるべきだ。君が才能を存分に発揮できる至高の舞台を私が作ってあげよう。最高の景色を君だけに見せてあげるよ」
平日の昼間。適度に緩やかなファミレス店内にて、二人の男が着席する。
「いやぁ嬉しいよ。私の映画に君が出演してくれるなんて、ファンとしてこれ以上の歓喜はそうそう味わえないだろう」
「不思議だな。貴方からの賛辞は全く心に響かない」
「よく言われる。どうして私の歓喜は他者に伝わりにくいのだろうね」
店員が冷水の入ったグラスを置く。コーヒーを二つ注文する。羂索の表面的な、奥底の見えない笑みを、日車の静かな無表情が見つめている。
「早速本題に入ろう。これが君の為だけの特別な台本だ。条件は二つ。一度でもこの台本を受け取ると君は二度と役を降りることが出来ない。この台本を決して他者のいる空間で開いてはならないし内容を他者に口外してはならない」
人差し指と中指を立てながら羂索が微笑む。テーブルの中央に黒い本が設置される。『藤宮一族の罪』とだけ記された本が。羂索の笑みを一瞥した後、日車は迷わず禁忌を手に取った。
「少しくらい悩んでくれてもいいのに」
「貴方とこうしてコンタクトを取っている時点で今更だろう。とうに意志は固めている」
「動機を聞いてもいいかな」
頬杖をつきながら回答を待つ男の前で、日車寛見は口を開く。
「貴方の作品を全て拝見した。非人道的な内容ばかりであったが、確かに目を引くものがあった。演者の絶望も、哀しみも、怒りも、全てが凄まじいものに思えた」
「そうなるように撮ったからね」
「貴方の発言は一部正しい。俺はあの現場で態と表現を抑えていた。俺の演技だけが突出して全体とのバランスが崩れるのを防ぐ目的でもあったし、感情の出力を強めることで一度心身に支障を来たしかけたためだ」
「自分を守る為でもあったってことかい?」
「その通りだ。俺は未熟だ、経験が不足している為にバランスを自力で保てない時がある。しかし己をセーブし続ける限り、その感覚を養うことが出来ないとも感じている」
もっと早くに逃げてくるべきだった。
心の最奥に、一番大切な所に仕舞い込んだ言葉を、呼び起こす。
「俺がこの世界に来たのは逃避でしかなかったが、今はこの生活に満足しているんだ。逃げてきたなりに、何らかの形を残したい。俺はここに存在しても良いのだと、胸を張って証明できる何かが欲しい」
テレビ画面で見た彼の演技は素晴らしかった。愛する者の為、護る者の為に刀を振るう姿に目を奪われてしまった。パートナーとしてだけではなく。一人の役者として誇りを持って彼の隣に立てる存在でありたい。
自宅のリビングで一人きり。読み終えた台本を閉じた。ソファに深々と腰を下ろす。
「………………………………」
両手で鼻筋と口元を覆い、ゆっくりと天井を見上げた。
…………やられた。
山奥の大屋敷で繰り広げられる連続殺人事件。一族の長である“藤宮嘉伸”が犯人として逮捕されるがそれすらもフェイク。“藤宮嘉伸”の行動を裏で操り残りの生存者も殺害しようと企てる真の黒幕こそが自分だ。その事実を知らされるキャストは自分だけ。
日車寛見はラストシーンまで自分以外の全ての演者を騙し抜くことを強制されたのである。
良質な曇らせからの救い…とても最高でした