いつものカウンターであの男を待っている。待つのは別に嫌いじゃない。それはあいつとの時間が教えてくれた事だ。
日車寛見と正式な「お付き合い」というものをするようになって半年程になるだろうか。二回り以上の歳の差がある事等を理由にずっと拒まれ続けてきたが、最後はこちらが粘り勝った形だ。何より俺が去年ようやく成人したのが大きいんだろうだけど。
何があろうとも未成年に手は出さないし出させない。耳にタコができる位聞いたセリフだ。さすがに日車を犯罪者にする訳にはいかないから俺だってそれなりに弁えてきたつもりだ。それでも大分色々と困らせてはしまったのだろう、きっと。
成人してから日車は行きつけだという居酒屋に時折連れて行ってくれるようになった。古くて小ぢんまりしているけど雰囲気のいい店で、そこの店主ともすぐに馴染んだ。今日のおすすめはタコぶつだ。
「悠仁君、日車さん今日遅いねえ」
「最近色々忙しいみたいだからさ。もうちょい待たせてね」
「いやいやごゆっくり」
気を遣ってくれる店主にお代わりを頼む。これで何度目の待ち合わせだろうか。生ビールを二杯、タコぶつ、竜田揚げ、煮込みを空にした頃に日車は現れた。
「おつかれ。寒かったでしょ」
「ああ、いつも待たせてすまない。生ひとつ」
「あ、俺も同じのください」
コートを脱ぎ隣に腰掛ける日車の横顔はいつも少し疲れが滲んでいる。でもその様子すら色っぽいと感じてしまうのは欲目だろうか。
「ちゃんと食べてる? なんか痩せてない? おでん盛りとか頼もうか?」
つい心配になって色々おせっかいを焼く俺を煙たがる訳でもなく、日車はうすく微笑みながら頷く。そんな顔をされると狼狽えてしまう、可愛くて。
程なくして出されたおでん盛り合わせをつつきながら互いの近況をつらつらと話す。俺はまだ大学生なので気楽なものだが日車はいつも大変そうだ。弁護士という仕事である以上仕方ないのだろうが、日車の場合抱え込まなくても良い事まで請け負ってしまっているように思える。もっと適当にやればいいのに、といい加減な俺は思う。そしてもっと俺に甘えてくれていいのに。
「もう食べないのか?」
おでんの入った鉢をこちらへ寄せられて戸惑う。いやあんた全然食べてないじゃん。こういう所が放って置けないのだ。
つい、粗熱のとれた大根を切り分け冗談ぽく日車の口元に運ぶ。はいあーん、なんつって。それなのに日車は険しい顔のまま口を開けようとしない。しばらく粘ってみたが余りにも頑ななので食べさせる事を諦めて箸を置く。まあこんな人前で恥ずかしい真似させて悪かったよ。ちらと横顔を見ると僅かに耳が赤くなっていてああ、やっちゃったと思った。
「さっきはごめんな。……怒ってる?」
店を出て並んで歩きながら恐る恐る切り出すと日車はため息をついた。
「いや、大人気ないのはこちらだったな。すまない虎杖」
いやそんな事で謝らんでよ、と思う。
「いつも君を待たせている上にろくに恋人らしい素振りもできないものだから、さぞがっかりしただろう」
「……もしかして日車、結構酔ってる?」
泣き酒とでもいうのか日車は酔うと妙に自分を責める癖がある。飲んだ時くらい気持ち良くなればいいのに面倒だなと呆れる反面いじらしいとも思う。当の本人は親子ほど年下の男にそんな風に受け止められてるなんて想像もしてないんだろうけど。
行く手に小さな公園が見えたので酔っていないと言い張る日車の手を引いてそこに入り、ベンチに座らせる。側にあった自販機で温かいお茶を買い手渡すと、ありがとうと素直にペットボトルを受け取った。
目の前に見える硬い蕾をつけている木は梅だろうか。まだまだ肌寒いが夜風は微かに春の気配がした。
白々と明るい街灯の下、ふたり照らされながら並んで座っているとまるで世界から切り取られてしまったような心地がする。今まで追うばかりだったこの男の隣に座る事をようやく許された気がして。お茶を飲む日車の喉元がゆっくりと上下し終える様を横目でちらりと追う。
「ちょっとは落ち着いた?」
「君は良い子だな」
いつの間にか視線が俺の方に向いている。普段よりも優しい眼で。いきなりボディーブローを入れられて正直くらくらする。どこまでも無自覚なんだろうかこの男は。
「そう思うんならさ、そろそろ俺に触れてみてもいいんじゃない」
思わずそう口走ってしまう。「お付き合い」を始めてからろくに俺に触れようとしない恋人に。やっぱ今のなし、と慌てて取り消そうとしたら頭をくしゃりと撫でられた。指が太くて大きいなといつも見つめていた手で。
「じゃあ俺の家に来るといい」
目の前にはぴしりと整えられた布団一式が畳の上に敷かれている。日車の家に入るなり二人で言葉も交わさず黙々と準備したものだ。布団の柄とか爺ちゃんが使ってた奴に似てるなとか思いながら。そして俺達はその布団を見遣りながら膝を突き合わせている。
なんか色々極端じゃね?と言いたかった。ずっと日車に触れたかったのは事実だ。でもそれにしたって。
「あの、急かしたみたいでごめん。いやここまで来ておいてなんだけど、別にいいよ無理にこんな事」
「こんな事、ではないだろう。人同士の営みは大切な事だ。まあ俺達の場合生殖には至らないが」
まるで答弁でもするかの如くクソ真面目に語る日車に力無く相槌を打つほかない。
「正直ずっとどうするべきか躊躇っていた。成人済とは言え君とは二回りほどの年の差がある。俺のような年嵩の男に若い君の貴重な時間を使わせる事が本当に良いのか悶々と考えるうちにここまで来てしまった」
「そういう事はさ、付き合う時にお互い了承済みだろ」
「そうだ。だから要は俺の甲斐性の問題だな」
「だったら尚更あんたの事、酔った勢いで抱くの申し訳ないというか」
「……もう酔った勢いでもないと切り出せなかったんだ、分かってくれるか」
伏目がちに、重ねるように絞るように言葉を吐き出されてようやく、俺の方が日車を随分待たせていたのだと分かった。この男の不器用さが面倒でもありもどかしくもあった。
「日車」
「なんだ」
「あんたが好きだ」
それだけを告げると目の前の肩を掴み無防備な唇に軽く口づける。
「別に俺、いくらでも待つつもりだった。でもあんたがそのつもりなら我慢も今日でやめる」
そう告げてにっと笑ってみせる。日車がわずかに目を見開いたのを確かめて、ああやっと目が合ったと安堵する。
「君には敵わない」
掴んだ肩の力が抜けるのを確かめながら、ゆっくりとその身体を布団の上に横たえる。もう互いに躊躇いはなかった。そこからもつれる様にたどたどしく始まった行為は笑ってしまう程に滑稽で、全部長い夜の中に溶けてしまえば良いと思った。
「畳み方がきれいだな」
事が済んで息を整える日車が見遣る先には、布団の脇に四角く畳まれて置かれたスーツがあった。
「え、そう? 爺ちゃんの寝巻とかよくやってたからかな」
「そうか、詮無い事を聞いた」
「しんみりすんなよ」
苦笑いしながら律儀に相手の脱いだ服を畳んでから事に及んだ自分はかなり動揺していたんだなと思う。服なんてそのまま脱ぎ捨てたら良かったのに、スーツを皺だらけにしてしまうのは可哀想だと頭のどこかで考えてしまったのだろう。何も着ていない日車の姿はどこか心許なく見えて汗ばんだ体を思わず抱き寄せていた。苦しい、と呟くのも構わずに。
「もう思い残す事はないな」
「何その遺言みたいなコメント」
前髪が幾筋か降りた額に口づけるとくすぐったそうに肩をすくめる日車を愛おしいと思う。
「駄目だよ。もっと俺の事欲しがってよ」
あとどれくらい同じ時間を過ごせるだろうか。二回りの年齢差が埋まる事はないけれど、こうして少しずつお互いを馴染ませていけたら良い。そう思いながら抱き締める腕に力を込め、布団を肩まで引き被せた。