獲得と喪失のシナリオ
新宿決戦後、グルグルしている日車さんの外堀をザクザク埋めようとする日下部さんの話です。法律的な部分や原作の解釈等ゆるゆるなので諸々ご了承ください。
(本誌の連載終了前後に気ままに書いていたものでした。当初は後半パートから宿日も入れていくつもりだったんですが、原作最終話の圧倒的な宿梅を前に梅ちゃんには完敗だと筆が折れたままでしたので、書いたところまで供養させてください)
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久しぶりだなと告げてきた男の深い声を聞いた時、記憶に波紋が広がって、二ヶ月ほど前の新宿で体感した一切が脳裏に色濃く浮かび上がった。終末を思わせる破壊の限りを尽くされたビル群、あっけなく宙に飛んだ二つの腕、おびただしいほどに跳ねる赤い血しぶき、託した先にあった澄んだ目の色。そうして黒く塗りつぶされていく視界。
気づけば三角巾で吊るした自らの左腕に目を向けていた。
『アンタに頼みたいことがある』
携帯端末の向こうにいる男は軽い挨拶の後にそう続けた。日車の呼吸がわずかに止まる。男からの唐突な連絡。頼みたいこと。不穏な予感がしてならなかった。
攻め込まれる前に断ち切った方が良さそうだ。そう判断すると、次の可能性が顔を出す前に明確な意思を示す。
「断る」
『まだ内容言ってもねえけど』
「だからだろう」
携帯端末の向こうにいる男、日下部とは、かつて呪いの王との戦いで背中を預け合った仲だ。共に過ごした時間はわずかとはいえそれなりに知った仲にはなった。少なくとも、こちらがぞんざいな態度をあらわにしたところで機嫌を損ねる相手でないことがわかるくらいには、であるが。
「悪いが他を当たってくれ」
『そう言われてもな。こちとらアンタに頼みたいんだ。明後日、仙台駅に来て欲しい』
断ち切ろうとした日車に反して、日下部はにべもない。
「随分と強引だな」
『事情が事情なんだよ』
端末を持つ手に力が入る。自覚したのは圧倒的な呆れの中に少々の苛立ちが生まれて混じり合う感覚だ。通話中の日下部に場所を移動すると断りを入れつつ席を立った。
つい先ほどまで会話をしていた清水に軽く目配せをする。事情を察したらしい彼女は、横にいる現上司、日車にとってかつての上司でもある高木に、休憩にしませんかと小声で告げた。清水が椅子から立ち上がって給湯室に向かい出す。高木も応接用のソファから立ち上がり後に続いた。
日車は高木が構える事務所の外に出ると、後ろ手に入口のドアを閉めた。二ヶ月ほど前から三角巾で吊した左腕、その上に置いた端末を右手でつかんで耳元に近づける。高専にいるのか、はたまた任務で遠方に出張に行っているのか、所在がまるでわからない男に向けて改めて抗議の意思を示した。
「俺もそれなりに立て込んでいるんだが」
『不服申し立ての算段ってところか』
「……なぜ君が知っている」
『不起訴になったって聞いたんでね。こうなると、次にアンタが考えそうなことくらい想像がつく』
「総監部が裏で手を回しているだろう」
『へえ? まあ、これまでどんだけ上に辛酸をなめさせられてきたかを考えてみりゃ、やりそうなことではあるな』
「君たちの事情には同情する。だが、今の俺には無関係だ」
『そういう訳にもいかねえよ』
──アンタはもう、呪術師なんだ。
言葉は日車の胸の奥底を容赦なくなぞっていった。まるで何か、通告にも似た、あるいは呪いにも似た作用をもたらしていくかのように。周囲の音はどこか遠くの方へと押しやられてしまう。代わりに自らの鼓動がうるさく聞こえだしていく。
(……どういう意味で言っている?)
不自然に流れた沈黙から自らの動揺を遅れて自覚する。かつて背中を預けた男は慎重だからといって、生まれた隙を逃すほど鈍くも寛容な性格でもないのだ。
『らしくない反応だな』
案の定、言い淀んだ隙をついてきた。
『話したい相手がいるんだ。手強そうな奴なんで、そん時にアンタのデキの良い頭を少しばかし貸してほしい』
んじゃあ宜しく頼むぜと、待ち合わせの場所と時間を一方的に告げ終えた日下部は通話を切った。日車が物言わなくなった端末へ吐き出した溜め息は深い。腹の中に溜まったありったけのものを吐き出したとして、苛立ちも一緒になって吐き出されるわけではないとしても。
「あの、日車さん。休憩しませんか」
清水が入口のドアを少し開けて様子をうかがうように顔を出した。頷いて応え、極力平静を装って事務所に戻った。
かつての職場でもある高木の事務所は馴染みの場所だ。相変わらず日当たりは程良い。ところどころに置かれたグリーンの手入れは行き届いている。その内のひとつはどこか見覚えがあって、ああ、自分の事務所に置いていたものだと、横を通り過ぎようとした時になって気がついた。清水が世話をするために移動させたのかもしれない。
書棚に並んだ資料の位置も記憶にあるものとそれほど変わりはなかった。その中に収まる六法全書へ視線が引き寄せられる。間もなく最新版が刊行される頃合いだ。国内情勢を踏まえれば難しいだろうが、もし刊行されたなら法改正のあったところに目を通さなければ──そこまで意識が及びかけた時、十何年も根づいた習癖に名状しがたい苦いものが込み上げた。
再び応接用のソファに腰を下ろす。
「はちみつレモンよ」
テーブルには湯気の立つカップが三つ置かれ、高木がその内のひとつを手に取って口をつける。彼女の近くには、片手で持てるほどの大きさの透明な瓶があった。中には琥珀色のはちみつと、はちみつに浸かって山吹色に変色した輪切りのレモンが何枚も浮かんでいる。
「最近ハマってるの。美容にも良いから君も飲んでみて」
「美容、ですか」
「そうよ、美容。今は性別年齢問わず美容の意識が高い人って多いから」
生まれてこの方、意識の範囲外にあった言葉のひとつを胸の内でも反芻させる。
(……美容)
思うところはあったものの、いただきますと礼を伝えてカップを持ち上げた。
指先にじんわりと伝わる熱、鼻先に柑橘の香り特有の、好ましいさわやかさがただよう。あたたかなはちみつレモンを口に含んで飲み込む。舌の上で酸味のある甘さとほのかな苦みが広がると、心なしか、気分が落ち着いた。
飲食物は身体の機能を維持するために最低限の量を体内に詰め込む作業と化している。それがどうして、久しぶりに味覚が正常に機能した気がした。腹の中にわだかまっていたものも幾分か薄らいでいく。美容なんて唐突な話題を出されて意識が逸れたせいもあるのだろう。
こうして相手が落ち着きを取り戻すための気配りをさりげなく行えるのが、周囲の心の機微を察知するのに長けたかつての上司だ。
「もしかしてアチラからの呼び出し?」
高木からの問いを受けて、日車はそうですと正直に応えた。
「頼みたいことがあると言われました」
「次に連絡が来たら代わってください。私が物申しますから」
声を上げた清水の純粋な気遣いは有り難かった。ただ、年下の元部下にこんな発言をさせてしまうほど、今の自分は弱って見えるのかと、同時に少しショックを覚えた。
「こう言っちゃなんだけど、」
テーブルに出された菓子入れから小袋をひとつ、高木がつまむ。
「君、アチラの人たちによっぽど気に入られちゃったみたいね」
「まさか」
「そう? 不起訴処分になって計ったみたいなタイミングでその電話でしょ。外堀を埋めにきてるとしか思えないけど」
今回連絡を寄越した日下部が総監部と通じているか、現時点での確証はない。
ひとつだけ確かなことは呪術師の深刻な人手不足だ。罪を犯して警察に自首をした人間の処遇にさえ総監部が圧力をかけてきていることが、何よりの表れだと言える。
「仮に彼らが猫の手も借りたい状況に陥っていたとして、あまりにも見境がない行動としか言えません」
ニャーア。
突然、猫の鳴き声が聞こえた。空耳ではない正真正銘の猫の鳴き声だ。
「ああ、お腹減ったかな」
椅子から立ち上がった清水が近寄ったのは、彼女が持ってきたペット用のキャリーバッグだった。清水はかがみ込んで中にいる一匹の猫に話しかける。こんなに良い子なんですよと連れてきた大江の猫は今ではすっかり彼女に懐いていた。
(君の手には余るだろう)
胸中で猫に告げてから、日車は自分の左腕に目を向ける。そこには新宿の決戦を経てからずっと動かないままの腕があった。
腕が一本使えなくなって不便を感じる瞬間は多々おとずれた。
ところが、ままならない状態が続いていると、人の身体は次第に順応し始めていくようだった。それまで二つの腕を使って行っていた動作を分解して、動く右腕だけを使って試行錯誤を繰り返していく内に対応し始めたり、身体全体の重心の取り方が偏ってしまうのを改善しようと工夫し始めたりといった具合に。
日車はそんな、自らの身体に起きるちょっとした変化の連続を実感する日々を過ごしていた。いつからか片腕で日常生活を送ることにも大分慣れだしていた。
慣れていくほどその慣れに恐れを覚えた。
こんな不便にさえ身体が慣れだしてしまうのなら、いずれは自らの罪に向き合う姿勢さえ心が慣れだしてしまうのではないか?
窓の向こうに視線を移す。
早春の白く澄んだ光が降りそそいでおり、まぶしさに目がくらんだ。
両のまぶたを静かに伏せた。
自首をして法の裁きを受ける──それは日車が唯一の心の拠り所にしていたものだ。
不起訴処分だと知らされた時、支えにしていたものを一方的な都合から取り上げられた状況に覚えたのは、明確と失意と虚無感だった。張り詰めていた糸が切れた反動で思考する力は随分と鈍化したと思う。これほど頭が回らない状態は初めての経験で、何もかもひどく疲れきっていた。
諦めるつもりはさらさらない。
だからといって現状これといった道筋が見えないままでいる。満ちた闇を前に、進む先が判然とせずその場に立ち尽くしたままでいる。墓場を出たばかりの亡者のように。
それでもどうにかして歩き出してしまいたい気持ちはあるからこそ、焦燥が募る一方だった。
──アンタはもう、呪術師なんだ。
不意に、耳の奥底に静かな余韻をもたらした深い声が脳裏を過ぎった。
※
心地良い振動に身を任せながら電車の車窓から覗く自然を見ていると、未曾有の災害とも呼べる凶行が東京を呑み込んだばかりか、日本全土に波及した一切合切がはるか昔に起きた出来事のように感じられた。
だがすべてはまぎれもない現実だ。
自らの手で奪った命の感触を思い起こせば指先がすっと冷えていく。右の手のひらをゆっくりと握りしめる。
刑事裁判中の法廷にいた裁判官と検察の頭を砕いた所業。その時に流れ出た極彩の血の色。暴挙に及んだ時の衝動を、できるだけ、細部に至るまで思い出していく。記憶を風化させることなど、逃れることなど、もってのほかだった。
法の裁きを受けるべく考え抜いた末に頼ったのは、自らが見限った法の下で今も戦い続ける、かつての部下と上司だ。
事情を説明するにあたって、すでに公とされていた呪いや呪術師の存在に触れる必要もあった。正直いって自分でもいまだに知識や理解が及ばないところがある。そうした部分を踏まえてこれまでの経緯を大まかに説明したところ、清水と高木、二人の反応は思いのほか柔軟だった。
「まあ、東京があんな感じだしね」
日本の首都が壊滅的な打撃を受けたことに加えて、仙台と御所湖に結界があったことも大きいらしい。
「結局、私たちが騒いだところでどうにもならないし」
「ですよね。それよりも今は私たちにできることをするまでですよ。何より日車さんをぶち込まないと」
相変わらずの高木の割り切りぶりには懐かしさを覚え、清水の真摯で前向きな姿勢は心強いものがあった。
清水には遺族側の弁護士となって起訴に持ち込んでもらいたいことを話し、力を貸してほしいと頭を下げた。何か言いかけた口をきつく閉じてから、任せてくださいときっぱりと宣言した彼女の目に涙が溜まっていたことに、改めて、自らが犯した罪の重さを思い知った。
日下部から連絡があったのは不起訴処分の告知を受けてから間もなくのことだ。
向こうから用件を告げられたところで、それは一方的な頼みだったばかりか、こちらにも相応の事情があった。ただでさえ清水や高木には相当の負担を掛けてしまってもいるのだ。自分のために力を貸してくれる彼女たちばかりに自分事を任せながら、当人が勝手を振る舞うなど考えられない。
断りの連絡を入れよう。そう日車が決意した矢先に、はちみつレモンの入ったカップをテーブルに置いた高木が口を開いた。
「気分転換って言葉、今の君には受け入れ難いものなのは承知の上で言うけどね。行ってきなよ日車くん。相手は君に頼みごとがあるって言ってたんでしょう? なら、その人を助けると思ってさ」
手のひらを見れば、べっとりとした血がこびりついた記憶が脳裏に焼きついていて離れない。人を助ける資格が、果たして今の自分に残されているのだろうか──わからない。
「それってもしかしたら君にしかできないことだから頼んできたのかもしれない。君を起訴する人間は清水ちゃんしかいないって君が考えたみたいにさ。こっちは私たちに任せて、君は行ってきなさい」
二日前のやり取りを思い起こしながら、日車は改めて、車窓からのぞく風景を視界におさめた。
電車は間もなく目的の駅に辿り着く。
※
トレンチコートは戦闘時の機能性や防寒のために着用していると仮定して、研ぎ澄まされた刃を思わせる体躯をコートで覆う男の姿を見ると、周囲をいたずらに怯えさせない配慮もあるのではと思う。上背があって屈強な男の姿はそれほど街中では浮いて見えた。
「君は、美容意識が高いんだな」
「いきなり何言い出した?」
先ほどから爽やかな香りが日車の鼻先をかすめている。柑橘の、レモンの香りだ。二日前に高木から出されたはちみつレモンは記憶に新しい。香りの先を辿れば日下部の口元には白く細い棒があった。
「俺が約束を反故にするとは思わなかったのか」
曇天の下で待ち合わせの場所に向かうと、棒つきの飴を口に含んだ日下部が立っていた。気だるげな面持ちは相変わらずだ。一見すると隙だらけに見える男ではある。その実、まるで隙がない。
「五条じゃあるまいし。これっぽっちも考えなかったな。つーか、」
日下部は壁に預けていた身体をゆっくりと起こす。口元の白い棒を指先で触れながら、鋭さのある目元で日車を眺め、次いで宙に視線を向ける。どーすっかなと悩ましげに頭をがつがつと掻き立てた後に、出たとこ勝負だなとか何とか独り言をこぼした。
「君も心の声が漏れる性質だったか」
「あん? 何の話かわからんけど。なあ日車、アンタ最近、自分の顔とか鏡で見てんのか」
「何かついていたか」
「いやいや、ちゃんと食ってるか気になっただけだ」
「当然食べてはいるが」
「じゃあ昨日の晩メシは何食った?」
「いちいち覚えていない」
覚えている。コンビニで購入した適当なパンをひとつ口にしたくらいだ。どんなパンだったか、味も形も、もう記憶にはない。それを正直に話してこの話題を広げるのは面倒事に発展しかねないので、適当にはぐらかした。
「覚えていない、ねえ。まあ折角コッチまで来たんだ。用件済んだらメシでも食いに行きますか」
俺よりこの辺のこと知ってんでしょう、後で適当に案内してくださいよ。そんな類のことを話し続ける男の声を聞き流していく。案内したところであまり良いことが起きそうにない予感がすでに生まれつつあった。日下部はよく食べる。流れ弾がやってこない可能性が果たしてあるのか。
旬の名物料理をひとしきり口にし終えた日下部が、とっとと行きますかと、しっかりとした足取りで進み出した頃合いに、日車は待てと制止の声をあげた。振り返った男と向かい合う。
「条件がある。君に協力するからには、今この場で俺の質問に嘘偽りなく応えてもらいたい」
「そりゃ、わざわざ来てもらった以上は応えときたいところだが。内容にもよるけど。質問の数を聞いてもいいか」
「ひとつだ」
顎に片手をあてがてら考え込んだのも一瞬だった。日下部はわかったと素直に応じた。
「俺が不起訴になった件に君は関わっているのか」
二人の間にただよう空気が硬質なものに変化した。日下部はすっと姿勢を正す。日車が向ける強い視線を逸らすことなく正面から受け止め、口元から白い棒を取り出した。
「狭義では関わってない」
「……広義では関わっていると?」
「間接的に、ってところか? 同じ機関に属した役職付きの立場にいるからには関わってるようなもんだよなっつー俺個人の認識」
「確かに広義だな」
「そこの判断はアンタに任せるが。なんだ、これを深掘りすんのか」
「いや、充分だ」
日下部は持っていた白い棒の先についた飴を再び口内に戻した。柑橘の香りがただよう顔には幾分か困惑の色がにじんでいる。
「俺が言うのもなんだが、こんなんで納得できないだろ」
「少し前まで人を信じることを前提にした仕事をしていたが、」
弁護士は、日常で起きた悩みや問題を抱える依頼人の言葉を信じて弁護を行う。勿論、依頼人が嘘をついていないことを前提として。それだけに互いの信頼関係の構築には重きをおくし、何かしらの虚偽の疑いがあるとわかれば弁護することもままならなくなってしまう。
生まれついてのものもあったろう。何より相手の目を見れば否が応にもわかるのだ。
「嘘をついている人間には敏感なんだ。君が長い年月をかけて呪いを相手にしてきたように、俺もそれなりの数の人と向き合ってきたからな」
「成る程」
「君は嘘をついていない。ただ、何かを隠している」
少し笑った日下部は軽く肩をすくめてみせた。
「御名答」
日車はそれ以上の深追いはせずにそこでとどめた。最初に質問はひとつと提示したのはこちらであるし、前提を覆すのはルールに反する。日下部はできる限りの誠意を示そうとしているのが伝わってきたからこそ、その誠意にはきちんと応えたい。
彼は関わっていない。今はそのひとつがわかればいい。
「正直、恨み言を言われて当然だと思って来たんだがな」
ボヤきにも似たつぶやきが耳に届いた。
「君にそんな当てつけをして何になる」
そんなことをしても、満ちた闇が晴れるわけでもないのに。
※
補助監督が運転するワンボックスカーの後部座席に腰を下ろした日車は、窓ガラスの先で変化し続ける灰色の空が広がる景色が、徐々に人気のないところに進む様を眺めていた。
しばらくすると何とはなしにガラスに投影された自分の顔に意識を向ける。顔を洗い髭を剃るといった身だしなみを整えるために鏡と向き合ってはいたとはいえ、よくよく考えてみれば、ここしばらくは自分の顔をまともに見ていなかったように思う。
久しぶりに意識して見た顔は、成る程、ひどい有り様だった。ガラス越しの姿に鏡ほどの明瞭さはなくても、頬は削げ、眼窩のくぼみが目立つのがわかる。この分では顔色も期待できない。これでは日下部が指摘してきたのも当然と言える。
そんな日下部からは、話したい相手がいるから頭を貸してくれと頼まれた。頭を貸す、とは、向かう先にいる誰かを説得ないし交渉でもしたい腹積もりでいるのか。
確かに弁護士をしていた手前、一般的な人間よりも交渉事の経験が多い自負はあった。もしかすると万が一荒事になる可能性も踏まえて、交渉ができて自分の身を守れる程度に腕のある人間へ、無理に声にかけてきたのかもしれない。
会話と荒事がセットとなれば向かう先にいる対象は自然と限定される。
「そういや左腕の調子はどうだ」
少し距離を取って座る日下部は、日車とは逆の、助手席側後方にある窓ガラスの先を眺めつつ尋ねてきた。
「アンタの腕、傷自体は完治してるんだったよな」
「その通りだ」
濃密な日々は遥か昔に見た夢のごとく感じられることがある一方で、左腕を吊るした三角巾を見れば、ひとたび過去との距離はゼロになる。あの時、戦場に立った記憶をつまびらかに思い起こした。
両腕を切断された時、宿儺に要求されるまま反転術式で右腕を再生させたこと。もう一方の左腕を再生しきる間際に、まともに斬撃を受けて意識を失ってしまったらしいこと。
目覚めた時には戦いは終息していた。ベッドに寝かせられた状態で左腕に巻かれた包帯を他人事の感覚でぼんやり眺めていると、家入が声をかけてきた。できる限りの範囲で整えておいたんで。彼女はそう口にした。
「整える?」
「こっちに運ばれてきた時には最低限の処置は済んでたんです。日車さんの意識が飛んでも、反転術式自体はオートで回しっぱなしになっていたのは映像から確認しました。だから左腕も、胸部から腹部にかけての裂傷も、生命を維持できる最低限のところまで処置したのは日車さん自身ですね」
もしも斬撃を受けたままの状態だったなら、憂憂と星の手を借りて運びこまれても失血性ショックで手遅れになっていたという。
家入は自らの見解を淡々と述べていく。
「まあ反転術式を回しっぱなしにしてたから、その負荷で意識が飛んだ可能性はありますね。あれは糖分を消費するんで。最初は右腕、次いで左腕。欠損した肉体を連続で再生させようとしたからには尚さらかかる負荷はデカい。ああ勿論、胸部から腹部にかけての裂傷もですよ」
あの時に起きていたのは、車をハイスピードで飛ばしてブレーキを踏み込んだところで、すぐには停止できない状態と近いもののようだった。確かに制動距離は速度に比例する。勢いが止まらないまま損傷を回復させ続けた結果、脳の糖分が尽きてブラックアウトした、ということなのか。
「反転術式は、初めて使ったんだ。加減の調整に意識を向ける余裕はなかった」
「肉体の一部を再生させるのは簡単なことじゃないんですよ。もしかして医学知識あります?」
「……以前の仕事の関係で、何度か医学研修に参加したくらいだが」
「人体の構造を理解してるんなら、イメージが具体的になる分、知識のない人間よりは格段に再生しやすいでしょうね」
過去の家入とのやり取りをかいつまんで伝え終えると、耳を澄ませ続けた日下部が声をあげた。視線はいまだに窓ガラスの先へ向けられたままだ。
「人体の構造か。まさに、知識は力なりってところか」
「その言葉がベーコンを差してのものなら、彼の格言は検証を重ねた上で得た知識の力を説いたもので、」
「細けえなあ。悪かったよ、無知は力なりで」
「君がディストピア小説も読んでいたのは意外だな」
「あの本は有名だろ──2と2を足せば何になるか? アンタはどうだ?」
「何があろうと4だ」
「まあ総監部が2と2を足せば4じゃなくて5だって言ったところで、アンタは4って答える奴だよな」
「君は違うのか」
「面倒な時は5って言いたくなる」
「言いたくなるが言わないとなれば、何かと気苦労が多いだろう」
「……。悪いな、話が逸れた」
それまで窓ガラスの先を見ていた顔が日車へと向けられる。
「となるとアンタの話を聞く限り、左腕が動かない原因は心因性のものってことか?」
左腕は確かに再生している。家入の診断への疑いは欠片もなかった。ただ未だに動かないということは、
「おそらく。切断されこそすれ右腕は再生した自覚はあるが、左腕は俺自身の自覚が乏しいからだと思う」
右腕の後を追って左腕も宙を飛んだあの光景は、子どもが手放した風船みたいにあまりに呆気なく残酷に日車の意気を奪った。役割を全うするのだと、すぐに自らを奮い立たせ、腕を再生させるためのイメージを具体的に描いて反転術式を試した。宿儺に治せと言われたからやったところもある。治せなければ死ぬと。もはや意地だった。
使った試しのない術式である。呪いの王を相手どって、失った腕二本を同時に再生させる無謀は避けた。右腕に優先して反転術式を行使した判断は正しかったと今でも思う。最低限の再生が間に合った右腕に対し、遅れて他の部位に呪力を流し始めたかどうかといったところで意識は途切れた。
こうなると左腕を再生させた自覚なんてないに等しい。自分の腕が宙を舞う強烈な光景が頭に焼きついていたことも、追い打ちをかけている気がしてならない。知識を元に具体的なイメージができるとはいえ、取ってつけたようにいつの間にかそこにあった左腕だ。もしかすると無意識の内に異物にも似たものとして捉えてしまっている可能性も考えられた。
あれから三角巾を使って何キロもある重い左腕を固定した日々を過ごしている。固定は、荷物に等しい左腕の重みで肩が食い込むのを軽減するための処置だった。
「いつの間にか動いてた、なんてことで落ち着くだろ」
「正直なところ、動かなければ動かないままでも構わない」
左腕が不自由になったとして、なんの罰にもなっていない。それは法の裁きとは全くの別物だ。わかっていてそう思わずにいられなかったのは、現状、法の裁きが先延ばしになってしまっているからこそ、これが今の自分にできる償いではないかといった浅はかさからくるものだ。そんなものはただの自己満足に過ぎないのに。
鋭さのある双眸でちらと日車を見た日下部は、難儀だなと、静かにこぼした。
※
車は山道に入ってしばらく走ったところで動きを止めた。
「こっから先は歩きになる。走行音に気づかれると面倒だからな」
「三角巾は外した方がいいんだろう?」
下車しかけた日下部に確認すると、逡巡の後に軽く頷いた。予想に沿った状況に転じているが、来ることを決めたのは自分だ。文句はない。
三角巾を外して、肩掛けしていたスーツの上着を通してコートを羽織り、車を降りる。吐いた息が白い。日中とはいえ春を迎えたばかりの山の中は大分寒かった。
「明らかに負傷しているとわかる姿でいるのは不味いということだな」
「そういうことだ」
整備された道路から外れて山中に足を踏み入れる。冬を越えて芽吹き出した緑のにおいが立ち込めていて、湿った空気が頬にまとわりついた。不安定な足元は思いのほか体力を消費していく。徐々に息が上がり出し、運動不足が如実に露呈し始めた。
ところが先導する日下部との距離は広がらない。相手がこちらのペースに合わせているのだと、そこでようやく気がつく。
浅くなりだしていた呼吸を止めて大きく息を吸う。鼓動を整える。
「そろそろ人数くらいは教えてくれ」
先を歩く日下部の広い背中に問いかけた。それだけでこちらの意図は十分に伝わったらしい。
「報告によれば呪詛師が三人」
日下部はすんなりと応えた。
「んでこの先にひとり、先行して拠点の監視を頼んだ奴もいるはずだ。用心に越したことはないから……引き返したくなったか?」
「ここまで来ておいてそれはない」
それから目的地に着くまでの間、日下部は任務の経緯を雑談のごとく話し始めた。
「要は、死滅回游の時に仙台結界にいた泳者がそのまま呪詛師になった、つー話だ」
ルールを課されたからこそ結界内で収まっていた暴力や殺し合いだった。それが死滅回游という歯止めの消失がスイッチとなって、呪力への理解を深めた悪意ある泳者が解き放たれる形となった。自らに生まれた新たな可能性を存分に試そうとする者がいたとしてもおかしな話ではない。呪術界は羂索の死後でさえ彼の掌で踊らされている。
「結界があった周辺はどこでも似たようなことが起きてんだが、兎にも角にも壊滅的に人手が足りてないからな。とまあ、そんな腕なのにアテにして悪いが」
──行ってきなよ日車くん。その人を助けると思ってさ。
高木の声を思い起こす。それとなく右の手のひらに目を向けた。べっとりとこびりついた血の色は今も鮮明によみがえって、罪の重さを知らしめる。人を助ける資格が、果たして今の自分に残されているのかは到底わかりようもないことだが。
「相手の足止めくらいはできるだろう」
右手で左の手首を軽く持ち上げて離してみる。重力に従った左腕は力なくぶらんと下がった。持ち上げようと意識してもピクリとも動かなかった。
五分ほど歩き進めると、しげる木々の間からのぞく曇った空が、次第に広がりを見せ始める。間もなく視界が開けた。奥にそれなりの大きさの建造物が佇んでいる。遠くから見ても打ち捨てられたと判別がつく荒れた様相の建造物に向けて、日下部は口に含んだ白い棒を取り出した。先端についた丸い飴を使って指し示す。
「元は療養型の病院だとよ」
その廃病院は、長期の介護を必要とする高齢者の気分を安らぐものにしようと造られたらしい。見渡す限り緑に囲まれていることに加えて、人里からも十分に離れている。身を隠すにはうってつけの場所だった。
日下部にこれからの動きを確認しようとした。すると、人の気配を感じとる。
「久しぶりだね」
樹木の陰から見覚えのある人物が音もなく現れた。表情を隠すほどの長くしなやかな髪の奥からのぞく瞳は笑みを形作っている。冥冥だった。
「君が監視役を?」
「まあそんなところかな。ところで日車くん。君はそれほどやつれていて左腕もままならない状態なのに、こんな山奥に連れてこられたようだけど。金の交渉はきちんとしているのかい」
少しの挙動から左腕の違和感を見て取ったらしい彼女に、いいやと否定を返した。確かに日下部からの頼まれごとでこうして足を運んでいるわけだが、日車の頭の中に金銭への意識など欠片もなかった。
昔からどうにもその手の関心を怠ってしまいがちだ。弁護士時代は事あるごとに清水の顔を引き攣らせては、どうしてやるだけ損だとわかっている案件を受けたのかと心の声をそのまま出されたこともあった。
その清水は、今では日車自身に法の裁きが受けられるようにと、ありとあらゆる手を尽くしてくれている。
「まったく、タダ働きは感心しないな」
「払うもんは払うっつーの、オマエじゃあるまいし」
日下部の顔に呆れの色がにじむ。言い掛かりは止めて欲しいなと冥冥は左右に首を振るった。
「随分と手酷いじゃないか。まあ無駄話はこれくらいにしておこう。目標に動きはないね」
日車はちらと日下部に視線でうながした。日下部はこの任務に関する具体的な説明を始めた。
今回の任務は、廃病院に潜伏しているとされる元泳者の呪詛師三人の捕縛だ。カラスを使って一帯を監視し続ける冥冥いわく、現時点で廃病院から呪詛師達が移動した様子は見受けられないという。
「流れとしては俺が裏から殴り込んで制圧する。日車は正面入口手前に立って相手の逃げ道を塞いでくれ。冥冥はここで待機。潜んで全体の動きをカラスで把握しつつ、状況次第で適時対応を頼む。逃走されんのだけは避けたい」
鷹揚に頷く冥冥を横目に、日車は気になった点に触れる。
「前線に立つ君の負担が大きいが」
「日下部ならば問題ないよ。彼はこう見えてもシン・陰流の現当主だ。ならばその立場に見合った働きをしてもらおうじゃないか」
日下部は物言いたげな目線を投げたが、すぐに気持ちを切り替えたようだった。
「んで、日車は相手の逃げ道を潰すことで心理的牽制をかけてくれ。相手はあの建物のどっから見ても、入口手前にいるアンタの姿を確認できるはずだからな。仮に接敵しても適当にいなすだけでいい。無理はするな。アンタを抜けて森に逃げ込んで油断した奴を冥冥が殴り飛ばして捕縛する」
「何とも雑な指揮官だ」
「うるせえな。あんまり詰めて話したところで想定外はどうしたって起こるもんだ。基本方針は俺が前衛、日車が牽制役、冥冥が後方支援。不測の事態が起きれば各自の判断に任せる」
「捕縛した後、対象と話し合いをする、ということで良いんだな」
認識の違いがあってはいけない。この場に呼ばれた理由を改めて確認し直した。
「まあ、そういうことになる」
今から五分後に突入開始とし、各々が散開して位置についた。
その時刻が訪れて廃病院の入口手前に向かうべく移動を開始した時だった。辺り一帯に呪力が走るのを感じとった瞬間、目の前が突如爆発し、日車の全身は轟音と衝撃、熱波に呑み込まれた。
※
けぶく視界の中で耳の奥をキィィンと高周波がつんざいている。
──想定外はどうしたって起こるもんだ。
数分前に聞いた言葉を思い出す。
「──るまっ、大丈夫かっ!」
土ぼこりが舞う中、高周波をわずかに掻き切って人の声が聞こえた。日下部だ。廃病院の裏口に回り込んでいたはずだが、どうやら向こうから駆けつけてきたらしい。日車の近くにあらわれると、普段は鋭さのある両の目をギョッと瞬かせた。
「展延、か?」
身体の周囲に展開させた呪力の形態を見てとった日下部に、静かに頷いた。
「あーったく、肝が冷えたぜ。よく反応したな」
「今の呪力を帯びた爆発、宿儺の術式に比べれば遅いし威力も弱い」
だから対応ができた。
簡潔に伝えると、日下部は呆気にとられた顔の一瞬後に、くつくつと笑い出した。
「いやもうなんつーか、くくっ……何だそりゃ。よりによって比較対象がそれかよ」
言われた意味がよく飲み込めなかった。日下部はそうした日車の反応を気に止めず、その目に獰猛な肉食獣を彷彿とさせる輝きを見せた。唇の端を上げて不敵な笑みを形作る。
「よし、ここは頼んだぞっ」
「任せてくれ」
廃病院二階の窓から飛び降りてこちらに迫りくる呪詛師のひとりを目がけて、日下部は地を蹴り上げ駆け出していく。トレンチコートの裾がなびいて弧を描く。右手に収まる銀色の刃がきらめいた。
(彼との意思の疎通は楽だな)
日車は今になって、そんなことを頭の片隅で思う。
かつて背中を合わせた者たちだからこそ通じ合えるものもあるのかもしれない。呪術師とは個で戦いつつ、誰もが全員で呪術師という共通の概念を持っているのだと聞いたことがあった。
爆発の瞬間、まぶたを閉じたことで視覚を焼かれるのは防いだ。多少耳鳴りは残っていたがそれ以上の問題はない。
まだうっすらと残る土ぼこりの奥が揺らぐ。誰かがこちらに向かってくる。獲物がどうなったのか確認しようと近づいてきた呪詛師の姿が思い浮かんだ。
風が吹き、土ぼこりが薄れていく。
「テメェッ、東京第一の日車だろっ」
予想に違わず。だが顔が知られている。もしかしたら仙台結界の泳者と思われていた呪詛師は、元は東京第一結界にいた泳者だったのか?
迫りくる命のやりとりを前にしても鼓動が刻むリズムは変わらなかった。対して感覚が急速に研ぎ澄まされていく。
息をするように自らの右手にガベルを出現させる。馴染んだ感触、懐かしい重さが手のひらに収まった。人の命を奪う重さをその手に強く握りしめる。
左腕は動かない──ならば、取るべき手段はひとつだろう。
「領域展開」
周囲一体が黒い結界に覆われる。
「日車の領域、すごく、らしいんだよな」
いつか虎杖がそう言っていたのだ。虎杖がこれまで見てきた領域は、無数の骨で成り立つ禍々しさと厳かさを併せ持った御堂であり、怒りに荒ぶる大地と火を吹く山々であり、おぞましいほどの数の手と手が取り合い出して生まれる純粋な悪意であり、未だ人類の理解が及ばぬ遥か彼方の宇宙を彷彿とするものだったという。
今、日車の黒い双眸に入り込んできた光景は、周囲をぐるりと囲む断頭台と、向き合う形で置かれた中央の証言台だ。足元には隙なく均一に敷き詰められた石造りの床がある。
色も、彩度も、温度も主張せず、他の色の干渉を容認しないと言わんばかりの、モノトーンでのみ構成された静謐であり整然とした領域だ。
すごく、日車らしい。
それが日車寛見という存在の心の内に触れた虎杖が感じたものだったという。
眼前には両の目を縫いつけられた黒と白の式神が宙をただよっている。天秤を連想させる式神である。日車は自らの式神と向かい合った。
「君は、ずっとここに有り続けるのか」
俺が生き続ける限りは。
式神は何も応えない。
(……ああ、そうか)
久しぶりに展開した領域と式神に向き合い、手にしたガベルの重みに触れたことで、唐突に、日車は理解した。
この領域も式神も、手にしたガベルもすべて、自分が作り出したものなのだ。覚醒したからには身の内にあり続けるこの力からは離れられない──ならば、いっそのこと、この力は信念を貫くための手立てとして行使してもいいのではないか──?
(遠回りになるとしても、続く道の先はひとつだ)
静かに息を吐いて呼吸を整える。
自らの背後で顔を強張らせ、全身をガタガタと震わせる呪詛師と向き合った。
(裁きを望む人間が、まさに今、他人が犯した罪を暴き、裁こうとしている)
こんな傲慢な行いがより強い因果となって、必ず自分自身に正しい法の裁きが下るよう──日車は自らの十字架を背負って生きる覚悟を決めた。ガベルに刻まれた十字架に自らの覚悟を縛った。
「ジャッジマン、始めてくれ」
満ちた闇を前に進む先が判然とせず、立ち尽くしたままでいた。気づけば陥ってしまっていた思考の闇、その奥がゆっくりと白み出していく。まるで夜明けのように。
ようやく見つけた、ひと掬いの希望に向き合う。
やるべきことが見えた、そんな気がした。
黒い結界が役目を終えて霧散する。
頭の中はひどくクリアになっていて鈍りきった思考が急速に回りだす。
ジャッジマンは判決を下した。日車はその手に、美しくも静謐な無慈悲さをにじませる、光り輝く剣を手にしていた。それは斬った者に容赦なく死をもたらす処刑人の剣だ。
呪詛師は辺りを忙しなく確認すると、次いで自らの術式を行使しようとし、顔色が青ざめていく。没収された状態で術式を使用するのは不可能だ。呪詛師は信じがたいといった狼狽えと焦りの様相を見せた。
日車は自らの手の中にある剣を消失させるや、再びガベルを出現させる。
(今はこの剣を使うわけにはいかない)
呪詛師めがけてガベルを投げつける。ガベルは呪詛師の頭部すれすれのところを横切った。投げつけた反動で体勢がわずかに崩れる。
流動的とは言い難い左腕の動きに気づいたらしい呪詛師が、意を決した表情で日車に向かって走り出してくる。獲物を投げつけてきた相手が丸腰なのを見てとり、術式がなくても倒せると踏んだのかもしれない。呪詛師の経験の浅さが浮き彫りだった。それが日車の仕掛けた誘導だとは疑いもしなかったのだろう。
日下部から牽制役の指示を受けたが、それは裏を返せば、囮役の意味も含まれていることなど承知している。その役目はまっとうしなければならないのだ。日車は我が身を使って呪詛師をおびき出すことにした。あえて負傷した左腕を見せつけて餌にすることで、呪詛師がこの場を撤退する選択肢を真っ先に潰した。
走り寄ってくる呪詛師は勢いのまま殴りかかろうと拳を振り上げる。動かない左腕が荷物となって素早い移動が困難な日車からすると、相手が近づいてきたことで労せず距離を詰めることができた。
彼方に飛ばしたガベルを右手に出現させる。状況を理解した呪詛師の顔が瞬時にこわばった。ガベルを振り上げ、呪詛師の横腹にカウンターの一撃を叩き込む。
「っつつぅぅ!」
声にならない悲鳴をあげた呪詛師だったが地面に倒れそうになる直前でとどまった。以前に比べて相手に与えるガベルの威力が弱い。いくら呪力でカバーしたとして、戦線から離れて久しい。元となる腕の筋肉が大分落ちてしまっているせいか、以前のガベルの威力と比べれば半分にも及ばない気がした。
呪詛師はふらつきながらも態勢を整えるや、中段の回し蹴りを繰り出した。明らかに左腕を狙った攻撃だ。
今、近接戦は分が悪い。左腕は使えずガードも取れない。だが、地につく二本の足はまともだ。
両足の裏に呪力を込めて思い切り跳躍すると、呪詛師の蹴りをやり過ごす。とはいえ勢いがつき過ぎて中途半端に高く跳躍してしまっていた。そこから落下して地面に着地する瞬間を狙って、呪詛師が拳を振り上げ迎え撃とうとしてくる。落下するばかりの今の日車は回避行動がとれない。先ほど、呪詛師にカウンターを与えた時とは、今度は逆の状況になった。
(ならばこちらのタイミングを外せば良い)
落下の間際、空間の一部が目についた。違和感を覚え、そこに面のようなものがあることを捉えると、面に片足をつきがてら足裏から呪力を放出させた。反動で弾けた身体は宙を足場に再び跳躍する。呪詛師が勢いのまま振りかぶった拳は、日車が直前で宙を跳躍してタイミングを外したことで思い切り空振った。
「っ、はあっっ?」
何が起きたのかわからなかったのかもしれない。戸惑いをあらわにする呪詛師を捉え、日車はガベルの柄を長い形状に変化させるや、落下の勢いに乗せつつ思い切り振り落とした。今度は両腕を使って。
※
「そりゃ頼んだとは言った。言ったけど、適当にいなせって、俺はそういう意味で言ったんだ。空中で曲芸しろとは言ってねえ」
「大層なことはしていない。空気に面があったから足場にしただけだ」
「へえ。……何言ってんの、こわ」
いつの間にか近くに日下部が立っていた。そんな男の向こうを見れば、呪詛師が後ろ手に拘束されて地面に突っ伏している。今しがた日車が叩きのめした呪詛師も地面に伏したままで身動きひとつしていない。日下部がうつ伏せの呪詛師のところまで近づくと、屈んで、自らの人差し指と中指を呪詛師の首筋に当てた。次いで呪詛師を後ろ手にして、自らの懐からバンドを取り出し両の手首を拘束する。一連の動きに無駄はなく随分と手慣れたものだった。
「もう一人は、」
「森に行った。冥冥に任せてる」
処置を終えた日下部は立ち上がりがてら、良かったなと、日車の左腕を指差した。
「動くようになったんだろ」
指摘をされて、自らの左腕を見つめた。意識して腕を上げる動作をしてみる。あれほど動かなかった左腕が意図した通りに持ち上がった。
「確かに動くな」
「今頃気づいたのかよ」
「致命打を与えることに集中していたんだ」
久しぶりに動かした左腕は自分の腕とは思えないほど強張った感じを受ける。先ほどは無我夢中だったものの、こうやって意識して動かしてみるとどうにもぎこちなく、やはり筋肉が弱っているのを感じとれた。
「展延や反転を使った状況を聞いてはいたが。アンタって土壇場に強い口だよな?」
「そんなことはない」
左の手のひらを閉じては開いてを繰り返す。ふと、思い当たったことがあって、日下部に尋ねた。
「君は、最初からこうなることを狙っていたのか」
「良く考え過ぎだろ。ただ俺が言えんのは、経験上、戦いで負った精神的な傷ってのは戦いで払拭すると立ち直るケースを何度か見てきた機会があったってことくらいか」
「随分と手荒なショック療法だ」
「しつこいけどな、適当にいなせって言ったぞ俺は。見るからにやつれてるから、正直ココに連れてくるかどうか、これでもかなり悩んだんだ。つーか身体は資本でしょうが。せめて食え」
「随分と世話を焼くんだな」
指摘すると、日下部はバツが悪そうに頬を掻きつつ、どこか観念したような顔をして話し始めた。
「いくら任意だったとはいえ、宿儺との戦いにアンタが参加してくれたのはかなり感謝してるし、責任も感じてんだ」
「……あの戦いは俺が望んで参加した。なぜ君が責任を感じる必要があるんだ。君が指揮する立場にいたからだとしたら今すぐ考えを改めるべきだ」
役割を果たした先に自らの死が色濃くあったとしても決断したのはあくまで自分だった。総監部からの理不尽を受けて失意を覚えていても、戦場で采配を振るう立場の者の苦しみを思い図れないほど腑抜けていない。
「じゃあ逆に聞くけどな。どデカい戦いが一段落した後に、目の前で生き残ってしまったなんて言われてみろ。指揮とった側が何も感じるなって方がまず無理だろ」
宿儺との戦いの後に催された場で日車がこぼした「生き残ってしまった」という言葉は本音だった。自らの役割を果たすために、高専側の捨て石にしてくれても構わないと本気で考えていた。必要性を感じたからだ。
時間を経た今になって改めて思い返してみれば、それは目の前の男を軽んじた吐露でしかなかったことに気づく。あまりにも真っ当な言葉を受けてうなだれるしかなかった。
「それは、すまなかった」
「あー、責めてるように聞こえたんなら悪かったよ」
ただ、と、日下部は先を続ける。
「現場の指揮を任された以上は他人の命を預かったも同然だ。ならできるだけ元のまま返せるに越したことはねえし、腕が動かなくなったんなら動けるようになる手助けなり何なりしたっていいでしょうが。こちとら宿儺との戦いにはそんぐらいの借りがあると思ってんだよ」
面倒事を避ける節が見受けられる一方、発せられる言葉は随分と義理堅い。日下部のそうした人となりは、ふとした折々に見てきた日車だ。たたそれが出会ってそれほど期間がなければ、これといった交流もない自分に向けられることをどこか意外な気持ちで耳にしていた。
「アンタの抱える事情はどうあれ、術師になって間もないヒヨッコが呪いの王との戦いに名乗り出るなんてイカれた覚悟は、あの場にいた全員は組んでたんだ。だから生き残ってしまったとか言われたところで、あの場の誰も、テメェの価値観なり何なりを押しつけてどうこうするとか、野暮なことは口にしなかったでしょうが」
義理堅くありつつも、他者が引いた境界線に土足で踏み込むことはしないそれは、共に戦った人間が決めた覚悟に対する尊重なのか。呪術師として生きる者たちが、想像の及ばないほど多くの苦難を経た上で自然と持ち合わせていった価値観なのか。
「成る程、ヒヨッコか」
「気にすんのそこか」
「腑に落ちたんだ。君の言う通りだなと」
「やけにバカ強いヒヨッコだがな。術式もだが、なんだよ土壇場で展延と反転使うって。さっきの曲芸も意味わからんし」
「俺にも何となくでしかわからん」
「何で本人がわからんになるんだか」
「解明はこれから行うが、感覚としては理解できたんだ」
イメージを理解できればおおよその構築は可能だ。出力をするための具体的なレイアウトを描くには、どうすれば良いのか。
「……結界術で重要なのは具体的なイメージだ」
「君が以前に言っていたことか」
小さく頷いた日下部はちらと空を見上げた。頭上を高く、カラスが旋回している。冥冥の使役するカラスに違いない。先ほどまで広がっていた曇り空からは、いつの間にか晴れ間が見えだしていた。
「極論、具体的なイメージを描ければ結界術は成立する。呪術においてイメージがもたらす影響ってのはそれほどデカい。まあスポーツだってイメトレの重要性は散々言われてるよな? 何が言いたいかっつーと、」
カラスに向けて日下部が手を振る。何かしらの合図だったのか、カラスは旋回を止めて飛び去った。もしかすると森に逃げた残りの呪詛師についての連絡だったのかもしれない。
「アインシュタインとか歴史に名が残る天才共は、まずはイメージを描いてから思考して言葉で出力する工程を好んだらしいな。五条もあれこれ考えるより、できそうってイメージで、学生ん時に術式反転をやってみたって言ってたし。んでオマエは、」
いつの間にか呼び方がアンタからオマエに変化している。気づいたものの指摘はせずに日下部の話に耳を傾けた。
「術式にデフォルトで領域が組み込まれてる。それを行使できるほどイメージを描く力が元から強いってことだ。だから展延や反転も使えた。現に反転は、人体の構造が頭ん中にあったから腕を再生させてるわけだしな」
しかし左腕を切断されたまま再生もままならずに意識を失ってしまったことでイメージが焼きついてしまい、切断された腕は動かないはずだといった固定観念が強まるデメリットもあったわけだが。
「五条がいれば、感覚が似たもん同士の共有っつーか、そういった話も詳しくできたろうけどな。ぶっ飛んでる奴はぶっ飛んでる奴が教えた方が事が早く進んでたかもしれんし」
「そうとも言いきれん」
最強と謳われた呪術師とは、挨拶し、軽く会話した程度でしかなかったが。
「彼が健在だったとしても、彼の時間は未来ある若者への指導に費やした方がいい。それに、君の含蓄に富んだ話は学ぶべきものが大いにあることは紛れもない事実だ。とても助かる」
「おっさんの相手はおっさんがした方が互いに楽だしな」
「まさに」
思わず口元が緩むのを自覚した。日下部も表情を緩ませる。
これほど日下部と腹を割って話したのは初めてのことだった。そこでようやく、日車は気がついた。
俺は今、日下部と話をしている。
「……君からの頼みを受けた時に言っていた話をしたい相手とは、俺のことだったんだな」
「御名答」
白く細い棒が口元から取り出された。棒の先には何もなくなっていた。新しい飴は出さないらしい。口元を長い間あけておくのは、日下部が本気で戦いに向き合う時だけだと知っている。無意識に、動き出して間もない左の手のひらを握り締めた。
対話が始まる。
「長年いろんな奴を見てきたよ。その俺が保証する。日車、オマエは術師に向いた人間だ」
腹の底から、深く、息を吐き出さずにはいられなかった。
今回の〈頼みごと〉を告げる連絡を受けた際に苛立ちを覚えたのは、これから先に起きる可能性を考慮した上でお前の望みは諦めろと、そう言われた気がしたからだ。日下部はそんなことを一言も口にしていない。だが得てして妙なもので、言外の言葉は時に伝わってくるものだ。
不起訴の件で思い知った。これから先、どんなにあらがったところで総監部が介入してくるのは火を見るより明らかだと。場合によっては協力者である清水や高木、彼女たちの職場にまで総監部の影響が及ぶばかりか、彼女たちが今後生活することさえままならなくなる可能性もある。
「……君は、悪い男だ」
そりゃどうもと目の前の男がただ笑う。日下部は何の弁明もしなかった。もしかすると自分でも本当にそう思っているのかもしれない。
泥沼の状況になるとわかっていて総監部とのイタチごっこで疲弊していくよりも、『日車寛見』自身が呪術師として従事する選択をするように促す──日下部はそう腹を決めて来たのではないだろうか?
「悪い男ではあるが、随分と手緩い。今回の件、事態を穏便に進めようとして面倒な手数を踏んでいる節がある。面倒事は回避したい性質の君だ。俺個人の事情や意思など無視できたはず……なぜ、こんなことをしたんだ」
「単純に何とかしたくなっただけだ。それが理由にはならねえか?」
言葉を受けて、知らず、日車は黒い双眸をまたたかせていた。
「術師ってのは変なところで身内意識が強いもんでな。昨日背中合わせて戦ってた奴が、今日は隣にいないなんてザラだから尚のことだ。そんでも嘆いてる暇があんなら戦いを選ぶイカれた奴らばっかのくせして、腹ん中ではずっと後悔を抱えて手放したがらないときた。そうなると平気で自分を投げ出すようになってくる。身内意識もますます強くなる」
長年いろんな奴を見てきたと言った男がこれまで経験してきたことを淡々と話していく。自らが背負ってきたものの一端を開示しているそれは、とても珍しいことではないのかと日車には察せられた。おそらく日下部は面倒くさがりという性質を建て前に使って、自分の本質をさらけ出すのを避ける手合いのはずなのに。
「だからって術師が一枚岩ってのも違う。得体のしれねえモンへの恐怖心も人並みにある。平安時代から言い伝えられてきた宿儺なんてバケモンの相手は誰だって御免だしな。けどやるしかねえって時に背中合わせて命かけて戦って、そうして互いに生き残ったんなら、そいつに肩入れすんなって方が、まあ、無理な話だな」
──日下部さんはね、文句ばかり言うくせに知的誠実さは忘れないんだよね。
宿儺と戦う準備に追われていた束の間の日々に、五条と少しだけ話す機会があった。日下部から戦闘の指導を受けていると伝えたところ、最強と呼ばれた青年は澄んだ水色の双眸を向けてくると、何かを見透かしているような口振りでそう言っていた。
「なあ日車、オマエは絶対的な死を前にして生き残ったんだ。それはある種の適者生存ってやつだと思うがな」
ゆっくりと両のまぶたを伏せる。
──アンタはもう、呪術師なんだ。
日下部から連絡があった際に向けられた言葉は、術師の枠組みから逃れられない言葉として解釈していた。勿論それもあるだろうが、もしその言葉が日下部なりの、お前はもう身内なんだといった思いが大きく含まれていたのならば。
再び視界を開いた先にいる日下部に向けて、日車は対話を続けた。
「……俺は、犯した罪を償う機会だけは奪われたくない。そうでなければ、これまで信じ続けてきた司法への思いそのものが根底から揺らいでしまう」
犯した罪は法に則り正しく罰せられなければならない。人に与えた苦しみは、奪った未来は、生涯かけて償うべきものだ。一時の衝動でそれだけのことをしてしまったのだ。
「君が言う術師としての適性があったとしても、法の裁きを望むことには変わりはない」
「これから先も総監部は妨害してくるぞ。オマエなら充分にわかってるはずだ」
「ああ。だから、」
たとえ遠回りでも、その道を歩くことを自ら選んだ。
覚悟を決めた。
「日下部、俺は交渉しようと思う」
「……はあ?」
眉をしかめて、何を言い出したんだと言いたげな、あまりにも間の抜けた声を向けられる。日車は思わず口元を弛めてしまいそうになった。自分がこれから言い出すことは、目の前の男の顔をますます戸惑わせるに違いないと思いながら、言葉を伝えていく。
「現総監部のトップになった楽巌寺は比較的話が通じる相手だと聞いている。彼と直接交渉しようと思う。術師は今、深刻な人手不足に陥ってるんだったな」
「あ、ああ……?」
「だから俺のような罪深い人間さえ目をつけられた。ならば期限付きで術師として活動しようと思う。ただし三年だ。死滅回游の泳者がいる今は良くも悪くも人材が確保しやすい状況だ。力に目覚めて戸惑う善人も多いはず。呪詛師の捕縛任務がてら、こうした泳者のリクルートも行えるだろうな。そのヒヨッコたちを高専のような育成機関が指導すればいい。戦力になった頃合いをみて、俺は元部下の手を借りて法の裁きを受ける」
「いやでもオマエはもう不起訴に、」
「そうだ。ただ、あくまでも不起訴であって無罪判決を受けたわけではないんだ。裁判所が下した無罪判決だったなら、同じ罪を再び起訴することは一事不再理の原則で不可能ではあるが、不起訴ならば不起訴処分の再起というものがある」
「……成る程」
何を言わんとしているのかを日下部は察したらしい。
「これなら検察次第でいつでも再起して起訴に持ち込める。総監部は俺を不起訴にするために検察に圧力をかけたくらいだからな。当然その逆も可能なはずだ」
「そうは言っても、向こうが約束した期間を引き延ばしてくる可能性だってあんだろ」
「一理あるな。ならば術師らしく期間の縛りを科そう。向こうが俺を術師としてこき使いたい腹積もりならば、俺も術師らしくいく。契約事項の取りまとめは慣れているしな」
日下部は先ほどのしかめ面から徐々に表情を変えていき、話に耳を傾けるほど苦い顔を深めたかと思えば、低い声を発した。
「……オマエは、あのジジイ共の厄介さをまったく軽くみてる。総監部と交渉? 俺が知る限りそんな無茶やったのは五条くらいだぞ」
「自惚れるわけではないが、これでも無理筋と言われる案件をそれなりに引き受けてきた身だ」
五条悟は強大な力をその身に抱えながら、総監部に従い続け、宿儺との戦いの間際になってからやむを得ずに件の老人たちを手にかけたという。いつでも総監部を手にかけることができた彼があえてそれをせずにいたのは、後進の育成に重きを置いたからだと聞いていた。そこに嘘はないとして、その点を差し引いても彼が甘んじて従っていた理由があったはずだ。今なら彼がその道を選んだ理由がわかる気がしてならない。
「オマエが優秀なのはよくわかってるつもりだよ。ただこれに関してはまったく次元の違う話だ」
「そうだな。正直なところ、それほど上手く事が進むとは思っていない。大口が叩けるのも今のうちかもしれん。だから、」
日車は日下部を真っ直ぐに見据えた。
「だから君の力を貸してくれないか?」
総監部とのいがみ合いがどれだけ厄介なものかは、呪術界の存在を知って間もない日車も既に理解しつつある。だからといって不承不承のまま術師になったとして、士気の低いまま任務に臨まれるのは向こうも望まないはずだ。こちらとしてもこれ以上の妨害は御免だった。
ならば当事者同士の話し合いで妥協点を見つけ出して、互いの折り合いをつけてはどうだろうか。術師として拘束を求められるのならばこちらも相応の条件を要求したい。総監部と向き合う必要があるとわかれば、自らの信念を貫くために最大限の譲歩はするものの、持ち得る知識と経験、時に指摘される無謀さを武器に換えて思う存分に振るおう。
「ヒヨッコの俺ひとりではままならんが、長年呪術界に身を置く君の、呪術師としての知識と経験、慎重さがあれば話は別だ。君の力を貸してほしい」
その代わりなるかはわからないがと、日車は付け加えた。
「君が今負っている物理的負担を減らすと約束する」
「……。あのな、俺の精神的負担が増えるでしょうが」
顔をわずかに上向かせて両手で顔を覆う日下部の仕草は、いつか見た学生の発言に手を焼く教師のそれを思わせる。だがこの時の日下部は、学生の発言以上の厄介事を唐突に突きつけられた困惑をあらわにしつつ、この状況にどう応えるべきかを苦慮しているようにも見えた。
「こちとらこう見えて洒落にならんほどクソ忙しい状況だよ。冗談じゃなく猫の手も借りたいぐらいだ。オマエが意欲的になってくれんのはマジで助かるが、だからって法の裁きを受けるための手伝いを俺にしろって?」
「その通りだ」
「わかってて言ってきてんのか。それはつまり、俺がオマエに引導を渡すってことだろうが」
返された言葉に強く首を振るう。
「それは違う。君には俺の信念を守る手助けをしてほしいんだ。法の裁きを受けなければ俺の信念は緩やかに死ぬ。だから助けてほしい。こんな頼みは、死んでも守ると言ってくれた君にしか頼めない」
あー、クソッと、荒げる声が周囲に響いた。
「何とかしたくなったとは確かに言った。言ったがな……」
話したい相手がいる。連絡を寄越した日下部が最初にそう口にしたのは、おそらくは、対話という形の説得をするつもりだったに違いない。それが今こうして面と向かい合って対話をする内に気づいたのかもしれない。日車が楽巌寺だけではなく日下部にも交渉を持ちかけてきたことに。
日下部は空を見上げた。彼方を見ているようで、その目には何も見えていないようでもあった。日車は自らが向ける視線が日下部の下す判断を阻害しないよう、静かに朽ちていった廃病院を写した。かつて弱った人々を受け入れ続けていたはずの建造物は、今では空虚なまま、ただそこに佇んでいる。
しばらくして、腹の中に溜まったありったけのものを吐き出さんばかりの息を吐き出した日下部の視線と向き合う。
「……これでもな、生きる糧があってようやく今を生きてけるような奴もいることくらい、痛いほどわかってるつもりだ」
向けられた視線から今までと異なるやわらかさを感じとると、ああ、これは自分を通して、誰か、別の人物へ向けているものなのだと気がついた。その先にいる誰かが日下部にとっての大切な存在なのは明らかだ。例えば、同僚や恩師、友人、あるいは家族──日車はまたひとつ、日下部の一端を垣間見ていた。
視線はすぐに覚えのあるものに戻される。
「いきなり開き直りが過ぎんだよ」
「踏ん切りがついたんだ。それに、君の気持ちを聞かせてもらえたのも大きい」
「んなもん、コッチはそんなつもりこれっぽっちもなかったっつーの」
「俺が無理を強いているだけだ。君が精神的な負担を背負う必要は何もない」
「言っとくが、オマエの、その、一度死にかけても止まらん特攻思考、宿儺と戦ってた時とマジで何も変わってねえな」
「これも俺の性分としか言いようがない。背負うものばかりの君の手を煩わせるのは申し訳ないが」
「まったくだ。……んでもそれが、」
どうにでもなれと言いたげな、どこか吹っ切れた面持ちをにじませた日下部がそこにはいた。
「オマエが望んだことなんだな」
「そうだ」
静かに、日車は頷いた。
「……。わかった、覚悟しとけよ。望みどおりにぶち込んでやる」
覚えのある言葉と強い眼差しを向けられて心がさざめく。
目を見開き、知らず開けていた口元をゆるく閉じると、日車はほのかな微笑を形作っていた。
「ああ、頼む」
空を見上げる。晴れ間が広がりだした空からのぞく色はやけに青く澄んでいて、その周辺の雲は光を帯びて、ほのかな輝きを放っている。
皮肉なものだと日車は思う。人の心持ちひとつで見える世界は変わってしまう。それでも、今、この目に写る光景は美しかった。確かに美しかった。その変化は、進む先が判然とせず立ち尽くしたままでいた場所から、ようやく歩き出せたことによる安堵もあるだろうし、自分の弱さをさらけ出しても受け入れてくれた存在がいることに、深い感動にも似た何かを覚えたからかもしれない。
行ってきなよと背中を押してくれた高木から、目に涙を浮かべつつ向き合ってくれた清水から、苦い顔をしながらも覚悟しとけよと目を背けずに受け入れてくれた日下部から、人が持つ尊さと慈しみを感じ、噛みしめたからかもしれない。
心がひどくやわらいでいる。
「なあ日下部」
「なんだよ」
「ありがとう」
──君がいてくれて良かったと心から思う。
続けて伝えようとした言葉は、呪術師としての道を歩き終えた時に伝えようと思い直すと、胸の奥底にそっとしまい込んだ。
【 other side. 】
面倒だと、日下部はよく口にする。
この男が面倒だと発する言葉の裏側にあるものはそれなりに複雑で、ひとつの物事に付随する一切にどれほどの手間と労力が生じるか即座に算段をつける頭の回転の速さがそうさせている。何手も先を読み、大方の人間が見逃してしまいかねない細部にまで意識を配り、生じるであろう問題を予測して具体的な見通しをつけ、その手数を憂いて面倒だと口にする。
そうして散々面倒だと口にしておきながら、いざという時は持ち前の誠実さが顔を出すのだ。言うなれば彼は、血の通ったリアリストかもしれない。
携帯端末を持つトレンチコートの後ろ姿が振り向いて寄越した視線から、冥冥は通話がもうすぐ終わる意を汲み取った。長年の腐れ縁が築いた意思の疎通はそれなりに便利なものだった。
ほどなくして日下部は通話を終えた。冥冥は日下部が口を開くより先に話を切り出した。先手をとられて煙に巻かれてしまう前に聞きたいことがあったのだ。
「釣れそうかい?」
端末を持つ手とは逆の、あいたもう一方の手で頭をがつがつと掻いた男は宙に視線を投げる。
「……。むしろ俺が釣られた」
「へえ。なかなかどうして、面白いことになったものだね」
日下部が質問をはぐらかさなかったことを冥冥は意外に思えた。それは長年の腐れ縁にも関わらず見つけた新たな一面だ。
「そういや日車は、」
「補助監督と一緒に呪詛師三人を見張っているよ」
だからオープンに話そう。
言外ににじませた意に日下部は軽く頷いた。
「急に悪かったな。今回は助かった」
「わかっていると思うけど、この貸しは高くつくよ」
「はあ……まあ、仕方ねえな」
カアと鳴き声がしてカラスが空を飛んでいく。日下部が軽く舌打ちをしながらカラスに視線を投げる。冥冥はやんわりと微笑んだ。
「それで、総監部の反応は?」
端末をしまった男の表情は平素と変わらない。新たな面々にすげ変わった上の反応は彼の描いた予想の範囲でおさまるものだったのだろう。
「問題なし、だとよ。さっきの戦闘をカラスで〈視て〉の判断だ。もうケチはつかんだろ」
「そう。日車くんは、こんな人手不足の状況でこの規模の任務に一級術師が二人揃った意味を、もう少し穿って考えるべきだったかな」
「そりゃリスクヘッジで人員揃えたって普通なら捉えるわな」
「彼には災難な出来事になってしまったね」
呪術界は宿儺との戦いを経てからというもの、急遽再編された総監部の面々のもと、喫緊の問題への対応に追われた。
呪術界の立て直しを第一に、不可侵領域となった都内全域に集まり続ける呪霊と、反するように全国各地で活発化し始めた呪詛師への対応、死滅回游に巻き込まれた泳者の身元確認に加え、拉致された泳者を巡っての某国との交渉、武力介入の兆しがある他国への牽制、非術師に公にする情報の識別や規制など、数々の問題から浮き彫りになる課題の解消へ取り組む必要がある。
その最中、ひとつの疑念が呪術師たちの中でまことしやかに噂されるようになった。宿儺との戦い自体が、呪術界へクーデターを引き起こすための目くらましだったのではないか、といった馬鹿げた類のものだ。
渋谷事変以降の混乱に乗じて、旧総監部は一掃され、同時期にシン・陰流の当主や高弟も同様の末路を辿った。御三家さえ崩壊しかけた事態が偶然と必然が複雑に折り重なっての結果だと知る人間はごくわずかで、誰が手を下したのか証拠はなくても、日頃から呪術界の現状に不満をあらわにしていた五条悟が絡んでいると考える者が大半を占めた。
疑惑の目は五条と共に宿儺との戦いに参じた面々にも向けられている。もとより五条の庇護下に置かれ、宿儺との戦いに身を投じた一癖も二癖もある面々をひとくくりにして謀反組などと揶揄する者さえいる始末だ。
再編された総監部はおのずから改革派と保守派にわかれ、直下の術師たちも各々の派閥に属する形となっている。両者の関係性は日を追うごとに着実に悪化していた。元は保守派筆頭でありながら改革派に理解を示す楽巌寺がトップに立っていたことで、両者はかろうじて均衡を保っているといえる現状だ。
「力で変えてもどうにもならねえってわかってた五条が仕方なく選んだ力技だったんだ。遺恨が残るのは当然だろ」
「随分と落ち着いた物言いだね」
「こちとらやることがマジで洒落にならんほどあり過ぎんだよ。いちいち気にしてらんねーからな」
それぞれが抱く思惑は当然ながらその数に比例する。とはいえ呪いが人々に及ぼす惨禍を防ぐといった、呪術師として背負う使命は誰もが共通して持ち合わせたものだ。時には互いに手を組んで脅威に立ち向かわなければ本末転倒になってしまう。人の存在自体が危ぶまれては元も子もないのだから。
あらゆる騒動の種となりつつ、その存在自体があらゆる脅威への抑制となっていた五条悟はもういない。五条の不在を知るや、鳴りを潜めていた呪詛師達はここぞとばかりに各地で活発化し始めた。今回のように死滅回游で覚醒した泳者も例に漏れない。目覚めた力に浮足立って呪詛師となるケースも目立ってきている。
五条の不在、前総監部の一掃、御三家が弱体化する中で、呪術師の人手不足はことさら深刻だった。そのための新しい術師の確保は目下の最重要課題だ。
「とはいえ、いくら人手不足にしたって、自首した人間を不起訴にして囲おうとするなんて世も末じゃないか」
長く色艶のある髪を指先で絡めた冥冥は、髪の隙間をぬって日下部をうかがい見る。日下部は廃病院の入り口に視線を向けていた。少し離れたそこには日下部たちが乗ってきたワンボックスカーが止めてあった。中には気絶した呪詛師三人と補助監督、日車がいるはずだ。
「危険人物とみなされれば秘匿死刑なんて口をつく前時代の悪習も、頭が痛いものだしね」
死滅回游で目覚めた泳者の中から、純粋な戦力として白羽の矢が立ったのが日車寛見だ。呪詛師への対策に頭を痛める中で、対人に特化した術式を持つ者は砂漠の水ほど貴重な存在だった。
総監部の五条家に関わる改革派は人材の確保に積極的だ。かつての当主の意に従うように、優秀な術師を何においても欲している。
対する保守派は加茂家に関わりがあって伝統的な価値観と秩序を重んじる。そんな保守派からしてみれば、非術師を手にかけた者にまで手を借りるなど、気位の高い者が持つ特有の矜持が許さないのだろう。
『その男は過去に非術師を殺めた人間だと聞いている。いつまた非術師を殺めるとも限らないのでは?』
冥冥もそれとなく知る日車の過去だが、改革派がこのたび強行した人材の確保行動を知った保守派は、この点を強く抗議したという。
『呪いの王との戦いでの功労など所詮過去の産物であって、現在呪術師として使い物にならなければまるで意味がない。加えてその男の危険性は目に余る。今回の改革派の軽挙が原因で総監部自体を逆恨みする可能性も考えられるではないか。危険因子であることに変わりはない以上、もしその男に有用性が認められなければ秘匿死刑に処するべきだ』
秘匿死刑に処せ。
そうした声をあげる保守派の思考回路は随分と短絡的かつ物騒な主張であると同時に、とてもわかりやすい反応でもあった。保守派が恐れているのは前総監部の末路を辿ることに他ならない。
術式に目覚めたばかりにも関わらず、死滅回遊の泳者を二十人以上も返り討ちにした新参者だ。少し前まで非術師でいたはずの者がはたしてそんな常軌を逸した行為に走れるものなのか? 呪術界の歴史であり続けた者たちからすれば、自分たちとは異なる新参者が何をしでかすかわからない得体のしれなさや恐怖が先立つのかもしれない。
そうして五条のような圧倒的な火力がなくても、対人に特化した術式を聞き及んだ術師なら誰もが同じことを思うはずだ。
〈何かの弾み〉でその男の領域に踏み込んだら最後、呪術師であればまともな状態で出られるわけがないと。
「ああ、そうそう。今日のこの任務の発端は君だと聞いたけれど」
それまでのとぼけ顔が呆れた顔に変化する日下部を見て、冥冥は満足感を覚え、赤い口元を蠱惑的に形作った。
「ったく、誰が漏らしてんだか」
楽巌寺は改革派と保守派の諍いを見かね、両者とは距離を置いた者に意見を求めた。少し前まで第一線で戦っていた老体だからこそ、彼は現場に立つ者の意見を参考にしたいと口にしたという。そうして指名されたのが現場指揮官としての経験に富んだ一級術師の日下部だ。
「俺が楽巌寺のジイさんに呼ばれた時には、もうアイツの不起訴が確定した後だった。経緯を聞くほど今後の雲行きはどうにも怪しい。ならここはひとつ、アイツの有用性ってやつを示す方向でいきましょうっつーことで今回の任務を設けることになったんだよ」
楽巌寺が術師の中からあえて日下部を選んだところにその温情が見え隠れする。たとえ元は保守派のトップであろうと、共に死地に立った者として、戦いに身を投じた者たちに思うところがあったのかもしれない。
そうした楽巌寺の姿勢は悪くないと冥冥は思うのだ。シン・陰流の当主や高弟に不快な気分を味わい続けたのは記憶に新しい。だからこそ、高齢ながら自ら変化しようと努める人間の姿勢が貴重なものであることを、冥冥は重々理解していた。
「まあ有用性ってやつを証明すんのに指定された日取りがすぐだったからな。アイツの左腕とか精神面の懸念があったにせよ、万全になるのを待ってる猶予もなかった。とりあえず引っ張り出して、物騒なこと起こす気なんざサラサラないって姿を見せりゃどうとでもなるとは思ったんだが、」
日下部からすれば、たとえ日車が万全とはほど遠い状態であれ任務に望む姿を見せることこそ肝要だと判断したのかもれない。
「結果的に保守派からの物言いは引っ込んだ。使えるかどうかなんてのは、あんなの見れば一目瞭然だ。そりゃ黙るだろ」
「つまり有用性というやつは証明できた、と捉えていいのかな」
「とりあえず」
「それは良かった。今回の経緯についてはいずれ彼に話すんだろう?」
「ん? まあ、そのうち」
ああ、これは話すつもりがないなと冥冥が推し量ることは容易かった。
時折顔を出す日下部の過保護の基準は心身を病んだ妹の存在が大きく影響している。妹を殊のほか気にかけるようになってからの日下部は、無意識の内に、身内意識がより強い者を面倒や危険から遠ざけたがる節が見受けられた。たとえその相手が呪術師であってもだ。わかりやすいのがシン・陰流の妹弟子にあたる三輪だった。
日車の何かしらが日下部の琴線に触れるきっかけでもあったのか──思いつつも、その辺りの詳細は後々じっくり触れる代わりに、今は先ほどから気になっていたことを尋ねてみる。
「そういえば君、笑っていたね」
「はあ? いつ?」
「先ほどの戦闘でのことさ。爆発が起きて日車くんの元に駆けつけた君が笑っていたのが〈視え〉たんだ」
二人の間にどういったやりとりがあったのか詳しくは知らない。後方で待機していた冥冥は、カラス数羽に視覚を共有させて一部始終を〈視て〉いたとはいえ、あくまで共有できるのは視覚のみだ。
「あの状況下で一体どんな面白いやりとりがあったのかな」
よくそんなとこ見てんなと、指摘を受けた日下部はボヤいた。
「アイツが展延で爆発を防いだ時、あの爆発は宿儺の術式に比べれば遅いし威力も弱いとか言い出したんだよ。こんなん笑うだろ」
「へえ?」
それは冥冥に新鮮な驚きをもたらした。なぜ日車は宿儺の名前を出したのか。思考を巡らせていくと、彼女はある考えに行き着いた。
「成る程。彼は五条くんを知らない、ということか」
呪術師ならば知らぬ者がいない五条悟だ。いつの間にか記憶にあざやかに刻まれてしまう痛烈な人物は、宿儺とは違った意味での災厄に等しい存在だった。人が自然の猛威に為すすべもなく立ち尽くすしかないように、五条を前にした術師はただただ震え上がることしかできなくなってしまう(身近で彼に携わる機会の多い者は、別の意味で日々震え上がっていたようだが)
日車は、そうした五条が作り出してきた歴史とは無縁の人物だった。宿儺との戦いを前にした束の間の準備期間中に五条と話をする機会くらいあったろうし、五条が宿儺と戦う姿を観戦してはいた。だが五条の強さをその身に受ける機会はなかったはずだ。こうなると日車にとって強者の基軸が、直接戦った経験のある宿儺になるのは当然とも言える。
「さっきもアイツと話したんだが、呪術界の不文律なんか知らぬ存ぜぬ物申すだったからな。心底思ったよ。ああコイツは、俺等とは違うところでずっと戦ってきた奴なんだってな」
「確かにそうかもしれない。……なら日下部、君は、そういう者たちがもたらすだろう変化をどう受け止める?」
何百年も当然のごとく根づいた伝統や慣習はこの数ヶ月の間に瞬く間に吹き飛んだ。変化の潮流は、もう、誰であろうと止められない。流れに乗るか踏みとどまって抵抗を続けるかを選ぶ判断は個人に委ねられる状況になりつつある。
変化を求める者がいる一方、変化を拒む者がいるのも当然だった。閉じられた世界の中で連綿と続く呪術界だからこそ、何かしらの変化をもたらす者へ向けられる抵抗は確実に大きいに違いない。
日下部は空を見上げた。晴れ間が広がりだした空を見つめて深く息を吐き出す。その頭の中では、これから先に起こりえそうなあらゆる事態を想定して、頭の中で色々と考えを巡らせているのかもしれない。また面倒の一言が口をついて出てきそうである。
「別に。好きにすりゃいい」
おや? と、冥冥は軽く首をかしげた。
「面倒事を避ける君がそんなことを言い出すなんて」
一体どんな心境の変化だい?
続けてそう問いかけようとして、口を閉ざした。今この時は軽々しく何かを言う空気ではないことを、いつの間にか真顔になっていた日下部から読み取った。
「……人への頼り方を忘れてたような奴から頼られたら、何とかしてやりたくもなる」
真顔の中に、どこか途方に暮れたようにも、憂いたようにも見える表情が見え隠れする男の姿がそこにはあった。そうした得も言われぬ面持ちをする日下部など、長年の腐れ縁があったとはいえ、初めて見たものだ。
「俺にできんのはアイツの尊厳を守ることくらいだしな」
──それが、唯一の救いになるんなら。
最後には静かな呟きに変わった深い声が冥冥の元に届く。その言葉からにじむ強い覚悟を感じとった時、日下部は何か大切なものを日車から託されたのだと、その時になって冥冥は気がついた。
獲得と喪失のシナリオ
(Until the Day of Judgment)
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