「しばれるなはん」
「その意味が分かる自分が切ないです。帰ったらおでん食べたーい」
「おでんか。いいな」
そんな会話をしつつ、施錠した後事務所前で部下と別れた。
今夜は底冷えする。
朝晩が特に冷えるだの言っていたが、昼間とて充分冷えるし言わせもらえば雪だって降ったそばから雪かきせねばならないほど降っている。
この分だと自宅前の道路は酷いことになっているだろう。
帰りたくない。
そうだ。
どうせ明日は休みで何も予定がない。
泊まらせてもらおう。
日車はそう思い、美味い飯と温かい場所、それに愛しい顔を思い浮かべて、自然と笑みを浮かべながらいつもの店へと向かった。
⭐︎⭐︎⭐︎
今日のセットメニューだけが書かれた看板に、妙に古めかしい暖簾を見て、今夜もホッと一息付いた。
暖簾をくぐれば日車に気づいた日下部がいつものようにいつもの嬉々とした表情で席へ促す。
日車はカウンターの真ん中、ピカピカに磨かれた厨房のよく見える位置へと座ると、部下の清水がおでんを食べたいと言っていたことを思い出した。
「今日は何食べたい?」
「そうだな……」
ビールと共に出されたお通しの舞茸としめじのホイル焼きをつつきながら考える。
(おでんか……。あるだろうか?)
「何がある?」
「んあ? そうだな。寒いしなぁ。鍋でも良いし、ああそうだ。昨日おでんを仕込んだんだが、どうする? 定食で出せるが」
「食べたい」
やや食い気味に日車が注文すると、日下部は楽しそうに目を細め、「あいよ」と答えて温野菜のミックスナッツのクリーミーソース和えをコトンと日車の前に置き、奥へと向かう。その後ろ姿を見送りつつ、言ってみるものだと何やら感慨深く思う。とは言え、こういうことはことこの店に限っては、いや、日下部に限っては期待を裏切られたことはないのだが。
さて、温野菜のミックスナッツクリーミーソース和えはというと、つぶつぶとナッツが芳ばしく香るソースがブロッコリーなどの青臭さを消して、野菜とナッツの甘さが引き立っていて非常に美味い。これはビールも進む。
舞茸としめじのホイル焼きは既に食べ終わってしまった。
いつの間にか目の前に日下部がいて、おしんこをコトンと置いてくれる。日車が顔を上げ、もぐもぐと噛んで口の中のものを飲み込んでから「美味い」と真顔で言えば、「なら良かった」と口元を緩める。
それに日車も口元を緩め眉間を緩くした。
ふ、と笑う気配がするが、日下部は既に背を向けた後である。笑われた気がするが何故だろうと日車は思うも、おしんこが気になってそれどころではなくなる。
漬物を噛み締める時特有の小気味いい音を立てながら、日車は大事にビールを飲み進めた。
しかしそろそろ無くなりそうだ。せっかくだから今夜飲もうと買っておいた日本酒を熱燗にして貰い、日下部を誘って飲もうかと心の中で日車は算段する。
そうこうするうちにおしんこもソースに和えた温野菜も食べ終わり、ジョッキも空になった。
そして、目の前にコトン、コトンと本日の夕食兼酒の肴が置かれる。おでん、サクラ飯、ナスと焼き豆腐の煮物、かき玉と小松菜の味噌汁、白米である。
さて食べようかと箸をつけようとしたその時、店のガラス戸が開いた。
日下部が渋い顔をするので見やれば、五条と夏油である。
「あれ? 日車さんじゃん!」
「こんばんは、日車さん。へぇ、今夜はおでんか。美味しそうだ」
「おでん? あ、じゃあ僕もおでんにするわ」
「私は月見そばかな」
日下部は日車から日本酒を受け取ると、五条と夏油に向かって呆れたように「好き勝手言うよほんと」とブツブツ言って奥へ向かった。
五条と夏油は気にした風もなくさもそれが当たり前のように日車を囲む形でカウンターに座る。
大変居心地が悪い。
そわそわと落ち着かないし、おでんが進まなくて冷めそうだ。
早く熱燗を呑んで一息つきたいなどと日車が考えているのを分かっているのかいないのか、五条と夏油は日車の頭越しに楽しそうに会話をしている。五条がどこそこのパフェがまた食べたいと言えば、夏油はあそこの蕎麦が美味しかったと言う。
全く会話が噛み合っていない気がするのだが、二人は次々と話題を変えて幾らでも話し足りないと言わんばかりだ。
確か日下部が二人はいつも一緒に行動していると言っていたがと日車が思った時に、「ほいよ日車、熱燗な。んで、蕎麦とおでん。夏油お前なぁ、蕎麦は蕎麦屋で食えよ」と日下部がじろりと夏油を睨む。
「たまに乾物の蕎麦も食べたくなるんですよ」
「あれ、日車さん、その白いの何?」
(熱燗にしてもらって正解だったな)
「夏油、なら自分で作れ。五条、あれはちくわぶ。お前は知らねぇと思って出してねぇ。日車、おでんどうだ?」
五条が「ズルい! 僕もちくわぶ食べたーい!」とごねれば、夏油が「自分で作るのは面倒というか、ね」と笑い、日車は日車で「タコの足と肉が入ったさつま揚げが好きなんだが……」としょんぼりする。
日下部が収集をつけようとなんとかしようとすればするほど五条と夏油は日車の頭越しにやいのやいの言い、日車の酒がどんどん進んだ。
日下部の頭と胃がキリキリ痛む。
「五条……夏油……」
「なーにー?」
「どうしたんですか?」
やはり日車の頭越しにニヤニヤとした笑顔で告げられた言葉に、日下部がとうとうキレて二人を奥へと追いやり、自分たちを面白そうにもしくは微笑ましげに見る常連客にしっしっと手を振って他所を向かせて、「疲れた」とため息と共に泣き言を吐く。
「日下部、君も一杯どうだ」
「…。あんたの気遣いが沁みるわ……」
そそがれた杯をグイと飲み干した日下部を見て、日車は珍しく酔っ払わずに一緒に良い酒を飲んだのだった。