ホラー短編小説「木目」Part.8
第8話「密室の夜」
深夜二時。
ホテルの白い部屋は、
耳鳴りがするほどの
静寂に包まれていた。
外の豪雨の音すら、
分厚い防音ガラスと
遮光カーテンに阻まれ、
微かな振動としてしか伝わってこない。
山田は、パイプ椅子に浅く腰掛け、
部屋の隅々まで神経を尖らせていた。
視界に入るすべての「不規則な形」を
排除しなければならない。
ベッドの上の鈴木が
身動きをしてシーツにシワができるたびに、
山田は無言で立ち上がり、
シワをピンと真っ直ぐに伸ばし直した。
「山田さん……
もう、大丈夫ですよ。
シーツくらい、
気にしないでください」
ベッドに膝を抱えて座っていた鈴木が、
見かねて声をかけた。
彼女の顔には
疲労が濃く滲んでいたが、
怯えはいくらか引いていた。
「ダメだ。
どんな小さなシミや影でも、
脳が形を認識してしまったら終わりなんだ。
予言を見なければ、
運命は確定しない」
山田は血走った目で言い返し、
再びシーツの端を引っ張った。
「山田さん」
鈴木は静かに、
だが強い口調で
山田の名前を呼んだ。
「朝が来たら、
一緒に会社に辞表を出しましょう。
もう、不動産の仕事は無理です。
山田さんも私も、
こんな状態じゃ
まともに働けません。
……だから、
もうそれくらいにしてください。
山田さんが壊れていくのを見ている方が、
私は怖いです」
鈴木の目には、
うっすらと涙が浮かんでいた。
山田は伸ばしかけていた手を止め、
ゆっくりと下ろした。
そうだ。
朝が来れば、
この悪夢から抜け出せる。
二人でこの異常な空間から
逃げ出せばいいのだ。
「……そうだな。わかった。
朝一番で、退職願を書こう」
山田は硬くこわばっていた顔の筋肉を緩め、
ようやくパイプ椅子に深く背中を預けた。
鈴木もほっとしたように小さく微笑み、
ベッドのヘッドボードに寄りかかった。
彼女の胸がゆっくりと上下し、
安堵の吐息が白い部屋に溶けていく。
時計の針が、午前三時を回った。
二人は無言のまま、
ただ時間が過ぎるのを待った。
呼吸の音と、
腕時計の秒針が時を刻む音だけが、
白い部屋に響いている。
――その時だった。
ペタ……。
山田の全身の産毛が、
一瞬で逆立った。
鈴木もビクッと肩を震わせ、
ドアの方へ視線を向けた。
防音性の高いはずのドアの向こう、
ホテルの静まり返った廊下から、
微かに、だがはっきりと
「その音」が聞こえてきたのだ。
ペタ……、ペタ……。
濡れた素足で廊下を歩く音。
高橋が死んだあの非常階段で聞いた、
死を運んでくる足音だ。
「なんで……」
山田は声にならない声を漏らした。
ペタ……、ペタ……。
足音はゆっくりと、確実に、
二人のいる部屋のドアへ向かって近づいてくる。
山田は音を立てないように立ち上がり、
部屋の隅にあった小さな冷蔵庫とテレビ台を、
全力で引きずってドアの前に積み上げた。
鈴木はベッドの上で口元を両手で覆い、
悲鳴を押し殺して震えている。
足音が、ドアのすぐ外でピタリと止まった。
静寂。
一秒が、一時間にも感じられるような極限の緊張。
カチャ……。
ドアノブが、外側からゆっくりと、
下に向かって回された。
ガンッ⋯!
重いドアが数ミリだけ内側に開き、
U字型のドアガードが
ピンと張って金属音を立てた。
わずかに開いた隙間から、
鉄の錆びたような
血の匂いが流れ込んでくる。
ドアガードがギリギリと軋んだ。
外の「何か」が、
無言のまま
ドアを押し開けようとしている。
山田は歯を食いしばり、
靴の底をカーペットに擦り付けながら
必死に押し返した。
「山田さん……っ!」
背後で鈴木が震える声を上げる。
「来るな!
奥に引っ込んでろ!!」
山田はスーツのポケットに手を突っ込み、
仕事で使っているカッターナイフを取り出した。
刃をカチカチと限界まで長く出し、
右手に力強く握りしめる。
鈴木を殺そうとするなら、
自分が先に息の根を止めてやる。
山田の頭の中は、
その強迫観念だけで
完全に染まり上がっていた。
その時だった。
フッ、と
ドアの外から押す力が急に消えた。
カチャリとドアノブが元に戻る音がして、
あの濡れた足音が再び響き始めた。
ペタ……、ペタ……。
足音はドアの前から遠ざかり、
やがて完全に途絶えた。
静寂が戻った。
「……山田……さん……?」
背後から、
ひどく細い声がした。
山田がゆっくりと振り返ると、
ベッドの隅に縮こまった鈴木が、
信じられないものを見るような目で
山田を見つめていた。
「大丈夫だ、鈴木。
追い払った。
奴はもうこない」
山田は安堵の笑みを浮かべようとしたが、
頬の筋肉が痙攣し、
ひきつった奇妙な表情にしかならなかった。
鈴木の視線は、
山田の顔ではなく、
その右手に向けられていた。
長く鋭く突き出されたカッターナイフの刃。
山田の震える手の中で、
蛍光灯の光を反射して
ギラギラと光っている。
「山田さん……そのカッター、
しまってください。 危ないです」
鈴木の声には、
先ほどの足音に対する恐怖とは全く別の、
明確な「山田に対する恐怖」が混じっていた。
「あ、ああ。すまない。
でも、武器は持っておかないと。
またいつ来るか……」
白い部屋。
模様のない壁。
無機質な空間。
時計の針は、
午前三時を指していた。



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