ホラー短編小説「木目」Part.10

第10話「密室の安全」


午前五時。

夜明けまで、あと一時間を切っていた。

白い壁、白い天井、白いベッドシーツ。

視覚的な情報が極端に制限された真っ白な密室の中で、
蛍光灯の無機質な光だけが、
二人の落とす影を濃く床に焼き付けていた。

山田はパイプ椅子に座ったまま、
ピクリとも動かない。

右手に握られたカッターナイフの刃は、
依然として限界まで長く突き出されたままだ。

山田の目は大きく見開かれ、
血走った眼球が、
部屋の隅から隅までを
ギョロギョロと舐めるように動き続けている。

「……模様はない。

大丈夫だ。
どこにもない」

山田はひび割れた唇を動かし、
誰に言うともなくブツブツと呟き続けている。

ベッドの端に縮こまる鈴木は、
その異様な光景から
目を逸らすことができなかった。

ドアの外にいた「何か」は確かに恐ろしかった。

だが、今、鈴木の心臓を鷲掴みにしている恐怖の正体は、
目の前にいる山田だった。

佐藤と高橋の無惨な死を間近で目撃し、
運命を回避するという強迫観念に囚われた山田の精神は、
すでに正常な境界線を踏み越えてしまっている。

鈴木は、冷え切った体を温めようと、
無意識に自分の両腕をさすり、
膝を少しだけ胸の方へ引き寄せた。

カサッ。

シーツが擦れる、ごく微かな音が鳴った。

ビクンッ!

山田の肩が大きく跳ね、
血走った両目が鈴木を射抜いた。

「動くなッ!!」

怒声が白い部屋に響き渡る。

鈴木はビクッと体を震わせ、息を止めた。

「や、山田さん……?」

「動くと言っただろ!

シワができる!
影が、模様になるんだ!!」

山田はパイプ椅子を蹴り倒すようにして立ち上がり、
カッターナイフを握ったままベッドへと近づいてきた。

鈴木は恐怖で声も出せず、
ベッドのヘッドボードに背中を押し付けた。

逃げ場はない。

「ほら、見ろ……
君が動くから……」

山田は鈴木の膝元のシーツを指差した。

鈴木が膝を曲げたことで、
ピンと張られていた真っ白なシーツに、
いくつかの深いシワが寄っている。

ただの布のシワだ。

だが、山田には
それが致命的な「脅威」に見えていた。

「消さないと。
形になる前に、消さないと……!」

山田はベッドに片膝をつき、
シーツのシワを伸ばそうと手を伸ばした。

その手には、
長く刃を出したカッターナイフが握られている。

「ひっ……!」

鈴木は目をギュッと閉じ、
顔を背けた。

鋭い刃先が、
鈴木の太ももの数センチ横をかすめる。

山田は刃物を握った手で、
狂ったようにシーツを撫でつけ、
シワを真っ直ぐに伸ばしていく。

「よし……これでいい。

平らだ。真っ白だ。
何も浮かばない」

山田はシーツが完全に平らになったことを確認すると、
満足そうに低く笑った。

その笑い声を聞いて、
鈴木は全身の血の気が引くのを感じた。

この人は、私を守ろうとしている。

本気で、私のためにやっているのだ。

だからこそ、恐ろしい。

山田の目にはもう
「鈴木という人間」の感情は見えていない。

「模様を作らないための物体」
としてしか認識されていないのだ。

「山田さん……お願い、
そのカッター、しまって……」

鈴木は涙声で懇願した。

山田はゆっくりと顔を上げ、鈴木を見た。

その瞳孔は異常に開き、
焦点がわずかにズレている。

「しまう? なぜだ?
まだ終わってないじゃないか」

山田は首を傾げ、
鈴木の顔をじっと見つめた。

「君の……髪だ」

山田の視線が、
鈴木の乱れた前髪に向けられた。

雨に濡れ、乾きかけの髪が、
鈴木のおでこに
不規則に張り付いている。

「その髪の毛のカーブ……ダメだ。

複雑すぎる。

見ていると、何かの形になりそうだ。

真っ直ぐにしないと」

山田が、カッターナイフを握った右手を、
ゆっくりと鈴木の顔へと伸ばしてくる。

鋭利な刃先が、
蛍光灯の光を反射してギラリと光った。

「やめ……いやッ!」

「動くな!
綺麗にしてやるから!
模様を消すんだ!!」

密室の安全は、完全に崩壊していた。

外からの脅威を完璧に遮断したこの無機質な白い部屋は、
狂気に囚われた男と二人きりで閉じ込められる
「最悪の檻」と化していた。

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