ホラー短編小説「木目」Part.9
第9話「扉の向こう」
カチャ……。
金属製のドアノブが、
音もなく限界まで押し下げられた。
山田は心臓が肋骨を突き破るのではないかと思うほどの動悸を感じながら、積み上げた冷蔵庫とテレビ台の背後に回り込み、
全体重をかけてドアを押さえつけた。
絶対に開けさせない。
ここを開けられたら、鈴木が死ぬ。
ガンッ。
重いドアが
数ミリだけ内側に開き、
U字型のドアガードがピンと張って
金属音を立てた。
わずかに開いた数ミリの隙間から、
ホテルの廊下の冷たい空気が流れ込んでくる。
山田は息を止め、
ドアの隙間に全神経を集中させた。
見えない。
廊下は薄暗い。
しかし、隙間のすぐ向こう側に
「何か」が立っているという圧倒的な気配が、
皮膚を突き刺すように伝わってくる。
泥と水と、鉄の錆びたような血の匂い。
隙間の向こうから、覗き込まれている。
ドアガードがギリギリと軋んだ。
外の「何か」が、
無言のままドアを押し開けようとしているのだ。
山田は歯を食いしばり、
靴の底をカーペットに擦り付けながら
必死に押し返した。
「山田さん……っ!」
背後で鈴木が震える声を上げる。
「来るな!
奥に引っ込んでろ!!」
山田は振り返らずに怒鳴った。
ギリ……ギリ……と、
金属の軋む音が続く。
人間業ではない力だ。
このままではドアガードが引きちぎられる。
山田はスーツのポケットに手を突っ込み、
仕事で使っているカッターナイフを取り出した。
刃をカチカチと限界まで長く出し、
右手に力強く握りしめる。
『開いたら、刺す』
相手が佐藤の幽霊だろうが、
見知らぬ狂人だろうが関係ない。
鈴木を殺そうとするなら、
自分が先に息の根を止めてやる。
山田の頭の中は、
その強迫観念だけで
完全に染まり上がっていた。
「殺してやる……
入ってきたら、殺す……!」
山田の口から、
低く獣のような唸り声が漏れた。
その時だった。
フッ、とドアの外から
押す力が急に消えた。
山田が体勢を崩しかけた瞬間、
カチャリとドアノブが
元に戻る音がした。
そして、あの濡れた足音が
再び響き始めた。
ペタ……、ペタ……。
音は、ドアの前から遠ざかり、
廊下の奥へと向かっていく。
やがて、エレベーターの到着を知らせる
「チン」という小さな電子音が鳴り、
足音は完全に途絶えた。
静寂が戻った。
山田はカッターナイフを握りしめたまま、
荒い息を繰り返した。
全身が汗でずぶ濡れになり、
膝が笑っている。
去ったのか。諦めたのか。
わからないが、
少なくとも今すぐドアが破られる危険は去った。
「……山田……さん……?」
背後から、ひどく細い声がした。
山田がゆっくりと振り返ると、
ベッドの隅に縮こまった鈴木が、
信じられないものを見るような目で
山田を見つめていた。
「大丈夫だ、鈴木。
追い払った。奴はもうこない」
山田は安堵の笑みを浮かべようとした。
しかし、頬の筋肉が痙攣し、
ひきつった奇妙な表情にしかならなかった。
鈴木の視線は、
山田の顔ではなく、
その右手に向けられていた。
長く鋭く突き出されたカッターナイフの刃。
山田の震える手の中で、
蛍光灯の光を反射して
ギラギラと光っている。
「山田さん……そのカッター、
しまってください。
危ないです」
鈴木の声には、
先ほどの足音に対する恐怖とは全く別の、
明確な「山田に対する恐怖」が混じっていた。
「あ、ああ。すまない。
でも、武器は持っておかないと。
またいつ来るか……」
山田はカッターの刃を引っ込めようとしたが、
指が震えてうまくスライダーが動かない。
結局、刃を出したままカッターを右手に握りしめ、
パイプ椅子にドカッと腰を下ろした。
「もう大丈夫だ。
俺が君を守るから。
誰も近づけさせないから」
山田はブツブツと呪文のように繰り返し、
血走った目でドアと鈴木を交互に睨みつけた。
白い部屋。模様のない壁。無機質な空間。
だが、その部屋の中で最も異様で、
最も危険な存在は、
狂気に取り憑かれたように
刃物を握りしめる山田自身へと変貌しつつあった。
時計の針は、午前四時半を指している。
夜明けまで、あと少し。
しかし、この密室の中で、
鈴木にとっての「本当の恐怖」は、
ここから始まろうとしていた。


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