ホラー短編小説「木目」Part.5
第5話「逃れられない」
非常灯の頼りない緑色の光が、
無人の廊下に長い影を落としている。
「高橋さん! 待ってください!」
山田はスマートフォンのライトを点灯させ、
小走りで高橋の背中を追った。
廊下の突き当たり、
非常階段の重い鉄扉に手をかけていた高橋が、
鬱陶しそうに振り返る。
「しつこいぞ山田。
いい加減にしろ」
「お願いです、階段はダメだ。
せめて一緒に……!」
山田が駆け寄ったその時、
再びあの音が廊下の奥から響いた。
ペタ……、ペタ……。
山田は息を呑んで立ち止まった。
高橋も眉をひそめ、
廊下の暗がりへ視線を向ける。
どうやら、今回は
高橋の耳にも聞こえているようだった。
「……誰だ?
ビルの警備員か?」
高橋がスマートフォンをかかげ、
暗闇の奥を照らそうとする。
しかし光の束の先には誰もいない。
ただ、誰もいない空間から、
濡れた素足が床を歩くような不快な音だけが、
確実にこちらへ向かってきている。
ペタ……ペタ……ペタ……。
音が、少しずつ速くなっている。
高橋の顔に、
明確な戸惑いと恐怖の色が浮かんだ。
「なんだよ、これ……」
「高橋さん、早く中へ!
ドアを閉めて!」
山田は半ば強引に
高橋を非常階段のスペースへ押し込み、
分厚い防火扉を勢いよく閉めた。
ガチャン! と重い音が響き、
廊下と階段が遮断される。
コンクリートむき出しの非常階段は、
外の雷雨の音が壁越しに低く響き、
ひんやりとした空気が漂っていた。
非常口を示す緑色のサインだけが、
虚空に浮かんでいる。
「ハァ、ハァ……一体なんなんだよ、今の音……」
高橋が手すりに寄りかかり、
荒い息を吐いた。
普段の頼りがいのある先輩の面影はない。
極限の緊張と暗闇が、
彼の理性を急速に削り取っていた。
「大丈夫です、高橋さん。
ゆっくり、一段ずつ慎重に降りましょう。
私が先を歩きますから」
山田が諭すように言い、
階段を下りようと
足を踏み出した瞬間だった。
ドンッ!!
二人の真上。
七階へと続く階段の暗がりから、
何か重いものがコンクリートを叩くような音が響いた。
ビクッと高橋の肩が跳ねる。
山田がライトを上へ向けるが、
階段の折り返しになっていて見えない。
しかし、その見えない上の踊り場から、
聞こえてきたのだ。
ペタ……。
扉で遮断したはずのあの「濡れた足音」が、
今度は自分たちの頭上から響いていた。
「ひっ……!」
高橋の喉から、声にならない悲鳴が漏れた。
ペタ、ペタ、ペタ、ペタッ!
足音が、階段を駆け下りてくる。
異常なスピードで。
「来るな!
なんだお前、来るな!!」
高橋が完全にパニックを起こした。
暗闇の中、
見えない何かに追いつめられる恐怖に耐えきれず、
階段を猛スピードで駆け下りようとする。
「高橋さん、走るな!!」
山田は叫びながら、
高橋の腕を掴もうと手を伸ばした。
だが、恐怖で錯乱した高橋の目には、
山田のその行動すら
「自分を捕まえようとする脅威」
に映ったのかもしれない。
「触るなあああっ!!」
高橋は山田の手を力任せに振り払い、
後ずさった。
そこは、階段の最上段だった。
空を切った高橋の右足が、虚空を踏み抜く。
「あっ」
高橋の体が、
スローモーションのように宙に浮き、
後方へと傾いた。
スマートフォンのライトが虚しく宙を舞い、
壁のコンクリートを照らす。
ドスッ! ゴンッ! グシャッ!
重い肉塊が、
硬いコンクリートの角に
何度も打ち付けられる鈍い音が、
階段室に残酷なほど反響した。
そして下の踊り場で、
「ボキィッ」という、
太い木の枝をへし折ったような、
取り返しのつかない決定的な音が響き、
すべてが静寂に包まれた。
雨音だけが聞こえる。
山田は階段の上で、
スマートフォンのライトを持ったまま、
全身を硬直させていた。
「高橋……さん……?」
声が震える。
足の震えを必死に抑えながら、
一段、また一段と階段を下りる。
下の踊り場。
そこには、うつ伏せに倒れたまま
ピクリとも動かない高橋の姿があった。
山田は、ガチガチと鳴る歯を食いしばりながら、
高橋の顔の辺りにライトの光を当てた。
「あ…………ぁ…………」
山田の口から、絶望の呻きが漏れた。
高橋の首は、
階段の角に激突した衝撃で、
肩の付け根から「真横に九十度」へし折れていた。
ひっくり返った顔。
見開かれた両目。
苦痛に歪んだ口。
間違いない。
昨夜、山田が自宅のトイレのドアで見た、
あの「木目」と全く同じ形だった。
山田が止めたせいで、
高橋はパニックになった。
山田が手を伸ばしたせいで、
高橋は足を滑らせた。
もし山田が介入しなければ、
高橋は死ななかったかもしれない。
いや、違う。
『見えてしまった運命は、
回避しようとする行動そのものが、
死の引き金になる』
絶対に逃れられない絶対的なルール。
山田はその冷酷な事実に打ちのめされ、
暗い階段の踊り場で、
折れ曲がった高橋の死顔を見つめたまま、
音もなく泣き崩れた。


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