インスタント短編小説「たのもしいアプリ」

高野の人生は
「正直者がバカを見る」という言葉の
標本のようなものだった。

中堅商社の営業部に所属してから約8年あまり。

顧客から「このシステム、他社と比べてどう?」と聞かれれば、
「正直、機能面では劣ります」と答え、
合コンで「休日は何してるの?」と聞かれれば、
「大体寝てます。たまに天井のシミを数えます」と答える。

SNSでも、
誰かが「このサプリでマイナス10キロ!」と盛り上がっていれば
「成分表を見る限り、ただのビタミン剤です。
適度な運動と食事制限以上の特効薬はありません」
とファクトを書き込み、即座にブロックされる。

結果として、営業成績は常に底辺。

女性からは「つまらない人」の烙印を押され、
SNSのフォロワーは両親を含めて3人だった。

その日の夕方、高野は
駅前の喫茶店で
メニューを開いたまま固まっていた。

400円のブレンドか、
450円のアメリカンか。

どうでもいい選択にすら
自信が持てなくなっていた。

「お悩みですね」

ふと、向かいの席に
初老の男が座った。

仕立ての良いスーツを着たその男は、
山本と名乗った。

「山本と申します。

この近くの大学で行動経済学を教えています。

ずいぶんとお悩みのようですが、
どれにすればいいのか決まらない時は、
こんなアプリがあるみたいですよ。」

山本が差し出したスマートフォンの画面には、
『オプティマイザ(最適化)』というアプリの
シンプルなアイコンがあった。

「世の中は本音では回っていません。
企業が求める『当事者意識を持つビジネスマン』、
女性が求める『全肯定してくれる包容力あるパートナー』、
そして大衆が求める『耳障りの良い幻想』。
このアプリは、相手の心理と社会的理想像を瞬時に計算し、
あなたがその場で吐くべき『最も正解に近いウソ』を
テキストで指示します」

高野はメニューから目を上げ、山本を見た。

そして、震える指でインストールボタンを押した。

数日後。

高野は気難しいことで有名な取引先の役員を前にしていた。

いつもの高野なら
「弊社としては、これ以上の値下げは厳しいです」
と馬鹿正直に答えて終わる場面だ。

ポケットの中でスマホが震えた。

画面に文字が流れる。

【指示:役員の目を真っ直ぐに見つめ、声のトーンを半音下げてこう言え。
『御社が買おうとしているのは、単なるシステムではありません。
今後10年の業界を牽引する”圧倒的な優位性”です。
我々は単なるベンダーではなく、
御社のビジョンに並走する真のビジネスパートナーでありたいのです』】

高野は内心で
(意識高い系スタートアップの社長かよ)
とツッコミを入れたが、
腹を括ってその通りに口にした。

もちろん、ビジョンに並走する気など一切ないし、
単なるベンダーとして利益が一番大事だ。

しかし、役員の表情が一変した。

「……目先のコストダウンしか言わない連中とは
見ているROIが違うな。

気に入った。

君の熱量に予算を預けよう」

成功は麻薬だった。

社内での評価は爆発的に上がり、
会議ではアプリの指示通りに
「ここはゼロベースで思考をリセットし、
アジャイルにPDCAを回すことで
コアコンピタンスに昇華させましょう」
と空中でろくろを回す手つきをするだけで、
「彼には経営者の視座がある」
と拍手喝采を浴びた。

私生活も激変した。

社内で最も優秀で隙がないと言われる
後輩の女性社員・美月が、
残業中にため息をついた時のことだ。

【指示:彼女のコーヒーカップをそっと取り上げ、優しい笑顔でこう言え。
『いつも完璧でいようと気を張らなくていいんだよ。
たまには、俺の前くらいでは弱音、吐いてくれないかな?
君の心の重荷を、半分シェアさせてほしい』】

高野の歯茎が吹き飛びそうなセリフだったが、
美月は目を見開き、顔を真っ赤にしてうつむいた。

「……高野先輩、
私が裏で一人で資料の手直ししてたこと、
気づいてくれてたんですか……」

(いや、全く知らん)

その週末、二人は
高級イタリアンでディナーを共にした。

そして、SNSの世界も一変した。

これまで地味な経済のファクトを述べては
ブロックされていた高野のアカウントは、
アプリの指示に従い、
動画配信でホワイトボードを叩きながら
過激な煽りを叫び始めたのだ。

【指示:カメラを睨みつけ、不敵な笑みでこう煽れ。
『日本が貧しくなった諸悪の根源、それは財務省です!
奴らは自分たちの天下り先と既得権益を守るために、
「国の借金」という大嘘をついて国民から税金を搾り取っている!
国債なんてただの自国通貨建ての記録、
いくら刷っても破綻なんかしない!
積極財政でどんどんお札を刷ればいいだけなんです!
俺がエリート官僚どもの闇を片っ端からぶっ壊してやりますよ!』】

(いや、供給能力を無視して
無限にお札を刷ったら
通貨価値が暴落するし、
財務省はただ予算の帳尻合わせに苦しんでる
地味な公務員だろ!)

高野は冷や汗をかきながら心の底で叫んだが、

「よく言ってくれた!」
「本当の経済学だ!」
「高野さん、財務省に消されないで!」

と熱狂的なリプライが殺到。

何の実態もない極端な積極財政論と陰謀論が、
ネット上の真実として拡散されていく。


高野のフォロワーは数ヶ月で30万人を突破し、
彼は「現代人の心に寄り添うインフルエンサー」
として祭り上げられた。

仕事、恋愛、SNS。

すべてが思い通り。完璧な人生。 のはずだった。

一年後。

高野は高級タワーマンションのソファで、
一人胃薬を流し込んでいた。

彼の部屋には、
美月との会話に合わせるために買った
マインドフルネスの書籍や、
企業幹部との会食用に覚えた
ヴィンテージワインの空き瓶が転がっていた。

高価なスーツを着こなす鏡の中の自分は
「野心と共感力に溢れたスマートな男」に見える。

しかし、心は限界だった。

相手の理想像を演じ続けることは、
本音で怒られることの何百倍も
エネルギーをすり減らした。

美月に
「先輩のエンパワーメントしてくれるところが好き」
と微笑まれるたび、
泥沼に沈んでいくような息苦しさを覚えた。

そして、事態は彼個人の許容範囲を超えた。

SNSでの圧倒的な支持と、
若手エリートとしての知名度に目をつけた地元政党が、
高野を次期市長選挙の目玉候補として擁立したのだ。

投票日前日の夕方。

駅前広場には、
高野の最後の演説を聞こうと
何千人もの群衆が押し寄せていた。

最前列では美月が祈るように
手を組んで彼を見上げている。

演台に立った高野のスマホが、激しく振動した。

【指示:両手を広げ、涙ぐみながらこう叫べ。『皆さんの痛みは私の痛みです! 私は無駄な税金をすべてカットし、一切の痛みを伴わずにこの街の経済を復活させます! 誰一人取り残さない、夢と希望に溢れたユートピアを、私と共に創り上げましょう!!』】

高野は画面をじっと見つめた。
これを読めば、確実に当選する。
権力も地位も、市民からの熱狂的な愛もすべて手に入る。
大衆は、絶対に実現しない甘い幻想を求めているのだから。

しかし、胃の奥から込み上げてくる強烈な吐き気が、
ついに限界に達した。

高野は持っていたスマホを、演台の隅にそっと置いた。

そして、マイクを両手で握り直し、
静かな、しかしはっきりとした声で口を開いた。

「……財源は、ありません」

駅前広場が、水を打ったように静まり返った。

「無駄な税金をカットしたところで、
経済は復活しません。

少子高齢化で税収は減る一方です。

痛みを伴わずに街を良くする魔法なんて存在しません。

福祉を維持するためには、
皆さんにさらなる負担をお願いするしかありません」

群衆がざわめき始めた。

「誰一人取り残さないなんて不可能です。
私は救世主ではありませんし、ユートピアも作れません。
本当は経営の視座なんて持っていないし、
他人の心の重荷をシェアする余裕もありません。
……期待させて、本当に申し訳ありませんでした」

高野は深く、深く頭を下げた。

数秒の沈黙の後、広場を包んだのは熱狂ではなく、
怒号と失望のため息だった。

「ふざけるな!」
「現実突きつけて何が楽しいんだ!」
「空気読めよ!」

人々は蜘蛛の子を散らすように去っていった。

顔を上げると、最前列にいたはずの美月の姿もすでになく、
そこには踏みにじられた選挙ポスターだけが転がっていた。

当然、選挙は歴史的な大惨敗に終わった。

「覚醒」はメッキだったと判断され、
会社では元の窓際部署へ。

美月からは連絡が途絶え、
SNSのフォロワーは一晩で29万人減った。

タワーマンションは解約し、
元の狭いワンルームに引っ越した。

数日後の昼休み。

高野は会社の近くの公園のベンチで、
コンビニの400円のシャケ弁当を開けていた。

一口かじる。少しパサついたシャケの塩気が、
どうしようもなく美味しかった。

「イノベーション」も
「誰一人取り残さない世界」もない、
ただのシャケ弁当だ。

高野は、久しぶりに心の底からホッと息を吐いた。

「お昼はコンビニ弁当ですか?
ずいぶんと節約してますねぇ」

振り返ると、初老の男――山本がそこに立っていた。

高野は弁当を口に含んだまま、
少しだけ気まずそうに答えた。

「……すいません。

せっかくのアプリだったんですけど、
俺にはあの完璧なウソの人生は、
息が詰まって無理でした。

出世も、恋人も、フォロワーも……
全部手放しちゃいましたよ」

高野はため息をついたが、
その顔はどこか晴れやかだった。

それを見た山本は、
アプリを勧めた日には見せなかったような、
心底嬉しそうな、深い皺の寄った笑顔を向けた。

「いや、素晴らしい」

山本は満足げに頷いた。

「社会が求めるハリボテの理想像や、
大衆がすがる甘い幻想よりも、
あなた自身が選んだ不都合な真実と、
その不器用な失敗のほうが、
ずっと価値がある。

人間らしくて、実にいい選択です」

山本は穏やかに微笑むと、
木漏れ日の中をゆっくりと歩き去っていった。

高野はその背中を見送った後、
少しだけ冷めたシャケ弁当の残りを、
大きく口に放り込んだ。

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