東京都内の看護師、永井将一さん(仮名)は昨年まで勤めていた精神科病院で、院長からこう言われたことがあるという。「虐待通報なんかしたら、病院がつぶれる。分かってるよね」
この病院では「複数の看護職がほぼ間違いなく虐待していた」と永井さん。院長も患者に暴言を吐いていたという。
冒頭の院長の発言は、2024年にあった。この年の4月から、精神科病院で職員による患者への虐待を目撃した人は、行政への通報が義務化された。それが話題になった際、院長の口から出た言葉。永井さんは「口止め」と受け止めた。
厚生労働省によると、24年度に全国の精神科病院で行政が「虐待」と認定したケースは260件あった。ただ、本当に260件で全てなのだろうか。(共同通信=市川亨)
▽加害者の6割は看護師
まずは、厚労省がまとめたデータを見てみよう。
精神科の入院ベッドを持つ病院は、2023年時点で全国に約1600カ所ある。ベッド数は約32万床で、約27万人が入院している。統合失調症の患者が約13万人と半分近くを占めるが、認知症の人も約8万人いる。65歳以上が7割近くに上り、高齢化が進んでいる。
「職員が患者に暴力を振るっているのを見た」とか「職員から虐待を受けた」といった通報・相談は、2024年4月から1年間に全国で6024件あった。患者本人からの訴えが8割近くを占める。
通報は都道府県と政令指定都市が受け付ける。職員や患者への聞き取りなどの調査をして、虐待と認定したのは、通報件数の4・3%に当たる260件。そのうち189件では、自治体が病院に改善計画の提出を求めた。
1件で複数の患者が虐待を受けるケースもあるため、被害者は413人いた。一方、加害者は看護師が6割を占め、202人で最多。准看護師、看護助手、医師と続く。
虐待の種類としては、暴力など身体的な虐待が158件で最も多かった。次いで暴言などの心理的虐待が131件。性的虐待も23件あった。
▽隠蔽が発覚した例もある
通報義務化は精神保健福祉法の改正で施行され、2024年度が初年度だった。そのため過去との比較はできないが、厚労省が法改正前の2015~19年度の5年間についてまとめた調査では、自治体が把握した精神科医療機関での虐待疑い事例は72件だった。通報の義務化で大幅に顕在化したといえそうだ。
だが、精神医療に詳しい池原毅和弁護士は「それでも氷山の一角だと思う」と話す。
実際、冒頭の永井さんのような内部証言があるほか、虐待を隠蔽していた例も明らかになっている。
岐阜県内の精神科病院では2024年10月、男性看護師が女性入院患者に暴力を振るい、院内のカメラに映像が残っていたのに、病院は県に通報しなかった。その後、匿名の通報があり、県が立ち入り検査して虐待と認定した。
一般の障害者施設と比べると、精神科病院の虐待は多いのだろうか。厚労省によると、障害者福祉施設のスタッフによる虐待の通報は2024年度に5870件で、精神科病院の方がやや多かった。一方、虐待と認定されたのは福祉施設が1267件(21・6%)と件数、割合とも精神科病院を上回った。
ただ、精神科の入院患者数に比べると、一般の障害福祉施設の利用者は6倍ほど多いことを考慮に入れる必要がある。
▽自治体によって大きな差があるが…
実は、厚労省は精神科病院の虐待について自治体別のデータを公表していない。そこで、記者が情報公開請求をしてみると、通報件数や、虐待と認定した割合には自治体間で大きな差があった。
都道府県と政令市が別々に集計されているのだが、例えば札幌市の通報件数が293件なのに対し、北海道は4件だけ。大阪府は641件の通報があったのに、大阪市はわずか11件だった。
通報件数のうち虐待と認定した割合も、最高の山梨県は66・7%。一方、12自治体では0%だった。
「うちの自治体で通報が多いのは、問題のある病院が多いからだ」と話す関係者もいる。ただ各自治体によると、通報の全てをカウントしている場合と、内容に応じて判断している場合があるほか、同一の患者が何度も通報するケースもあるため、単純には比較できない。通報が少ない場合、1件の認定で認定割合は大きく上がるといった事情もある。
厚労省は今後、25年度分について自治体の対応状況や虐待の要因などを詳しく調べ、27年3月までに虐待防止の手引などを作る予定だ。
▽身体拘束や隔離が1万件前後行われている
そもそも日本の精神医療は、世界的には「異常」といえる。先進諸国の中でベッド数や平均入院期間は突出。患者を強制的に入院させる制度も「緩さ」が指摘される。
強制入院には主に「措置入院」と「医療保護入院」の二つがあり、措置入院は医師2人の判断が必要だが、医療保護入院は医師1人の判断と家族などの同意があればよい。
医師1人の判断で済むのは国際的には珍しく、病院収入のために入院させるといった恣意的な運用があるとされる。医療保護は入院患者全体のうち約半数を占め、措置入院より圧倒的に多い。
精神科病院では、症状が激しくなった際に患者が暴れるといったことがあるため、胴体と手足をベッドに固定したり、外側から施錠した部屋に隔離したりすることもある。切迫性や一時性などの要件を満たした際に限られるが、「安易に行われたり、言うことを聞かない患者への制裁に使われたりしている」との指摘が絶えない。
2025年6月末時点の状況を調べた厚労省の調査では、医師による拘束の指示は全国で約9200件。隔離の指示も約1万2千件あった。研究者の調査では件数、実施時間とも国際的に群を抜いて多い。
精神科に入院したことがある人を対象に日本弁護士連合会が2020年に実施した調査では、8割が拘束・隔離などで苦痛な体験をしていた。「治療の名目でやりたい放題され、地獄のようだった」といった声もあった。
厚労省は拘束・隔離の最少化に向けた取り組みを進めているが、微減にとどまっている。
▽口をつぐんでしまった患者
冒頭の永井さんが働いていた病院の実態はどうだったのだろうか。
永井さんは「ひどかったです」と話す。「看護師たちは患者に対し『上から目線』の対応が常態化していて、虐待の疑いがあっても、みんな見て見ぬふりでした」
あるとき、患者の1人が永井さんに「やられた」と職員からの暴力を訴えたことがあった。永井さんは対応しようと思ったが、その患者は「正直に言ったら、余計やられるから言いたくない」と口をつぐんでしまったという。
「院長の独裁で、職員にもパワハラがすごかった。虐待のほかにも、院長が都合のいいようにカルテを書き換えたり、診療報酬を不正請求したりしていた」。永井さん自身もパワハラを受け、耐えられなくなって辞めた。
前出の池原弁護士はこう話す。「精神科病院は閉鎖的な環境のところもまだ多く、『外部に問題を知られたくない』と、組織防衛的に虐待通報を抑え込んでいる病院もあるのではないか。虐待を見聞きした職員が通報できている病院よりも、通報すらない病院の方が虐待が潜在化している可能性がある」
その上で「法令で定められた『切迫性』や『一時性』などの要件を満たしていない身体拘束は虐待とみなすべきではないか」と指摘。行政に対し「通報頼みではなく、抜き打ち検査などで病院の実態をチェックする必要がある」と求めた。
【取材後記】
もちろん、精神科病院の中にも適正に運営し、良質なケアを提供しているところはある。ただ、制度や風土が立ち遅れているのは否めない。日本政府は、人権侵害が行われている状況を改善するよう国連の障害者権利委員会から勧告を受けている。
仮に虐待を直接受けていなくても、他の患者がひどい扱いをされているのを見たら、精神的に不安定になってしまうだろう。精神疾患を治すための病院で、さらに精神を病んでしまうような環境があっていいはずはない。