誰よりも、姫崎莉波が泣いている― ラプラス・ダークネス生誕ライブの、あのトルソーについて
はじめに
誰が悪いという話ではない。これから書くのは、ひとつの「行為」と、その行為が言葉にしないまま語ってしまったことについてである。当事者の人格や、ホロライブというグループ全体、あるいは学園アイドルマスターの運営や演出スタッフ個人を裁くことが目的ではない。むしろ私は、キズナアイ氏にはじまるVTuberの時代初期から、そしてアイドルマスターも初代からゲームやアニメに触れてきており、二つの文化のあいだに長年身を置いてきた一人として、相性のいいサブカルチャー同士、両者の地続きの関係を信じている。だからこそ、ある一秒間に何が起きたのかを、できる限り正確に、できる限り感情を制御して書き残したい。
ことの前提を簡単に確認しておく。2026年5月25日、ホロライブ所属VTuber・ラプラス・ダークネス氏の生誕3Dライブ「ラプさま大解放2026」に、学園アイドルマスターの姫崎莉波がサプライズ出演した。披露曲は「36℃ U・B・U」と「clumsy trick」。ライブの構成全体が学マスをオマージュしており、誕生日の主役本人は歌わずに「特等席」で観客として推し活に徹する、という非常に異例な形式だった。ここまでなら、ラプラス氏が長年公式アンバサダーを務めるほどのアイドルマスター愛と、姫崎莉波という「お姉さん」アイドルへの敬意が形になった、誠実な企画として受け取ることもできた。実際、私はそのつもりで配信を見始めていた。
擁護できる部分を、まず擁護しておく
ショックを受けたプロデューサーが多かったことは事実だ。一方で「アイドルとしての仕事をしただけで、結果としてファンも増えた、それでよかった」という一見大人びた態度の意見も多く出ている。本来、そちらが正しい姿勢である。
VTuber、とりわけホロライブは規模も資本も影響力もすでに巨大で、そこに仕事として呼ばれ、誕生日を祝う側に回ることは、職業アイドルである姫崎莉波にとって何ら恥じる仕事ではない。むしろ大口の案件をきれいに取り切ったことに対して、「よくぞ獲得した」と肯定されるべき種類の仕事ですらある。
音楽関連で例えるなら、シンガーソングライターの方が、自分が音楽をするきっかけとなった昔から憧れの方に楽曲を提供した!とか、昔から憧れだった歌手の方と楽曲を一緒に歌うことができた!とか、自分のライブでコラボ楽曲を披露する際、コラボ先の方をサプライズでお呼びして、一緒にライブで披露した!とか、様々ある。
今回も、このコラボ自体に関しては、そこまで躍起になって文句を言うようなことではない。
楽曲や衣装の初披露という論点についても、私は擁護寄りの立場を取りたかった。何十万人が同時に見る舞台で、姫崎莉波というアイドルが自分の最良の姿を見せようと全力を尽くしたこと。それは弟くんたちへの裏切りではなく、むしろ「うちのお姉ちゃんを世界中に知ってほしい」という、姉のもう一つの愛し方ですらある。もちろん、初披露が…他箱?という疑問は最もだが、ミュージックステーションやCDTVライブなどで楽曲や衣装を初披露するアーティストも、ままいないこともない。
「みんなのお姉ちゃん」が、特定の一人に向けてファンサをしてしまったのではないか、という違和感も理解はする。だが冷静に考えれば、その「みんな」のなかには私も、あなたも、そして今回呼んだ側のライバー本人も含まれている。お互いがある程度バーチャルな存在であるという暗黙の合意のうえで成り立っているコンテンツに対して、過剰な独占感情を投影することは、こちら側も慎まなければならない。
プロデューサーさんたちがライバーに向けている感情は、ひとくちに嫉妬でしかないからだ。
もちろん、ライバー側もその独占感情を慎まなければならないが、ライバーといった職業柄か、お金持ちに庶民の気持ちがわからないように、そういった感情の制御や他人の心情を慮ることは難しいのかもしれない。
ただ『私物化』と言えるかどうかについては、そこまでのものではないと思われる。
いくつか例を挙げる。MrBeast氏は、自身のチャンネルの動画の日本語音声翻訳verの自分の声を、MrBeast氏が大好きな作品『NARUTO』の主人公キャラクターの声優、竹内順子さんに担当してもらっている。今回のケースのように仕事として自分に対して特別なファンサを求めているようにも捉えられない。しかし、彼自身の声優さんやアニメへの愛情などから、声優という仕事やアニメに対するリスペクトを感じることができ、むしろ我々にとって馴染み深い声で、あれだけの資本力の働くバラエティを日本語で届けてくれることに感謝すらしてしまう。
他にも、「テレビミセス」というテレビ番組で、FRUITS ZIPPERの松本かれんさんの親友「ひなこちゃん」が、Mrs. GREEN APPLEの若井滉斗さんの「リアコ(リアルに恋している)」であることを明言した。
彼女は親友から頼まれて「若井さんはボブの髪型が好きか」を代理で質問というか、現実的なアドバイスまで求めてしまった。私はどちらのファンでもないが、その質問はテレビを見ていたパートナーも私も言葉を失うほどにヒドイものだった。
そもそもMrs.GREEN APPLEさんは、ある程度ビジュや世界観で売っているような場面もあるが、いわゆるバンドでありアイドルではない。もちろん、ファンがたくさんいることも、このバンドのファン層やファンの思想が少し変わっていることも知っている。(かわいい〜とかかっこいい〜とか、音楽的な面よりもビジュのことを言う方が多いという印象)
そしてかれんさんは明確にアイドルという立場。そして男女に限らずファンの方がたくさんいる。現代の価値観はどうあれ、この発言は明確に職権(立場)の濫用であり、アイドルとしての自覚が足りないというより欠如しており、どちらのファンに対する裏切り行為と言える。(ネットはそこまで荒れていませんでしたが、こんなプロ意識のない人がアイドルとして活動できているのが心配になった)
しかもファンで〜とかではなく「リアコ」であり、恋愛のアドバイスみたいのも求めるとかいうとんでもない事態。質問した彼女自身も、この質問を是として、放送した番組側も、お互いのファンを明確に傷つけるであろう内容だったと感じる。大森元貴氏がうまくまとめてくれていたが、もし少しでも真面目に答えていたら…と杞憂してしまう。
個人的な線引きではあるが、いいパターンとあまりよろしくないパターンの例を挙げてみた。
今回の線引きはリスペクトの有無、自分自身の立場を理解しているか、ファンや関係者を裏切っていないか、など様々ある。
今回のラプラス氏の件は、先に述べる1点を除けば、リスペクトや愛情を感じるものであった。
それに、実際のテレビ番組などでもアイドルが出演する際、共演している芸能人がそのアイドルのこと大好きで、バラエティや演出の流れでその方一人に対してファンサをすることはよくある。もちろん、ファンの中に嫌悪感を抱く人もいるだろうが、ライバーが芸能人としてアイドルにファンサを受ける、という構図は、ごくありふれた風景である。
他にもラプラス氏については、よく語られる「同担拒否」の言動も、私は本気で問題視するつもりがなかった。アイドルマスターというコンテンツは構造的に同担拒否が成立しないジャンルだ。
そりゃそうで、たくさんのプロデューサーが、物語上のキャラクターと共に成長していくという構造上、誰もがプロデューサー、誰もがそのアイドルたちにとって、たった1人のプロデューサーなのだ。
彼女が長年アイドルマスターに触れ、楽曲を歌い、公式アンバサダーまで務めてきたという経歴を踏まえれば、ぽっと出の超新規が金で世界観に踏み入った、というような筋でもない。
それに少し冷たい言い方にはなるが、どちらも生身の人間ではない。それならば、付き合ったり結婚したり、事実上の独占みたいな状況は起こり得ないわけだ。
そしてホロライブ所属の彼女が、ライバー、ファン、プロデューサーという三つの顔を一人の人格に同居させていることが、この問題を厄介にしている側面はあるだろう。本来、プロデューサーは裏方であり相棒であり、ファンは支える側だ。だが彼女自身がアイドル的な側面を持ち合わせている以上、自分の場で姫崎莉波を輝かせることが、結果として姫崎莉波の知名度に最大限寄与する。それが彼女に唯一できるプロデュースであり、自分自身が観客席で「ブヒる」ことで、その瞬間をエンターテインメントに昇華させられる。あの場の全員がそれぞれ演者として、そういった構図のエンターテイメントなんだと、私はそう読んでいた。だから、ライブの開催そのものを批判する気はなかった。
ここまでは、いまでも本心としてそう思っている。
だが、ひとつだけ言わなければならないことがある
「clumsy trick」のステージにある、あのトルソーを投げ飛ばした件。あれだけは、はっきりとあり得ない。
ここまで書いてきた擁護のひとつひとつは、あの一秒の演出によって、すべて成立を失う。全て無に帰してしまう。つまり私の擁護はもうここで尽きるわけだ。これから先は、一人の観客としてではなく、ひとりの書き手として書く。
トルソーは何の偶像だったのか
「clumsy trick」のステージに置かれたあのトルソーは、ただの舞台美術、舞台装置ではない。
姫崎莉波個人ファンの視点から見れば、あれはファン自身の偶像である。現実世界のファンというより、学園アイドルマスターの世界観の中でのファンの人たち、という意味だ。歌詞の世界に呼ばれ、姉が手を伸ばす対象として、無言のままステージ上に存在する分身である。ステージの上にいながら、客席にいる自分を映している、奇妙な合わせ鏡である。
そして、学園アイドルマスターのストーリーを知るプロデューサーや姫崎莉波本人の視点から見れば、あれは「弟くん」そのものである。幼馴染であり、子どもの頃にお世話になり、再会の場面で
「私のこと……覚えて、ますか?」
と問われた、あの存在の影である。歌詞の輪郭、姫崎莉波というキャラクターの設計思想、そして彼女が「みんなのお姉ちゃん」であり続けるために手を伸ばし続ける対象。それを舞台に立たせるための装置として、あのトルソーは置かれている。そう読むことに、何の無理もない。
つまりトルソーは、何重もの意味で「向こう側の人」の輪郭をしている。歌詞のなかにいる、姫崎莉波が大切に思っている存在。そしてゲームの内側でも外側でも、姉を見つめ続けているファン。そして「弟くん」自身。
こういったことを少し難しい言葉で、不在の中心(The Center of Absence)」と呼ぶ。
文学や哲学、芸術において、「あえて中心となるべき存在を置かないことで、かえってその存在感を際立たせたり、周囲の状況を浮き彫りにしたりする手法や概念」のことだ。
トルソーは姫崎莉波の世界において、そういったある種の信仰的なシンボルであり、立派な偶像として特定のではないが、複数の意味合いを含蓄して存在している。
トルソーを「排除して自分が立つ」ことの意味
今回、ライバーはライバーとして姫崎莉波を呼んだ。つまりライブのなかでの彼女の立場は、いちファンであって、ストーリー内の「弟くん」ではない。ここを混同してはいけない。
姫崎莉波の弟くんは、一人ではない。歌詞の中の特定の誰かであり、同時にゲームを遊戯するすべてのプロデューサーであり、様々なカタチで応援し、支えるすべてのファンでもある。
が、しかし、我々が存在しない記憶を植え付けられたように、私たちではない明確な「弟くん」像としても存在する。彼女がステージ上のトルソーに手を伸ばすとき、その指先の延長にいるのは、画面の前のひとりひとりであり、彼女にとってたった1人の「弟くん」そのものだった。
その偶像を、投げ倒す。そして、空いたその場所に自分自身が立つ。
これは、振付とか演出の問題ではない。これは、寓意の問題である。「我輩こそが、姫崎莉波が歌うべき対象である」「お前らは、その対象ではない」「弟くんではなく我輩がお姉ちゃんのたった1人だ」「お姉ちゃんの大切な人などどうでもいい」と、舞台装置の文法を使って宣言してしまっている。仮にそのつもりがなかったとしても、舞台はそう読まれるように組まれてしまっている。意図と効果は、舞台演出においてしばしば一致しないが、効果のほうが残ってしまうのが舞台というものだ。
しかも、今回のライブで動画を見ればわかるとおり、トルソーは静かに脇に避けられたのではなく、勢いよく投げ飛ばされている。「立場の交代」ではなく「排除」として読まれてしまう所作になっている。エンターテインメントとして許容範囲を逸脱している。
さらに加えなければならないこと ― 有村麻央という前例
そして、この演出がいっそう重く感じられた点がある。
過去、このトルソーの立ち位置に代わって立った人物は、作中で確認できる範囲ではたった一人だけだった。2025年9月の「初星大運動会DAY2」で、同じ初星学園の同級生である有村麻央が、トルソー役として登場し、歌唱した。同級生で、仲が良くて、同じ舞台で長く積み上げてきた、その作品内の関係性のうえに立った演出である。
あの空間は、空席ではなく、すでに一度、別の意味で埋められた空間だった。つまり、あのトルソーは有村麻央でもある、と公式が宣言したと言って差し支えないわけだ。
そこに外側から踏み込み、トルソーを物理的に投げ飛ばして自分が立つということは、ただ姫崎莉波の世界観を踏み越えるだけでなく、その場所をきちんと作品内の手続きを踏んで埋めた有村麻央というキャラクター、そしてそれを丁寧に演出してきた歴史をも、結果として後ろから押し退ける…いや行為通り投げ飛ばして排除するという文脈になってしまっている。
繰り返すが、これは行為についての話であって、人格についての話ではない。だが、トルソーを投げ飛ばしてどけるという行為の邪悪さは、有村麻央の存在を踏まえることで、より一層も、いや何層も何層も増すことになる。
あの2人の関係性を本編だけでなく、サポカのストーリーなど思い出せば出すほど、怒りも増してきてしまう。
ありえた別の演出について
これは、避けられた事故だった、と私は思う。
たとえば、さくらみこ氏とラプラス氏が並んで立つカットから、ラプラス氏がふっと姿を消し、さくらみこ氏がきょろきょろと隣の不在を探しているうちに、姫崎莉波のステージ上、トルソーの代わりにラプラス氏が現れる。あるいはもっと単純に、最初からトルソーの位置に立っているところから曲が始まる。
このどちらかであれば、寓意は「私はこの場所に呼ばれた」「私はあの偶像になりに来た」という方向に整っていた。トルソーが象徴する不在の中心を、「投げ飛ばして奪う」のではなく「招かれて代わる」という形に書き換えられていた。私を含む多くのファンは、そのような演出であれば、悲しみではなく、ある種の高揚と共に受け止められたはずだ。
選択肢はいくつもあった。なのに、選ばれたのは、もっとも読み替えのきかない選択肢だった。
信仰の対象として、演出の意味合いとしてトルソーに対するリスペクトは皆無、今まで紡がれた文脈の尊厳を踏みにじり、作品内のファンや現実の私たち、親友でありライバルの有村麻央、弟くん、そしてなにより、なによりも姫崎莉波本人を愚弄し、冒瀆している。
イコノクラスムと呼ばれる、宗教的に崇められる画像を破壊する行為と近い概念の行為であり、特定の文化や信仰を否定・支配する暴力的な行為そのものだ。
比喩を一つだけ許してほしい
私はいま、昨年から今年にかけての紅白歌合戦について囁かれた、ある演出構成にまつわる懸念を思い出している。司会者の出身地といった地理と、その出来事が起こった時刻と、その出来事が起こった瞬間に発生する現象の象徴が、本人たちのパフォーマンスとは無関係に、ある歴史の悲惨な事件と一致してしまったとされる、あのざわめきのことである。
事実関係について私はここで断定する立場にないし、今回の本論からは少し離れる。ただ、舞台芸術における「読まれてしまう構造」というものの恐ろしさを示す事例として、頭をよぎる類のものだった。意図はどうあれ、舞台はそう読まれるように立ち上がってしまうことがある。だから舞台に関わる人間は、自分の意図ではなく「どう読まれてしまうか」を最終チェックの言語として持っていなければならない。
それがもし、仕組まれ、意図されたものだとしたら、その演出をした人物の人格は破綻している。
今回のトルソーの一秒は、ちょうどそういう種類の一秒だった。
では、誰の責任か ― という問いはあえて答えない
ここから先は推測になるので、私は確定的なことを書くつもりはない。姫崎莉波とプロデューサーが、本来ならあの演出を認めないという前提の元話すのならば
姫崎莉波とプロデューサーが大口の仕事だからと、現場で押し切られてあの演出を受けてしまったのか。(バーチャル的、物語的視点)
商業的・構造的な圧力に最後に屈してしまった誰かがいたのか。(現実の運営視点)
それとも本番でライバーのアドリブが入ってしまった結果投げ飛ばされることになったのか。(起こった事実で姫崎莉波側に非がないように深読んだ場合の視点)
それは私には分からない。し、そもそもそこを断定すべきではない。
ただ、どのケースであっても、結論はおそらく一つに収束する。
もっとも傷ついているのは、姫崎莉波という存在そのものだ。
姫崎莉波本人と、彼女のプロデューサーたちと、ファンと、そして作品内で同じ立ち位置に立ったことのある有村麻央。この四つの方向に向かって、舞台はそうとは言わずに「お前らの居場所はここにはない、どけ!」と告げてしまった。それは行為としての邪悪さそのものであり、行為として愚弄そのものである。
それでいて再度言うが、姫崎莉波とプロデューサーが、本来ならあの演出を絶対に認めないという元、結果として、あの演出になってしまったという事実がある。姫崎莉波とプロデューサーが泣く泣く呑んでしまったのか、運営側がこの演出を呑ませたのか、ライバーの暴走でああなったのか、いずれにせよ、大切な人の象徴であるトルソーを蔑ろにされたわけであるから、姫崎莉波は傷ついているはずだ。
そんななか姫崎莉波は、みんなのお姉ちゃんで居続けるために、アイドルで居続けるためにパフォーマンスを続けたのだ。
我々プロデューサーたちには、姫崎莉波とプロデューサーとの関係性を踏みにじり冒瀆してそれでいて、資本に、権力に屈したと捉えられても仕方ない印象を与える結果となってしまった。
意図がそうでなかったとしても、舞台がそう語ってしまった以上、舞台はもうそう語ったことになる。
プロデュースが失敗した時、ストーリーでの彼女の葛藤、そして何もかも上手くいってプロデュースが成功した時、姫崎莉波の涙を幾度経験してきた我々プロデューサーにとって、彼女自身が傷つくというのは1番なってはならないと、泣いてほしくないと、特に嬉し泣きではなく、悲しい泣き顔だけは絶対に見させない!と全プロデューサーが思っているはずだ。
なぜかというと、プロデュース失敗のシナリオの中で、姫崎莉波の失敗コミュは特段に重たく悲しい内容になっており、あの悲痛の声と顔…思い出すだけで胸が痛くなる。
が、おそらく今回はそうなってしまった。あの悲痛の叫びを浴びる結果となった。
救えなかったのである。
しかも、リタイアしてやり直すとか、そういったことがもうできない、取り返しのつかないカタチで、それは起こってしまった。
ライバー側がプロデューサーであったということ
最後に、もう一つだけ重い点に触れなければならない。
今回ゲストを呼んだ側は、姫崎莉波のシナリオを読み込んだプロデューサーでもあった、と公言してきた人である。トルソーが何を象徴するのか、そこに弟くんの影がどう重ねられているのか、構造的に分かりうる立場にいた。これは、知らずにやってしまった、で許される構造ではない。
知っていて読めたはずの人が、それを読まなかったか、読んだうえでなお選んだか。どちらだとしても、行為の重さは変わらない。むしろ「読めたはずの人」が舞台の文法を踏み越えたという事実が、この演出を、ただの軽率な失敗以上のものに格上げしてしまっている。
先程の紅白歌合戦で述べたように、仕組まれ、意図されたものである場合は…の部分。ライバーがシナリオを読んでいた以上、わかったうえでやった可能性が高くなってしまっている。
そして今回、姫崎莉波役の声優として、ではなく、姫崎莉波として、彼女はあのライブの真ん中に立ってしまった。これからの公式ストーリーが、あの演出の一秒ありきで歩いていかなければならなくなったということだ。HIF編で新しい道を歩み出そうとしているまさにその直後に、である。タイミングまで含めて、もう少しなんとかならなかったのか、と私は思っている。
おわりに ― 怒りの整え方
哲学的な書き手として整った言葉を選んできたつもりだが、ここまで書いてきて、まだ胸の奥に冷たい澱が残っている。私は初星学園箱推しだが、もしも、、、もしもこれが私自身の担当アイドルであったなら、こんなふうに冷静に文章を組み立てることはできなかっただろう。
それでも書き残しておきたかったのは、今回の件を「VTuberが嫌い」「アイドルマスターの内輪が狭量」というような、文化対立の単純な物語に回収されてほしくないからだ。これは、文化の対立ではない。これは、「舞台の文法」と「キャラクターの尊厳」という、もっと細かくて、もっと普遍的な問題である。
ライバー本人を罰するべきだ、とは私は書かない。学マスの運営は何をやってるんだ、とも書かない。
私が望むのは、ただ一つ。あの一秒について、関わった大人たちのうちのどこかが、いつかきちんと振り返ってほしい、ということだ。トルソーが何だったか、有村麻央が一度そこに立ったということが何を意味していたか、そして、その場所に外側から物理的に踏み込むことの寓意が、どう読まれてしまうものだったのか。
舞台はもう終わってしまった。終わってしまった舞台について、観客にできることは、忘れないことと、言葉にしておくこと、ふたつしかない。
姫崎莉波の物語が、これからもまっすぐ続いていきますように。
弟くんたちが、これからも姉に手を取ってもらえますように。
そして、あの場所に静かに立っていたトルソーに、もう一度だけ、まなざしを返したい。


大変興味深い記事でした。 運営側、ライバーへの視線をよりニュートラルに見られたきっかけになったと思います。
素晴らしい記事でした! XなどのSNSに蔓延する視点の浅い怒り(VTuberが嫌い、姫崎莉波の担当降りる!、アイドルの私物化だ云々)、極端に問題を小さくしようとする人、対立を煽って炎上を楽しむ人、単に莉波推しで傷ついてしまった人のどれよりも深い視点で、かつ的確に今回の物事を捉えられており最…
コメントありがとうございます! お褒めの言葉いただき光栄です。 そのように感じていただけたのが何より嬉しいです。 これからも、いい記事が執筆できるように努めます。