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大好物/Novel by かみや

大好物

9,595 character(s)19 mins

篤也が寛見に恋したとしたらいつだったのかなという妄想
南町サンセット(novel/27897684)という作品のおまけ裏番組みたいなものです

6月の新刊にも掲載しようかなと思ってます

ご感想などあれば! https://wavebox.me/wave/deyqtk58zfc9t5ro/

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 隙のない男だな、というのが、日下部が日車寛見に対して抱いた第一印象だった。
 虎杖によれば弁護士らしい。この界隈では比較的珍しい職業だ。もちろん呪力を持ち、呪術への一定の理解を示した上で呪術界に属する弁護士がいないわけではなかった。しかしそれはあくまでも総監部や御三家に属し、政治を得意とする弁護士連中の話であって、虎杖ほど動ける人間を物理攻撃で追い詰めるような呪術師としての弁護士は、少なくとも日下部の知る限りでは初めてだった。
「申し訳ない」
 壊滅した東京で刑事処分を待つ間、総監部から一方的に監視対象とされた日車は、そう言って《監視者》である日下部に向かって頭を下げた。あれほどの死闘をともにした間柄だというのに、彼の態度はまるで初対面のようによそよそしかった。
「同居なんて面倒だろう。君に迷惑をかける。なるべく邪魔にならないように暮らすから……」
「そんなこと気にしなさんなって。とりあえずはお互い、屋根のあるまともな部屋でまた寝られるようになっただけ運がいいと思いましょうや」
「そういうものか」
「そういうもんだよ、この業界」
 日下部のマンションはファミリータイプの分譲賃貸だった。甥が生きていれば三人で暮らせる、そういう部屋を選んだのだ。幸い、街自体の被害はどこも小規模損壊で、ライフラインも問題がなかった。長い目で見て住み続けられるかどうかはともかく、当面のふたり暮らしの妨げになるようなことは何もなかった。


「キャベツ一玉、一三〇円か……」
 行きつけのスーパーマーケットの店先で山と積まれたキャベツを前に、日下部は眉をひそめた。自分の頭に浮かんだこの手の疑問に答えられるのが日車だということは、彼と暮らし始めてすぐにわかった。
「土曜特売、一一時までのタイムセールだってよ。これ安いよな?」
「そう思う。先週の土曜は同じものが一九八円だったから、嘘じゃない」
「じゃあ決まり。昼、お好み焼きでどうよ?」
 レジかごを持ったまま隣の日車を見遣ると、彼は黙って頷いた。小さな黒い瞳は生真面目な光をたたえてキャベツの山をじっと見つめている。
 何を考えてるんだろうな、と思った。そしてその手の想像は巡らせるだけ無駄だということも日下部はよくわかっているつもりだ。
「あー、もしかして別のもんがいい? 手癖で作るもんでよけりゃリクエスト聞くぜ」
「いや。お好み焼きというメニュー自体、久しぶりに聞いたものだから。嬉しい」
「あっそ」
 日下部は考えるのをやめると、売り場を回り込んで精肉コーナーへ向かった。いつものことだった。
 欲のない男だな、というのが、日下部が日車寛見に対して抱いた次の印象だった。
 ふたり暮らしは驚くほどストレスなく始まった。少なくとも日下部にとっては、だ。おそらく日車のほうは日々の暮らしに相当気を遣っているに違いない。もちろん日下部も生活のリズムや最低限の清潔感には気を配ったし、左腕を吊ったままの日車のためにできることは何でも買って出たけれど、それ以上に注意を払うことは早々にあきらめた。どうせ長丁場だ。無理をすればそのうち駄目になる。
 だからいつも《気を遣う》側であろう日車のために、彼のリクエストを聞ける場面では極力彼に合わせようと決めていた。食事はその最たるものだ。高専へ出かける日中はともかく、それ以外のプライベートではなるべく彼の希望に沿うことに徹する。
 にもかかわらず、日車からは「これがいい」「これが欲しい」という発言が出ることはほぼなかった。食事だけではない、すべてにおいてだ。もちろん夕食のメニューの希望を聞けば「野菜を摂りたい」だの「今日の特売品をメインで」だのそれらしいことは答えるし、日下部の作った食事については好意的な感想を言わなかったことなど一度もない。けれどコンビニでアイスクリームを選ばせれば一番上から取るだけ、着るものを新調しようと洒落た服屋に行けば手前のハンガーから取るだけで、日車の「これがいい」も「これが好き」も聞いたことがなかった。
 日下部が何かを選ばせるたび、彼のあの大きな目のふちに戸惑いが浮かぶのを黙って見ているだけだった。


 三月も半ばのことだった。その週はあいにく土日を任務で費やし、遅く起きた朝のような、気の早い昼のような月曜に、ふたりでいつものスーパーマーケットへと出かけた。
 スーパー、と銘打ってはいるが決して大きくはない、昔ながらの食料品店が規模を大きくしただけの店だ。商店街を抜けた一角にあり、品揃えはよくも悪くも平凡で、少し凝った食材が欲しければ隣町の大型店で調達することになる。行く道すがら商店街を冷やかし、毎週ふたりで経営を危ぶんでいるレコードショップの前を通りがかったとき、ふと日車が足を止めた。視線の先にポスターが貼ってあった。
《八幡桜祭り おでかけに際してのお願い》
 青空をバックに、真っ直ぐに立つ石造りの鳥居と満開の桜とが左右に並んで写っている。色合いは抜群だが、いかんせん、鳥居と桜との遠近感が微塵も感じられない素人の構図だ。おそらく商店街の公募写真だろう。
「ああ、桜祭りな。ここ、もう少し南に行くと八幡神社があるだろ。そこで毎年やってる」
「そうなのか」
「ここらじゃ人気の花見スポットだ。テレビの取材も何社か来るから相当騒がしくなるぜ」
 口にしてから、――嫌な言いかたになっちまったな、と日下部は内心舌打ちした。桜どころではない、あの壮絶な人混み、祭りのあとの道路に散乱する空き缶や吐瀉物やプラスチック容器の残骸を思い出して、あれは日車の好きな雰囲気ではないだろうと勝手に考えてしまったのだ。せっかく日車の興味を惹くものを見つけたのにと、慌てて日下部は続けた。
「まあ、八幡神社は桜祭りも悪くねえけど、なにせ花見客ばっかりなんだ。俺のおすすめは若葉のころだな。祭りがあって、小せえけど町内会で神輿が出て、露店が並んで、最後にちょっと花火も上がる」
「それは豪勢だな」
 日車はゆっくりと頷いた。上品な口元に笑みが浮かぶ。甘いものでも食べたような、愛らしい笑顔だった。どうやら機嫌を損ねてはいないようだ。ほっと胸を撫で下ろして、それから日下部はもう一度考えた。
(祭り、誘ったら来てくれっかな)
 ――答えはわかりきっていた。仕方なくとはいえ同居しているのだ。そして日車は監視対象であるがゆえに、日下部の行くところには原則として同行する義務がある。日下部が祭りに出かけるというならついてきてくれるだろう。
 けれどもそれは「誘った」ことにはならないし、「来てくれた」ことにもならない。だとしたら誘うだけむなしい話だ。
 祭りの話はそれきりだった。レコードショップの隣は老舗の洋傘店で、その隣が精肉店だ。イベリコ豚、飛騨牛、などと手書きの札が並ぶ横に《第二月曜 特大コロッケ各種 一個八〇円》の札を見つけて今度は日下部が足を止めた。土日には決して出会えないサービス品だ。
「なあ日車、昼飯コロッケどうだ?」
 ああ……と日車はショーケースへ視線を向けた。
「いいと思う」
「どれがいい? 色々種類あるぜ」
 ポテトコロッケ、蟹クリームコロッケ、野菜、特製コーンクリーム、牛肉ハーブ、カレーとかぼちゃ、肉じゃがスペシャル、梅しそ。……梅しそって何だろうな、とひとりごちる。
「君が先に選んでくれ。俺がそれ以外のものを選べば、ひととおり食べられそうだ」
「ああ、まあ、そうなんですけどね……」
 いつものパターンだった。だからここは軽く流して、早速自分の好きなコロッケを選び始めるところだ。けれども今日は気が進まなかった。祭りの話題を自分のヘマで台なしにしたことが、まだ心のどこかで引っ掛かっていた。
「お前はどれがいいの」
 さりげなく日車の後ろに立つと、その肩越しに日下部は促した。
「お前の好きなやつ教えてくれよ。別に俺とかぶったっていいだろ?」
 ちなみに、とショーケースを指差してやる。
「左から順番にみっつ、とかはナシだ。今日はお前の好物が知りたい。どうしても」
 唇のすぐそばに日車の頬がある。その頬に戸惑いの色が浮かぶのを日下部は見逃さなかった。彼が心底この会話を嫌悪するようならすぐにやめるつもりだった。
 しばらく沈黙が続いたあと、日車はおもむろに左手でショーケースを示した。先週ようやく包帯が外れたばかりだった。
「梅しそ。……が、いい」
「おっ。俺も気になってた。あとは?」
「特製コーンクリーム。それと、野菜……も、いいか?」
「はいよ、了解」
 思わず声が弾んでしまう。どこが、とは言えないけれどどれも日車らしい選択だと思った。日下部は日車の肩越しに店主へ声を掛けた。
「すみません、コロッケお願いします。梅しそと特製コーンクリームと野菜。それからポテトと蟹クリームふたつずつ、肉じゃがスペシャルひとつ。そんで梅しそ、もう一個」
 毎度ぉ、と老齢の店主が愛想よく笑った。
「全部持ち帰り? それともどれか、すぐ食べたいやつある?」
「――いただけますか」
 先に答えたのは日車だった。驚いて日下部は日車の横顔を見つめた。
「梅しそふたつ。あとは全部持ち帰りで」
 きっぱりと気持ちのいい発音だった。日車は大きな目をぱちりと瞬かせたあと、ちらりと背後の日下部を見上げた。薄い唇が開いて、悪戯っぽい笑みになった。
「いいだろう? 買い食い」
 ああ、と日下部は頷いた。初めて見る日車のおどけた仕草に、心臓がどきりと慌てふためくのがわかった。
 こういう笑いかたもする男なのだな、と思った。

       †

 日車の好物がすき焼きで、桜餅は道明寺よりも長命寺派で、コンビニで買えるバニラのアイスクリームの好みが一位から五位まで明確に分かれるという事実を日下部が把握したころ、「相談がある」と神妙な顔の日車から打ち明けられた。
「実は、虎杖たちからバーベキューに誘われた。今度の金曜なんだが」
「ああ……」
 早々に朝食を終えて二杯目のコーヒーを淹れていた日下部は、キッチンからあいまいな返事を返した。日車の皿にはまだトーストの最後の一切れが、焼いたベーコンと一緒にちんまりと乗っていた。
 ダイニングチェアに浅く腰掛けたまま、日車はじっとこちらを見つめている。セットする前の柔らかな前髪に、少し寝癖が残っているのがわかった。
「金曜は午後から休校で、日下部も午後から用事があるのだろう? 元から俺は伊地知さんと高専に残る予定だったが、その……伊地知さんがいいと言ってくれれば、一緒に午後からバーベキューに、行ってもいいだろうかと、思って」
 そういうことか、と日下部は小さく頷いた。監視対象である日車は、総監部が認めた者と常に行動を共にする必要がある。日下部が単独でどこかへ出かける場合には基本的には伊地知が付き添うことになっていた。金曜もそうだ。
「この間、俺が一度もバーベキューをしたことがないと言ったら、虎杖が誘ってくれたんだ。駄目だろうか。なるべく早く帰るようにするし」
「駄目じゃねえよ」
 日下部は中挽きの粉に熱湯を注ぎ終わると、ケトルをコンロに戻した。日車がやけに申し訳なさそうにするのが気に障る。まるで日下部が日車の自由を奪う権利を持っているようだ。だいたいバーベキューの話なんかいつしてたんだよ、と思い返すが心当たりがなかった。あるいはメッセージアプリで個別にやり取りしているのかもしれない。それを制限する権利もまた、自分にはない。
「うちに門限はねえからな。伊地知がついてんならゆっくりしてこいや。場所選べばまだ桜も咲いてるかもしんねえし」
「ありがとう」
 あからさまにほっとした声で日車が答えた。その気の引けたような他人行儀の態度がなおさら、日下部の心をちくちくと抉った。
「カフェオレ要るか?」
 胸の底の嫌らしい感情を押し殺して、日下部はカップボードからマグカップを探すふりをした。
「俺の淹れたついでだから、ちょっとしかねえけど」
「いただこう。君のは店のより美味しい」
「そりゃどうも」
 日車のためにたまご色のマグカップを選ぶと、この数か月でめっきりものの増えた冷蔵庫から牛乳を取り出した。
 そのうちまたこの冷蔵庫も、元通りになるのだろう。この生活があまりに穏やかで温かくて、日下部は時折その事実を忘れそうになる。


 少年少女の願いが届いたのか、金曜日は朝から快晴になった。バーベキュー企画はいつの間にか大がかりになったようで、午後からは伊地知がマイクロバスを出すようだ。
「夕方あたり、ちょっと天気崩れるらしいぜ。気ぃつけてな」
 朝の職員室で日下部が伊地知にそう声を掛けると、彼は眼鏡の奥ではにかんだように笑った。
「ありがとうございます。こういう目的で車を出すのは久しぶりで、緊張します」
 久しぶり――ということは初めてではないのだろう。伊地知にもこの場所で育んだ彼だけの記憶があるのだろうなと、今更思い至る。
 気もそぞろな学生たちを叱咤してどうにか午前の授業を終えたところで、珍しい来客があった。教室を出るなり、外の廊下で目ざとく彼女を見つけたのは虎杖だった。
「冥冥さんじゃん、珍しい! お久しぶりっす」
「おや、ちゃんと学生してるんじゃないか」
 上下黒のスーツに身を包んだ彼女は、銀灰に光る豊かな髪の間から艶やかな笑顔を見せた。
「てっきり日下部にこき使われているもんだと思っていたよ」
「人聞きの悪いこと言うなって」
 一応反論しながら視線で冥冥を促す。ばたばたと外出の準備に向かう虎杖たちに背を向けて、ふたりは職員室へと歩き出した。半歩遅れて日車があとをついてくる。
 ふと冥冥が振り返って日車を見遣った。分厚い前髪をかき上げると、彼女は赤い唇の端を美しく吊り上げてみせた。
「日車君も日下部に毎日こき使われているクチかい? 彼、優しい男だけれど、時々甘えたなことがあるだろう」
「……今日は、午後から、俺も虎杖たちに混ぜてもらってバーベキューに行くんだ」
 大きな目をせわしなく瞬かせて日車は静かに答えた。
「日下部は俺のことも、誰のことも、こき使ったりはしていないから安心してほしい。あとのことは、よくわからないが」
 ――ふふ、と冥冥が吹き出した。細い肩が小刻みに震えている。
「君って面白いね、日車君。宿儺が君に興味を持っていたのもよくわかるよ。是非今度、私とふたりだけで話をしてみないかい」
「いい加減にしろよ冥冥。お前の弟に見つかったらまた面倒なことになる――」
 と職員室に差し掛かったところで、スマートフォンを手にした伊地知が中から飛び出してきた。任務のときとは明らかに違う、浮かれた空気が手に取るようにわかった。
「あ、日車さん、すみませんがそろそろ……」
「おーい日車! 秤先輩が待ち切れんって、先にバイク出しちゃった! 早く行こーっ!」
 廊下の向こうで叫ぶ虎杖の声が重なり、ああ、と日車が慌てたように目を丸くしている。日下部はその肩を叩いて、ぐいと押しやった。
「行ってこい。若いやつらに合わせて無理しねえようにな」
「わかった。……その、君は」
 と、日車は日下部をちらりと見上げ、それからその視線を冥冥へと移した。下がり気味の眉尻に一瞬不安げな色が差したけれども、日車はそれきり何も言わず、踵を返して虎杖のあとを追って走り去った。
 冥冥がかすかに首を傾げた。
「日車君には言っていないのかい? 今日、君がこれから行くところ」
「妹のことか? 必要ないだろ。これ以上迷惑かける相手を増やしたくねえしな」
「おや。一応その中に、私たちも入っているんだよね?」
「とーぜん」
 日下部はうなじを掻いて、口の中のロリポップをカラコロと鳴らした。
「……感謝してるよ、お前にも憂憂にも。タダ働きだってのに、毎回面倒掛ける」
「こればっかりは謝礼を貰うわけにはいかないからねえ。総監部に何か言われたとき、君に脅されて協力したって形にしないとまずいから」
「周到なこって」
 そのくらい割り切ってもらったほうがありがたい、と思う。完全自立型の呪骸を隠し持ち、あまつさえ一般人をそれに会わせていることが明らかになれば、日下部自身が無事ではすまないことは十分理解している。
「それにしても」と、不意に冥冥が朗らかな声を上げた、「君、さっき自分がどんな顔してたか知らないだろう」
「さっき?」
「日車君が虎杖君に呼ばれて行ったときさ」
 きらめく長髪が目の前でくるりと翻り、こちらへ向き直った冥冥が、細い人差し指で日下部の額を軽くつついた。
「少しばかり驚いたよ。君が妹以外のことで心を動かすことがあるんだってね」
「俺は別に」
「否定するなら誰の前でもあんな目をしてはいけないよ」
 すい、と華奢な身体が近づいて、日下部の耳たぶにやわらかな唇が触れた。
「――けだものみたいな目。君も男なんだ、って思い知らされるね」
「おい、こらっ冥……!」
 日下部が言葉を継ぐよりも早く、校舎の反対側の廊下から、悲鳴にも似た憂憂の叫び声が怒濤の勢いで迫ってきた。


 マンションの下まで着いた、と伊地知から連絡があったのは夜の一〇時を回ったところだった。一瞬、どうしようか迷ったけれども、結局日下部は部屋着のまま玄関へ飛び出して、日車がエレベーターから降りてくるよりも先に部屋のドアを開けた。
 廊下にはむっと雨のにおいが漂っていた。日下部がさりげなく口にしていた予報が当たって、関東は今日の夕方からそこかしこで突然の雷雨に見舞われていた。
「お帰り」
「ただいま、日下部」
 エレベーターから降りてきた日車は、日下部の姿を目にするなり小走りに駆けてきた。昼に別れたときのままのスーツ姿が、なぜだか妙に懐かしく見える。
 迎え入れてドアを閉めると、そこはいつものふたりだけの空間になった。日車のスーツの襟元からもかすかに雨のにおいがした。
「もしかして降られた?」
「ああ。君の予報どおりだ」
 雨に降られた人間とは思えない笑顔で、満足そうに日車は頷いた。おおきな目をふちどる睫毛の先にも瑞々しい雨の気配が残るようだった。
「降ったのは夕方からほんの二〇分くらいだったんだが、とにかく酷い雷雨だった。結局そこでバーベキューはお開きになって、全員でファミレスに行ったあと、室内で色々なスポーツができる大型施設に移動して、学生たちを見ながらずっとベンチで伊地知さんの苦労話を聞いていたな」
「そりゃよかった。報告はいいから、とりあえず靴脱げよ。タオル要るか?」
「……君に」
 柔らかくそう遮ると、日車は目を伏せて上着の内ポケットに手を突っ込んだ。
「その、君に、これを……」
 ためらうような間があって、やがて日車は意を決したように、一息にそれを取り出した。
 細い桜の枝だった。
 赤みがかった枝はしなやかな曲線を描き、ところどころ枝分かれした先のさらに分かれた先に、白い花がいくつも開いている。緑のがくと、小さく点る黄色い花粉の取り合わせが鮮やかだ。ポケットの中で随分窮屈な思いをしていたのか、どの花弁にもどこかにぺたんとした寝癖が残っていた。日車は右手でつまんだ桜の一枝を、おずおずと日下部に差し出した。
「川縁に少しだけまだ咲いていた。折ったわけじゃない。雨が降り出す前から風が随分強くて、いくらか枝が折れてしまっていたんだ。信じてくれると嬉しいんだが」
 ――ああ、と日下部は答えた。答えたつもりだった。声になっていたかどうかはわからない。ただ日車が照れたように、小さな桜の枝を指先でくるくると回していた、その夢のような仕草をよく覚えている。
 そこからふたりの間に、はかなく立ちのぼった雨と春のにおいも。
「……今日はとても楽しかったが、やっぱり君とも行きたかった。君が今ここにいたら、どうするだろうとか、こう言うだろうなとか、川縁で俺はずっと考えていた。俺は今日という日を失って、二度と手に入れることができない。心からそう思ったら、なんだかどうしても君に、これを贈りたくなってしまったんだ」
「そうか」
 今度こそ、彼に聞こえるようにそう答えると、日下部はそうっと日車の手からそれを受け取った。注意していたのに、人差し指の先が、日車の人差し指と中指とに少しだけ触れた。
「ありがとうな。大切にする」
「そうだろうと思った」
 おどけたように日車は答えた。それから唐突に――何かとてつもなく大変なことを思い出したかのように、くるりと日下部に背を向けた。
「着替えて、くる」
「ああ。何か飲みたいもんあるか?」
 ばたばたと部屋へ駆け込みながら日車は何かを答えた。けれども部屋の扉に阻まれて届かなかった。日下部はキッチンに戻ると、一番いいトールグラスに少しだけ水を注いで、根元に軽く切り込みを入れてから桜の枝を差した。花弁の寝癖を一枚ずつ整えていると、いつものスウェットに身を包んだ日車が、そろりと横から顔を覗かせた。
「君は花にも優しいんだな」
「そうでもねえよ。早々に枯らしちまいそうで不安だぜ。で、何飲む?」
「レモネードがいい。アイスで」
「はいよ。座ってな」
 甘さは控えめ、これは日車が教えてくれた日車の好物。まだ半分ほど残っているレモネードシロップで作る、国産レモンの自家製レモネードだ。
「さっきの礼ってわけじゃねえけどさ」
 グラスにロックアイスを放り込みながら、日下部ははやる心を抑えるように、何でもない声で続けた。
「明日からの夕飯は、当分、お前の好物にしてやるよ。いいだろ? まずはすき焼き」
「いいのか」
 リビングのソファから弾んだ声がする。冷たいシロップを氷の上にたっぷりと乗せて、ミネラルウォーターを一気に注ぎ込み、かき混ぜる。
「いいぜ。今日の日は二度と戻らねえんだ、好きなもの食おう。で、明後日はチーズハンバーグ。次が薬味たっぷりの鰹のタタキ。ここでネタが尽きたからこっからはまたすき焼きが始まる。翌日がチーズハンバーグ」
「それは困る」
 慌てたようにソファの上で振り返った日車の、白い頬に冷たいグラスを押し当てた。少し眉尻の下がった、あの端整な顔が驚きでくしゃりと歪むのを見て、笑った。
「冷たい!」
「ははっ。ローテーションが嫌ならお前の好物をもっと教えてくれや」
「俺は――」
 グラスを受け取る、指が少しだけ重なって、ゆっくりと離れる。日車が透明なストローをくわえる瞬間の、薄く開いた唇のかたち、すずやかに氷が鳴る音を聴いている。
「――俺は、君がこれまで作ってくれたものが全部、好きだ。無責任に聞こえるだろうが、本当なんだ。むしろ俺は君の好きなものが知りたい。考えてみれば一度も聞いたことがない気がする」
「俺は自分の好きなもんしか作らねえからな」
「それなら簡単じゃないか」
 日車は笑った。透きとおったグラスの中で薄いレモンの輪切りが揺らめき、甘酸っぱい光が彼の睫毛の上で小さく弾けた。
「君の好きなものが、俺の好きなものだ」
 ――ああ。
 取り返しがつかない。何もかも。
「俺が好きになるものは全部、日下部が先に好きになったものだよ」
 無邪気な言葉。取り返しがつかない。今でも思い出す。はにかんだ桜。雨と春のにおい。
 大好きなレモネード。誰にも渡せない。
 誰にもあなたを渡したくない。



スピッツ「大好物」(2021)
こないだのゴースカで聴けたのが嬉しすぎて
 

Comments

  • Natukaze
    May 30th
  • (とても飽き性)
    May 27th
  • 小夜双☆スカィWeb
    May 22nd
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