空襲で街が焼けていても、「負けるとは思わなかった」という。
子どもだった彼は、その頃、童謡歌手として戦意高揚の歌を歌っていた。
それを疑う理由はなかった。
自分がやっていたことの意味に気付いたのは、ずっと後になってからだった。
(おはよう日本ディレクター 那須大暉 / 映像センターカメラマン 早川きよ)
80年ぶりに聞いた「自分の歌」
古びたレコード盤に針が落ち、わずかなノイズのあと、少年の澄んだ歌声が流れ始めた。
「羽ばたく海の荒鷲と 凛々しく仰ぐ銀の翼
真澄の空だ 日の丸だ」
ヘッドホンを耳に当てていた矢田稔さん(95)。俳優や声優として長く活躍してきたが、その原点は童謡歌手だったという。矢田さんは少し驚いたように、そして懐かしむように、こうつぶやいた。
「これ……僕の声ですね」
2026年5月下旬、NHK放送センターのアーカイブス。約80年ぶりに聞く自分の歌だった。
彼が歌っていたのは、戦争を後押しする歌や国を一つにまとめるための歌。意味もわからないまま歌っていたが、いまも歌詞を覚えている曲もある。
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当時の歌声はこちら
~機上に雄々し飛行帽 莞爾と笑みて統べ給う~
矢田さん
「難しい漢文で、当時は全然意味も分からなくて歌っていましたね。でも繰り返し歌わされたから覚えているのだと思います。僕が歌ったのは、こうした戦意高揚というか国がまとまらなきゃいけないという歌詞の歌ばかり。そんなに歌が上手ではなかったのにデビューできたのは、男の子の童謡歌手が求められていた戦争の時代だったからだと思います」
「お国のために」 8歳でデビュー
矢田稔さんは1931年に現在の東京・新宿区で生まれ豊島区で育った。物心ついた頃から戦争や軍隊は身近なものだった。
1937年に日中戦争が始まり、翌年には国家総動員法が公布。新聞、ラジオ、映画、レコード、限られた情報や娯楽はすべて戦争と結び付く時代だった。
矢田さんが歌手デビューしたのは1939年、8歳のとき。学校で元気に歌う姿が目にとまり、スカウトされたのだという。
児童合唱団を経て、翌年にはレコード会社と専属契約。大人に言われるまま、ステージに立ちレコードに歌を吹き込んだ。
当時、東京・内幸町にあった放送会館にもラジオ収録のためにたびたび訪れていた。「日本放送協会」の旗を立てた黒塗りの車が小学校まで送迎してくれたことをよく覚えている。
記録によると矢田さんが出したレコードは少なくとも16枚。
・「兵隊さんのドタ靴」1940年10月
・「蟻の歌」1940年11月(大蔵省・国民貯蓄奨励局推薦)
・「歌は戦線へ」1941年1月
・「大和一家」1941年5月
・「玩具の兵隊さん」1941年7月
・「三国旗掲げて」1941年12月(日独伊三国同盟記念 日独伊親善協会撰)
特に耳に残っているのが「蟻の歌」。
「貯金、貯金…」と繰り返すシンプルな歌詞は今も覚えているという。当時、戦費を支えるための貯蓄を呼びかけた歌だ。
こうした歌は国家の要請によって作られたものもあれば、レコード会社が自発的に制作したものもある。幼かった矢田さんにとって国のために歌うことは疑う必要のないことだった。
矢田さん
「今やっていることが直接戦争に貢献しているとか、そこまで考えたことはなかったと思います。ただ何となく周囲の大人や聞いている人が喜んでくれるから歌っていました。言われるままにやっていることが『どうも今、お国のためになっているかもしれない』と思う程度でしたね。歌うことで認められる。うれしさのようなものはありました」
そして活動を映画にも広げ、戦争を描いた作品にも出演。
歌でも芝居でも「戦争の正しさ」を繰り返し表現していったという。
空襲の中でも「負けるとは思わなかった」
「両側が火の海でした」
1945年4月13日、東京・池袋などで2400人以上が犠牲となった「城北大空襲」。当時、矢田さんが暮らしていた大塚駅付近も空襲の被害にあった。
焼夷弾が降り注ぎ、街が燃える。人々は防空壕に逃げ込み、必死に生き延びようとしていた。すぐ隣に死の危険があった。
「こんなにお国のために頑張っているのに神も仏もないじゃないか」
逃げながらそんな言葉が口をついて出たと記憶している。
家族は無事だったが家を焼け出され、思い出のレコードや宣材写真の数々を失った。黒焦げになった遺体もあちこちで目の当たりにした。
それでも――。
「負けるとは思いませんでした」
矢田さんは、静かにそう振り返る。
戦争は正しい。日本は勝つ。
信じて疑わなかったという。
矢田さん
「ひどい目に遭っているとは思うんですが、正しい戦争をしている、“聖戦”だという思いは変わらなかったですね。自分が焼け出されて逃げ惑っても、家を焼かれた人はかわいそうだなと思うだけでした。たまたま空襲で被害を受けただけで戦争には負けないはずだと。歌やお芝居で演じている世界の方が正しいと信じ込んでいましたから」
空襲という現実をつきつけられても、認識は変わらない。矛盾に当時は気付いていなかった。
「ばかなんですよね」
矢田さんは自分で、そう言った。
それは疎開先のラジオで「玉音放送」を聞くまで変わらなかった。
矢田さんは泣いた。周囲の教師や子どもたちも「そんなはずはない」と混乱していたという。
「歌って怖いわね」と言われた日
戦後、積極的にみずからの過去について触れることを避けてきた矢田さん。転機は、ずっと後になって訪れた。
60歳を前にしたころ、戦時中に同じ童謡歌手として活動した、1歳年長の高橋祐子さん(故人)と対談したときのことだった。
戦後、ファンの男性から届いた手紙に「高橋さんの歌に刺激され、憧れて特攻隊を志願した」と書いてあったという。
「歌って怖いわね、恐ろしいわね」
高橋さんが歌った曲には、インド洋上空で戦死した飛行隊長を歌った「やさしい親鷲」のほか「少國民軍歌 勝つて下さい兵隊さん」「兵隊さんよ ありがとう」などがある。
こうした歌を歌ったことで、多くの人を戦地に駆り立てたかもしれないと責任を感じていたのだ。
では、自分の歌は――。
そのとき、あらためて自分の過去と向き合うようになった。
矢田さん
「それからすごく悩んで考えるようになりました。自分の前には『あなたの歌で戦争に行った』という人は現れなかったけど、もしかしたらいるかもしれない。1人かもしれないし、何百、何千かもしれない。そう考えると、歌っていたのは子どもの時だから仕方ありません。『あっかんべ』というわけにもいかない…。戦意高揚の罪。冗談ではなく本当に自分は“戦犯”だと真剣に考えるようになりました」
いまも続ける「伝える」という選択
いま、矢田さんは朗読や演技の指導を続けている。
若い俳優や声優に「読むこと」「伝えること」の大切さを教える場だ。
練習の合間、矢田さんはよく自分の話をする。
戦時中、何も分からないまま歌っていたこと。それが結果として誰かの決断に影響していたかもしれないこと。
「これから仕事の中でね、僕たちの時代と同じことが繰り返されて戦争とか国家への協力を求められるかもしれない。そのときに簡単には断れないかもしれないよね」
知らず知らずのうちに始まる戦争に、意図しない形で加担させられるかもしれない。
歌手や俳優は多くの人に影響を与える。だからこそ、どう行動するべきか、自分で考えてほしい。
「あのじいさんが、何か言っていたなって、思い出してくれればいい」
過去を伝えるだけでなく、一度立ち止まる“きっかけ”を残すこと。
それが、自分にできるせめてもの償いだと考えているのだ。
参加者の女性
「お話を聞いて芸能活動に対しての考え方がすごく変わりました。今、世界情勢が変わっていこうとしている中ですが、私たちは二度と過ちを繰り返してはいけないと思います」
参加者の男性
「たぶん、矢田さんの時代にはそれが当たり前の日常だったと思います。もし再び戦争の時代になった時に、自分ができることって何があるのだろうっていうのは考えますね」
さらに20年前からは戦争体験を読む朗読会も続けている。
1945年5月25日、東京・青山や赤坂など都心で3000人以上が犠牲となった「山の手空襲」。この日にあわせて、空襲や沖縄戦の体験者の証言を通じ、戦争の惨さを伝えている。
地元の小学生ら約60人が集まり、矢田さんの言葉に耳を傾けた。
矢田さん
「僕は皆さんのような小さいころね、戦意高揚という言葉は分かるかな。戦争を盛り上げるというかね。僕は子どもだから何も分からないで言われるままに一生懸命やっていたのですが、結果としては間違ったことをやっていたのだということに気がついて、だから今度は、せめてその償いをしたいと思っているのです」
朗読会に参加した小学生
「音楽が戦争を何かよく思わせるために使われるのは怖いと思いました」
「正しいことを伝えようと朗読会を続けてきたということがすごいと思いました」
何が「当たり前」とされたのか
戦争を後押しする歌を歌い、空襲の中でも「負けるとは思わなかった」。それでも後になって、みずからを「戦犯かもしれない」と考えるようになった。
矢田さんの話を聞く中で、ひとつの問いが残った。「疑う余地はあったのか」だ。
あのとき、ひとりの子どもに何ができたのか。矢田さんは8歳だった。大人に言われたことを守りほめられればうれしい。それが自然な年齢だった。
周りの大人も、先生も、社会も、同じ方向を向いていた。戦時体制の中で、新聞やラジオ、映画も戦争遂行に協力していた。そこに異をとなえる声はほとんどなく、疑う材料もなかった。
その中で「おかしい」と言えただろうか。答えは簡単ではない。
だからこそ問われるのは―。
どんな空気が作られていたのか。そして、何が「当たり前」とされていたのかだ。それが人々の考えや行動を形づくっていく。
今、情報は自由に手に入り、さまざまな意見にも触れることもできる。
それでも気がつけば、似た意見ばかりを見ていないか。同じ言葉を繰り返し目にしていないか。それが「当たり前」になっていないか。
「負けるとは思わなかった」
矢田さんの言葉は、その問いを静かに残しているのではないだろうか。
おはよう日本ディレクター
那須大暉
新聞社を経て2021年入局
事件取材のほか人口減少や地域活性化などをテーマに取材
宮崎県出身
映像センターカメラマン
早川きよ
1995年入局
戦争の記憶を継承したいと思っています
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