【飴玉と天秤】新刊サンプル【星願 2026 -day1-】
6/28の星願 2026 -day1-【飴玉と天秤】にて発行予定の新刊サンプルです。
御当主篤也と契約結婚した寛見が子作りしたりしなかったりもだもだする話です、全体的に寛見がうじうじ女々しいかもしれません。
男体妊娠と同性婚ありの世界観ですが細かい事は考えてないのでふわっとお読みいただけると幸いです。
A5二段組の60P。R18です、このサンプルは全年齢の部分になります。
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※6/28のオンリーで発行予定の新刊サンプルです、詳細はキャプションご確認ください。
※男体妊娠と同性婚ありの世界観ですが細かい事は考えてないのでふわっとお読みいただけると幸いです。
御当主篤也と契約結婚した寛見が子作りしたりしなかったりもだもだする話です、このサンプルは全年齢の部分になります。
「日車、お前、総監部から子供作れってしつこく言われてんだって?」
日下部が日車を自宅に招いて宅飲みしていたのは、これが聞きたかったからだ。
「ッ…、誰に聞いた」
「総監部の連中」
チッ。日車が隠しもせず大きな舌打ちを一つ。確かにここ半年ほど、総監部に呼び出されては結婚して子供を作るようにとしつこく圧力をかけられていた。
先の大戦で主だった術師を失った呪術界としては役に立ちそうな術師を一人でも増やしたいようで、術師として五条並のセンスを持ち、かつ有用性の高い術式を持った日車など、格好のターゲットだった。
子供を道具扱いする総監部に強い拒絶を示す日車に、最近では結婚はしなくていい、産ませる方でも産む方でもどっちでもいいからとにかく子供を作れと、無茶苦茶を言ってくる始末。
「俺に日車を説得しろってよ。…よりによって、俺に」
不快そうに吐き捨てる日下部の『よりによって』を、動揺した日車は聞き逃した。
「俺は結婚する気も子供を作る気も無い。俺は…俺にそんな資格は無い」
自分にそんな資格は無いと日車は自嘲する。自らの犯した罪を忘れてはいない、贖罪の為にも残りの人生は術師として生きる道を選んだ。明日も約束されないこの身で家庭を持つのは無責任だと思うし、何より…。
ちら、と缶ビールを傾ける日下部を見る。日下部以外と結婚なんてする気が無い。けれど日車はそれを口に出すつもりは無い。望んだとて叶わない事は分かっているし、自分が日下部の隣にふさわしい人間じゃ無い事は自分が一番理解している。
「で、どうすんの?」
「どうもこうもない、これからも拒否する」
「…もしかして好きな奴が居るとか?」
「…居ようが居まいが、こんな話、拒否するのが普通だと思うが」
日車がはっきり肯定しない事に、日下部は少しだけ安心した。
「つってもアイツら、どんな手使ってくるか分かんねえぞ。そろそろ面倒な事になるんじゃねえか?」
「それは…しかし…」
日車の拒絶は当然の事だったが、総監部がはいそうですかと諦めてくれるとも思わない。苦い顔をする日車に、日下部は今思い付いたとでも言わんばかりに「だったら」と口にする。
「あー…だったら、俺と結婚するか?」
「………は?」
言われた意味を理解出来なくて、日車はぽかんと口を開けて固まった。…今、日下部は自分に結婚しようと言ったか?
「俺もシン・陰流の連中に結婚しろってうるさく言われてんだよ。籍入れちまえばうるせえ奴らも黙るだろ。…そしたらお互い問題解決じゃねえか?」
日下部が誰かと結婚する…?そんなの嫌だ。絶対に嫌だ。日下部が自分の決めた相手と結婚するというなら心から祝えるが、意思に反して好きでも無い相手と結婚せざるを得ないというなら、容認出来ない。
机の上で握った自分の拳を見つめて黙り込んでしまった日車に、即答で拒否されないなら検討の余地ありだろうと、日下部はその拳にそっと自分の手を重ねた。
日車の肩がビクリと跳ねたが、振り払われる事は無かった。いける、と日下部は確信する。結婚なんて、子供なんて作らせてたまるか。総監部の狙いを知ってて、指咥えて黙って見てられねえ。
「なあ、誰かと子供作らなきゃなんねえなら、俺の子供、産んでくれねえか?」
日車の胸に渦巻く戸惑いも葛藤も何もかも、握られた手の温かさにじんわりと解けて消えていった。自分は幸せなんて与えられるべき人間で無いと分かっていて、この求婚に愛などないと分かっていて、それでも。
それでも、日下部の役に立てる、日下部の子供を産める。日下部が誰の物にもならなくて、自分が日下部の側に居られるなら、それでも構わないし、それを望んでしまった。
「君が…俺で構わないのなら…」
俯いた日車の赤くなった耳を見ながら、日下部は「提案してんのはこっちの方だけど」と笑った。
「出来るだけ日車の要望は叶えてやりたいけど、なんせこんなでも俺はシン・陰流の当主だし、不便をかける事があるかもしれん」
話しながら、日下部は重ねていた手を日車の手に絡ませた。
「ああ」
「子供を産んでもらうからには、シン・陰流の連中は俺の嫁扱いしてくると思う」
「…ああ」
「出来る限りフォローはするし、日車の事も産まれる子供の事も俺が全力で守るつもりだ」
「……ああ」
守ると言われて、あの日の事が頭をよぎった。『死んでもお前を守る』、そう言われた日の事を。日下部が絡めた掌を持ち上げて、この先を示唆するように手の甲に唇を寄せるのを、日車はただ顔を赤くして凝視するしか出来なかった。
「日車からすりゃ、相手が知らねえ奴か俺か、くらいの違いだ。…本当に俺とセックスして、俺の子供を産めるか?」
現実味を持たせる為に、日下部はわざとセックスという単語を出した。逃がすつもりは無いくせに、やめるなら今だと警告する。それまで動揺と照れから合わなかった視線が、ぴたりと合わさった。
「…それはこちらのセリフだ。日下部、君、本当に俺で勃つんだろうな?」
「試してみようか?」
「ふっ。…また今度な。男との経験が無い俺でも、色々と準備が必要な事ぐらいは知ってる」
こうして互いへの想いを隠したまま、契約結婚は成立した。
翌日には婚姻届を持ってきた日下部に、日車は「いくらなんでも性急すぎないか」と戸惑った。日下部の欄は既に記入してあった。
「とりあえず入籍しちまえば、総監部もそうそう手出し出来なくなるからな」
本心は日を置いて日車の気が変わる前に入籍しておけば、後は押し切れるだろうという思惑だった。そんな事は知らない日車はなるほど、それならばと必要事項を記入していく。
父母の欄に並ぶ名前を見て、「君のご両親に挨拶や説明は…」とおずおずと日下部の顔を見ると、表情を変えずに「とうに亡くなってる」と言うので「俺もだ」と視線を戻した。
互いの両親が既に鬼籍なのは、良かったかもしれない。こんな愛の無い契約結婚、申し訳なくてとても顔を出せないから。
「手続きやなんかで日車に手間取らせたくねえし、仕事上もややこしくなる。夫婦別姓で構わねえよな?」
「ああ、問題無い」
夫婦別姓には賛成だが、自分が『日下部 寛見』になる可能性があった事になんとも言えないくすぐったい気持ちになった。…逆に、日下部が『日車 篤也』になっていた可能性もあるのか。
どちらも中々似合ってるじゃないかと思ったが、「君の苗字が欲しい」とも「君に苗字をもらって欲しい」とも言える関係では無い。脳内に書いた二つの名前をぐしゃぐしゃに塗り潰して、新しい本籍地をどうしようかとペンが止まる。
「とりあえず俺の家にしとけば。別居だとあからさますぎるし」
「そうだな…ではそうしておこう」
この契約結婚を第三者に壊されないように。表面上はそういう理由でも、書類上だけでも、日下部と同居しているという事実に日車の鼓動が早まった。同居も何も、法的に夫婦になるというのに。
「証人欄か…、君、冥冥に頼んだのか?」
意外だと眉を上げれば、日下部は「金さえ払えば絶対口割らねえから」と苦い顔をするので笑ってしまった。
「一体いくら払ったんだ」
「…言わねえ。日車の方はどうする。親御さんが健在ならお願いしようと思ってたが…」
「…伊地知はどうだろうか。彼なら信用出来る。むしろ君が伊地知を選ばなかった事が不思議だ」
「あ〜まあ、信用はしてるけど。これ以上厄介ごと抱えたらパンクしちまうかなと思って避けた。まあでも伊地知以外に居ねえか」
記入漏れが無いか確認して、伊地知を呼び出して簡潔に事情を説明して証人欄を書いてくれないかと二人で頼んだ。伊地知は目を見開いて二人の顔を見比べて、汗を流しながらも言いたい言葉を全部飲み込んでサインしてくれた。
「ええと、あの…おめでとうございます」
おめでとうでいいんですよね?と言わんばかりの不安そうな顔に、二人は曖昧に「ありがとう」と礼を言った。
総監部の横入りが入っては困ると、日下部が懇意にしている窓が居る役所に婚姻届を提出して、晴れて二人は夫婦となった。
「細かい事は追々考えるとして…。とにかく、よろしくな」
飴の包装を解きながら普段と変わらぬ調子で言う日下部に、日車も任務の話でもするように「ああ、こちらこそよろしく頼む」と返した。
まるで現実味が無いなと日常に戻った数日後には、日車の元に総監部からの遣いがやってきた。
「日車一級術師、ご同行願えますか」
流石に耳が早いなと立ち上がった日車の前に、見慣れたコートの背中が割り込んだ。
「用件は?」
「用件は秘匿されています。日下部一級術師には関係ありません」
「無くねえよ。日車はもう法的に俺の配偶者で、シン・陰流の関係者だ。プライベートに関する事なら俺を通せ」
何事かと見守っていた周囲が、日下部の言葉にどよめいた。誰かが「今配偶者って言った?」
と囁いているのが聞こえて、日車の顔に熱が集まる。
「…弁えなさい、日下部一級術師。これは総監部からの正式な招集ですよ。そこをどきなさい」
「てめえが弁えろ、総監部の伝書鳩が。コイツは俺の嫁だって言ってんだろうが。正式だろうがなんだろうが、プライベートな用件ならシン・陰流当主の俺の頭飛び越えてコイツに近付くな」
「ッ…、自分が何を言っているのか分かっているのか」
騒がしくなる周囲と狼狽える男を物ともせず、日下部は「とっととじじい共の膝元へ帰れ」とうっとおしそうに手を振る。
『日車の事は俺が守るから』、そう言ってくれた言葉通り、前に立つその気持ちが嬉しくはある。しかし、日車は弱者としてこの広い背中に守られたくて契約結婚をしたわけではない。
「俺は平気だ、行ってくる」
日下部の肩にそっと手を添え「俺の問題は俺で解決したい」と返すと、日下部は何か言いたげに口を開いて、結局不貞腐れたような顔で頷いた。
「…俺も行く」
「あなたはお呼びでない、日下部一級術師」
「お前こそお呼びじゃねえんだよ、決定権の一つも持ってねえ三下は黙ってろ」
日下部らしからぬ物言いは、それだけ日下部の苛立ちを表していた。これは付いてくるなと言っても無駄だなと判断して、日車は日下部を伴い総監部の元へ向かった。
用件は想像通り。何故勝手に結婚した、どうして相手が日下部なのだと、本人を前にしてまあ口汚く語彙を尽くして責め立てられた。
「あなた方の希望通り結婚したというのに、それの何が問題なのか理解しかねます」
慇懃無礼に答える日車に、老人特有のしゃがれた声が「どうせこちらの目を欺く為の偽装結婚だろう」と叫ぶと、反射的に「どういう意味ですか」と噛みついた。
「あなた方は私に呪術界の未来の為に優秀な後継を、と仰った。であれば相手が誰であれ問題無い筈ですが?」
総監部に呼び出されてもいつも白けた顔をして時間が過ぎるのを待っているような日車が、初めて明確に嫌悪感を剥き出しにした。四方から聞こえるもごもごと歯切れの悪い返答に、日車は正面を見据えてはっきりと宣言する。
「お望み通り、子供は作ります。彼…夫の篤也との子供を、俺が産みます。それ以外で子供を作る気は無い。以上、失礼する」
くるりと踵を返し、靴音を鳴らして出口へ向かう日車の後ろからは喧々轟々と二人を責める言葉が追いかけてきたが、気にせずその場を後にした。
「…夫の篤也?」
胸を張り堂々と廊下を進む日車の後ろを歩く日下部がぽつりと呟くと、日車の体がびくりと跳ねた。
「ッ…!すまない、つい…。彼らのあまりの言いようにカッとなってしまった。気分を害しただろうか」
並び立つ日下部の顔を横目で確かめるが、気分を害するどころか上機嫌に笑っている。
「いや?嫁扱いしたのは俺が先だしな」
そういえばさっき「コイツは俺の嫁」と言われたなと、今更ながら羞恥に視線を彷徨かせた。
「あー…一応、俺ら、夫婦だから、その…名前で呼びますか。二人の時だけでも」
「…分かった」
いい年の男二人が、もじもじしながら廊下を進む。スマホを確認している日下部を横目に、この後の仕事がやりにくいなあなんて日車は思っていたが、仕事どころでは無くなった。事務室の扉を開けるなり、さっきのは一体何だと二人の前に人が押し寄せたからだ。
猫のように目を見開いて固まってる日車を背後に隠しながら、日下部は「あ〜〜〜っと…」と数秒考え、日車の背と膝裏に手を差し入れると抱き上げた。
「日下部ッ!?何をしてる、下ろしてくれ!」
人前で横抱きにされて驚愕する日車が手足をバタつかせて抵抗するが、日下部は「口閉じとけ、舌噛むぞ」と窓枠に長い足をかけた。
「まさか」
「まさか、だよッ…!」
「逃げる気だッ!」
「捕まえろっ!」
説明責任を果たせと殺気立って捕まえようとしてくる同僚達の手をするりとかわして、日下部は日車を抱いたまま地へと飛び降りた。
「ッ…!」
スト、と軟着陸して、さっきまで居た場所を見上げて「はは、すげー騒ぎ」と笑う日下部が、胸元をぎゅうと握られてハッと我に返った。腕の中を見下ろすと、日車が額を自分の胸に押し付けて乱れた呼吸を整えている。
「はっ…はぁ…」
「日車、悪い、大丈夫か」
術師なのでこの程度を飛び降りるのは平気だが、それは自分の意思で自分の身一つで、の場合だ。急に惚れた男に抱き上げられてそのまま飛び降りたりすれば、日車だって動揺する。
「全く、君という男は…!いいから下ろしてくれ!」
「わぁるかったって」
そっと地面に下ろされ、とにかく一刻も早くこの場から去りたいと足早に歩く日車を追い抜きながら、日下部が「行くか」と先導した。
「行く?何処へ。今日はもう帰るんじゃなかったのか」
君がそう言ったんだぞと首を捻りつつ後ろを歩くと、日下部は後頭部を掻きながら日車の方をちらりと振り返る。
「うちのから連絡入った。俺の家も日車の家も、張られてるとさ」
「ではここの寮の一室を借りるか…しかし騒がしくされそうだな。どこかホテルの方が…いや、安全性が確保されないな。無関係の客やホテルを巻き込みかねない」
顎に手をやって今夜の寝床を考える日車に、日下部がおずおずと提案する。
「到着した時は多少騒がれるかもしれねえけど、安全は保証出来る場所がある。日車がそこでいいなら俺もそっちに泊まるんだけど…」
「君の知り合いの家か?しかし、君はともかく俺までお邪魔しては迷惑ではないだろうか」
日下部が安全を保証すると言い切るからには信頼出来るが、自分まで押しかけては迷惑だろうと遠慮する日車に、日下部はそこは問題無いと首を振る。
「むしろ日車に迷惑かけちまうかもしれん。いや、俺がちゃんと言うけど。嫌なら無理にとは…いや、でも安全面考えるとなあ」
ううん、と首を捻る日下部に、何処かは知らないが迷惑で無いならお願いしたいと言うと、日下部は「分かった、連絡入れとく」とスマホを操作した。
「んじゃ、行くか。俺が運転するわ」
高専の駐車場には、有事の際にすぐに動けるようにキーが差しっぱなしの車が何台かある。事後報告で誰でも使っていいその車の中の一台に乗り込んで、二人は高専を後にした。
「それで、誰の家なんだ?高専の関係者か?」
馴染みの無い町を走る車内、あまり見る事の無い日下部の運転姿。気怠げにハンドルを握る横顔はどこか色っぽく見えて、日車は運転席へ向けてしまいそうになる視線を外へ向けた。
「ん、まあ…行けば分かる」
詳細を話してくれない理由が分からないまま小一時間ほど車を走らせ、町の喧騒から外れた緑の多い山中にその屋敷はあった。
どこまで続くのかと聞きたくなる長い塀を超え、立派な門構えを潜り、日車が目をぱちくりしてる間に車は広い駐車スペースへ。
時代劇に出てくる武家屋敷のような見事な造りと大きさの屋敷の中では、何やら大勢の人が慌ただしくしている音や声が漏れ聞こえている。
「ここは…」
圧倒されてる日車に、日下部は一言「シン・陰流の本拠」と答えた。
「何故黙ってたんだ」
「いや、だってなあ…。シン・陰の本拠って言や、俺の縄張りみてえなもんだろ…。そんなとこに連れてくなんて、なあ…?」
視線を彷徨かせてぼそぼそと言う日下部に、「何が問題なんだ」と日車は眉を寄せた。
「確かにここなら安全性が保証される。むしろ部外者の俺まで匿ってもらえるなんてありがたい」
何も気にしてない様子の日車に、胸を撫で下ろした。総監部の目の前で子作り宣言して、その直後に自分の縄張りに泊まらせようとするなんて、あからさますぎやしないかと心配していた。本当に安全な寝床を提供してやりたかっただけだが、警戒されて軽蔑される事を恐れたから。
「部外者って事は無いでしょーが。アンタ一応、俺の嫁さん?夫?だし」
「ッ…そ、うだったな」
うっかりしていた。そうだ、自分はもう法的にも日下部の関係者なのだ。さっき日下部も言っていたじゃないか。
「急な事だし日車が気を使うからほっといてくれって言ってあるから、あんま気負わなくていいぞ」
「そうなのか?…今更だが、相手が俺…男で大丈夫なのか?」
本当に今更だが、当主の結婚相手が自分のような大柄な男で良かったのかと不安になった。
「こういう剣の世界ってやつにはな、男同士は珍しくもねえんだよ」
「そうか…ならいい」
お飾りの嫁だが表向きは当主の嫁だ、日下部の為に精一杯愛想良くするべきだろう。日車なりに愛想笑いを貼り付けて広い玄関へ足を踏み入れた途端に人がわっと押し寄せて、愛想笑いが引き攣った。
「奥方様!ようこそ!」
「まあまあ綺麗なお方!」
いわゆる女中と呼ばれる世話役だろう、和服の女性陣に詰め寄られて日車は圧倒された。奥方様と呼ばれる事に、強烈な違和感を感じる。
日下部は詰め寄る女中や後ろで興味津々といった顔をしている門下生をしっしっと手で追い払うが、それにはブーイングが返る。
「日車はまだ状況に慣れてねえんだ、ほっとけって言ったろうが!散れ散れッ!」
「何さ、もったいぶっちゃって」
後ろの方で苦笑している若い女性や門下生は別として、同年代から中高年の女性陣は日下部の扱いが随分…ぞんざいだ。パン、パン。白髪頭のふくよかな女性が、手を叩きながら野次馬を散らした。
「ホラ皆、仕事と稽古に戻りな。御当主様と奥方様は私がお世話するから」
「ちぇっ」
「奥方様、今夜の夕餉は腕を振るいますのでお楽しみに」
皆笑顔で口々に挨拶をしてくるので、日車は「どうも、ありがとうございます」と頭を下げるので精一杯だった。
「日車、この人は玲子さん。屋敷内のアレコレ取り仕切ってくれてる人。俺達の事言ってあるし信頼出来る人だから、何かあれば玲子さんに言って」
俺達の事、とは契約結婚の事だろう。それを話しているなら、日下部からの信頼は厚いようだ。
「初めまして、日車寛見と申します。急にお邪魔してご迷惑をおかけして、」
申し訳ないと続けようとして、笑顔の玲子に手で制された。
「およしになって、奥方様。お二人の間に何があっても、なくても、私どもにとってはあなたは御当主様の奥方。奥方様が私どもに頭など下げてはなりません」
笑顔だけれど強い声色に、日車の背筋が伸びた。そうだ、例え契約結婚だろうと、自分は長く続くこのシン・陰流の現当主の妻なのだ。
「玲子さん、心配しなくても寛見は分かってるよ」
寛見、と、初めて名前を呼ばれた。それだけで、緊張から冷えていた指先にじんと温度が戻った。
「篤也、大丈夫だ、ありがとう。玲子さんのおかげでむしろ冷静になれた。ありがとうございます」
「ほほ、私には外の事は分かりませんが、この屋敷に居る間は何の心配もなさらなくて結構ですわ。安心して寛がれてくださいませ」
自分は利害関係で妻となっただけなのに皆が手放しで歓迎してくれた事で、罪悪感に日車の胸がちくりと痛んだ。
「今日は離れの方にお部屋の準備をしてますからね」
「離れ?何で」
「するのかしないのか知りませんけど、どっちにしても人が近付かない方がよろしいでしょ」
「ッ…あのねえ玲子さん、俺はただ寛見に安全な寝床をと思ってここへ連れてきただけで…!」
「はいはい、分かりましたよ。お風呂も母屋の露天より離れの内風呂の方が都合がよろしいんでしょ?」
二人の会話の意味を最初は理解出来なかった日車が、それが夜の営みを示唆してる事に気付いて首まで赤くなって俯いた。
…そうだ、自分は子供を産む為に日下部と契約結婚したんだから、それが今日なのかどうかは分からないが、自分は日下部に抱かれる。
意識してしまうと頭がぐちゃぐちゃになるので、頭を振って日下部に組み敷かれる自分のイメージを追い出した。母屋から長い廊下で繋がった離れへ案内され、日車は思ったよりも広いそこに目を瞬いた。
「…ずいぶん大きいんだな。離れというからもう少しこじんまりした物を想像していた」
濃い畳の匂いがする室内へ足を踏み入れ、珍しげに見回す。冷蔵庫にミニキッチンもある、風呂も付いているというし、この離れだけで十分生活が出来そうだ。開け放たれた縁側からは庭園と、その向こうに母屋が見えた。
「密談に使用したり賓客を泊めたりする場所だ」
話しながら当然のように玲子にコートとジャケットを預ける日下部に促され、日車も同様にジャケットを預けた。
「奥方様、お着替えを」
着流しを手にそう言われ、日車は眉を下げて日下部に助けを求めた。今日は珍しい顔ばかり見ているなと苦笑して、日下部が「初日だし勘弁してやって」と言うと、玲子は渋々といったように「では御当主様がお手伝いなさってあげて」と退室した。
玲子から渡された着流しを手に、日下部が「一人で着られるか?そっち、脱衣所あるから使って。俺はここで着替えるから」と奥の扉を指差した。
「君もここで着替えを?当主なのだから君の部屋があるんじゃないのか」
「まあ、一応、俺ら夫婦だから。新婚で部屋が別だといらん詮索されるし、一晩だけだから我慢してくれるか」
「我慢なんて、俺が言える立場じゃ無いだろう。世話になるというのに」
手渡された上等そうな濃紺の着流しを手に脱衣所へ向かう日車の言葉に、まだ自分をシン・陰流の関係者と思えていないなと日下部は苦笑した。日車がさっと着替えて脱いだ服を持って戻ると、日下部は黒に近い灰色の着流し姿だった。
初めて見る互いの和装に、二人の心臓がドキリと跳ねた。何となく二人で立ったままチラチラと相手の全身を眺め、日下部が言いづらそうに日車の帯を指差した。
「あー…のさ、それ、帯」
「何か変だろうか。俺は間違えてしまったか?」
「いや、変じゃない。けど、位置がちょっと上だし、多分それだとその内緩んで解ける。…直していいか?」
その申し出には勿論と頷いた。だらしない着こなしをしていれば、恥をかくのは自分じゃなくて日下部だ。「頼む」と軽く両手を広げて後ろを向くと、日下部の手が帯に触れ薄い布越しに体温を感じた。
しゅるしゅると帯を解き、また締めていく。頸に吐息がかかりそうな程近い距離に日下部が居て、ドキドキ鳴る心臓の音が聞こえやしないかと俯く日車が気が気じゃ無かった。
さらけ出された頸を目の当たりにして、日下部は理性を総動員して帯を締め直した。まだダメだ、まだ手を出せない。
お互い納得の上の契約結婚とはいえ、日車の嫌がる事はしたくない。…というか、単純に無理に迫って嫌われたくない。そんな事を悶々と考えつつそれを表には一切出さずに、日下部は「ほい、終わり」と帯から手を離した。
「流石だ。慣れてるんだな」
「ま、着る機会が多かったからな」
「俺は君のそういう姿は見た事が無かったから、その…」
「何、馬子にも衣装ってか?」
「いや…格好いい、と、思う…」
照れたように褒めてくる日車を直視出来なくて、日下部は視線を逸らす。とりあえずと腰を落ち着けて、二人して明後日の方を向いてもじもじしてる間に夕食の時間になった。
母屋じゃ日車が気を使うだろうと離れに運ばれた、料亭かと見紛う程の豪華な食事に二人は目を白黒させた。
「…いつもこんな感じなのか?」
舟盛りをまじまじと見つめる日車に、日下部は恥ずかしくて顔から火が出そうだった。当主に嫁が出来たと料理番達がはしゃいだからだとは言えなくて、「…歓迎してんだよ」と言うのが精一杯だった。
「ありがたいが…騙してるようで心苦しい」
また何か余計な事を考えてそうな日車に、「何も騙してねえだろ」と日下部は眉を顰めた。
「寛見は俺の嫁さん。違うか?」
違うとは言わないよな、と有無を言わさず言い切れば、日車はへにゃりと眉を下げて「違わない」と卓に着いた。
「どれもとても美味しそうだ。…けど、俺には少し、量が多い。食べ切れるだろうか」
出された物を残すなんてとんでもないと不安そうな日車に、別に残したってうちの奴らは気にしないとは思いつつ、「食いきれない分は俺が食ってやるよ」と箸を持ち上げれば、安心したように食べ始める。
「美味しい。ここの人達は料理がとても上手だな。どれも手の込んだ素晴らしい品だ」
「そうか、口に合って良かった。伝えとくよ、きっと喜ぶ」
にこにこ笑って食べ進めるその笑顔を、素直に可愛いと思った。頑張って半分以上平らげた日車は、苦しそうに「満腹だ」と笑う。
「風呂どうする、後にするか」
「風呂…?」
「ああ、入るだろ?ここ、内風呂付いてるから」
さっき脱衣所使っただろと親指を向ければきょろきょろと視線を彷徨かせるので、日車が何を心配しているのか思い至って日下部はがくりと頭を落として深いため息を吐いた。
俺ってそんな堪え性の無い男に見えてんの?すけべな事ばっか考えてんのが丸見え?、と少々悲しくなりながら、「いいか」と念押しする。
「寛見のペースも考えずにコトを進める気は無え。でも…寛見がいいって思える時が来たら…そん時は、寛見を抱いていいか」
いくらでも待つから。そう締めくくると、日車は一度きゅっと唇を引き結んでから、「…ああ」と頷いた。
「よし、分かったら風呂入れ。湯張ってあるから。のぼせない程度にゆっくりしてこい。浴衣も置いてあるから」
「わ、分かった」
ぎくしゃくした動きで風呂へ向かい、着流しを脱いでヒノキの匂いのする浴槽に浸かり、日車は脳も体も溶けそうになった。湯の温かさにじゃない、惚れた男の男前っぷりにだ。
格好良すぎじゃないかッ…!?ただでさえ普段と違う格好で色気が増してるのに、あんな…無理強いはしないが、いつかは抱く宣言なんて…!無理だ、今すぐ抱いてほしい…!でもダメだ、俺は初めてだし、男同士は色々必要な知識や準備があるし…くそッ!もどかしい!
湯の中でバシャバシャと暴れ、体を洗って出てくる頃にはすっかりのぼせる手前だった。真っ赤な顔で湯気を立てて出てきた日車に、「のぼせる前に出てこいっつったろ」と日下部は涼しい窓際に日車を座らせて水を飲ませた。
「すまない…少し、考え事を…」
くぴくぴと水を飲む髪からぽたりと水が滴り落ちて、湯上がりの色っぽさにドキッとしながらも日下部は肩にかけていたタオルでわしわしと髪を拭いてやる。
「ちゃんと拭いてこい。ドライヤーは?」
「場所が分からなかった…」
まだぼうっとしている日車に、「仕方ねえな」とドライヤーを取ってきて髪を乾かしてやる。のぼせ気味だからか、髪に触れても日車はされるがままだったのでラッキーとその柔らかい手触りを堪能した。
「はい終わり。俺も風呂入ってくるわ。寝たかったら先寝てろ」
風呂に入ってる間に用意されたらしい二つ並んだ布団を指差すと、今気付いたのか日車が布団を凝視した。もう一度「何もしねえから、眠いなら寝てろ」と釘を刺して、風呂へ向かう。日車が入った後の湯船だと思うと変な気分になる。
だあ〜〜!くそッ!格好付けて何もしねえなんて言うんじゃ無かった…!今すぐ抱きてえッ!ダメだダメだ、俺もだけど日車だって男との経験はねえんだし、勢いで襲って「獣(けだもの)!離婚する!」なんて言われたら困る。
勃ちそうになる股間に、冷たい水を頭から被って必死に冷静になろうとした。股間とうるさい心中を落ち着けてから風呂から上がり、脱衣所で髪も乾かしてから戻ると日車は所在無さげに布団の上で膝を抱えていた。
「…起きてたのか」
「…落ち着かなくて」
返った言葉に、ここは初めて来る場所だし、今日は色々あったしなと頷いてもう一組の布団の上に胡座をかいた。
「…自分の家の方が良かったな」
「いや、ここの方が安全なのは分かっているし、こんな俺を歓迎してくれて感謝している。ただ…ただ、落ち着かなくて。すまない」
「ま、そりゃそうだよな…」
単純な話じゃなくて、現状やこれからを考えて全てひっくるめて心が落ち着かないんだろう。日下部は少し考えて、掌を差し出した。
「…手とか、握ったらちょっと安心したりするか?」
また真っ赤になって首を振るかと思ったのに、日車は以外にもほっとしたように差し出した掌に自分の掌を重ねた。
「君の手は暖かいな」
「まあ、風呂上がりだし」
両手で握って微笑む日車に、あ〜、本当に日車が俺の嫁さんになったのか、と日下部は緩む頬をもう片方の手で隠した。
しばらく好きにさせていると次第に日車の瞼が降りてきたので、「もう寝るか」と促して横にならせて照明を落とした。
日下部がごろりと隣の布団に並び、日車は眠る前から夢見心地だった。ほんの数日前まで、日下部とこんなに近い距離で眠る日が来るなんて思いもしなかった。一生手に入る事が無いと思ってた温もりが、すぐ横にある。とろとろと瞼が落ちていき、無意識に言葉が流れ出た。
「あつや…」
「ん?」
「きみ、ほんとうに…おれのだんなさまなのか…」
「んんっ…!そうだよ」
「ふふ…おれの…だんなさま…」
「…頼むから寝てくれ、いい子だから」
「ん…あつや…」
「…なあに」
「…いいか?」
隣から伸びてきた日車の掌に自分の掌を重ねると、ぎゅっと握られた。そのままくうくうと寝息を立て始める。
コイツ俺の事信用しすぎじゃねえか?やっぱり襲ってやろうかなとイライラムラムラしながら、長い夜になりそうだと確信して日下部は天井を見上げた。