夜と朝の狭間だった。空の端から段々に光がこぼれだし、世界の隅々にいきわたっていく。街並みの全てはまだ、静かに眠り込んでいるように見える。
空には、薄灰色の雲の重なりと、その奥に隠された虹だけがある。雨上がりだった。
虹の光の欠片が雲を透かしてちらり、ちらりと見えている。その手前を鳥の影が渡る。日車は地下と地上をつなぐ階段の最上段に立ち止ったまま、手すりに寄り掛かっていた体を起こし、一歩あるきだす。
足元がいささか不安なのは、酒のせいだった。それと音楽に光。
日付変更の手前からクローズまで、地下のクラブに身を潜めていた。降りしきる雨を避けるついでに、非日常を味わおうかと好奇心につられたせいだった。他にいくらもあった雨宿りの選択肢をまるきり無視して、印象堅苦しいスーツ姿のまま、手荷物もなしに、地下への階段を滑り降りた。
ライムグリーンのネオン光に照らされてぬめる階段の先のカウンターで入場料を支払い、バーカウンターで適当な酒を手に入れた。いやに大きなプラスチックカップで飲んだジンバックの味を、もう忘れている。
一晩中、狭いクラブのフロアで踊りほうける人々を眺めつくした。
日車の耳と目はすっかり夜特有の遊興に塗れて鈍った。アルコールの作用で、意識が薄膜に包まれたようにぼやけている。
濡れたアスファルトへ足を踏み出す。靴底に砂利が鳴く。ふと、顔が上がる。浮つき、摩耗した日車の意識に引っかかるものがある。
右を見た。左を見た。眠り込む街並みが日車を取り囲んでいる。薄青色の雲に、たなびく桃色の日の光。
正面を見た。
左右に白線を引かれただけの、一車線道路を隔てた真正面に、何かある。鉄道の高架下にひしめく酒場、小料理屋、バー、スナック、それらの隙間にぽかりと空いた黒い空白地帯。
うす暗く、湿って、冷えたその先に人影があった。遠くに眺めた虹の光のせいで、視界が滲んで、よく見えない。人影は輪郭曖昧ながら、はっきりした色彩でもって日車へ存在を訴えている。
瞬きをする。視界にいくらかの明瞭さが取り戻され、人影はぐっと鮮明に変わった。
「日下部」
無意識が、日車の唇を動かす。自分の発声に一拍遅れて、そうか、あれは日下部か、と思い至る。淡色のシャツ、濃い色のトラウザーズ、いくらか日焼けしたような肌の横顔。唇の端から灰白色の煙を漂わせている。日下部篤也――高専の教師、呪術師。
かつ、と一歩前へ出る。瞬間、ずるりと目の前に影が差した。日車の右手が反射的にわななき、ガベルを探す。一瞬にして意識が、まるでコロニーにいた頃のように、尖る。
「朝焼けを背後に、物騒なもんだ」
目の前、一メートルもない正面位置から、日下部の声が降る。気配なく、物音なく、十数メートルの距離を瞬きの間に詰めてきた。それでいて気配を静かに保ったままの男は、雑に開いた自身のシャツの襟から手を差し込んで、首元から肩にかけてをさすり上げ、「徹夜ってのは、してる間はハイでいいが、終わりが見えてくるとくたびれて、もう駄目だな」と独り言のように言った。
「……常日頃から日本刀を携帯している人間に物騒を言われると、すこし考えてしまうな」
「オフにまで帯刀してたまるかってんだ。いま丸腰だぞ俺は」
日下部の目が、日車の右手をそっと見据える。ついにガベルは出さずじまいだったが、腕利きの術師が日車の半自動的な防御意識と、そこから生まれる攻撃意思を見逃したわけもない。
「すまない、つい反射が――だが訴えたかったわけじゃあないんだ」
肩の高さに両手を揃えあげて、言う。日下部は肩をすくめ、首を傾げるように顔を右に倒した。
「別に、飼い犬に比較して野犬の警戒心が高かったからって、それをとやかく言うことはないだろ。なあ日車」
日下部の左手の指の紙巻たばこから、灰が落ちた。
「俺は野犬か?」
日車の声の上に、折り悪く現れた店員の「おまたせしました」の声が重なる。喫茶店のソファに身を沈めた日下部が、大儀そうに片手を上げて「ブレンドをこっちに、エスプレッソは向こう」と店員に応答する。トレーから白いカップが二つ下ろされ、小さな丸型のガラステーブルに並んだ。日下部は片手で備え付けの容器から角砂糖を取り、もう片手でメニュー表を手繰り寄せて、店員へ何かものを訪ねている。日車はその間、じっと指を組んで押し黙っていた。店員が去ってからも、日下部はブレンドコーヒーに砂糖を足し続ける。
「日下部、そろそろ飽和する」
日車が向かいからカップを指差すと、日下部は分かりきったような顔で「ん?」ととぼけた。
「砂糖。そんなに入れたら溶け残るだろう」
「底に溜まったのをすくって食う」
「………………」
日車の顔を見て、日下部は笑った。
「あんたの前では二度とやらん。まったく、怖ぇ顔して」
「だが今日はやるんだな」
「やるね」
小さな銀のスプーンでコーヒーを攪拌し、ほとんど砂糖溶液になったそれを、一口含む。日下部の目の縁が撓んで、眉根が寄った。
「あー……」
「…………」
「沁みる……」
「…………」
日車もカップに手をつけた。苦い。
朝早くの喫茶店に人はなく、がらんと広い店内を掠れたジャズ調の音楽が泳ぎ回っている。橙がかった店内照明が、無人のテーブル一つずつを照らし出している中で、体格のそれなりな成人二人が、狭苦しいソファ席に向かい合っている。一人がけ用のソファ二つとはいえ、本来は一人客が収まって悠々過ごすべき空間ではあるまいかと、日車には疑わしかった。日車も日下部も、背の低いソファに座って持て余した脚の置き場にやや苦慮し、畳んだ膝がガラステーブルの高さを越していた。それでもどうしてか、どちらともより広い席へ移ろうとは言いださなかった。
あのまま道端で、別れても良かった。どこか落ち着ける場所を探そうと誘ったのは日車の方で、喫茶店を選び出したのは日下部だった。
「詳しいのか?」
カップを傾けながら問う日車に、日下部は「何に?」と応じた。タオル地の手拭きを広げ、端から丁寧に巻き取っている。
「この辺りに」
「いいや」
うつむき手元を見つめる日下部の、髪の流れが良く見える。
「土地勘があるように見えた」
つむじのあたりを眺めて言う。
「ほんとうに勘だ。運よくサ店が見つからなけりゃ、道向こうのラーメン屋にでも入るところだった。看板がでかくてよく見えたから」
「看板なら俺も見た。豚骨醤油、辛みそつけ麺、油そば……そのシャツで食べるのか?」
美しい円筒となった手拭きをわきにやり、日下部は「んん?」と眉を上げ、すぐに「ああ」と納得した。朝日の中では見落としたが、人工の光の下でははっきり見える。日下部の着込むシャツにはどことない、よそ行きの風情があった。常の質素な化繊と綿を織り込んだ、いかにもな日常的紳士服売り場の産物と異なって、全体に滑らかでほのかな光沢があり、襟の形、袖の形、縫製のわずかなところから、それなりの店で、それなりの対価を支払って得られる種類の一品だと察せられた。
「まあ、盛り場に出るときくらいはな」
シャツの襟を摘まみ、日下部は「お出かけ用ってやつだ」と付け加えた。
「盛り場……」
「せっかくのクラブパーティってのに、あんたは壁の花よろしく、だまってマズそうに酒飲んでたな。任務終わりだったか」
日車の瞼の裏に、小一時間前に浴びたライムグリーンの光がよぎる。絶え間なく続く音楽の渦、狭く暗い四角の地下室、人々の肌から上る湿っぽい熱、それらをかき消そうと躍起になる空調の冷気、味の思い出せないジンバックののど越し。
「いたのか、あの場に」
「いた」
日下部の手が、ゆっくり持ち上がって日車へと伸びた。爪の短い右手の指が、肩と鎖骨の間を柔らかく突き、撓んだシャツの布地を摘まんだ。日車はその手を右手で取って、握りしめた。日下部の眉根が寄る。
「気が付かなかった」
「オフだからな」
「でも俺には気付いていたんだろう」
「関わりあるやつの気配を読み逃したりしない」
「警戒心で上をいくのは飼い犬の方じゃないか」
手首の下へ指を置いて、脈を数える。平坦な鼓動が日車の肌を打つ。日下部の乾いて少し熱い肌に、遅くもなく速すぎもしない、穏やかな脈拍。時折、肌の下の筋肉に力がこもる。日車の手が緩まないのを悟ると、大人しくなる。
「何がしたい、日車?」
「あの喧騒の中、酒を浴びて踊り狂っていた?」
一瞬の空白があり、ため息を吐くように日下部が応える。
「いいや」
「偽証はよくない」
「簡単なワルツを二つ三つ」
「なるほど」
想像もつかなかった。まさか本当にBPM150にのせてワルツを嗜んだとは信じない。それでも、あのすべてが過剰な空間に日下部がいたのは真実らしかった。
「気晴らしになるだろ、ああいうのは」
利き腕をとられたまま、日下部は左手でテーブル上をまさぐる。日車が自身のエスプレッソカップを押し出して握らせてやると、すんなりとこれを掴んで口元まで持ち上げ、中身を傾けた。たちまち、しかめ面になった。
「苦!」
「……フフ」
「おい!」
「ありがとう、気晴らしになった」
「もしかして底意地の悪い方か?」
掴んでいた手を開放し、同じ右手で今度は日下部の前のカップを取る。口に含んだ砂糖液のコーヒー風味はほとんど冷めて、底には本当に溶け残った砂糖が堆積していた。すべてを飲み込んで、カップを戻す。
「甘いな」
「俺のコーヒー」
「日下部、一般にこれをコーヒーとは言わない」
「元がコーヒーなら、後から何を加えたってそりゃコーヒーだろ」
目が合う。独特に自他に厳しいものの目のまま、日下部は日車を見据えている。日車はその目をじっと見つめ返した。底が見えない。
先に目を合わせたのが日下部なら、先に逸らしたのも日下部だった。立ち上がり、伝票を取って「そろそろ出るか」と日車を見下ろす。その頭の後ろに、橙の光が輪を作って輝いている。「ああ」日車も立ち上がった。
高架下の店の並びをずらずら眺め、駅前を目指した。空はすっかり晴れ渡り、薄黄色を帯びた陽光が降り注いで地面を縫う。
「どうやってここまで?」
半歩先を歩く日下部が、建物の影を踏みながら問うた。ここは高専からはだいぶん離れている。
「任務終わりだったから、車で。気分を変えるつもりで適当なところで降りた」
そっちは? と問い返す前に、質問を重ねられる。
「相手は? 人間かまさか」
機械的だったが、労いの色を読み取れなくもないような声だった。
「ではない方だったな」
先を行く背中に向かって言う。日下部は振り返らない。
「苦戦でもしたか」
「楽勝――とは言わない。が、損傷と言えば補助監督から消毒液を少々もらう程度で済んだ。それだけだ」
足を止め、やっと振り返った日下部の眼前へ手を突きだし、左手甲の擦過傷を見せつける。これより前から視界に入っていただろうに、まるで初めて見たかのような顔をする。
日下部は油断ない目つきでこれを眺めたあと、ふと、全身から硬い殻を剥がして、やわらかな薄膜だけに包まれた、生身の人間らしいものへと変わった。そのように、日車は漠然と思った。
「おどろいたな」
感じ取った印象と衝撃がそのまま、唇から漏れ出る。日下部が片眉を上げ、「なんだ?」と言う。
日下部を、もっと裏表のない人間だと見積もっていた。呪術師としての彼と、教師としての彼、それに日常生活者としての彼はもっと密接に、一つなぎに息づいているのだろうかと思っていた。
多少、違うらしい。少なくとも、殻を纏った日下部と、薄膜にやわく包まれただけの日下部は確かにそれぞれ、別個に存在している。
「いつ見ても日下部という人間は――日下部という完成されたもののように俺の目に映っていたらしい」
「……」
「いま、何となくだが、いつも見ている日下部とは違ったものを目の当たりにしたような気になった」
たた、と高架を電車が走っていく。走行音があり、車体の奏でる軋み音があり、長い長い車列の影があった。列車が向こうへ去って、やっと、日下部は口を開いた。
「……口説かれてんのか、俺は?」
そういう趣の宿に入ったのはもちろん、そういう気分の予感があったからだ。それに、その場から一番近かった。
「休憩? 宿泊?」
日下部は返事もなしに日車の後ろから手を伸ばして、タッチパネル上の『休憩』の表示を強く押し込んだ。肩越しに振り返る。トラウザーズのポケットへ両手を押し込み、いくらかガラ悪く立って、朝だからな、と言う。そうか、と返す。
「部屋の種類は好きにしていい」
「そうか、なら、学校の教室風のがある」
「……部屋も俺が選ぶ」
立ち位置を代わる。
「やる気を見せてもらえて幸運だ」
愉快さで喉が鳴る。日下部は大げさにため息をついた。
「頭のいい人間ってのはどうしてこう……」
部屋は壁も床も天井も、濃紫色だった。それ以外には際立って突飛な部分もない。
「堅実だな」
入室し早々に感想がこぼれる。四角い小部屋に、簡易なソファと、広々したベッド、壁掛けモニターと、細々したアメニティが揃っている。装飾以外は一般的なビジネスホテルの間取りに近い。天井灯の光はごくわずかで、間接照明が部屋のあちらこちらをまばらに照らしていた。
「何をしてほしい?」
がたり、と扉を閉じて、背後から、日下部が言った。意外だった。あからさまに、自分から何かを差し出すような物言いをする。振り返り、日下部の脚の間に膝を割り入れ、その身をドアへゆるく押しやる。背丈では負けている。その上、シンプルな身体能力でもおそらく、差がある相手だった。しかし恐れはなかった。
間近に見つめる日下部の顔に、特別、わかりやすい表情はなかった。濃い色の髪が、ラベンダーパープルの扉に触れて、くしゃりと乱れている。
「どうしようか」
「ご随意に?」
「じゃあ、オーソドックスに」
日車の言葉を聞いて、日下部は自身のシャツの裾をウェストから抜き出した。日車の体を軽く押しやり、靴を脱ぎ、膝立ちの姿勢で再び向かい合った。腕を引いてくる。導かれるまま、屈みこんで口づけした。冷たかった。かすかにたばこの味がする。
「そういえば、飴はどうしたんだ、いつもの」
まだ鼻先も触れ合うような距離のまま目を見開いて尋ねた。日下部は「切らしてる」と言った。
「でなけりゃあんなに砂糖補給したりしませんよ」
急な敬語に虚をつかれる。日下部は浅く笑って、日車の唇を噛んだ。
ベッドへ座り込んで、日下部の戻りを待っている。先にシャワーを使ったあげく、間違って寝入ったりしてはあまりに無礼だろうと思った。
シャワーブースから水音が途切れなく聞こえる。
手持ち無沙汰に壁掛けモニターの電源を入れたが、あらゆる映像コンテンツが有料制らしく、手早く見られるものが何もない。ただ白っぽく光るだけの画面を見つめる。
部屋の扉のあたりで、ソファで、そしてベッドで、それぞれ気分よく欲を吐いた。日下部はいちいちのことに妙に手慣れていて、口でも手でもうまく日車の欲を操った。それに、口づけも上手い。
あの誰に対しても一定のさらりとした付き合いを保つ人間が、跪き、目元を緩めて日車のもちものを深々飲み込み、手指で慰めていく様は当然、新鮮で刺激的なイメージとして日車の脳に残ったし、反対に、日車が日下部の肌を撫でさすり、口づけ深めてあちこち舐って散々楽しませてやったときの、身の置き場に困ったような風情は少なくとももう二、三回は目にしたいと思った。
同僚と関係を持った――ということで良いのだろうか。関係したことは間違いないが、彼と自分は同僚だろうか。
みし、とベッドが軋んで初めて、日下部の帰還に気が付く。備え付けのバスローブを着ることをあきらめたらしく、下着一枚でベッドの縁に腰かけている。濡れた髪から肩に雫が落ちている。
「空調の温度を上げよう」
「おー、頼む」
そう言った癖、日車の腕を握って離さない。日車は半端に立ち上がったまま日下部を振り返り見つめた。
「……思ったんだが」
どことなく愉快気に、日下部は「どうぞ」と言う。水の匂いがする。
「入室してその場ですぐ口で、というのはオーソドックスなのか?」
「……良くなかったですかねえ」
「良かった」
「おう」
「だがあれはオーソドックスか?」
「言ったもん勝ちだろ」
ふむ、と唸り、ベッドに座り直す。バスローブの寸足らずの裾がいちいちはためいて邪魔な気がする。
「では、どうぞ」
日車は手ぶり付きで、日下部へ宣誓を促す。
「なにを?」
「言ってくれ、あれはオーソドックスな行為だと」
日下部は声を立てずに笑いだした。眦に浅く皺が浮いて、目が細まる。そうして唇を一度舐めて、声色を作って厳かに言う。
「ラブホテルの部屋に入ってすぐ相手のデカブツを口でどうにかするのは、我々の間ではオーソドックスな行為です。これからもそうします」
言い終わりと同時に、下から掬うように顔を寄せて、日車の顎の先に唇を押し当ててきた。受け入れるうち、体が後ろへ傾いで、寝台へ仰向けに倒れた。肘ついて上体だけを起こす。日下部の顔が近い。前髪が乱れていくらか額にかかっているのを、掌で撫で付けなおしてやる。すると日下部も、日車の髪を撫で整えた。
「これからも?」
「別に、断っていい」
今度は日車の方から、日下部の顎を取って口づけした。「断ったりしない」
相変わらず、冷たい。自分の唾液の味がする。
「とはいえやはり、口淫はシャワーの後の方が、お互いによくないだろうか?」
互いの顔の間に紙一枚ほどの隙間だけをあけて言うと、日下部は「じゃ、これからはバスルームを使ってすぐに、その場で、相手のデカブツを口でどうにかします」と宣誓をやり直した。
廊下にあった券売機から映像用のプリペイドカードを買って、結局、年に一度はテレビ放送されるような有名どころの洋画を流した。
ベッドへ寝そべって、向かいの壁のかかったモニターを見つめる。画面の中で、凄腕のスパイがどこかの国の大物政治家に化けて、狼藉を働いている。
「俺は疲れてる」
日下部がぼんやりと言った。シーツを全身に巻いて四肢を投げ出している。モニターを見つめる姿勢をそのままに、目だけで日下部を窺う。草臥れた男が横たわって、睡魔に抗うようにしばしば瞬きを繰り返している。
「クラブってよ、当然の話、馬鹿でかい音量で音楽が鳴ってて、暗くて、まぶしくて、人間がわんさといて、途方もないだろ」
「そうだな」
「酒は味分かんねえくらい薄かったり、濃かったりして」
「……ああ」
「その場の全部、なにもかもが、自分のいる、いないとは関係なく動いてるだろ」
身を起こし、日下部を見下ろす。
「たまには俺も、そーいうとこでぼけーっとしてたいわけ。俺ぁ結局、飼い犬なんでね」
部屋中に、銃声が響いている。モニターの中のスパイたちは何者かと銃撃戦を繰り広げているらしい。
「そっちが飼い犬で、俺が野犬だったか」
「そ、出来のいい野良犬。……気に障るか?」
目を開け、日下部がちらりと日車を見上げる。
「いいや。ただ、今までにない形容だと思う」
俺は、と日下部は言葉を継ぐ。
「飼い犬の立場を選んだ。そのくせ、飼われていることも、自分が犬だってことも、関係なくなりたいと願う瞬間がある。俺は疲れてる」
「それで、盛り場へ出るのか」
「ワルツとまずいアルコールと、貰い物の煙草でハイになって、どっかの誰かからのアプローチをいくつか袖にして帰ると、気が紛れる」
「好かれるんだな」
「火遊びに使われてるだけだ」
「…………」
「自分から望んだのはあんたで最初」
大爆発。大げさな爆発音にモニターを振り返ると、どこかの国の議会らしき建物が燃える映像が流れている。スパイたちの仕業なのか、それとも。
外に出ると、深みを増した朝の光が容赦なく目を焼いた。今度こそ二人並んで、駅を目指す。
乾いたアスファルト上に伸びた青い影を、次々に踏んで歩く。
「偶然だった。たまたま、目についたんだ」
日車の声に、隣の日下部が足を止める。
「雨宿りなんかよそでいくらでもできたのに、わざわざ地下へ潜った」
「……どうだったよ」
「聴いたこともないような音楽を沁み込むほど浴びて、ライトで目を痛めた。酒の味は記憶にも残らないようなものだった」
顔を見合わせる。
「野犬も疲れを覚えるんだろうか」
白い光が、日下部の頭上高くから滴り落ちて、頬を輝かしく濡らしている。向かい合う男の目にも、自分は同じように映っているのだろうか。
「俺は疲れているのか」
「そうかもな」
日下部は押し殺したような声で、殊更にそっけなく言った。日車も、それでよかった。
「日車は直帰か?」
駅の券売機前で、乗るべき方向と乗換駅を確認する。
「一晩をクラブで過ごした上に同僚とラブホテルに寄り道してから帰宅することを、そう呼んでもいいのなら」
「よおし、立派な直帰だな」
日下部は上り路線、日車は下り路線目指して、改札を通る。別れの寸前、すでに背を向けた日下部の腕を掴んで引き留める。
「日下部」
「……うん?」
上り路線ホームから列車が去っていく気配があったが、仕方がない。次の電車の到着が何分後か、何時間後かも知らないけれど、それも仕方がない。
「チャンスは、疲れている時だけか?」
「クラブ通いか?」
「違う。日下部だ」
日下部は身を捻って日車に向かい合い、目線を斜め上に飛ばし、また日車へと戻してから、「したいときに」と言った。
「じゃあ、次は明日だな」
とぼけ半分、真面目半分に思い切って言う。日下部は、傍を通った通勤者を飛び上がらせるくらいの大声で「明日ぁ!?」と言い、次いで間髪入れず、笑い出した。