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誘導灯【web再録】/Novel by 紺屋

誘導灯【web再録】

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2024年5月に発行した寛篤本の再録です。
お手に取っていただいた方ありがとうございます。発行からあまり日が経っていませんが個人的にとても気に入っているお話なので公開します。

死滅回游が終わって約半年、たどたどしく共に暮らす日車と日下部の話。
こちらは本誌完結前に書いたものです。26巻時点での生存キャラは大体そのまま生き延びています。他キャラがたくさん出てきます。

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◇◇◇


横たわる体、柔らかいタオルケット、重たく動く瞼、遮光カーテンの隙間から薄っすらと感じる明るさ、呼吸音。寝起きの頭が己の目覚めを自覚するまでの二分間、真新しいベッドの上でじっと過ごす。
壁際に寄っていた体をごそごそと動かし枕元の時計見て、寝坊していないことを確かめる。そしたら仰向けに戻り、またぼうっと数分を消費する。少しずつ稼働し始めた頭で空腹や二度寝の欲求、今日の予定、天気予報なんかを緩慢に思い浮かべる。
幸い、瞬きを繰り返しているうちに瞼の重みは消えた。体を起こしながら、ベッドから出した足先を床につく。
昨晩用意してあった着替えに手を伸ばして、ふと走った体の違和感に息を吐く。左腕がどうにも動かしにくい。しかし今日始まった異変ではないのでそのまま左手に頼らず寝間着を脱ぎ捨てシャツを着る。一瞬あらわになった腹は表面にぼこぼことした傷跡がついている。そちらが痛まないならこの程度の腕の痺れなんて些細なことだ。
充電済みの携帯を確認したらドアを開けて自室を出た。隣のリビングを抜けてダイニングへ。するとそこに立っていた、背が高く引き締まった体つきをした男がこちらを振り返った。同居人の日下部だ。
「おはよ」
「おはよう。珍しいな、朝から作ってるのか」
「どーしても炊き立ての白飯が食いたくなったもんでな」
ちょうどさっき炊けたとこだ、と言って彼は食卓に皿を置いた。玉子焼きだ。
「もう食う? 全部よそっといていいか」
「ああ、頼む。先にいただこう」
俺の返事を聞いて男は頷き、鍋の中身をお椀に注ぎ始めた。彼のことだから前日から計画して朝食作りなんかしないだろう。一体何時に起きたのか。俺もいつもより少し早く起きたというのに。
急いで洗面所へ向かって、口を濯ぎ手早く見た目を整える。今日は目立った寝癖はなかった。二本の歯ブラシ、二種類のヘアワックス、タオルは面倒なので共用。洗面所内のものを目で追うと鏡に映る男も同じ動作をした。
この2LDKの部屋に日下部と一緒に引っ越してきて三週間、彼との共同生活にもいくらか慣れてきた。だけどまだ他人と暮らす現実に奇妙な感覚は残っている。家族でもない誰かと同じ空間で生活することに不快感のない自分も、それを許容する日下部という存在も。何よりこうして自分がまだ生きて、人らしく生活していることに実感が湧かない。
ダイニングへ戻ると、日下部が先に自分の席に座ってテレビの画面を眺めていた。テーブルに豆腐の味噌汁と牛乳、白米が追加されている。同居人が俺の分まで作ってくれた出来立ての朝食が目の前にある。これが不思議でなくて何と言うのだろう。
俺が椅子に腰掛けると彼はこちらへ視線を移した。いただきますと口にした俺に、彼が「味噌ちょい入れすぎた」と味噌汁を指して言った。だから箸を取る前に右手でお椀を持って一口啜ってみる。
確かに少々味が濃い。でも白飯が進む濃さだ、俺が問題ないと答えると彼もじゃあいいかという顔をして朝食を食べ始めた。
男性アナウンサーがニュースを読み上げる声を聞いてちらりとテレビの方を向く。東京復興に関する政府の会合の話題だ。未だに大きく壊れたまま人が住める状態にない新宿近くの映像が流れていく。
「君、今日は任務じゃなかったか」
「お前もじゃねーの?」
「俺は高専待機だ」
「呼び出されないことを祈っといてやろう」
「被害が出ないなら俺はどちらでもいい」
「任務なんかないに越したことはないでしょーが」
羂索と宿儺を斃し、死滅回游が終わって日本から危機が一つ去った。しかしそこに刻まれた傷跡は決して浅くなかった。呪霊の存在が公になり、未知の脅威への怯えや日常を失った人々の悲しみが次々と呪いを生んだ。
呪術師や補助監督たちは、日本各地に湧く呪いの対応に追われる日々を去年末から送っている。以前は呪術高専を中心にもっと術師がいたらしいが、多くが渋谷と新宿で命を落としたという。残った人間総動員で駆けずり回って呪霊を祓う毎日。そのうえ混乱に乗じて呪詛師が活動を活発化させていて、仕事はなかなか減る気配がない。
この梅雨の時期はもともと呪術師にとって繁忙期だ。とはいえ、運が良ければ秋にちょっとマシになるかもな、と日下部が言う。だといいな、と相槌を打つ。
七月に入って振り返ってみると、一番大変だったのは二月から四月だ。息つく暇もないというのはああいう日々のことを言うのだろう。今は新居を探して引っ越しをし、こうして人と会話をしながら朝食を味わう余裕がある。
炊き立てでもちもちの米は噛むほど甘さを感じられる。味噌汁は濃い味だったが代わりに玉子焼きは控えめな味付けだ。これはこれでちょうどいい。最後に牛乳を飲み干して息を吐く。
「ごちそうさま」
「お前先に出るよな、ゴミを出しといてもらっていいか」
「分かった」
俺よりほんのちょっと早く食べ終わっていた日下部の言葉に頷いて席を立つ。食洗機に食器を突っ込み、鍋とフライパンを洗おうとした俺の動きを察して彼がぐいぐいと背中を押してくる。そのまま押し負けて俺は台所から追い出されてしまった。片付けまで彼が自分でやるらしい。
彼は自分が作りたいから作っただけで、俺に感謝の押し売りはしてこない。俺の方が出発が早いので大人しく厚意に甘えることにする。
歯を磨く前に、窓を開けベランダに置かれた焦げ茶の鉢へ近づく。植えられているのは多肉植物の一種だ。白っぽい緑色の肉厚な葉が、薔薇の花のように広がっている。乾燥に強い種だから梅雨時期の水やりは控えめでいい。
この多肉植物は引っ越しの際に俺が前の家から持ってきたものだ。そこまで手が掛からない丈夫な植物なので世話をやっていると威張れるほどのことはしていないが、気付けばなんとなく愛着が湧いている。五月頃に咲いた花は小さくて可愛らしかった。
何もない俺に『花でも育ててみたらどうだ』と言ったのは日下部だった。自分の生活ですら覚束ない俺には花を大事にしてやれる自信がなくて、最初はすぐに頷けなかった。彼は『サボテンとかでもいいから』と更に言って俺を強引に店に連れて行った。結局『初心者でも育てやすい』という文字を信じて俺が指差した多肉植物を、日下部が俺に買い与えたのだ。
少しの間、鉢を眺めて、室内に引っ込む。もう一度この花が見たい。冬の寒さにも強いというから逞しい限りだ。
身支度を済ませたら靴を履いてゴミ袋を引っ掴む。これが一人暮らしならこのまま外に出るだけ。だけど洗面所から歯ブラシを咥えた日下部が顔を出した。
「いってら」
「……いってきます」
短く掛けられた言葉に返事をしてからドアを開けた。曇り空の下、ゴミを出して高専へ向かう。
分厚い雲が空を覆っていて、地面は濡れている。道行く人は傘を持っている人と持っていない人が半々といったところ。一応午後に晴れ間があるらしい。あちこちで紫陽花を目にする。日中の気温は日によって二十度から三十度近くまでムラがあって不安定な天候が続いている。梅雨はまだしばらく明けないだろう。
周りの景色を落ち着いて眺める自分に気付いて、やはり不思議な気分になる。宿儺に破れ生死の狭間を彷徨ったあと、俺は十二月二十八日に目を覚ました。覚ましてしまった。死なずに終わった俺は灰になった燃え滓のように、ただ皆に混じって呪いを祓った。周りを見る余裕なんか一つもなかった。
だけど今日まで俺は死ぬことなく生きている。正直に言えば、どうにもならないと思っていた。少なくとも自分一人では、あのまま風に吹かれて跡形もなく散り散りになるのを待つばかりだっただろう。俺が今こうして夏の気配がする湿った空気を吸い込んで、傷跡の痛みや痺れに怯えることもなく歩いていられるのは、たぶん日下部のおかげだ。
呪術高専の東京校も先の戦いで大きく損壊し、現在は再興の途中だ。広い敷地ながら、今のところ全体の三分の二が機能を取り戻している。もう通常業務は問題なく行える。しかし学生たちがごっそり任務に駆り出されていることもあって授業の再開は九月になるという。
事務室へ足を踏み入れると扉の近くにいた新田が振り返った。
「日車さん、おはようございます」
「おはよう。指示を頼む」
「じゃあ早速。この名簿のチェックがついてない窓に電話をかけてほしいっス。どれも昨日の昼に呪霊の目撃情報があったところなんで、観察の経過を聞いてもらいたいっス」
待機室でじっと座っているのはどうにも落ち着かず、時々こうして補助監督たちの仕事を手伝うことにしている。彼らは前線に出て戦う術師に事務仕事をさせたがらない。休めるときに休んでほしいと言う。だが日々の忙しさは彼らも同じだ。俺も何か作業をしている方が気が紛れる。
指示通りに四件電話を掛け、窓から聞いた詳細をメモして新田に渡す。助かるっス、と言ってくれた彼女に「他にできそうなことはあるか」と聞く。うーんと新田が視線を動かし考える仕草をする途中、事務室の扉が開いた。桃茶色の髪をした少年が溌剌とした声を上げる。
「おはようございまーす! なんか手伝えることありますか?」
「あ、虎杖くんちょうどいいところに」
「何々、何でも頼んで」
「日車さん回収して待機!」
「えっ。あー、ないってことね?」
つまり俺への回答も「待機していろ」ということだ。肩を竦めてこちらを向いた虎杖と共に指示に従うことにする。邪魔になるのが一番よくない。また手伝ってほしいことがあったら呼ぶんで、と新田に事務室から追い出された。
任務と事務仕事の両方を無茶苦茶に詰め込んだ結果俺がぶっ倒れて以降は、向こうもこちらも一定の気を遣うようになった。直前に俺に仕事を振った補助監督には泣かれてしまったし、『人の命が懸かった仕事で自傷行為をするな』と家入に酷く叱られ、『我々はそんなに頼りになりませんか』と伊地知に真剣に諭された。それでもまだ何かやらせてくれと駄々を捏ねられるほど自分も子どもではなかった。
この少年も責任感が強くて他人のことをよく気に掛けるからああやって補助監督の仕事を手伝おうとする癖がある。出会った頃より身長が伸びた彼が余計な無茶をしないように俺は見守らなくてはいけない。
「日車と会うの久しぶりな気がする」
待機室へ向かう廊下を並んで歩く虎杖が言う。そうだなと返事をして待機室の扉を開けた。任務が被らなければ取り立てて会う用事もない。前回会ったのは引っ越し直後だったか。
ソファーにひょいと腰掛けた虎杖の斜め向かいに腰を下ろす。テーブルの新聞を端に避けて荷物を漁った彼が数学の教科書を取り出した。筆箱を片手に彼が俺の方を見る。一瞬だけ視線が交わった。俺は新聞へ手を伸ばした。
「日下部先生との生活、どう?」
「今のところ不都合ない」
「楽しい?」
「それは……まだよく分からないな」
不都合がないから一緒に暮らし始めたとも言えるだろう。一人で生活していた頃よりは、食事を取って風呂に入りベッドで眠るという行為への抵抗が薄くなっている。悪くはない、と思う。
けれどこの生活が楽しいかどうかは分からなかった。顔を合わせたら会話をする、家の中に常に他人の気配がある。それ以外は新居に移る前と大して変わらないはずなのだ。日下部と趣味の話に花を咲かせたり、一緒にテレビを見て笑ったりする自分をどう形容すればいいか、今一つはっきりしない。
そっか、と虎杖は笑った。辛くないならそれでいいよ、と言葉にこそされなかったもののそう言いそうな空気を感じて、新聞紙を握る手に一瞬力が籠る。
「君の方はどうなんだ。脹相と上手くやれているか」
「んー、俺もよく分かんない……」
俺と似たような答えが返ってくる。虎杖は開いた教科書のページには見向きもせず、所在なさげにシャーペンを指先でくるりくるりと回している。
高専の学生は原則寮暮らしだが、寮の修復が遅れているため皆それぞれ別々の場所で生活している。身寄りのない虎杖は、脹相と暮らすことを希望した。『家族の暮らしがしてみたい』という虎杖のいじらしい我儘は、人ならざる己は弟と距離を置くべきだと信じていた脹相を引き留めた。寮には思い出がいくつもあって、失った友人のことが頭を過って辛いのだとこぼした虎杖は、今は兄とアパートで生活を共にしている。
ああでも、とぽつりと声がして虎杖の方にちらりと視線をやる。少年と青年のどちらにも見える顔が眉尻を下げて唇を曲げ、困惑と苦々しさとくすぐったさの入り混じった頼りない表情を浮かべた。
「帰ったら家に誰かいるって変な感じ」
「……そうだな。あれは慣れない」
ふっと息を吐き出して俺は同意の言葉を口にした。たぶん俺も色々な感情が浮き出た複雑な顔をしていることだろう、彼は俺の顔を見て口元を緩めた。
「変な感じだけどさ、まだ頑張ろうかなって思えるんだよね。脹相、俺が死んだら後追ってきそうだもん。ちゃんと生きてくれるように色々言っておかねぇと」
心配性の兄に世話を焼く弟の様子に俺も肩の力が緩んだ。
「仲が良いな」
「別にそういう感じじゃ……いやまあ悪くはないけど……」
ごにょごにょと呟く虎杖を見つめる。快活な顔には二つ大きな傷跡がある。口の左側が裂けた痕と、右目に斜めに走る痕。地獄の中にいた少年に残る消えない傷。俺がその痕をちゃんと視界に入れられるようになったのは最近の話だ。彼の傍に脹相がいてくれることは俺にとっても心強い現実だった。
少々素直になれない虎杖は誤魔化すように教科書をぱしっと叩き身を屈めてテーブルに向かった。姿勢が悪いと指摘したらすぐに背中は伸びた。
自習中の虎杖から時々質問を受けつつしばらく待機室で過ごした。
「虎杖くんいるかな? 伊地知さんが駐車場に来てほしいって」
「りょーかい、行ってきます」
「あ、これお腹の足しに」
「あざっす!」
昼前に乙骨が虎杖を呼びに来た。すぐに荷物を片付けて飛び出して行こうとした虎杖に乙骨がビニール袋を一つ渡す。それを受け取って元気よく出発した後輩と入れ替わりで乙骨がソファーに座った。
乙骨はもう一つ持っていたビニール袋をテーブルに置いて俺に「お昼ご飯食べました?」と聞いた。
「いや、まだだ」
「じゃあよかったら日車さんもどうぞ」
袋の中身はコンビニのおにぎりやサンドイッチだ。礼を言ってサンドイッチを貰う。お腹ぺこぺこ、と言いながら彼は昆布のおにぎりを手に取った。
「もしや、すでに任務に行ってきたあとか?」
「あ、はい、明け方開始だったので」
「帰って休んだ方がいいんじゃないか」
「一人でお昼ご飯食べるの味気なくて。誰かいるかなと思って寄っちゃいました」
食べたらちゃんと帰ります、と真面目な顔で返して彼はおにぎりにかぶりついた。意外に大きな一口だった。せっかくの食事のお供が俺では味気なさは変わらないだろう、と思ったが言わないでおいた。俺も封を剥がしてサンドイッチを頬張った。
「日車さん、明太子と梅干しどっちが好きですか?」
「どちらかと言えば梅だな」
乙骨は梅干しのおにぎりを俺の方へ差し出して自分は明太子を掴んだ。その左手薬指で指輪がきらりと光る。今やこの日本で特級の肩書きを持つ呪術師は乙骨一人だ。大人しく礼儀正しい好青年然としたこの子どもは、その実、単独で国家を転覆し得る力を持っているという。あの指輪は彼の力の象徴のようなものだ。
俺が新聞に飽きて先程まで読んでいた本に気付いた乙骨が「それ」と口を開いた。
「面白いですか」
「読み応えはあるが、人は選ぶ。この話特有の倫理観が肌に合えば面白いと思う」
俺が促すと彼はお手拭きで指先を拭いてから本に触れた。裏表紙のあらすじを読み、中身をぺらりと捲ってみる彼に「興味があるなら持って帰っていい」と声を掛ける。
「え、いいんですか?」
「さっき読み終わったから構わない。その本をもう一度読むなら半年は空けたい」
「そんなに濃いんだ……?」
お言葉に甘えてお借りしますと彼は小説をそっと仕舞った。
「最近やっと勉強したり遊びに行ったりする時間が取れるようになったから本を読むのも楽しくて」
控えめに笑う顔は本当に楽しそうだ。おにぎりを食べ終えた彼に俺は「コーヒーは飲むか」と訊ねた。慌てて立ち上がりかけた彼を制して腰を上げる。
「やることがないんだ。俺にやらせてくれ」
給湯室へ入って二人分のコーヒーを淹れる。トレーにカップを乗せて、一瞬手を止める。彼は砂糖やミルクを入れるだろうか。シュガースティックとコーヒーフレッシュを二つずつ掴む。
コーヒーカップを運んだ俺に丁寧に礼を言って乙骨は砂糖を一つ、コーヒーフレッシュを二つカップの中へ注いだ。
「今日は結構校内も静かですよね。たまにこういう日があると安心しますね」
ああ、と一言相槌を打った俺を乙骨が困ったように見やった。
「忙しい方が色々考えなくて済む、って顔してますよ」
「否定はしない」
「僕が言うことじゃないかもしれないですけど、働きすぎは駄目ですよ。日車さん、ここに入学する前の僕みたいでしたから」
ここに来てからというもの、俺は一回りも二回りも年下の人間たちに心配されてばかりだ。気遣う視線を受けて、ちゃんと頷いて見せる。
「もうあそこまでの無茶はしない。多方から叱られるのは堪えた」
家入も伊地知も、それから日下部にも。生き残ったからこそ、いつも見送る側だからこそ、彼らは命を粗末にする人間を許さない。俺のような人間にも心を砕いて言葉を掛けてくれる彼らに余計な負担を強いるのは本意じゃない。
ふう、と水面に息を吹いて乙骨はカップに口をつけた。ゆっくり一口飲んで、美味しい、と彼は朗らかに呟いた。
「生きてていいんだって思えるのって、才能の一つだなと思うことがあります。所詮は環境に左右される自己肯定感なんですけど。何の疑問もなくそう思える人を見ると羨ましくなるんです。死んではいけない。生きなければいけない。そういう義務感とはまた違う感覚なんですよね」
流れるように吐き出された言葉が俺の耳から入って胸の方へ落ちていく。よく共感できる思考だった。
自分の役割は宿儺を打ち破る歯車の一つとして終わるはずだった。その役割のためだけに十一月と十二月を過ごしたのに、俺は死ぬことなく新しい年を迎えた。生きる目的はないまま、ただ死ねない理由ができた。あの多肉植物を枯らさず育てないといけないから。
今の俺が死を選べば目の前の優しい少年は悲しむだろう。先程まで向かい合っていた眩い少年も、医者の彼女も、敏腕な補助監督の彼も、他の生徒や術師も。そういう人たちを悲しませたいとは思わない。乙骨の言う『生きていていい』には遠く及ばないけれど、生きていた方がいいとは思えるようになった。
『死なないための理由が必要なら、それに俺を使っていい』
これは正月明けの記憶だ。俯く俺に掛けられた日下部のその言葉は褪せることなく脳裏に居座っている。一旦全部俺のせいにして生きろ、何でもいいから俺のために生きてほしい。まるでプロポーズのようだった。本人も、呆けて顔を上げた俺に気付きハッとした様子で『今のはちょっと言葉の綾が』としどろもどろに弁解していた。真剣な眼差しと慌てた仕草とのギャップに気が抜けた俺は、こくんとそれに頷いていた。
死を遠ざけてくれた日下部に誘われるまま、六月になって一緒に暮らし始めた。
日下部は憎らしいほど温かな男だ。情に厚く、感情豊かで、面倒見がいい。誰にでも分け隔てなく優しいというわけではないが、傍にいる人間にとってこれほど安心できる背中はないと思わせてくれる。彼のような誠実さが欲しいと思うのは、高望みだろうか。
俺もコーヒーを喉奥に流して苦味を舌の上で転がした。カップを置いてスーツの襟を撫でる。とっくにそこから金色のバッジの感触は消えている。
「君はそう思えるようになったのか」
どうでしょう、と乙骨は言葉を探して半分に減ったカップのミルクベージュを見下ろした。彼の手元で緩やかに水面が揺れた。
「どうせ僕なんかって思うことはまだまだ多いです。でもそれが僕を信じてくれる人たちへの裏切りになってしまうなら、僕はもっと自分を嫌いになると思います。……うん、今は前より少しだけ、僕は僕のことが好きです」
へにゃ、と力の籠らない柔らかな笑みに、知らずに嘆息してしまう。こんなふうに眩しい人間に囲まれては俺の立つ瀬がない。否、未来ある若者がこうして笑っていられるなら俺もそれでいい。呪術師になって新しい環境で新しい仲間を得て、今の彼がいるのだ。
「日車さんは?」
第二の人生とはよく言ったもので、俺という人間は去年のクリスマスイヴに一度死んだようなものだ。今までの生き方を失って、俺に残った道は呪術師だけになった。
蘇るのは『裁判官を目指してみないか?』と恩師に言われた記憶の中の自分だ。『自分は裁判官にはなりません』と返したあのときの気持ちに嘘はなくても、もう一度弁護士をやりたいかと聞かれたら俺は上手く答えられない。
「最近ようやく呪術師と名乗ることへの抵抗が薄れた」
呪術師という生き方を飲み込んで、消去法ではなくそう名乗れるようになりつつある。他人のために体を張って不合理な呪いに立ち向かう人間が他にこんなにいる。その現実を肌で感じられるようになったのだ。
他人事のはずなのに乙骨は嬉しそうに笑って、コーヒーの残りを飲み干した。
『どうして君はそんなに俺に構うんだ』
『質問に質問で返して悪いが、お前はどうしてそんなに頑張るんだよ』
『俺はこうしていないと自分を保てないからだ』
『んじゃ俺もそれで』
俺は真面目に訊ねたのに日下部は適当な返事を寄越した。その彼がここまで俺に構わなければ、俺はどこかで呪霊に食い尽くされるか、階段の上からふらりと飛び降りていたかもしれない。
「ご馳走様でした」
「こちらこそ」
ゴミやカップを片付けて乙骨は席を立った。待機室のドアを開けた彼がふとこちらを振り返る。
「日下部先生は確かのどぐろが好きだったと思います!」
のどぐろ。単語を口の中で復唱する俺を置いて乙骨はにこやかに帰宅していった。旬は秋だったか冬だったか。日下部と食卓でのどぐろをつつく秋を思い浮かべると、やはり不思議な感覚がする。首を捻って息を吐く。夏が終わっても、俺はあの家で日下部と暮らしているんだろうか。
手持ち無沙汰で仕方ないので、どうにか事務室で簡単な作業でも貰えないかと俺も待機室を出た。その日は日下部の祈りが効いたのか、俺に呪霊退治の呼び出しが掛かることはなかった。


Comments

  • あれぐろ
    May 17th
  • ユージ
    Jan 21st
  • shida
    December 7, 2024
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