「海に行こう」
日車がそう言い出したのは、寒い冬の朝だった。
「……殉死の誘いなら乗んねーぞ」
「違う」
不安定な奴だからもしかしたら……とは思ったが、流石にそこまではイッちゃってなくて安心した。
「じゃあ何なの」
「海を見に行かないか。海を」
「……なんで?」
日車は少し言い淀んだ後、言った。
「君と、海が見たい」
……なんだそりゃ。
日車は時々こういう訳のわからないことを言い出す。でもまあ、今日は特に予定があるわけでもないし、断る理由もないので承諾した。
あの日から随分復旧した電車に乗り込む。人の気配はなく、がらんどうの箱の中に二人だけが居る。窓には霜が張り付いていたが、車内は暖房で若干暑いくらいだった。
最後尾車両、ロングシートの中央右寄り。日車と隣り合い座る。海まで一本往復二時間。結露が窓を伝っていく。
「今日は寒いな」
「午後雪降るってよ」
「そうか、明後日は雨だ」
適当な嘘を吐きあう。恐らく向こうも本気で信じちゃいない。そういうじゃれあいだ。
ぽつりぽつりと嘘でじゃれあって、45分。途中人身事故を挟んで、30分超過。足元のヒーターがズボンの裾を焼く。足を組み換え組み換え、15分。
「まもなく、終点です。落とし物、お忘れ物、無いようにご注意ください。本日は、ご乗車いただきありがとうございました。」
アナウンスが流れてドアが開く。ホームには冷たい磯味が蔓延している。駅員が一人、寒そうに白い息を吐いている。
電車を降りて大きく伸びをする。パキパキ、背骨が伸びて、音を立てる。日車が何を言うでもなく、改札を抜けていく。俺もそれに続く。
潮の香りがする。海だ。
吹き荒ぶ風が俺たちの髪を攫う。しょっぱい風が全身にまとわりつく。
海は深く、黒く、波打つ。何事もなかったかのように。
「寒いな」
「冬だからな」
「そうか」
砂浜を日車の少し後ろをついて歩く。反時計回り、サクサク砂浜が音を立てる。
「……で、何か言いたいことあるんじゃないの?」
ポケットにしまっていたロリポップを取り出し、包み紙を剥いで口に放り込む。ストロベリー。取った包み紙が風にさらわれて砂浜に落ちて、しゃがんで拾う。
「なぜだ?」
「俺の洞察力舐めんでもらえるか。こう見えても世渡りと愛想だけでなんとか一級術師やってきたんだわ」
休みなく動いていた日車の足が止まる。振り返った日車は、僅かに俯く。
「わからないんだ、日下部が」
「俺が?」
サク、と砂浜に足を刺して、こちらに一歩近づく。何回か繰り返して、俺の目の前に立つ。
「どうして俺に構う」
「今更?」
垂れた目の奥の小さな瞳孔と視線がぶつかる。昨日よりも目の下の隈が濃くなったようだ。
「俺は、君に何かしたか?」
「何もしてねーな。強いて言うなら俺が勝手にアンタを気に入ってるだけ」
「それがわからないんだ。俺は、君が好くような人間じゃない」
「そうか? 俺は好きだけどね」
「なぜだ」
「さあ、わかんね」
日車の手が、俺の手を掴む。冷たい、骨ばってやせた手だった。
「俺は……俺は、救われたいと思えない」
手の震えが伝わってくる。ふう、と白い息を吐く。冷たい手がさらに冷たくなったように感じた。
「藁すら掴まねーやつに浮き輪投げたりしねーよ。アンタがいつか何かに縋りたいと思ったとき、手を差し出せるように準備してんだ。今はまだその時じゃないだけ」
日車の手の甲に手を添え、重ねる。冷たい波風で冷え切って感覚が曖昧だが、きっと酷く強張っていることだろう。
吐いた白い息がゆらゆら揺れる。海上のかげろうとくるくる混ざって空に上っていく。
「……いいのか」
「良い悪いはテメエで決めな。停滞も一つの道だ」
ひゅう、と風が吹く。日車が下唇を噛んで、手の力を少し強める。
「俺は、」
「……海が、見たい」
「くさかべといっしょに……」
日車の顔がくしゃりと歪む。泣くのかと思ったが、涙はなかった。ただ、迷子の子供のような顔をしていた。
「別に俺、アンタのこと嫌いになったりしねーから」
指先に熱が灯る。日車の手の震えは、いつの間にか止まっていた。
向日葵は太陽が眩しすぎて直視できません。太陽に背を向け続けていたら、やがて空に一つ輝く月を見つけました。
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- shidaApril 21, 2025