第8話 祖父は、耳が長くなってから終わった
入口へ戻るのに、二時間はかからなかった――というより、歩いてすらいない。
「……これ、ファストトラベルじゃねえか」
「ふぁすと、とらべる?」
「こっちの話だ。いや、でも便利すぎるだろ」
入り口に戻りたい。そういうと、コアちゃんが俺の手を取った。すると、洞窟の壁と床がぐにゃりと歪んだ。景色が回る、というより、俺たちの立っている場所へ向かって、ダンジョンの方が折り畳まれてくるような感覚だった。青白い洞窟の奥行きが縮み、さっきまで遠くにあったはずの通路が近づき、次の瞬間には、俺たちは草原へ続く入口近くに立っていた――正直、吐きそうだった。
「主よ。顔色が悪いぞ」
「移動方法が生理的に気持ち悪いんだよ……」
「慣れれば楽じゃぞ。妾の内側を、少し畳んだだけじゃ」
「内側を畳むな。言い方が怖い」
「物を作るよりは、ずっと楽じゃ。妾にとっては、内側の道を曲げたり縮めたりする方が自然にできる」
「人間が家具を作るより、自分の手先を動かす方が簡単、みたいなものか」
「たぶん、それに近いのう」
なるほど。
コアちゃんの能力は、何でも無限に生み出せる万能創造ではない。
だが、ダンジョン内部を操作することに関しては、かなり融通が利くらしい。
椅子や机を作るより、道を繋ぎ替える方が燃費もよく、精度も高い。
これは覚えておくべきだ。
とても便利だし、とても危ない。
「さて」
俺は、目の前の扉を見た。
草原の中にぽつんと立つ、古びた倉庫の引き戸。
この向こう側には、祖父の家の庭がある。
そして、おそらく借金取りどもがいる。開けられていないのは何故なのだろうか?
鍵がかかってると思って開けなかったのか、はたまたコアちゃんが入り口を閉ざしていたのか。
「この扉の向こうにいるんだよな。よく分かるな、外の様子とか」
「この扉そのものが、妾の一部じゃからな」
「自前の扉だったのかよ……」
俺は引き戸をまじまじと見た。祖父の家にあった古い倉庫の扉だと思っていた。
だが、コアちゃんに言わせれば、これは単なる建具ではなく、ダンジョンの身体の一部らしい。
「鍵がついてなかったのも、それが理由か……。いや、とりあえずそれは置いておこう」
考えることが多すぎる。ダンジョンは生き物。扉は身体の一部。入口の向こうには借金取り。優先順位を間違えると、俺の人生がまた終わる。
「コアちゃん。入口の周りだけ、倉庫の中っぽくできないかな」
「倉庫の中っぽく?」
「ああ。このまま扉を開けたら、草原が丸見えになる。さすがにまずい。向こうから見たときに、ただの倉庫の内側に見えるようにしたい」
「もっとうまく想像してくれんと難しいぞ」
「だよな」
俺はスマホを取り出した。電池残量は心細いが、問題はない。
画像フォルダを開き、仕事で撮影した写真を探す。退職した職員の私物スマホに業務写真が残っているのは、厳密にはかなりよろしくない。だが、職場スマホなど支給されていなかったので仕方がない。
ないものはない。
クソだよ、クソ。
やがて、目当ての写真が見つかった。
以前、ダンジョン駆除後の確認で撮影した、古い家の倉庫内部の写真だ。
木の壁に土間、埃をかぶった棚に立て掛けられた使われていない農具。
薄暗く、狭く、何もなさそうな空間。
まさに「金目のものなど何もありません」という顔をした倉庫だった。
「……駆除、か」
写真のファイル名に残っていた言葉を見て、少しだけ手が止まった。
ダンジョン駆除。
入口を封鎖し、最奥の核を破壊し、土地や建物を元通り使える状態にする。
役場では、そういう仕事として扱っていた。
だが、コアちゃんが本当なら……。
俺たちは、何を駆除していたのだろう。
「主よ?」
「……いや、何でもない」
今は考えるな。
考えると、足が止まる。
俺はスマホの画面をコアちゃんへ見せた。
「こんな感じのやつだ。いけるか?」
コアちゃんは画面を覗き込み、ふむ、と頷いた。
「うむ。なんとかなりそうじゃ。それでは、主ももっと強く思い浮かべよ。これが欲しい。こういう場所が必要じゃ、と願うのじゃ」
「了解」
俺は写真を見る。
木の壁。
土間。
古い棚。
暗さ。
埃っぽさ。
外から見ても、奥に何もないように感じる狭さ。
欲しい。
今、俺に必要なのは、これだ。
何の価値もなさそうな、ただの古い倉庫の内側。それが欲しい。
そう強く思った瞬間、足元が動いた。
草原の地面がせり上がり、色を変え、木目のような模様を帯びていく。壁が薄く立ち上がり、棚らしき凹凸が作られ、入口周辺だけが急ごしらえの倉庫のように包まれていった。
数十秒後。
目の前にあるのは、古い倉庫の内側だった――ただし、明かりがない。
俺は慌ててスマホのライトを点けた。
「……おお」
「できたぞ。ただし、ハリボテじゃな。ぺらっぺらじゃ」
コアちゃんは少し不満そうに言った。
「壁も薄く強く叩かれれば壊れる。長く維持するのも向いておらぬ」
「この場を凌げれば十分だ。完璧な倉庫じゃなくていい。見られた瞬間に通報されない程度でいい」
「主は、ずいぶん低い完成度で満足するのう」
「現実の仕事ってそういうものだぞ。完璧より納期だ」
「それで主は死にかけたのではないか?」
「痛いところを突くな」
俺は深呼吸した。
扉の向こう側から、かすかに人の声が聞こえる。
間違いない。
いる。
「コアちゃんは隠れていてくれ」
「妾も行かぬのか?」
「行くな。お前を見られたら説明がつかない。青髪の美少女が祖父宅の倉庫から出てきた時点で、借金より厄介な話になる」
「む。妾は厄介なのか」
「存在がな」
「失礼な主じゃのう」
コアちゃんは頬を膨らませたが、素直に一歩下がった。
ハリボテ倉庫の奥、影の濃い場所へ身を引く。青い髪が薄暗がりに溶け、数秒後には、そこに彼女がいるとは分からなくなった。
「絶対に出てくるなよ」
「主が食われそうになったら?」
「人間相手に食う食われるで判断するな。危なくなったら合図する」
「合図とは?」
「俺が『もう無理』って言ったら」
「それはだいたい手遅れではないか?」
「……じゃあ『書類を燃やせ』で」
「分かった」
「比喩だからな?一応言っておくけど」
こんな状況で漫才をしている場合ではない。
俺は気を取り直し、扉に手をかけ、覚悟を決める。
この向こうにいるのは、借金取り。
祖父の借金を理由に俺を追い詰め、職場まで押しかけ、俺が無職になる最後の一押しをしてくれた、憎らしい現代モンスターどもだ。
ただし、ここから先は逃げるわけにはいかない。
この扉の奥は、俺の最後の札だ。
俺の家と、俺の生活と、たぶん俺の人生をひっくり返すかもしれない、唯一の手段だ。
俺は、ゆっくりと扉を開けた。
夜の庭の空気が、ハリボテ倉庫の中へ流れ込む。
そして、そこには。
「お、網代の兄ちゃん。やっと出てきた」
いつの時代だよ、と言いたくなるくらいテンプレートな、ヤのつく自由業の方々がいた。
俺は思わず、心の中で舌打ちする。
憎らしい現代モンスターの再登場である。なんで開けないで待ってるんだよ。
「よぉ、兄ちゃん。倉庫の中に隠れるなんて、かわいらしいところがあるじゃないの」
先頭に立っていた男が、にやにや笑いながら言った。
初日に玄関を叩き、職場にまで押しかけてきた男である。
名前は、たしか灰島。
役場時代にも何度か窓口で見た顔だ。異形絡みの土地相談やら、占有トラブルやら、生活保護窓口への同行やらで、何かと役場の周辺に現れるタイプの男だった。
職業欄に書ける仕事ではないが、役所の場所だけはよく知っている。
最悪である。
「別に隠れたわけじゃない。倉庫の中にハクビシンが住み着いてたから、激闘の末に追い出して、一服してただけだ」
「ハクビシン?」
「たぶんハクビシン。少なくとも、俺の知ってる普通の倉庫にいるべき生き物ではなかった」
ウォーグルフをハクビシン扱いするのは、ハクビシンに失礼かもしれない。
だが、嘘は言っていない。
倉庫の奥に普通ではない生き物がいた。激闘した。追い出した。俺は一服していた。
概ね事実である。
「で、何の用だ? そんなにぽんぽん来られても、金はまだできてないぞ? それとも、そんなに俺のことが好きなのか?」
言ってから、しまった、と思った。
つい挑発してしまった。これは俺の悪い癖だ。
窓口時代も、理不尽なことを言われ続けると、最終的に正論と皮肉の区別がつかなくなることがあった。社会人としては褒められたものではない。
特に、相手がヤのつく自由業寄りの現代モンスターである場合、なおさらだ。
灰島は一瞬だけ目を細めたが、すぐに笑みを戻した。
「いやいや。俺たちもさ、倉庫の中は見せてもらってなかったなと思ってねぇ」
「倉庫?」
「そう。網代の爺さんも、ここだけは頑なでさ。見せてくれなかったんだよ。鍵も見つからなかったしなぁ」
そうか。こいつらは、この扉を普通の倉庫の扉だと思っていた。
そして、祖父の家を荒らしたときも、この奥だけは確認できなかったのだ。
あるはずもない鍵を探していたわけである。
いや、厳密には扉そのものがコアちゃんの一部だったのだから、普通の鍵で開くはずがない。
「なるほど。で、俺がこの中にいると当たりをつけて、外で待ってたわけだ」
「当たりだったろ?」
「暇なのか?」
「仕事熱心と言ってほしいね」
「借金の取り立てを仕事熱心って言える精神、だいぶ終わってるぞ」
「兄ちゃんも口が減らないねぇ」
灰島の後ろにいた男たちが、じり、と位置を変える。
庭は暗い。
母屋の明かりは遠く、倉庫の前までは届いていない。こちらの手元を照らしているのは、スマホのライトだけだ。
扉の向こう、ハリボテ倉庫の奥にはコアちゃんがいる。
出てくるなよ? 本当に出てくるなよ?
俺は心の中で念押ししながら、できるだけ扉の前から動かないように立った。
「それで? 中を見せろって話なら断るぞ。相続した家の倉庫だ。お前らに見せる義務はない」
「そう言われると、ますます気になるんだよなぁ」
「人の家の倉庫を気にするな。変態か」
「金を返さない相手の財産状況を確認するのは、大事な仕事だよ」
「その財産状況とやらは、法的手続きに則って確認してくれ」
「堅いねぇ。役場辞めても、まだ役場の兄ちゃんか」
「無職になっても法律は残るんだよ」
灰島は、わざとらしく肩をすくめた。
「まあ、こっちも鬼じゃない。今日すぐ全額払えなんて言ってないだろ?」
「昨日から言ってただろ」
「気持ちの問題だよ」
「気持ちで借金が減るなら、俺は今ごろ大富豪だ」
会話しながら、俺は頭の中で整理する。
こいつらは、まだダンジョンの存在までは知らない。
少なくとも、確信はしていない。
だが、俺がこの倉庫に何かを隠していると思っている。
祖父がここだけ見せなかった。
俺がここに何時間もいた。
なら、金目のものがあるはずだ。
そういう雑だが厄介な推測で動いている。
灰島は、懐から煙草を取り出しかけて、俺の顔を見てからしまった。
「そう怖い顔すんなよ」
「人の庭で吸うな」
「吸ってねぇだろ」
「吸う顔をしてた」
「顔で罪に問うなよ」
「未遂だ」
「役場の窓口みてぇなこと言うねぇ」
灰島は少し笑い、それから声を低くした。
「金が返せないなら、そうだな。その倉庫の奥にあるものを、担保にしてもらおうか」
来た。
俺は、思わず扉の取っ手を握りしめた。
「何もないぞ」
「いや、何かあるだろ?」
灰島は、倉庫の中を覗き込もうとするように首を傾けた。
俺は半歩動いて、視線を遮る。
灰島の笑みが深くなった。
「でなければ、何時間も倉庫に籠ってなんかいられない。違うか?」
「片付けをしてたんだよ」
「片付け?」
「ああ。古い家の倉庫だぞ。埃と虫と、いつのものか分からない農具が山ほどある」
「なら見せてくれてもいいじゃないの」
「嫌だよ。お前らを入れたら、埃より厄介なものが増える」
「ははっ。言うねぇ」
灰島は笑ったが、目は笑っていなかった。
その目が、俺の服を見た。
血まみれの服。
破れた袖。
土と草の汚れ。
いくら身体が治ったとはいえ、外見は完全に事件後である。
「それにしても、兄ちゃん。ハクビシン相手にずいぶん派手にやったな」
「田舎のハクビシンは強いんだよ」
「そいつは怖い」
「お前らも気をつけろ。油断すると腕くらい持っていかれる」
「そりゃますます、奥を見たくなるなぁ」
「だから見るなと言ってる」
まずい。
会話で押し返してはいるが、相手の興味は薄れていない。
ここで無理に追い返そうとすれば、逆に踏み込まれる。
なら、別の話題へ流すしかない。
「そもそも、お前らの言う借金自体、俺は納得してない。あんな契約書、まともな金融機関なら即アウトだろ。親族が払うとか、条項が雑すぎる」
「まともな金融機関じゃ借りられなかったんだよ、あの爺さんは」
灰島の声が、少し変わった。
にやついた調子が残っているのに、どこか湿ったものが混じった。
「何?」
「兄ちゃん、本当に何も知らないんだな」
「祖父のことか?」
「ああ。お前、写真とか見たんだろ? 若い頃の爺さんの」
胸の奥が、わずかに冷えた。
お菓子缶の中の写真。若い父と母。赤子の俺。
その俺を抱いていた、黒髪に白いものが混じり始めた程度の、普通の老人。
「……何で知ってる」
「家の中はだいたい見たからな」
「堂々と不法侵入の自白をするな」
「こっちも探し物があったんだよ。爺さんが何か隠してると思ってたからな。ま、この倉庫だけは駄目だったが」
灰島は、倉庫の扉を軽く顎で示した。
「で、兄ちゃん。あの写真の爺さんを見て、何か思わなかったか?」
「何かって何だよ」
「普通の爺さんだったろ」
その言い方が、妙に引っかかった。
普通の。
つまり、その後は普通ではなくなったという意味だ。
灰島は、俺の反応を見て、愉快そうに口の端を上げた。
「お前、知らなかったのか」
「何を」
「あの爺さん、耳が伸びてから終わったんだよ」
一瞬、意味が分からなかった。
耳が伸びる。
それは比喩ではない。
今の時代、その言葉が指すものは一つしかない。
――異形化。
ダンジョンが現れてから、稀に人類へ起こるようになった現代病の一種だ。
魔力に晒された肉体が、環境へ適応するように細胞と構造を作り替えてしまう。人格が失われるわけでも、知性が落ちるわけでもない。感染するというデータもない。
それでも、変わった外見は人の目を引く。
魔力適応による身体モデルの変化。
ただそれだけだと説明されても、畏れと嫌悪は簡単には消えない。
そうして異形となった者たちは、一世紀以上にわたり差別の対象とされてきた。
その差別は、この現代でも根絶できていない。
そして、耳が長くなる変化形は――。
「……エルフ」
「そう。網代の爺さんは、途中からエルフになった」
灰島の声が、夜の庭に落ちる。
「仕事も信用も、家族も。だいたい、そのへんで終わったんだよ」
「……待て」
俺は、思わず言った。
「爺さんが、エルフ?」
「おう」
「写真では、普通だった」
「そりゃそうだ。あの頃はまだ伸びてなかったんだろ」
「父も母も、笑ってた」
「そうだろうな。耳が伸びる前なら、家族写真くらい撮れる」
言葉が、すぐには出てこなかった。
写真の中の祖父。
俺を抱いて笑っていた祖父。
父と母の隣に立っていた、穏やかな顔の男。
その男が、後にエルフになった。
それで仕事を失い、信用を失い、家族からも切り離された。
俺の知らない祖父。
俺が書類でしか知らなかった祖父。
その人生の空白に、突然、嫌な形が与えられた。
「……それで、お前らから借りたのか」
「さあな。最初は別のところだったかもな。互助会だの、異形者支援だの、生活再建融資だの、綺麗な看板はいくらでもある」
「お前らの看板は綺麗じゃないだろ」
「綺麗な看板の裏に、俺たちみたいなのがいるんだよ」
灰島は、淡々と言った。
「耳が伸びた年寄りに、まともな仕事が残ると思うか? 家族に迷惑をかけたくないって出て行った爺さんに、普通の銀行が金を貸すと思うか? 部屋を借りるにも保証人を求められる。再就職しようにも、履歴書を見た時点で返ってくる。顔を見せたら、もっと早い」
「だからって、搾っていい理由にはならない」
俺の声は、自分で思ったより低かった。
「分かってるよ」
「分かっててやってるなら、もっと悪い」
「綺麗な仕事で食えるなら、とっくにそうしてる」
その言葉には、わずかな棘があった。
「俺の身内にもいるんだよ。角が生えたやつがな。仕事は飛んだ。部屋も駄目になった。融資も駄目。役場に相談しても、たらい回しだ。異形者支援の窓口は予約でいっぱい。民間の保証会社は審査で落とす。で、最後に来るのが、俺たちみたいなところだ」
「……」
「綺麗な仕事で食えるなら、とっくにそうしてる。異形になった家族ひとり抱えたら、履歴書ごと返ってくるんだよ」
俺は、その言葉を否定できなかった。
役場で……窓口で見た。
異形化した人間が、制度の隙間でどれほど簡単に滑り落ちるのか。
異形化はあくまで魔力による身体変化で、感染するといったデータはない。
だが、人の畏れは拭いきれるものではない。
結果として、仕事を失う。
住む場所を失う。
家族に迷惑をかけまいとして離れる。
そして、支援制度の書類が整う前に、生活費が尽きる。
そういう案件を、俺は何度も見た。
だから、灰島の言葉が全部嘘ではないことが分かってしまう。
分かってしまうからこそ、腹が立った。
「それで、お前らが助けてやるって顔で近づいて、逃げ道を塞いだのか」
「俺が全部やったわけじゃない」
「そういう逃げ方をするな」
「……兄ちゃん、役場辞めても面倒くさいな」
「元からだ」
灰島は、舌打ちした。
だが、その目には苛立ちだけではないものがあった。
同情を求めているわけではない。
自分のやっていることを正当化しきれていない人間の、疲れた目だった。
それでも、俺は許す気にはなれなかった。
「祖父に何をした」
「俺が知ってるのは一部だ。借りた。返せなかった。利息が膨らんだ。家の物を少しずつ処分した。最後まで、この倉庫だけは触らせなかった」
「……」
「あの爺さん、耳が伸びてから終わった。けどな、最後まで何か隠してる顔はしてたんだよ。だから、兄ちゃん」
灰島の視線が、また俺の背後の扉へ向いた。
「その奥にあるものは、爺さんが俺たちにも見せなかった最後の担保かもしれない」
「違う」
「違うって言い切れるのか?」
「少なくとも、お前らのものじゃない」
「借金のカタなら話は別だ」
「法的には別じゃない。契約書を持って裁判所へ行け」
「本当に嫌なこと言うねぇ」
「仕事熱心なんでな」
しばらく、互いに黙った。
夜の庭に、虫の声だけが響いている。
灰島の後ろの男たちは、こちらの様子をうかがいながらも、まだ踏み込んではこない。
今なら、追い返せる。
そう思った瞬間、灰島が小さく息を吐いた。
「今日のところは帰る」
「そうしてくれ」
「だが、兄ちゃん。上はもう動いてる」
「上?」
「俺みたいな現場の取り立てじゃない。爺さんの債権を持ってる連中だ。倉庫の奥に金になるものがあると分かれば、俺が止めても来る」
「お前が言ったのか」
「言わなきゃ俺が詰められる」
「最低だな」
「最低な仕事なんだよ」
灰島は背を向けた。
だが、門へ向かう前に、一度だけ振り返る。
「逃げるなら早めに逃げな。兄ちゃんが思ってるより、異形向けの金貸しはしつこい」
「ご忠告どうも」
「あと、ハクビシン退治で血まみれになったって話は、もう少し練った方がいい」
「うるさい」
「じゃあな、網代の兄ちゃん」
灰島たちは、庭から出て行った。
足音が遠ざかる。
門の外で車のドアが閉まる音がして、しばらくしてエンジン音も消えた。
俺は、しばらくその場から動けなかった。
祖父は、エルフだった。
耳が長くなってから終わった。
仕事も信用も、家族も。
灰島の言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
お菓子缶の写真を思い出す。
赤子の俺を抱いていた、普通の老人。
若い父と母。
笑っていた三人。
あの写真の後に、何があったのか。
俺は、何も知らなかった。
何も知らないまま、祖父の家を相続し、祖父の借金を呪い、祖父の倉庫に逃げ込んだ。
その倉庫の奥で、コアちゃんと出会った。
「……最悪だな」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
そのとき、背後の暗がりから、コアちゃんの声がした。
「主よ」
「……出てくるなって言っただろ」
「もう帰ったではないか」
「そうだけど」
コアちゃんは、ハリボテ倉庫の影からそっと姿を現した。
青い髪が、スマホのライトを受けて淡く光る。
彼女は俺の顔を見上げて、少しだけ首を傾げた。
「主。お主は、あの者が話していた耳の長い者を知らぬのか?」
「知らなかった。祖父が異形化してたなんて、聞いたことがない」
「そうか」
コアちゃんは、少し考えるように目を伏せた。
「異形化というものは、妾にはよく分からぬ……。じゃが、主よ。妾は、少し知っておるかもしれぬ」
「何を」
「昔、この近くに届いた味じゃ」
「味?」
「うむ。主と少し似ておった。血の繋がりがある者は、欲の香りもどこか似るのかもしれぬな」
俺は息を止めた。
コアちゃんは、草原の奥を見るように、どこか遠い目をした。
「耳の長い人の味じゃ。駆と似ておった。じゃが、もっと苦くて、ずっと腹を空かせておった」
「……祖父が、ここに入ったのか?」
「分からぬ。妾が今のように目覚めていたわけではない。扉も、今ほどはっきり開いておらなんだ。ただ、薄く、遠く、届いていた。飢えた者の欲。何かを守りたい欲。誰にも見せたくないものを抱えている味」
「誰にも見せたくないもの……」
俺は、背後の倉庫を振り返った。
祖父は、最後までこの倉庫だけは見せなかった。
灰島たちにも。
たぶん、誰にも。
もし祖父が、この場所に何かを感じていたのなら。
もし、まだ入口にはなっていなかったとしても、このダンジョンの気配に触れていたのなら。
祖父が守ろうとしたものは、何だったのだろう。
「苦かったのか」
「うむ。主の欲は生々しいが、熱い。あの耳の長い人の欲は、もっと冷えておった。諦めた味もした。じゃが、空っぽではなかった」
「……そうか」
祖父の借金は、ただの迷惑な負債ではなかった。
もちろん、俺にとって迷惑であることは変わらない。
死ぬほど迷惑だ。
だが、それは異形になった人間が、普通の生活から押し出され、押し出された先でさらに食い物にされた結果でもあった。
そして今、その同じ手が、俺の倉庫の奥へ伸びようとしている。
「コアちゃん」
「なんじゃ」
「この扉、絶対に守るぞ」
「言われるまでもない。これは妾の一部じゃ」
「俺にとっても、最後の札だ」
コアちゃんは、嬉しそうに笑った。
「ならば、主の欲と妾の腹で守るとしよう」
「その言い方はだいぶ不安だが、今は頼もしい」
俺は、もう一度門の方を見た。
灰島たちは帰った。
だが、問題は終わっていない――むしろ、始まったばかりだ。
祖父がエルフになってから何を失ったのか。
誰がその弱みに近づき、どんな契約で縛ったのか。
そして、倉庫の奥にあるこのダンジョンを、次は誰が奪いに来るのか。
夜の庭は静かだった。
だがその静けさの向こうで、何かが動き出している気配だけは、嫌というほど分かった。
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