第5話 一億円の秘薬があれば、 たぶん黒字である

 目を開けた瞬間、最初に思ったのは、まだ生きている、ということだった。


「……ぅ、あ……」


 喉の奥から、声とも息ともつかない音が漏れる。


 どれくらい気を失っていたのかは分からない。


 数秒かもしれないし、数分かもしれない。落とし穴へ吸い込まれた瞬間から、記憶が綺麗に途切れている。頭の奥がぐらぐらと揺れ、胃の中身が全部ひっくり返りそうだった。


 それでも、ここで寝転がったままではいられない。


「くそ……立て、俺……」


 草の上ではなく、冷たく硬い地面へ手をつく。


 身体を起こそうと、足に力を入れた。


「――っ、ぎ……ぁぁぁぁっ!?」


 視界が白く弾けた。


 左足の奥から、神経を直接引き抜かれるような激痛が走る。反射的に身体を倒し、浅い呼吸を繰り返しながら、震える指で足へ触れた。


 触れた瞬間に分かった。


 折れている。


「落とし穴に落ちて……足を骨折して……遭難とか……笑えないぞ……」


 いや、本当に洒落にならない。


 誰も知らない未登録ダンジョンの中で怪我をして、動けなくなり、そのまま遭難。


 仮に俺がここで死んだとして、発見される確率は限りなく低いだろう。ヤクザどもが倉庫の扉を見つけて入ってきたとしても、わざわざ俺を救助してくれるとは到底思えない。


 せいぜい、死体の横で「返済能力がなくなっちゃったねえ」と笑われるのがオチである。


「いやいや……少し、ポジティブに考えよう……」


 痛みに滲む涙を袖で拭いながら、俺は自分へ言い聞かせた。


「幸い、あのクソ狼からは逃げおおせたんだ。すぐに食われて死ぬことはない……。足は病院に行けば……たぶん……なんとか……」


 問題は、その病院へ行く方法がないことだが。


 俺は痛みに耐えながら、周囲を見回した。


 そこは、草原の下に口を開けた洞窟のようだった。


 天井も壁も、ごつごつとした岩肌に覆われている。だが、ただの岩ではない。黒に近い地肌のあちこちに、青い金属のような煌めきが混じっていた。薄暗い洞窟の中なのに、完全な闇ではないのは、その青白い光が壁面からかすかに漏れているせいらしい。


「天然の非常灯……ってことにしていいのか、これ……」


 少なくとも、スマホのライトがなくても、自分の手足や数メートル先の地形くらいは見える。


 そして俺のすぐ近く、洞窟の壁の中腹に、ぽっかりと横穴が開いていた。


 穴の中は急な斜面になっており、ところどころに崩れた土とちぎれた草が引っかかっている。


「俺が落ちてきた場所……いや、転がり落ちたのか」


 垂直に奈落の底へ落下したのではない。草原の足元が崩れ、あの急斜面を身体中ぶつけながら転がり落ち、最後にここへ放り出されたのだ。


 だから即死せずに済んだ。


 左足が折れて、全身が痛み、脇腹の傷がまた開きかけている程度で済んだ。


「……幸運、だったのか?」


 自分で口にして、まったく納得できなかった。


 だが、生きているという一点だけで言えば、幸運だったのかもしれない。


 そう思った、そのときだった。


 ざっ、ざっ、ざっ、と。


 横穴の奥から、何かが地面を蹴りながら駆けてくる音がした。


 洞窟の壁へ反響し、最初は小さかった音が、急速に大きくなる。


「……は?」


 俺は横穴を見上げた。


 聞き覚えがある。


 草を踏む音ではないが、四本脚の生き物が、こちらを目指して走ってくる音だ。


「いやいやいやいや、嘘だろ!? 執念深すぎるだろ!?」


 片目を氷の礫で潰され、落とし穴へ落ちた獲物を見失ったなら、そこで諦めてくれてもいいはずだ。


 なのに、あいつは追ってきている。


 俺を喰うためだけに、地下まで降りてきている。


「お前、もっと他に食べるもの探せよ! 俺、もう傷んでるぞ!?」


 叫んでも、足音は止まらない。


 ここに転がっていれば、数秒後には殺される。


 俺は歯を食いしばり、左足へ魔力を集中させた。


 筋肉を強くするのではない。


 動かすためには、まず折れた部分がこれ以上ずれないようにする必要がある。


 皮膚と筋肉の分子構造へ干渉し、一時的に硬質化させる。防御のために使われる強化魔法だが、骨折箇所の周囲を固めれば、内側から巻く添え木のようには使える。


「ぐ……ぅっ、ぉぉぉ……!」


 痛い。


 当たり前だ。骨が繋がったわけではない。折れた足を、折れたまま動かない形に押さえ込んでいるだけなのだから。


 治癒でも回復でもない。


 壊れた身体を、壊れたまま稼働させるための誤魔化しだ。


「歩ける……歩ければ……まだ……!」


 壁に肩を預けながら、無理やり立ち上がる。


 洞窟の奥へ視線を向けると、青白い壁の向こうへ、さらに道が続いていた。


 どこへ繋がるかは知らない。


 だが、横穴から響いてくる足音よりはマシだ。


「ともかく距離を――」


 その言葉は、最後まで続かなかった。


 横穴の斜面から、赤い影が飛び降りた。


 地面へ着地した衝撃が、洞窟の床を揺らす。


 片目から血を流し、口元を歪ませたウォーグルフが、俺の前へ姿を現した。


「……お早いお着きで」


 声が震えるのを、どうにか軽口で誤魔化す。


「鬼ごっこじゃなくてさ、だるまさんが転んだとかに競技内容を変えないか?」


 もちろん、話が通じないことは分かっている。


 音を出して少しでも威嚇をしようという、合理的な判断によるものだと思ってほしい。


 軽口でも叩いていないと、俺の心がもう折れそうなのだ。


 ウォーグルフは即座に飛びかかってはこなかった。


 低く唸りながら、俺を中心に円を描くように動いている。


 右目には、さっき撃ち込んだ血の氷礫が残っているのか、潰れた瞼のあたりから赤い血が流れ続けていた。傷つけられた怒りが、空腹よりも強くなっているのかもしれない。


「半端に傷を与えたせいで、この状況か……」


 左足は折れている。


 脇腹は裂けている。


 身体強化で歩けるように誤魔化してはいるが、逃げる選択肢はもうない。


 ここで、あれを殺さなければ。


 おそらく、俺の命はここまでだ。


 野生では、ともかく生き延びれば勝ちだと誰かが言っていた。どれだけ怪我をしても、何を失っても、まず生きていることが大前提である。生きてさえいれば、明日へ命を繋いでいける。


 つまるところ――何を犠牲にしてでも、生き延びる。


 そういう覚悟を決めるしかない。


 俺は左手へ魔力を回しかけ……、すぐに諦めた。


「……無理だ。左じゃ、細かい操作が間に合わない」


 普段から利き手で行っていた魔力操作を、死ぬかもしれない局面でいきなり逆手に切り替えられるほど、俺は器用ではない。


 傷口へ氷を撃ち込んだせいで震えている右手を、ゆっくりと前へ出す。


 出し惜しみはできない。


 ウォーグルフが動きを止めた。


 こちらへ飛びかかるため、後脚に力を溜める。


 今度こそ、俺の命を取りに来るつもりなのだろう。


 俺は深く、息を吸った。


「痛いだろうなぁ……」


 右手へ魔力を集中させる。


「絶対、痛いだろうなぁ……」


 ウォーグルフの牙が、青白い光を受けて鈍く光る。


「……覚悟を決めろ、俺!」


 ウォーグルフが大きな口を開けて、飛びかかった。


 俺は逃げなかった。


 その口めがけて、自らの右腕を差し出す。


 拳を、開かれた顎の奥へねじ込んだ。


「ぐぁぁぁぁぁぁっ!?」


 ウォーグルフの牙が、右腕へ深く刺さる。


 焼けた鉄杭を何本も打ち込まれたような激痛に、意識が飛びそうになる。


 だが、噛まれる直前に腕へ硬質化を施していた。骨まで一瞬で砕かれ、引きちぎられることだけは防げた。


 止められたのは、そこまでだ。


 痛い。


 痛いに決まっている。


 それでも、ここまで入り込めば十分だった。


「この……クソ野郎がぁぁぁぁっ!!」


 強化を施した右腕の、魔力操作の内容を書き換える。


 電気ウナギの生態を授業で学んだとき、俺は考えたことがあった。


 体内のイオンを移動させることで電位差を作れるのなら、人間でも魔力を使えば似たことができるのではないか、と。


 当時の教師には、危険だから絶対に試すなと言われた。


 当然である。


 人間の身体は、放電するためにできていない。


 けれど、今だけは、その危険性こそが必要だった。


 体内のナトリウムイオンを、魔力で急激に偏らせる。


 右腕の内側を、針の束で引き裂かれるような感覚が走る。


 指先に、数百ボルト級の電位差を生じさせる。


 唾液と血で濡れた、ウォーグルフの口内へ。


 放つ。


 閃光が弾けた。


 洞窟の中に、雷鳴のような破裂音が轟く。


 ウォーグルフの身体が、激しく跳ねた。


 牙が右腕へ食い込んだまま、全身の筋肉が制御を失ったように痙攣する。


 数秒後。


 赤い狼型魔物は、俺の腕からぼろりと外れ、地面へ落ちた。


 ぴくりとも動かない。


「……は……はは……」


 どう見ても、絶命していた。


 勝った。


 俺は、生き残った。


 だが、その事実に安堵できるような状態ではなかった。


「っ……ぁ、ああぁぁぁぁっ!?」


 右腕から遅れてやってきた痛みに、俺はその場へ膝をついた。


 痛い。


 なのに、まともな感覚がない。


 熱いのか、冷たいのか、触れているのかすら分からない。ただ、肩から先へ激痛だけが濁流のように流れ込み、右手は自分の命令を一切聞かなかった。


 暗い洞窟の光の中で見ると、指先はひどく焦げ、牙で抉られた腕からは血が滴っている。


 放電による熱と、無理な魔力操作と、噛み傷。


 右腕、とくに指先は激しく損傷し、もうまともに動くとは思えなかった。


「……昔、やったときは……静電気レベルでも、死ぬほど痛かったのに……」


 学生の頃、好奇心で一度だけ試したことがある。


 ほんの小さな放電でしかなかったが、それでも指先はしばらく痺れ、痛みが引くまで何日もかかった。


 あれを、狼の口の中へ、殺すつもりで撃ち込んだのだ。


 どうなるかなど、考えるまでもなかった。


「悲しいことに……この世界……魔法は使えても……肉体がついてこないんだよな……」


 便利な力を使えるからといって、人体が万能になるわけではない。


 火を起こせば火傷する。


 冷やせば凍傷になる。


 身体を強化すれば負荷で壊れる。


 放電などすれば、当然のように自分の腕も焼ける。


 それでも。


「……生きてる」


 とりあえず、命は繋げた。


 脇腹と左足は、病院まで辿り着ければ何とかなるかもしれない。


 右腕は……。


 俺は、力なく垂れ下がった腕を見た。


「よくて……切断かな……」


 冗談にしたかったが、声は乾いていた。


 後悔はある。


 それでも、あそこで放電を使わなければ、今頃俺の右腕どころか、俺そのものがウォーグルフの腹の中だった。


 選択としては、間違っていない。


 間違っていないはずだ。


「洞窟の奥に……身体を治すような……そういうのがあれば……」


 俺は、青白く光る洞窟の奥へ目を向けた。


「オークションサイトで稀に見るエリクサーとか、ポーションとか……。ダンジョンなんだから、一つくらいあってもいいだろ……」


 もはや、祈りに近い。


 だが、ここで倒れていても失血して死ぬだけだ。


 俺は壁へ背を預け、硬質化で固定していた左足にもう一度魔力を通し、どうにか身体を持ち上げた。


「エリクサー……相場、いまいくらだっけかな……」


 一歩踏み出すたびに、足と脇腹と右腕から別々の痛みが襲ってくる。


 頭がぼうっとする。


 それでも、口を止めると本当に倒れてしまいそうで、俺は意味もなく計算を続けた。


「確か……億は固いよな……。一億円で右腕を失いました……とかなら……かなり微妙か……?」


 いや、待て。


 内臓だって数百万円で売れるとか、昔どこかで聞いたことがある。


 腕一本と引き換えに一億円相当の秘薬が見つかるなら、収支だけで考えればプラスではないだろうか。


「……プラスだな。うん。たぶん黒字……」


 痛みと失血で、金銭感覚までおかしくなっている自覚はあった。


 左足を引きずりながら、洞窟の奥へ進んだ。


 青い光は、奥へ行くほど少しずつ強くなっていく。


 道はやがて、広い空間へ繋がっていた。


 そこへ足を踏み入れ――そして、笑った。


「はは……そういうオチかよ」


 満身創痍で辿り着いた、ダンジョンの最奥。


 そこにあったのは、財宝でも、身体を癒す秘薬でもない。


 洞窟の地面に半ば埋まり、ひび割れ、青白い光を漏らしながら、今にも鼓動を止めそうに脈打つ塊。


 ――死にかけのダンジョンの核だった。

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