第3話 魔物でも出てこいと言ったら、本当に出てきた
境界を越えた瞬間、俺は勢いのまま草の上を数歩よろめいた。
「っと……!」
足元が柔らかい。
庭の雑草とは違う。踏みしめた草が靴の裏でしなり、青臭い匂いが鼻へ抜ける。風が頬を撫でるたび、汗で張り付いていた髪が揺れた。
振り返る。
そこには、草原の真ん中にぽつんと、古びた倉庫の扉が立っていた。いや、正確には、扉の向こうに祖父の家の庭が見えている。夜の闇。伸び放題の雑草。スマホのライトを点けたまま飛び込んできたせいで、向こう側の庭だけが白く頼りなく照らされていた。
「網代さーん? どこ行ったのー?」
「……っ!」
向こう側の庭から間延びした声が聞こえた。
冗談じゃない。こんなところまで入ってこられてたまるか。
俺は慌てて扉へ戻ると、内側から取っ手を掴んだ。扉というものが異界側から閉められるのかどうか、考えている暇はない。
「入場料も払わねえ奴は、帰れ!」
勢い任せに引く。
ガラガラ、と古い引き戸が横へ滑った。
庭の夜景が狭まり、男たちの声も途中で細くなり、最後には完全に消えた。
目の前に残ったのは、草原の中に立つ、閉じた古い蔵扉だけだった。
「……閉まった。よな?」
俺は取っ手を握ったまま、しばらく動けなかった。
向こう側から扉を開けられるかもしれない。そもそも、あいつらが倉庫まで探しに来れば、入口に気づく可能性は高い。金の匂いと違法の匂いに敏感な連中である。未登録ダンジョンを見つけたら、俺を追うより先に勝手に利用し始めるかもしれない。
「いや、どっちにしてもここにいるのは駄目だな……」
扉の前で待ち伏せなどされたら、戻れなくなる。
あいつらが中へ入ってくるにせよ、出口を塞ぐにせよ、まずはこの場を離れなければならない。
俺はスマホを握り直し、改めて周囲を見渡した。
草原が、一面に広がっていた。
どこまでも、という表現が大げさに思えないほど、本当に何も遮るものがない。背の低い緑の草が風に揺れ、緩やかな波のように遠くまで続いている。
そして、その先で空と大地が一本の線になっていた。
「……地平線って、あんな風になってるんだな」
思わず、声が出た。
初めて見た。
画像や映像では何度も見たことがある。学校の教科書にも出ていたし、旅行番組で広い草原や砂漠が映れば、それっぽいものを目にする機会はあった。
けれど、実際に自分の目の前で、空と地面がまっすぐ交わっている光景を見るのは初めてだった。
「地平線なんて、チベット? だかモンゴル? だか、そっちの方に行かないと見られないって聞いてたけど……ダンジョンでも見られるもんなんだなぁ……」
借金取りから逃げ込んだ未登録ダンジョンの中で、俺は少しだけ感動していた。
我ながら呑気である。
「……っと。感心してる場合じゃねえな」
頭を振り、空を見上げる。――青い。雲もある。なのに、太陽らしきものが見当たらない。光源がないのに、草原全体が昼間のように明るい。
「ダンジョン内部ではよくあるやつ、っと……」
内部空間が地上の物理法則どおりとは限らない。空があるから屋外とは限らないし、太陽がなくても明るい空間はいくらでもある。
次に、周囲を見渡す。草。風。地平線。
それ以外に、目立つものは何もない。
「魔物の姿は……なし。怪しい音も……なし。気配も……特になし」
言ってから、俺は自分で首を傾げた。
「いや、気配って何だよ。俺にそんなの分かるわけないだろ」
達人というものは、本当に殺気とか生物の気配とかを感じ取れるのだろうか。背後にいる相手の視線に気づいたり、物陰に潜んでいる獣の呼吸を察知したり。
できるのなら、今すぐ講習を受けたい。
俺が分かるのは、今のところ見える範囲に俺を食おうとしている生き物はいない、という程度のことである。
「ともかく、入口から離れないとな……」
俺は閉じた蔵扉へスマホを向けた。写真を一枚撮る。画像には、青空と草原の中に不自然に立つ、古い蔵扉が写っている。
「……我が家の出入口、異世界側から見ると変なオブジェにもほどがあるな」
次に、スマホのアプリ一覧を開く。
当然ながら、通常の地図アプリは役に立たない。位置情報を確認してみたが、GPSは現在地を取得できずに読み込みを続けている。
「まあ、そうだよな。異界の草原に衛星から位置情報が届いたら、そっちの方が怖いわ」
だが、幸いなことに、俺はただの無職になったばかりの青年ではない。
つい数時間前までは、ダンジョン発生不動産の対応部署で、クソみたいな労働環境に耐えながら仕事をしていた人間である。
スマホの中には、業務で使用していた簡易マッピングアプリが残っていた。
GPSによって正確な現在地を表示するものではない。ダンジョン入口を起点として登録し、端末の方位計、歩数計、加速度情報、それから利用者が入力した地形のメモを組み合わせ、内部での相対位置を記録するためのものだ。
初動確認や、調査員の遭難防止に使うアプリである。
まさか、役場を辞めたその日に、俺自身が未登録ダンジョンで使うことになるとは思わなかった。え? 職場のスマホ? ないよそんなの。あるわけないだろ、クソだよクソ。
「在職中に消せって言われてないから、セーフ……だよな。うん、今は命の方が大事だ」
入口を起点登録する。
画面上に、小さな赤いピンが一つ表示された。
仮名称入力欄が出てきたので、俺は迷った末に打ち込む。
《祖父宅倉庫入口/未報告》
「……後ろめたさが名称にまで現れてんな」
だが、これで少なくとも、入口の方角を見失う可能性は下がった。
こんな目印も何もない草原で、勘だけを頼りに歩いたら一時間もせず遭難する。ダンジョンの内部空間が素直な直線で繋がっている保証すらないのだ。
俺は、扉から見て反対側――ひとまず東側と記録される方向へ歩き出した。
目的は二つ。
ヤクザどもが入ってきたとしても、すぐに見つからないだけの距離を稼ぐこと。
そして、次に金目のものを探すこと。
「頼むぞ。宝箱でも、金塊でも、レアな魔導具でもいい。こんな場所に飛び込んだ甲斐くらいはあってくれよ……」
草を踏み、風の中を進む。
入口の扉は、少しずつ小さくなっていった。
◇
ダンジョンへ入って、適当に歩き続けること、およそ二時間。
「……なんもねぇな」
俺は、とうとう我慢できずに口に出した。
いや、本当に何もない。
草。
空。
風。
たまに足元を横切る小さな虫のようなもの。
……以上である。
視界の端から端まで、ずっと草原。東へ向かって一直線に進んでいるつもりだが、景色が一ミリも変わらないせいで、実際には同じ場所をぐるぐる回っているのではないかという不安まで湧いてくる。なんかそういうの人間にはあるって聞いたことがあるしな。利き足のほうが蹴る力が強いせいだっけか……?
俺は何度目か分からない確認のため、マッピングアプリを開いた。
入口を示す赤いピンは、画面上でしっかり後方にある。移動記録も、少なくとも端末の計測上では直線に近い軌跡を描いている。
「方角は合ってる。歩数も記録されてる。……じゃあ、本当に何もないだけかよ」
これは、困った。
俺だって、ダンジョンの現場へ毎日潜っていたわけではない。役場職員は探索者ではなく、入口と土地と苦情と責任の押し付け合いを処理する職業である。
それでも、現地確認や資料映像で、いくつかのダンジョン内部は見たことがある。
普通、ダンジョンにはもう少し何かがいる。
虫や小動物、魔物の足跡、食い荒らされた草木、巣の痕跡。内部に独自の生態系があるなら、危険であれ有用であれ、生命の存在を示すものが何かしらあるものだ。
だというのに、ここには何もない。
「魔物すら出てこないって、どういうことだよ……」
魔物は怖い。
もちろん、遭遇せずに済むならその方がいい。
だが、ここまで何も見つからないとなると、話は変わってくる。
財宝はない。
人工物もない。
採取できそうな珍しい植物もない。
せめて魔物がいれば、個体によっては何かしら換金可能な素材が取れる可能性もあった。
まあ、たいていの魔物素材は大した値段にならない。
魔物の毛皮で鎧を作るくらいなら、ケブラー製品を買った方が軽くて強い。牙や爪を武器に加工するくらいなら、ホームセンターで売っている合金製スコップを振り回した方が百倍信用できる。
それでも、ものによっては魔力特性を持った器官や、研究用に需要のある部位が取れる。
ゼロよりはマシなのだ。
今の俺には、ゼロよりマシなら何でもいい。
「財宝もない。素材もない。景色だけはやたら綺麗。観光地として売り出せってか? 未登録で? 無職の俺が? どうやって!?」
叫んでも、返ってくるのは草の揺れる音だけだった。
風に吹かれた草原は、腹が立つほど爽やかで美しい。
こっちは人生がかかっているというのに、ダンジョン側は「映える写真でも撮って帰れば?」とでも言いたげな平穏さである。
「どこまで俺を追い詰めれば気が済むんだよ……!」
借金取りに目をつけられたせいで仕事を辞め、生活費に困窮し、最後の希望で開けた倉庫の中が未登録ダンジョンで……報告義務と土地を失う危険を抱えながら飛び込んでみれば、二時間歩いて草しかない。
「ちくしょう! 魔物でもなんでもいいから出てきてくれ!!!!!!」
俺の叫び声が、どこまでも続く草原へ響き渡った。
返事をする相手など現れるわけもない。そう考えていた。だが――風の音に混じって、低い唸り声が聞こえた。
「…………」
俺は、ゆっくりと口を閉じた。
「いや。今のは比喩というか、やっぱり訂正で――」
草の向こうで、何かが動いた。
「いやいやいや、さっきまでマジでなんもいなかったじゃん。え? 何? 何なの? 生えたの? 魔物が? ゲームみたいに?」
草むらの揺れが、一直線にこちらへ近づいてくる。
「うっそだろ、お前、そんなファンタジーじゃないんだぞ!? いや、ダンジョンはファンタジーかもしれねぇわ!」
訂正。
ダンジョンは十分すぎるほどファンタジーだった。
ただし、そこにいる俺は勇者でも冒険者でもなく、さっき無職になったばかりの元役場職員である。
唸り声の主が、草を割って姿を現した。
赤い毛並み。
痩せ細った四肢。
背を低く落とし、こちらを睨む黄色い目。
外見だけなら、地上ではとうに絶滅したニホンオオカミに酷似している。だが、こいつは天然記念物でも、復元された保護動物でもない。
ダンジョン内部では比較的よく目撃される狼型の魔物。
「……ウォーグルフ」
俺は、乾いた声でその名を口にした。
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