ダンジョンは魔物の内臓につき、固定資産税ゼロ。〜借金まみれの元役場職員、相続したボロ家の倉庫で迷宮経営を始めます〜

髪之流

家賃は欲望で結構です

第1話 家を相続したら闇金もついてきた

「お主が妾のマスターか?」


「……これなんてエロゲ?」


 ダンジョンの最奥で、俺は少女と出会った。


 青い癖毛の髪。暗い洞窟の中だというのに、妙に透き通って見える白い肌。少女から大人へ移り変わる境目のような、すらりとした身体。


 そして何より、目が綺麗だった。

 澄み切った、何も疑っていない瞳で、彼女は俺を見下ろしていた。



 ちなみに俺はというと、地面に仰向けで倒れていた。


 右腕は上がらない。左足はたぶん折れている。脇腹から流れた血は、すでに服を黒く染めていた。さっきまで俺を食い殺そうとしていた痩せた狼型の魔物は、少し離れた場所で、口から焦げた煙を吐きながら痙攣している。


 要するに、満身創痍。


 もっと端的に言えば、死にかけだった。


「えろげ、とは何じゃ?」


「今の俺に説明させる気か……? 死ぬぞ……俺が……」


「む。死なれては困る。せっかく、ようやく妾をここまで満たしうる欲望の持ち主が来たというのに」


「何だその……上位生命体が漫画で言いそうなセリフは……」


 意識が遠のく。


 借金取りに追い込まれ、金目の物を探して倉庫の扉を開け、なぜか草原と洞窟をさまよい、魔物に殺されかけた挙げ句、最後に青髪の美少女からマスター認定される。


 人生の終わりとしては、だいぶ意味が分からない。こんなことになるのならばダンジョンに入らなければ……いや、不可抗力みたいなものだから仕方がないか……。


 少女は俺の傍らに膝をつくと、胸元にそっと手を置いた。


「安心せい。お主は妾の主となった。主を死なせるほど、妾は薄情ではない」


「初対面で……所有権が……確定してる……」


「逆じゃ。お主が妾を欲したから、妾はこうして生まれたのじゃぞ?」


「……意味が分からないな。その言い方じゃあ、俺がお前を創ったみたいな言い方じゃないか……?」


「うむ。なかなか業が深い。己の性癖とはきっちり向き合わんとな」


「死ぬ前に知りたくなかった……そんな性癖……。」


 少女が、無垢な顔で笑った。


 その瞬間、彼女の手のひらから青白い光が溢れた。


 折れたはずの足が熱を持つ。裂けた脇腹が塞がっていく。潰れかけていた肺へ空気が戻り、俺は血と土に塗れたまま、大きく咳き込んだ。


「身体が動く……?」


「直してやっただけじゃ。妾の中で死なれると、寝覚めが悪いからの」


「なんだろう、治療じゃなくて修理のように聞こえたのは? というか、妾の中……?」


「うむ。ここは妾の内側じゃ」


 少女は、誇らしげに両腕を広げた。


「迷宮核たる妾の身体。その奥底へ辿り着き、妾を目覚めさせた褒美に、お主へ望むままの願いを叶えてやろう」


「願い……」


「金でも、城でも、女でも、権力でもよい。お主の欲するものを申してみよ。妾は欲望を糧に、何でも育ててみせるぞ」


 その言葉に、俺の頭へ最初に浮かんだものは、世界征服でも、不老不死でも、ハーレムでもなかった。


 借金。

 家賃。

 税金。


 そして、二度と役所の窓口で頭を下げなくて済む生活。


 俺は震える指で少女の手を掴み、絞り出すように告げた。


「……金だ」


「ほう?」


「借金を返せるだけの金と……誰にも奪われない家と……あと、税金がかからない生涯安定した収入源が欲しい……!」


 少女は、一瞬だけ目を丸くした。


 やがて、心底嬉しそうに笑った。


「よい。実によいぞ、我が主。小さいくせに生々しく、切実で、腹の底から煮詰まっておる。妾はそういう欲望が大好物じゃ」


「褒められてる気がしねぇ……」


「名を聞こう、主よ」


「……網代、駆あじろ かける


「では、駆。妾にも名をつけよ」


 息をするたび、まだ肋骨が痛む。


 頭は混乱している。状況は何一つ理解できていない。


 それでも確かなことが一つだけあった。


 俺は、どうやら死なずに済んだらしい。


 そして、祖父の家の倉庫で見つけたこの化け物じみた幸運は、俺の人生を根こそぎひっくり返す。


 これは、相続したボロ家の倉庫から、魔物の内臓へ繋がる扉を見つけた俺が。


 借金取りと、役所と、税金と、ついでに国家を相手取り。


 やがて<  >と呼ばれるまでの物語である。


 話は、少し前に遡る。



 あれはそう、俺が、祖父の家を相続した日のことだ。

 いや、正確に言うならば、相続した家へ初めて足を踏み入れた日のことだ。


 その家の存在を知ったのは、さらに一ヶ月ほど前。場所は、できれば人生の記憶から消去したい、俺の職場である町役場だった。


「網代くん。ちょっといい?」


 昼休憩に入る直前、直属の上司に呼び止められた。


 ちょうどそのときの俺は、昨日の残業で処理しきれなかった申請書類を、今日の残業で処理しきれないことが確定した瞬間だった。


 窓口からは怒鳴り声。内線からは催促。共有フォルダには誰も触りたがらない案件が増殖中。給湯室の自販機で買った缶コーヒーは、一口も飲まないまま常温になっていた。


 もう限界だった。


 安定した公務員生活?


 笑わせる。安定しているのは、毎日定時で帰れないことと、責任だけが末端の机に落ちてくることだけだ。


「……なんですか。クレームですか。現地確認ですか。それともまた『とりあえず網代くんのところで持ってて』案件ですか」


「いや、仕事じゃない。君宛てに連絡が来ていてね」


「俺宛て?」


「警察から」


 その一言で、何かやらかしただろうか、と本気で考えた。


 いや、していない。少なくとも警察にお世話になるようなことはしていない。役場の公用パソコンで退職代行のサイトを見たことはあるが、犯罪ではないはずだ。


 上司は、気まずそうに一通の封筒を差し出した。


「君のお祖父さんが亡くなったそうだ。身寄りが確認できず、調査した結果、君に行き着いたらしい。住所が確認できなかったとかで、警察から役場に問い合わせがあって……まあ、君が在籍していたから、そのままこちらで預かった」


「…………」


 俺は封筒を受け取りながら、しばらく黙った。


 祖父。


 俺には、祖父がいたらしい。


 いや、生物学的に考えれば両親にそれぞれ父親がいて、そのうちの誰かが祖父になるのは当たり前だ。無から生えて来る肉親など、妹だけで十分だ。だが、俺の記憶の中に「祖父」という人間はいなかった。


 会った記憶もない。声も知らない。写真を見せてもらったことすらない。


 それが、亡くなった。


 そして、なぜかその知らせが、職場で手渡された。


「……いや、待ってください」


「ん?」


「普通、こういうのって俺の自宅宛てに送るものじゃないんですか?」


「だから、住所が確認できなかったとか、緊急性がどうとか――」


「緊急性があったら、職場で親族の死亡通知と相続関係の書類を手渡していいんですか?」


「まあ、役場だし。個人情報の照会も――」


「腐ってるな、この町役場」


 思わず声に出ていた。


「網代くん?」


「いや、マジでイカれてるのかと思いまして。警察も警察なら、それを受け取って本人の勤務机まで運んでくる総務も総務ですよ。守秘義務とか個人情報とか、俺ら普段住民に偉そうに説明してる立場ですよね?」


「……君、疲れてるんじゃないか?」


「疲れさせてる側が言います?」


 上司は咳払いをした。


「ともかく、確認だけしておいてくれ。相続が発生するなら手続も必要だろう」


「その手続を昼休み前に職場で知ることになるとは思いませんでしたよ」


 封筒は、異様に軽かった。


 人が一人死んだ知らせというのは、もっと重いものだと思っていた。けれど、手の中にあるのは安い茶封筒一つ。中に入っていたのは、死亡の連絡と、相続人として確認された旨の案内、それから祖父が所有していた不動産の簡単な資料だった。


 住所は、この町の外れ。


 木造平屋建ての家屋と、付属する土地。


 建物は古い。土地の評価も高くはない。駅から近いわけでもなければ、商業地でもない。書類を見る限り、資産家の遺産というほどのものではなかった。


 だが、俺は思った。


 ――家、もらえるのか?


 それは、当時の俺にとって、人生を立て直すための救命具に見えた。


 給料は安い。残業代は、つくときとつかないときがある。副業は原則禁止。家に帰るのは寝るためだけなのに、毎月の家賃だけは容赦なく口座から引き落とされていく。


 その家賃がなくなる。


 どんな形であれ、持ち家ができるということは、毎月の固定支出を一つ潰せるということだ。


 しかも、祖父が住んでいた古家なら、建物としての評価額はとっくに落ちているはず。価値の高い新築戸建てを押しつけられるわけではない。土地もぱっと見たところ大した立地ではないし、払う税金だって、今の家賃に比べればはるかに安いだろう。


 少なくとも、同封されていた資料を確認した限りでは、借入や抵当権など、相続した瞬間に俺の首を絞めるような記載は見当たらなかった。


 ならば、答えは一つである。


 もらっておくべきだ。


 祖父の顔も知らない薄情な孫が、死を悼むより先に家賃計算を始めたことについては、まあ、許してほしい。


 人間、心が荒むと、身内の死亡通知にさえ家計簿を見出すようになるのだ。


 そういうわけで。


 俺、網代駆、二十三歳。


 本日より、めでたく一国一城の主である。



「……城、かぁ」


 俺は、目の前の家を見上げた。


 夕方の空の下に建つその家は、城というより、時代に取り残されてそのまま忘れ去られた民家だった。


 瓦屋根の木造平屋。外壁は色褪せ、縁側の下には枯れ葉が吹き溜まっている。庭は雑草が元気いっぱいに伸び放題で、門から玄関までの短い道すら、草に半分飲み込まれていた。


 引っ越し業者に運んでもらった最低限の荷物は、玄関前に積まれている。冷蔵庫、小さな机、布団、段ボール数箱。貯金の残量を考えれば、これ以上の贅沢はできなかった。


 問題は、家の外見ではない。


「……中、今日初めて見るんだよなぁ」


 鍵を握ったまま、俺はしみじみと呟いた。


 相続手続と仕事のごたごたと引っ越し準備で、とにかく時間がなかった。家があると分かった時点では「住めれば何でもいい」と思っていたし、写真と書類で確認した限りでは、倒壊寸前というわけでもなかった。


 だから、内部の下見を後回しにした。


 結果、引っ越し当日になって、俺はようやく住居の扉を開こうとしている。

 これは、最悪よりの最悪なのではないだろうか。


「そういえば、爺さん……どこで死んだんだ?」


 鍵穴へ鍵を差し込む直前、嫌な疑問が脳裏に浮かんだ。


 家の中か?


 一人暮らしで、身寄りがなくて、警察の調査で俺に行き着いたということは――もしかして、発見までかなり時間がかかったのでは?


「いや待て待て待て。清掃、入ってるよな? さすがに入ってるよな? 事故物件情報を相続人に伏せたまま鍵だけ渡すとか、いくらこの町でも……」


 言いかけて、俺は口を閉じた。


 この町でも。


 自分で言っておいて、まったく安心できなかった。


「……まあ、とやかく考えてても仕方ないか」


 住めなければ、今夜の寝床がない。あの役場のことだ。どうせ清掃が入ったとかその辺の情報を伝え忘れただけだろう。信じてるぞ。


 俺は覚悟を決めて、鍵を回した。


 古い金属が擦れる音がして、玄関の引き戸が開く。


 まず、匂いを確認した。


 鼻に入ってきたのは、湿った畳と、閉め切られていた木造家屋特有の古い空気。多少埃っぽいが、警戒していた種類の臭気はしない。


「……問題なし」


 ここで目星で判定してください。

 成功。何もありません。


「誰だよ、今の脳内KP。成功報酬が虚無なのやめろ」


 自分で自分にツッコミを入れながら、靴を脱いで中へ上がった。


 家の造りは、資料にあったとおり木造平屋建ての四DK。和室が四部屋に、ダイニングキッチンが一つ。襖に障子、軋む廊下、薄い緑色の冷蔵庫でも置けば完成しそうな、昭和レトロの見本みたいな一軒家だった。


 古いが、致命的に壊れているわけではない。床板が抜けている様子もなければ、天井から雨漏りしている気配もない。水道と電気は手続済みだし、ガスはあとで確認すればいい。


「悪くない……悪くないぞ。少なくとも家賃を払い続けるよりはずっとマシだ」


 庭はひどいが、まあ、そこはどうにでもなる。


 ホームセンターで除草剤を買って、適当に撒いておけば、そのうち文明の勝利を見せられるだろう。近所から苦情が来る前に処理する必要はあるが、今さら住民から怒鳴られること自体には慣れている。


 窓の外へ目を向けると、伸びきった雑草の向こうに、小さな古い建物が見えた。


「倉庫……いや、蔵か?」


 母屋と同じく年季は入っているが、思ったよりしっかりした造りに見える。扉も残っているし、屋根も崩れていない。


「あとで見に行くか。爺さんが何かしまってたなら、金目の物の一つくらい――」


 そこで、俺は言葉を止めた。


 家の中を見回す。


 玄関脇の和室。空。


 奥の和室。空。


 ダイニングキッチン。空。


 押し入れを開けても、布団一枚入っていない。食器棚もなければ、鍋もない。テレビも机も箪笥も、生活感という生活感が、根こそぎ剥ぎ取られたように消えている。


「……何も、ないな」


 人が死んだ痕跡が残っていなかったことは、ありがたい。


 ありがたいのだが、それとは別に、これは異様だった。


 祖父は、本当にここで生活していたのだろうか。


 長く暮らしていた人間の家なら、捨て忘れた道具の一つや二つ、使い古した食器や、謎の置物や、年代物の健康器具くらい残っていそうなものだ。


 だが、この家には何もない。


 亡くなった後に片づけられた、というより。


 亡くなる前から、少しずつ売れるものを手放していったあとのような、空っぽさだった。


「……爺さん。あんた、どうやって暮らしてたんだよ」


 知りもしなかった祖父に向けて、初めて問いかける。


 もちろん、返事などあるはずもない。


 埃の匂いがするだけの空き家で、俺の声はひどく間抜けに響いた。


 それから、家の中をもう一周した。


 もしかしたら、最初に見落としただけで、押し入れの奥に金目の骨董品が眠っているかもしれない。古い家にはたまに、住んでいた本人すら忘れていたような謎の資産があるものだ。


 壺とか。


 掛け軸とか。


 現金入りの封筒とか。


 最悪、未開封の贈答品でもいい。今日の夕飯代が浮く。


「家賃の次は埋蔵金か。我ながら、人生の再建計画が他力本願すぎるな……」


 とはいえ、背に腹は代えられない。


 押し入れを開け、天袋を覗き、台所の戸棚を順番に確認していく。出てきたのは埃と、使い道の分からない錆びた釘と、いつの時代の物か分からない輪ゴムの残骸くらいだった。


 やっぱり、何もない。


 諦めかけたところで、最後に確認した奥の和室の押し入れ、その一番奥に、妙に四角い影が見えた。


「……ん?」


 手を伸ばして引っ張り出す。


 出てきたのは、銀色のお菓子缶だった。


 蓋には、色褪せた煎餅屋の名前が印刷されている。開ければ、おせんべいやあられが個包装でぎっしり詰まっていそうな、いかにも年寄りの家から発掘されそうな缶である。


「これは……」


 俺は思わず、両手で缶を持ち直した。


 押し入れの奥に隠すように置かれていた缶。


 古い家。


 既に亡くなった、よく知らない祖父。


 この流れなら、中に入っているものは決まっているのではないか。


「現金……?」


 口に出した途端、自分でも最低だと思った。

 だが、現金であってくれ。


 遺品に求めるものが人の心ではなく日本銀行券で申し訳ないが、こちらは新生活初日から生活防衛の瀬戸際である。形見の手紙より、十万円の方が今の俺を救ってくれる。


 期待を込めて持ち上げてみた。


「……軽っ」


 空か?

 いや、振ると中で何か薄いものが動く音がした。少なくとも札束ではない。小銭ですらない。


「こりゃ判定するまでもなく、探索判定失敗かな……」


 そこで開けてもよかったが、さすがに引っ越し直後の埃まみれの和室で座り込んでまで中身を確認する気にはなれなかった。


 俺は缶を荷物のそばへ置き、まずは最低限の生活拠点を整えることにした。


 といっても、家具などほとんどない。


 大学に入ったときに買った、当時三九八〇円のこたつ机。季節外れなので布団はなし。引っ越しのたびに買い替える余裕もなく、四年間の食事とレポートと寝落ちを支え続けた相棒である。


 それを一部屋の真ん中に置き、布団を隅に広げ、スマホの充電器を確保し、最低限の荷解きを終えた頃には、外はすっかり暗くなっていた。


「……新居初日のディナーが、コンビニおにぎり二個とカップ味噌汁か」


 一国一城の主として、いささか威厳に欠ける。


 だが、今までと違って、この床に座っていても家賃は増えない。


 そう思うと、百円台のおにぎりが少しだけ高級品に見えてくるから、人間の幸福基準というものは相当いい加減にできている。


 俺はこたつ机の前に座り、包装を剥がした鮭おにぎりをひと口で大きくかじった。


「このにぎり飯が鮭だからちくしょう!!」


 昔漫画で読んだセリフをとりあえず言ってみる。うん、リアクションしてくれる相手がいないから寂しいな。麻雀中とかに言ったら笑ってくれる相手でもいそうなものなのだが。


 そのまま、机の隅に置いていた銀色の缶へ手を伸ばす。


「さて。札束じゃないなら、何が入ってるんだか」


 蓋の縁に爪をかける。


 少しだけ固くなっていた蓋は、力を入れると、ぽん、と軽い音を立てて開いた。

 中に入っていたのは、写真だった。


「……写真?」


 一枚ではない。十枚にも満たない程度の古い写真が、輪ゴムでまとめるでもなく、缶の底に重なるように入っている。


 俺はおにぎりを咀嚼しながら、一番上の写真を指先でつまんだ。


 写っていたのは、若い男女と、年配の男。


 若い男女については、すぐに分かった。


「親父と……母さんか、これ」


 今よりずっと若い。というか、父親の髪が明らかに多い。母親も、俺が知っているより柔らかい顔で笑っている。


 そして、二人の隣で、赤子を抱きかかえている男がいる。


 黒髪に白いものが混じり始めた程度の、ごく普通の老人だった。穏やかに目を細め、腕の中の赤子を大事そうに抱いている。


 その赤子が誰なのかは、考えるまでもない。


「……あー。一応、俺、ここに来たことあったのか」


 全然覚えていない。


 当たり前だ。


 写真の中の俺は、どう見ても生後一ヶ月にも満たなそうな、しわしわで赤いだけの生き物だった。まともに目すら見えていたか怪しい。そんな時期の記憶が鮮明に残っていたら、それはそれでかなり気持ちが悪い。


「これが、爺さん……」


 俺は、写真の中の男の顔をまじまじと見た。


 初めて見た。


 警察からの連絡で存在を知り、書類の上で財産だけを引き継いだ祖父の顔を、俺は今、初めて見ていた。


 写真の中では、父も母も笑っている。


 祖父も笑っている。


 少なくとも、この一枚を見る限りでは、家族関係がこじれていたようには思えない。むしろ、初孫を囲んで記念写真を撮る、ごく普通の、仲のいい家族に見える。


「だったら、なんで……」


 俺は、缶の中へ視線を落とした。


 入っている写真は少ない。


 それも、ほとんどが同じ頃のものだった。赤子の俺を抱いている祖父。父と並んで立つ祖父。母がお茶か何かを持って、画面の端に写り込んでいる写真。


 その後の写真は、ない。


 俺が幼稚園に入った頃の写真も、小学生の頃の写真も、祖父と一緒のものは一枚もない。


「このときくらいしか、会ってなかったのか……?」


 なぜだろう。


 俺は祖父の存在すら知らずに育った。


 父も母も、祖父の話をした覚えがない。


 単に疎遠になっただけなのか。それとも、何か理由があったのか。


 知りもしない祖父のために落ち込むほど、俺は情に厚くない。


 だが、今日まで空っぽだと思っていた家の中に、自分が抱かれて笑っている時間だけが残されていたことは、思ったよりも胸に引っかかった。


 そのときだった。


 ドンドン、と。


 玄関の扉を叩く音がした。


「……ん?」


 俺は写真を手にしたまま、顔を上げた。


 誰だ?


 今の時刻は、午後八時を少し回ったくらい。近所への挨拶回りは明日にするつもりだったし、引っ越し業者が忘れ物を届けに来るには遅すぎる。


 というか、この家に俺が今日から住むことを知っている人間自体、ほとんどいない。


 壊れているのか、チャイムは鳴らなかった。代わりに、もう一度、今度はさっきより遠慮のない音で玄関が叩かれる。


 ドン、ドン、ドン。


「セールスか……?」


 古い家に若い人間が入ったのを見て、新しい住人狙いで営業が来たのだろうか。インターネット回線、新聞、浄水器、宗教。役満だな。どれも今の俺に払う金はない。


「いや、でも早すぎるだろ。俺がここに引っ越したのを知ってるの、あのクソ役場くらいだぞ……」


 まさか、情報漏洩。


 いや、あの町役場なら、情報漏洩どころか色んな企業に住民情報を売っていても驚かない。 ――みたいな冗談を、以前、先輩が『明日を生きるライフハック』として教えてくれたことがあった。


 役場の内部で働いている人間が、役場への警戒心を植え付けてくるな。


 最悪だよ。


 市民の敵だろ、もうあそこ。


 とりあえず、新しい住人を求めてやって来たセールスだと仮定しても、対応するのは少々――いや、かなり面倒だ。


 居留守でいいか。


 電気はつけっぱなしだが、気にしないことにしよう。アパート暮らしで身につけたスキル、知らない訪問者には出ない。これが一番安全である。


 そう判断して、俺が写真へ視線を戻そうとしたときだった。


 玄関の向こうから、間延びした男の声が聞こえてきた。


「いるんでしょ~? 網代さーん。電気ついてるもんねー」


 身体が固まった。


 セールスにしては、随分と馴れ馴れしい。


 そして次に続いた言葉は、俺の想像していた最悪を、軽々と踏み越えてきた。


「今日こそ、お金払ってもらいますよ~」


 は??????


「網代さーん。出ないなら玄関、開けちゃいますよ~」


 扉の向こうから、相変わらず間延びした声が響く。


「また壊してほしくないなら、出てきてくださいね~」


 おいおいおいおいおいおいおい!

 ふざけるなよ!?


 なんで引っ越し初日から、玄関を壊すとかぬかす輩がやってくるんだよ!


 しかも、今の言い方は何だ。


 また壊してほしくないなら?


 つまりこの玄関、一度壊されているのか? 俺の知らないところで? 祖父が住んでいた頃に?


「警察呼ぶぞ……警察……」


 反射的に呟いて、すぐに自分で嫌になる。


 この街の警察かぁ……。


 もちろん、治安を守るためにまともに働いている警察官だっているだろう。たぶん。いてくれ。でなければこの町はもうおしまいである。


 だが、役場に勤めていた頃に見聞きした面倒案件の数々を思い出すと、素直に助けてくれると信じきるには、俺の心は荒みすぎていた。


 不透明な貸し借り。異形者が絡んだ生活トラブル。片方に金と顔の広さがあって、もう片方に相談する気力も証拠もない揉め事。


 警察に相談しても、まずは民事だの、契約書を確認しろだの、被害が出てからだのと言われて、目の前の面倒が一発で消えるとは限らない。


 そもそも、今日一日を居留守で乗り切ったところで、明日の朝に玄関前で待ち伏せされでもしたらもっと厄介だ。


 こっちは、ようやく手に入れた住居で、ようやく家賃から逃れられると思ったばかりなのである。


 出勤前に借金取りとエンカウントする生活なんて、家賃を払っていた頃より悪化しているではないか。


「……厄介ごとは、早めに片付けるか」


 俺は、手の中の写真を缶へ戻した。


 そもそも、借金だの支払いだの言っているが、そんなものを相続した覚えはない。

 相続関係の書類は確認した。不動産の権利関係も、最低限ながら目を通した。少なくとも、俺が「はい分かりました」と支払わなければならないような債務が明記されていた記憶はない。


 というか、今の今まで初耳だ。


 もちろん、書類に出ていないから存在しないとは限らない。相続を知ったときに浮かれて、何か見落とした可能性だってゼロではない。


 だとしても、夜八時に玄関を破壊すると脅して回収へ来るような金が、まともな債権である確率は相当に低いだろう。


「借金取りを名乗る闇バイト強盗とかじゃないだろうな……」


 最近は、相手が騙されている被害者だろうが何だろうが、押し入った後に考えればいいみたいな犯罪もある。


 念のため、俺は右手を軽く握った。


 呼吸に合わせて、体内の魔力を指先へ巡らせる。


 掌の中で、空気が微かに揺らいだ。


 意識を集中し、空気中の分子へ干渉する。酸素を含む狭い範囲の気体を励起させ、発火へ至る一歩手前で留める。掌の中に小さな熱が生まれ、拳を握った皮膚の内側をじり、と温めた。


「……使えなくはない、か」


 学生の頃なら、もう少しまともな火力を出せた気もする。


 社会人になってからというもの、使った魔法といえば、仕事帰りに濡れた靴下を乾かす程度だ。魔力操作の腕が鈍るのも当然である。


 それでも、素手よりはマシだ。


 ……と思ったが、冷静に考えれば、相手だって魔法くらい使えるだろう。


 今どき、こっちが掌で火花を起こしました、驚いて逃げていきました、などという都合のいい展開は期待できない。むしろ魔力を見せたことで、「抵抗する気がありますね?」と判断され、余計な暴力の口実を与える可能性だってある。


「肉体強化だけ、先にかけておくか……?」


 魔力を筋肉と神経の動作補助へ回せば、最悪の場合、逃げるなり押し返すなりできる確率は少し上がる。


 けれど、身体強化は外から見ても分かりやすい。踏み込みや姿勢に不自然さが出る。相手がその手の荒事に慣れているなら、俺が抵抗を想定していることを一発で見抜くかもしれない。


「……やめとくか。こっちから喧嘩を売る必要はない」


 俺は掌に集めた熱を散らした。


 ただし、魔力の巡りまでは止めない。身体の内側をゆっくり循環させたまま、必要になれば即座に現象を起こせるところまで整えておく。


 何もなければ、それでいい。


 話を聞いて、意味の分からない要求なら断り、必要なら改めて警察なり法律相談なりへ持っていく。


 相手が本当に押し入ってくるつもりなら――そのときは、こっちだって黙って殴られるつもりはない。


 ドン、ドン、ドン。


「網代さーん。聞こえてますよね~? こっちも暇じゃないんで、早くしてくださーい」


「……人の新居で、随分と勝手なこと言いやがる」


 俺は立ち上がった。


 手のひらが、じっとりと汗ばんでいる。


 怖くないわけではない。むしろ普通に怖い。相手が何人いるのかも分からないし、本当に借金取りなのかも分からない。玄関を開けた瞬間に殴られたら、俺の短い一国一城ライフは初日で終了である。


 それでも、このまま座り込んでいて事態が好転することはない。


 俺はスマホをポケットに入れ、いつでも緊急通報できるよう画面だけ起動した。

 そして、身体の内側に魔力を巡らせたまま、玄関へと向かった。


「はいはい、今出ますよ……っと」


 玄関の引き戸へ手をかける。


 できることなら、開けた先にいるのがセールスマンであってほしかった。


 回線業者でも、新聞勧誘でも、壺を売る宗教団体でもいい。そいつらなら断れば済む。最悪、玄関先で十五分くらい粘られるだけだ。


 だが、扉を開けた先に立っていたのは、俺のそんな慎ましい願いを笑い飛ばすような連中だった。


「……うわぁ」


 思わず、素の声が出た。


 そこにいたのは、いつの時代だよと言いたくなるほどテンプレートな、ヤのつく自由業の方々であった。


 先頭に立っているのは、角刈りに色付き眼鏡、襟元の開いた派手なシャツに安そうで高そうな金色のネックレスを合わせた中年男。その後ろには、黒いスーツを着ているくせに就職活動中には絶対に見えない男が二人。


 たぶん図鑑に載せるなら、分類名は《暴力団系・債権回収型》。危険度は中型ダンジョンの魔物より高く、遭遇した場合は目を合わせずに行政窓口へ――と言いたいところだが、行政窓口にいた側の俺からすれば、対応するだけでHPを削られる最悪のモンスターである。


 かつて、二十世紀の終わり頃には、法規制と社会の締め付けによって活動領域を狭め、いずれ消えていくのではないかと言われていたらしい。


 だが、世は二十二世紀。


 ダンジョン事変以降、魔石の横流し、未登録素材の売買、違法攻略の仲介、異形化した生活困窮者への金貸しなど、新しいシノギを手に入れた彼らは、今日もしっかり生き延びている。


 日本の社会に古来より生息する、実に厄介な現代モンスターであった。


 まあ、俺も仕事柄、こういう連中を見るのは初めてではない。


 ダンジョン入口が発生した物件の権利関係、近隣トラブル、占拠、無許可の素材搬出。役所の担当者をやっていれば、嫌でも顔を合わせる機会はある。


 だから、問題はない。


 問題は――


「お。網代の兄ちゃんじゃねえか。久しぶりだなぁ」


「…………」


 ――あったわ。


 顔見知りだわ。


 最悪だ。


 よりにもよって、先頭の角刈りは、俺が役場で何度か対応したことのある男だった。書類を出さずにダンジョンを資材置場として使っているだの、異形の住民を住まわせている家の大家へ圧をかけただの、話すたびに胃の奥が重くなるタイプの案件で会った記憶がある。


 向こうも俺を覚えていたらしい。にやにやと、懐かしい知人にでも出会ったような顔をしている。


「いやぁ、まさか網代の爺さんと血縁だったとはねぇ。世間は狭いなぁ」


「網代って苗字自体、この町じゃそこまで珍しくないだろ。小学校の頃、学年に一人はいたわ」


 俺は扉の縁を握ったまま、できるだけ声を平らに保つ。


「で、何の用だ。こっちは今日引っ越してきたばかりなんだけど」


「分かってる、分かってる。だから挨拶に来たんだよ。これからのお付き合いもあるからさぁ」


「生憎、引っ越し祝いに威圧感はいらないんだが」


「相変わらず口が回るねぇ。役所の兄ちゃんは」


 角刈りは楽しそうに笑い、それから、まるで世間話の続きを話すような口調で言った。


「実はね。おじいさんが、うちにたいそうな借金をしていてねぇ」


「……は?」


「それを、君に代わりに払ってもらいたいんだよねぇ」


 笑っている。


 俺の知らないところで、俺の生活が終わりかねない話をしているのに、こいつは本当に楽しそうに笑っている。


 はい、クソ。


「借金を相続した覚えはないが?」


 俺は即座に返した。


「相続手続の際に受け取った資料には、少なくともあんたらに対する債務なんて記載されてなかった。正式な債権者なら、まず相続人へ請求の根拠と債権の承継関係を提示しろ。夜に三人で玄関壊すぞって脅しに来るのは、法的手続じゃなくてただの犯罪だろ」


「おお、怖い怖い。役所辞めてもないのに、もう市民側の顔しちゃって」


「今この場では市民以外の何者でもねえよ」


「まあ、法的にはそうかもしれないけどねぇ」


 角刈りはまったく堪えた様子もなく、懐から折り畳まれた紙を取り出した。


「うちには、ちゃんと契約書が残ってるんだよねぇ」


 差し出されたのは、契約書――のコピーだった。


 原本を持ち歩く気はないということか。あるいは原本なんて実在しないのか。どちらにせよ、ろくでもないことに変わりはない。


「ほら。お兄ちゃん、こういうの読むの得意でしょ。前も役所でうちの書類、ずいぶん細かく見てくれたもんなぁ」


「嬉しくねえ記憶力だな……」


 受け取らないという選択肢もあった。


 だが、何を根拠に請求してきているのか分からないまま追い返す方が危険だ。俺は警戒を解かないまま、紙を受け取った。


 玄関灯の下で、文字を追う。


 貸付契約書。


 債務者の欄には、俺と同じ苗字があった。


 網代――名前は、祖父のものだろう。


 貸付額。

 返済条件。

 遅延損害金。

 いくつかの追加手数料。


 見れば見るほど頭痛がしてくる数字が並び、その下に、問題の文言があった。


『債務者が死亡、行方不明、支払不能その他これに準ずる状態となった場合、同居者、親族、相続人その他債務者の生活基盤を承継した者は、残債務の履行について誠実に協力するものとする』


「…………」


 俺は無言で二度読みした。


 そして三度目を読む前に、顔を上げた。


「違法だろ、こんなの」


「おや。読めた?」


「読めたから言ってんだよ! 何だよ、親族だの生活基盤を承継した者だの! 保証契約でも何でもないだろこれ! 勝手に債務者の周り全員を支払い候補に入れてんじゃねえよ!」


「でも、爺さんはそれで借りたんだよ?」


「それと俺に法的な支払義務があるかは別だ!」


「だからぁ、さっきから言ってるじゃない。法的には、そうかもしれないって」


 角刈りが口元を歪めた。


「俺たちは別に、裁判所から来たわけじゃないんだよ。おじいさんが借りた金を、おじいさんの家を貰って住んでる身内に、返してほしいってお願いに来ただけでさぁ」


「玄関壊すって言った奴が、お願いの定義を語るな」


「壊したくはないよ? お互い面倒だし。ちゃんと話ができるなら、それに越したことはない」


 背後の男たちが、黙ったまま笑った。


 掌に汗が滲む。


 魔力はまだ巡らせている。今なら、手のひらで小規模な発火現象くらいは起こせる。けれど、目の前の男たちからすれば、それは反撃というより口実だろう。


 こいつらは、法で勝ちに来ていない。


 法的に無理筋な契約でも、相手の日常へ入り込み、住居を脅し、職場へ姿を見せ、払った方がマシだと思わせれば勝ちなのだ。


 俺は、それを仕事で知っていた。


 住民から相談を受け、何度も「証拠を残してください」「危害を加えられたら警察へ」「法テラスへ相談を」なんて言葉を返してきた。


 今なら分かる。


 当事者からすれば、それは何一つ今夜の玄関を守ってはくれない。


「……祖父は、亡くなった」


「知ってるよ。だから君のところに来たんじゃない」


 即答だった。


 少しくらい、死者に対して間を置くものだと思っていた。


 こいつらには、それすらない。


「俺は、今日この家を相続して入っただけだ。借金のことなんて知らなかった」


「うんうん。不運だったねぇ」


「だったら――」


「でもさ」


 角刈りは、俺の言葉を遮った。


「家は貰う。爺さんの残したもんは使う。でも、爺さんが借りて生き延びた金の話だけは知りません、ってのも……人としてどうなのかねぇ?」


「……っ」


 理屈になっていない。


 法的な支払義務の話を、人情と罪悪感へすり替えているだけだ。


 そんなことは分かっている。


 だが、さっき見たばかりの写真が脳裏に残っていた。


 若い父と母。


 腕の中の俺を抱いて笑っていた、初めて顔を知った祖父。


 あの男がどういう人生を送り、どうしてこんな連中から金を借り、何を失ってこの空っぽの家に辿り着いたのか、俺はまだ何も知らない。


「とりあえず、今日すぐ払えとは言わないよ」


 角刈りは、俺の沈黙を了承と受け取ったのか、上機嫌に言った。


「お兄ちゃんも引っ越してきたばかりだしね。まずは三日。三日待ってあげる。その間に、払う意思くらいは見せてほしいなぁ」


「意思を見せろって、金額は」


「契約書に書いてあるでしょ?」


 俺は、もう一度コピーへ視線を落とした。


 貸付残高、遅延金、管理手数料、訪問費、その他諸費用。


 数字を合算しようとして、途中でやめた。


 今の俺の口座残高を何十回積み上げれば届くのか、よく分からない額になっていた。


「……払えるわけないだろ」


「だったら、払える方法を一緒に考えようや」


 角刈りの目が、俺の後ろ――家の中へ向いた。


「若いんだから、色々あるだろ? 仕事もしてる。家もある。身体も健康そうだしなぁ」


 最後の一言で、背中が冷えた。


 俺は反射的に引き戸を少し閉め、男の視線を遮った。


「帰れ」


「怖いねぇ。まあ、今日は挨拶だから帰るよ」


 角刈りは肩をすくめた。


 帰り際、思い出したようにこちらを振り返る。


「ああ、そうそう。居留守はやめた方がいいよ。おじいさんはそれで、玄関を一回駄目にしちゃったからさ」


 冗談めかして笑う。


「次は、お兄ちゃんが直す側なんだから。大事に使いたいだろ? 相続した家」


 男たちは笑いながら、庭の雑草を踏み倒して去っていった。


 その足音が聞こえなくなってからも、俺はしばらく玄関に立ち尽くしていた。


 手の中には、薄っぺらい契約書のコピー。


 背後のこたつ机には、開いたままのお菓子缶と、祖父が赤ん坊の俺を抱いている写真。


 さっきまで、この家は俺にとって家賃を浮かせるための幸運な資産だった。


 だが今は、祖父が最後まで手放せなかった何かと、最後まで逃げられなかった何かが、まとめて俺の手元へ転がり込んできたように見えた。


「……ふざけんなよ」


 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。


 借金を隠して死んだ祖父か。


 死人の債務を孫へ押しつける男たちか。


 何も知らずに、家賃が浮くと喜んで相続した自分か。


「俺は……知らねえぞ。こんなの……」


 返事はない。


 ただ、電気の点いた空っぽの家の玄関に、俺一人の声が残った。


     ◇


 それからの日々は、端的に言って最悪だった。


 いや、初日の夜に玄関を壊すぞと脅されている時点で、後日いきなり善良な債権回収会社へ変身するわけがないことくらい、分かってはいた。


 分かってはいたが、現実は想像以上に遠慮がなかった。


「網代くーん。お客さん来てるよ」


 職場の窓口裏で、先輩が引き攣った顔をして俺を呼びに来たのは、その翌々日のことだった。


 嫌な予感しかしなかった。


 というか、予感という言葉を使う必要すらない。俺の人生で、役場の窓口に来て嬉しい客など一人もいない。特に今は。


 案の定、来客スペースにいたのは、例の角刈りだった。


「おお、網代の兄ちゃん。お仕事中に悪いねぇ」


「……何しに来た」


「そりゃあ、返事を聞きに来たんだよ。連絡くれないからさぁ」


「三日って言っただろ。まだ経ってない」


「そうだっけ? まあ、早めに相談する分にはいいじゃない。お兄ちゃん、役所勤めなんだから、こういう手続き詳しいだろ?」


 声が大きい。


 明らかに、周囲へ聞かせるつもりで話している。


「おじいさんの借金、どうやって返すのかさぁ」


 周囲の空気が固まった。


 窓口へ来ていた住民がちらりとこちらを見た。隣の係の職員が聞こえないふりをしながら、確実に耳を立てている。奥の席では、上司がこちらへ近づくべきか、関わらないふりをするべきか、実に役所らしく迷っていた。


「外で話せ」


「え? なんで? お勤め先なんだから、給与の相談とかできるでしょ。毎月いくら返せるのか、上司さんにも確認してもらった方が早いんじゃない?」


「帰れ」


「怖いねぇ。借金は怖くないのに?」


「俺の借金じゃねえって言ってんだろ!」


 我慢できずに声を荒げた瞬間、角刈りは満足そうに笑った。


 最初から、それが狙いだったのだ。


 職場で騒ぎを起こさせる。周囲に事情を聞かせる。俺がここで働き続ける限り、いつでも邪魔をしに来られると理解させる。


 職員として相談者へ助言する立場だった俺が、今度は窓口の前で、相談案件そのものとして晒されている。


 笑えない。


 いや、笑うしかないほど出来すぎている。


「……網代くん」


 結局、近寄ってきた上司が、俺へ向かって小声で言った。


「個人的な事情を、職場に持ち込まれると困るんだよ」


「俺が持ち込んだように見えるなら、眼科行ってください」


「言い方を考えなさい。住民も見てるんだぞ」


「あれ住民扱いなんですか? 役場すげえな。反社の職場乗り込みまで市民対応の範疇なんだ」


「網代くん!」


 この瞬間、何かが綺麗に切れた。


 俺が一年間、睡眠時間を削って働いてきた場所。


 家主の怒鳴り声を受け、ダンジョン事故の書類を整理し、異形住民の相談を「前例なし」の一言で棚上げする上司の代わりに頭を下げてきた場所。


 いざ俺の生活に同じ問題が降りかかったら、守るどころか、職場に面倒を持ち込むなときた。


「……分かりました」


「分かってくれればいい。今日は早退して、きちんと話を――」


「辞めます」


「は?」


「この仕事、辞めます。退職届、今日中に出します」


 上司が口を開けたまま固まった。


 角刈りでさえ、一瞬だけ意外そうな顔をした。


 だが、俺はもう止まらなかった。


「正直、ずっと辞めたかったんですよ。毎日終電間際まで残業して、朝は普通に出勤して、住民には怒鳴られて、上司は責任を投げて、副業もできない薄給で、何かあったときには『個人的な事情を持ち込むな』? すごいな。ここにいる理由が一つも残ってない」


「感情的になるな、網代くん。君の将来のためにも――」


「俺の将来を睡眠時間二時間なんて糞みたいな労働で消費させてきた部署が何言ってんですか」


 書類の束を机に置いた。


 いつもなら、今日中に処理しないと明日の自分が死ぬと思って抱えていた仕事だった。


 だが、不思議なものだ。


 辞めると決めた瞬間、他人の仕事にしか見えなくなった。


「引き継ぎ資料は共有フォルダにあります。読める奴がいるなら読んでください。いないなら、今後こそちゃんと人を育てればいいんじゃないですか」


「網代くん、待ちなさい!」


「待ちません。お疲れ様でした」


 こうして俺は、町役場を辞めた。


 いや、これはいい。


 むしろいい。


 もともと辞めたかった職場だ。平均睡眠時間は二時間から六時間くらいまで増えるだろう。健康寿命という観点で見れば、むしろ大幅な黒字である。


 問題は、そこではない。


「……俺、金を稼ぐ手段なくなったんだけど」


 家へ帰り、布団のないこたつ机に額をぶつけながら、ようやく冷静に現実を認識した。


 口座残高は少ない。


 借金取りは来る。


 再就職活動をするにも、明日から金が増えるわけではない。


 しかも、あの連中は俺の職場にまで押しかけ、俺が収入を得ていた場所を実質的に潰したのである。


「あいつら……金を回収する気、あるのか???」


 借金取りのくせに、債務者候補の収入源を断ってどうする。


 いや、違う。


 たぶん、これは効率よく返済させるための行動ではない。


 俺を追い詰めるための行動だ。


 まともな仕事も、まともな生活も、まともな相談先も失わせて、こいつらの提示する方法以外では生きられないと思わせるための。


 その結論へ辿り着いた瞬間、胃の底が冷たくなった。


 そして同時に、腹の奥から、どうしようもない苛立ちが湧いてきた。


「……舐めやがって」


 この家を売るか。


 いや、売ってどうする。こんな古家、借金を整理できるほどの値がつくとは思えない。そもそも土地の扱いだって面倒だ。ここは確か、市街化調整区域に引っかかる上に、書類上の地目が一部畑のまま残っていたはずで――


「なんで人が住んでる土地の区分が畑なんだよ! 宅地にしておけよ! どうなってんだよ法律は!」


 叫んでから、天井を仰いだ。


「行政働けよ!」


 一拍置いて、俺は乾いた笑いを漏らした。


「……働いてねえな! 俺、知ってる!!」


 頼るべき場所が頼りにならないことを、俺自身が一番よく知っている。


 さて。


 どうする。


 このままだと、内臓を売るか、マグロ漁船行きか、あるいはダンジョン素材の違法採掘にでも放り込まれるか。


 どれも御免である。


「バイトや適当な仕事じゃ駄目だ……。あの額を返すには、普通に働いたって間に合わない」


 それでも、生活費だけは何とかしなければならない。


 今日食べるもの。明日食べるもの。再就職するにしても、逃げるにしても、金がなければ何も始まらない。


 俺は机に突っ伏したまま、ふと、窓の外へ視線を向けた。


 雑草の生い茂った庭。


 その奥に、夕方見かけた古い倉庫――いや、蔵のような建物が、夜の闇の中に沈んでいる。


「……あそこ、まだ見てなかったな」


 母屋は空っぽだった。


 けれど、倉庫まで空だと決まったわけではない。


 都合よく売れる工具や、古い道具や、骨董品の一つでも残っていれば、当面の食費くらいにはなるかもしれない。


「この期に及んで埋蔵金探しかよ……」


 自分で言って、笑う。


 だが、笑って済ませられるほど余裕はない。


 俺は机から顔を上げ、スマホのライトを起動した。


「……見るだけだ。何もなければ、今日こそ本当に詰みってことで」


 そう呟きながら、俺は縁側の戸を開けた。


 夜風が、草の匂いを運んでくる。


 その向こうで、祖父の残した古い倉庫の扉が、俺を待っていた。

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