こうの史代さんはもともと漫画でずっと性を描いてきた人だと思っているのだが『この世界の片隅に』のキスシーンがただのキスにも関わらずとてもえろく感じられるのは手を握りしめながらキスしているところにあるのではないかと思う。つまりくちびるだけのアクセスだけでは足らず手もアクセスするという

こうの史代マンガでは直接の性描写というのは描かれない。描かれないが、描かれるよりも、とてもえろく感じられることが多々ある。それはたぶん性にたいしてまったく女性が臆することなく、女性、というか、そのキャラクターなりの態度をもって性に接しているからだと思う。




例えばこのシーンでは女性側が取られた手を握り返している。また男性側が真ん中から右にキスのベクトルを作っているからといって動じる/ぶれることなく女性側は自分の位置で(首をみるとむしろ接近ベクトルで)キスを受け止めている。キスの力学のようなものがアニメではそのつど描かれるのではないか

こうの史代さんはもともと漫画でずっと性を描いてきた人だと思っているのだが『この世界の片隅に』のキスシーンがただのキスにも関わらずとてもえろく感じられるのは手を握りしめながらキスしているところにあるのではないかと思う。つまりくちびるだけのアクセスだけでは足らず手もアクセスするという

こうの史代マンガではみな頭=顔が大きく身体はきゃしゃで、身体リアリズム(写実的)というよりは、マンガリアリズム的身体(つまりキャラクター的)で、これってどういう意味なんだろうとずっと考えていたのだが、もしかしたらこうの史代の性というのは手塚治虫の性に近いのかもしれない

よく考えることに、キャラクターはセッ クスできるのか、という問題がある。たぶんこれはエロマンガをちゃんと読んで考えるテーマにもなると思うが、もっと言えば、人間の身体はどこまでキャラクターになれるのか、という問題があると思う。たとえば性 器はどこまでキャラクターになれるのかとか

で、今、ふっと思いついたのだが、さっきの画像の通り、こうの史代マンガでは〈顔〉や〈等身〉はキャラクターサイズなのだが、〈手〉は骨ばっていてキャラクター化されていない。だからこうのマンガのリアルな性は手にあるのかもしれない。キャラクターはリアルな部分でセッ クスをするのかもしれない

たとえば手をキャラクター化するとどうなるだろう。それはドラえもんの手になる。ドラえもんが愛する対象を見いだしたときドラえもんはどうやって愛撫をするのか、というテーマがあるように思う。あのほぼ丸の手で愛撫をした時に性が描けるのかどうかという問題。手塚治虫の手ももちろん記号的である

手塚治虫の手もたぶん愛撫にふさわしくないキャラクター的な手なのだが、手塚治虫は〈愛撫する手〉ではなく、〈愛撫される乳房〉の方にリアルを託した。手塚治虫がなぜ乳 首をあんなにはっきりしっかりと描くのかという問題があって、それは手塚治虫のリアルな性があの一点にあるからではないかと思う

たとえばたぶんそれは(昔も書いたけれど)ドラゴンボールの孫悟空にも言えて、なぜ孫悟空は生殖機能があるのかというと、それは孫悟空に無駄に思えるくらいはっきり描かれる乳輪によるものなのではないかと思う(なんか今書いてて頭だいじょぶだよな自分とも思ったが、とてもまじめに書いている)。

孫悟空がセッ クスをして孫悟飯を産む事ができたというリアリティは私は孫悟空の乳輪にある気がする。キャラクターはどこかでリアルな部分をもっていてその一点で性的な身体性を持つ。裏返すとディズニー映画はできるだけリアルな箇所をもたないよう、生殖できないよう注意されたキャラクター的身体と

私はその点で新海誠映画をとても興味深く思うのだが、新海映画は情景や風景、都市、電車、波、雨と言ったあらゆる場所は過剰なほどリアリスティックに描かれる(ハイパーリアル)のだが、キャラクターはそのリアルとぞんざいなほど一線をかくしている(その意味で水木しげるによく似ている)。

私は新海誠映画で繰り返され続ける〈すれ違い〉〈ぎりぎり出会えない〉〈身体以外届く〉というテーマは、男女の出会えなさ、というよりは、キャラクター的人物とリアルな風景の出会えなさにあるんじゃないかとも思う。裏返すと、ひとは風景を介してひとに出会うんじゃないかと。

風景にアクセスできた人間はひとと出会える。それは例えば引きこもり論として展開できないだろうか。ひきこもり、風景から後退してゆく生活の中にあると、人とアクセスするリアリティが確保されないことがある。それは人がこわいとかじゃなくて、風景にアクセスすることができなくなったからではないか

だから新海誠映画ではひとが風景にどんなふうにアクセスしそこね、アクセスできたか、ということが常に描かれているように思うのだ(例えば『言の葉の庭』『秒速5センチメートル』)。柄谷行人ではないが、ひとにとっての内面のリアリティとはその人が今風景にアクセスできてるかどうかなんじゃないか

新海誠映画は『秒速5センチ』の山崎まさよしの歌が流れるラストシーンを見た時初めていろんな事が一気にわかった気がしたのだが、人は風景をあんなにリアルに緻密に細密に豊かには見ていない。だからあの風景はハイパーリアルなのだが、でもキャラクター達はそのハイパーリアルに敗退するんじゃないか

ハイパーリアルな風景に負けたときにひとは相手の身体にもアクセス不能になり恋愛に敗退するのではないか。けれど『君の名は。』が面白いのは、身体交換してしまうことで、風景をいったん蹴落としてしまうことだ。身体交換し自らの胸をさわるとき、風景に敗退しない新たなアクセスポイントが生まれる

例えば『言の葉の庭』は文字通り、〈言葉の庭〉なのでもあって、この〈言葉の庭〉から逃げられないかもしれない。でも『君の名は。』は、きみの名前を問い続けることによってひらいていく。名前という言葉に閉じられながらも、問いかける行為、問いかけるまでの行為がひらかれてゆく。
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