弱った兵士に食らいつくハゲタカ 凄惨な戦争体験に口をつぐむ元兵士 語らない理由もある

トラウマ 埋もれた傷痕

戦場での過酷な体験で兵士らを悩ませるトラウマ。先の大戦に従軍した日本兵にも心の病に苦しんだ人々はいたが、ほとんど顧みられず、傷痕は歴史に埋もれてきた。戦後80年を経て、なお戦争が及ぼす影響を探る。

密林内をふらふらと歩く日本兵に、舞い降りたハゲタカが大きく広げた羽をぶつける。「兵隊が弱って倒れると、十数羽が一斉に食らいつくんだ」。佐藤哲雄(105)=新潟県=の脳裏に無残な光景が浮かぶ。

先の大戦中、ビルマ(現ミャンマー)戦線で、日本軍の最も無謀な戦いともいわれたインパール作戦(昭和19年3~7月)。補給もままならない中、道の両側に日本兵の遺体が連なった敗走路は「白骨街道」と呼ばれた。

火力で勝る敵と対峙(たいじ)する戦場。煙に覆われる中で弾が飛び交う。昼間は密林に身を隠し、夜間に撤退。飢えや病に苦しみ、精神に異常をきたす兵士も少なくなかった。

「あの状況ではノイローゼになるわ。俺だってそうだったかもしれね。でも、人のことは構ってられねがった」

自身も左足を負傷、マラリアで生死をさまよう一方で、多くの戦友を失った。渦を巻きながら流れる川の渡河、敵戦車からの追撃…。「今も短けども夢を見るよ。生きるか死ぬかだったがら、脳にこびりついてんだな」

戦場での出来事を忘れたことはないが、長らく家族にも口をつぐんだ。戦友のためにと証言するようになったのは最近のことだ。「取材を受けた晩は、決まって寝つきが悪い」。同居する長男の妻(67)が明かす。

戦場体験を心に押し込め、話さない

「戦場の凄惨(せいさん)さ、胸の内を積極的に語る人は少なかった」。平成4~6年に元日本兵約60人への聞き取りを行った防衛大教授(軍事社会学)、河野仁(かわのひとし)(64)が振り返る。

帰還兵のトラウマについて語る防衛大の河野仁教授=7月29日、神奈川県横須賀市(池田祥子撮影)

「悲しみを感じず、身内が死んでも涙が出ない」「中国人に追いかけられる夢を見る」。わずかに河野に語ったが、家族に戦闘体験を詳細に話すことはまれだった。

「戦場体験を心に押し込め、話さないことが、トラウマへの対処の一つだったのではないか」

トラウマを抱える人には、その体験を意識から遠ざけようとしたり、忘れようとしたりする心理的防御反応がある。また、甲南大名誉教授(臨床心理学)の森茂起(しげゆき)(70)は「生き残った罪悪感や、自分よりもひどい経験をした人がいるとの思いが、語りを難しくしたのだろう」と指摘する。

モンゴル抑留 今も続ける仲間の慰霊

「家族に話しても『またこの話か』と言われるだけ。経験した者にしか、抑留の実相は分かりません」

戦後、2年間モンゴルに抑留され、強制労働に従事した山田秀三(107)=富山県=は、80代になって精力的に自らの経験を語り出した。

食事は早朝1回のみ。ラクダの腸を煮込んだ汁物と岩塩を仲間と分け合う。飲み水もなく、零下30度の草原を何キロと歩き、凍った川から氷を削り出し、溶かして飲んだ。

首都・ウランバートルで公共施設の基礎工事に携わるも、ぶ厚い凍土は掘削用具をはね返す。劣悪な環境下での労働は困難を極め、次々と仲間を失う。同じ部隊にいた25歳の部下も衰弱死した。

旧ソ連の捕虜となった日本軍将兵ら約57万5千人のうち、約1万4千人がモンゴルに抑留され、1700人以上が死亡。12・1%の死亡率は、シベリアを含む抑留者全体(9・5%)を上回る。

山田は昭和22年に帰国し、材木会社を経営。平成2年頃に4期務めた町議を引退し、仲間の慰霊に取り組んできた。20年には、61年ぶりにモンゴルの土を踏む。首都郊外の「日本人死亡者慰霊碑」を訪問。名簿に部下の名前を見つけ、人目もはばからず泣いた。

「当時、30歳だった僕より若い人が亡くなることがやりきれなかった」。毎朝読経を欠かさず、今も辛い記憶と向き合っている。

=敬称略

(池田祥子、小川恵理子)

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